ウヰスキーのある風景

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Coronation for Colonized MASK

2020-09-25 | 雑記
月に一度くらいの更新になっている。特に書こうと思ったことがあったわけでもない。

笑い話程度のことなら、先月あった。それを書こうかと思ったが、酔っぱらって書くのをサボっていた。

表現の問題なのかそれとも原稿を書いた人物は日本語が不自由なのか、それとも拙がおかしいのか。それはともかく、ある夜、ある街の繁華街でこのような声を聞いた。
町内会か何かか、ぼったくりバーとかに気を付けてくださいなどと、録音したものか拡声器で直にしゃべっているかはわからねど、その一節の、昨今のコロナに纏わる話についてである。

それはこうだった。「新型コロナ、感染対策防止のために云々」と。

何を言っているのだ?と思ったので、食事を終えて仕事場に戻り、仕事場の人にこう言っていたぞ、あれを読んでる奴は馬鹿なのか?と、近い表現やら並べ方を示し、説明してしまったぐらいである。

感染対策、なら感染という広がっていくものに対抗策を打ち出しているとなる。感染防止も、感染するのを防ぎ止めるで同上となる。

日本語の表現は最後まで言葉を追っていかないと意味が通じない言葉である。言語学の分類で膠着語(こうちゃくご)といい、膠(にかわ)で次々とくっ付けていくようだからということである。

となると、これでは感染対策を防止するのか?となる。そのまま並べてしまえばそうなってしまう。少なくとも、「感染対策及び防止のために」ならばまだ通じるだろう。対策と防止の位置を変えた方がいい気がしないでもないが、そもそも二つ並べなければ通じないような言葉ではないだろう。

そして先日。あの放送は記憶違いでなければ平日の夜に行われていたなと思い出したところ、やはり昨日も行われていた。

しかし、表現が変わっていた。誰か突っ込んだのか正気に戻ったのか、違う人が読み上げていたのかは分からないが、こうなっていた。

「感染拡大防止のために」と。

とはいえ、最初に示して拙が反応した街頭放送も、聞き間違えていたのかもしれない。とはいえ、聞き間違えるほど似た音韻でもないのだが。


飛沫がどうとかでマスクしろ、刑務所の面会のようにしろだのと、妙な具合になっているのは周知のところである。

そのマスクだが、そもそも説明書には「ウイルスに効果はありません」といった但し書きがある。

飛沫をまき散らさないようにしようというのは別に間違いではない。少なくとも真っすぐ飛ぶことは避けられるし、防ぐことも多少は出来る可能性がある。

しかし、手軽に手に入るマスクの飛沫抑制効果はほとんどないと、科学データが出ているそうな。

専門的なレベルでしか扱われない高度なマスクは一般人には手に入らないものであり、そういったマスクは素人が着用すると三十分も持たないほど息苦しいのだとか。

飛沫がどうこうというなら、自身の口から出たマスクの裏側も、また他者からの飛沫が付いたであろう表側も、菌やらウイルスがうようよなので、不潔極まりない。

そして人は顔を触る癖がある。マスクをしているならマスクを常々触る。顔なら洗えるが、マスクを触るたびに洗うだろうか?


マスクの効果のほどはお調べ頂ければ、色々と出てくる。ただ、検閲も入っているので、目立つところには少ないだろうが。


マスクをさせたがる理由は、コロナ対策が理由ではない。これをもう少し書いておく。

いきなり全体主義がどうこうという話に持っていかれても困るだろうが、とある人の証言がある。

御年九十五歳のおばあさんだそうだが、「今の日本の雰囲気は大東亜戦争の時と似てる!」とのこと。日本だったか世の中だったかは忘れたが、そう感じておられるそうだ。


医療関係者、つまり医者が外科手術でマスクをするのだが、その理由は何かというと、それはブドウ球菌などの細菌を患者に感染させるのを防ぐことと、患者からの飛沫(この場合は血しぶきもあるだろう)を防御するためだという。
話が逸れるので少しにするが、海外でマスク無しで執刀したところ、無しの方が感染症やらが患者に発症する割合が減った、という報告もあることを申し述べておく。

細菌とウイルスの大きさは天と地ほど、でもないのかは知らないが、かなり大きさが違う。消しゴムと消しゴムのカスぐらいの差、とでもいえばいいかもしれない。詳しい大きさについてはお調べを。

さて、我らがコロナちゃんは、ウイルスである。とても小さい。小っちゃくてかわいい!とは・・・うーん?ビル君あたりは言ってるかな?

たまに道ばたに転がっていたりするマスクぐらいでも、菌は通さない。風は通す。水も通す。キマリは通さない。キマリってなんだ?というのは突っ込まないでいただく。

ウイルスは菌より遥かに小さいので、実際はすり抜ける。飛沫にどうこうというが、呼吸しているうちに渇いて侵入する。そして、飛沫にうじゃうじゃいるというのなら、マスクはコロナのコロニーになっているわけだ。最上級はコロネストかな?

口の前でコロニーをつくってどうしようというのか?となる。なるのだが、そんな話はテレビで流れるわけもなく。

それ以外でも色々と恐ろしい話はある。有名どころが散々書いてくれている。いくつか書くが、さらに知りたい場合は探すべし。


マスクをしていると、酸素の吸収量が二割減になる。人間、酸素が多すぎても死ぬらしいが、少なくなると死ぬのはご存知の通り。

死ななくても、高山病という物もあるだろう。標高の高い場所は、低い場所と比べて酸素濃度が低いため、体が慣れていない人はそれで体調不良を起こしたり、場合によっては死に至る。

体の機能が不調になるということは、免疫なども落ちていく。ストレスがかかると、人の呼吸は浅く短くなる。逆にゆったりしていると、深く長くなる。免疫力が高い状態はもちろん、後者である。

マスクをしたまま深く長い呼吸というのは実にしづらいものである。こういう脳に酸素が回りにくい状態を維持すれば、自然、脳も機能を落とすだろう。普段から呼吸に意識を向けている人は決して多くはないので、どんどん体力も頭の回転も落ちていく。

ちょっと回りくどかったが、つまりは、コロナ予防という点だけで見ても、逆効果なのである。

実際に、スペインやらイタリアやら、マスク義務化を実施した国では、コロナの患者数が増えているというデータが出ていたりする。


ここまではマスク着用者本人に纏わる話である。用法容量を守って適宜お使いください。拙は気分が悪くなるので、まともに付ける気はない。花粉症だとかその他の病状などで付けなくてはならない人もいるので、マスクはいらない、ではないことをお断りしておく。


マスクは表情が見えない。これがどういうことを生むのか?少なくともマスクしている人と楽しい話を出来ている気はしない。

拙は最近、そういうのがひどく物憂いのか、あまり楽しい気分にはなれなくなってきた。ああ!これはきっとコロナにかかったのだ!!とかいう冗談は措く。

あまり楽しい気分ではない、というのは思う所である。上記のおばあさんの言通りなのだろうというのを実感し始めた、とでも言おうか。


話は代わる。関わるところではあるが、怖い話をする。稲川淳二のような怖い?ではない。

フリードリヒ二世の実験、というのがある。恐らくこれで検索したら出るのではなかろうか。

と、調べたら、理由が違ったようだ。

その皇帝は言語の発生について研究しようとして、赤ん坊に言葉を教えないでいると何語を話し始めるのか?聖書でアダムに与えられたヘブライ語か?それとも別の言葉か?というので、乳幼児に話しかけずに育てさせるという実験をしたが、赤子は死んでしまった、とのこと。

おどろおどろしく広まってる話としては、乳幼児五十人に笑いかけずに育てさせるという実験の結果、全員死亡。内訳は四十九名が一歳から一歳半、残り一人はもう少し生きたが、六歳ほどで死亡、というのを見かけたものである。
これでもって、赤ん坊は愛情がないと死んじゃうのだ!という話で広められたようではあるが、「人はパンのみにて生きるにあらず」ではある。言語の研究で話しかけずに育てた赤子もすぐに死亡しているのだから。

それはともかく。実際に近年の研究で出ていたという話を書いておく。

内容は、マスクなどで周りの人間の表情が隠れた状態で育った子供は、人の感情を読み取ることが出来なくなるという研究報告である。

報告内容はもっと長いので、その辺りは措く。措いてばかりだが、気にしてはいけない。

生まれた子供というのは、環境から何でもかんでも学んでいる。子供にとっては世界は刺激に満ち溢れており、その刺激が自身を成長させるのである。

人の顔という感情表現機構をまともに見たことが無いというのは、その刺激による成長を促されなかったわけで、そうなってしまうのも道理と言える。

そんなまさか。とは思わない方がいい。知らないものは理解できないのが人間、というより生物である。

そのことについて一つ。


ずっと昔、何かで読んだのだが、とあるチンパンジーの赤ん坊の話があった。別の猿かもしれんが、そこは忘れた。

何かの事故かもしくは実験だったのか。暗闇の中で生まれ育ったその赤子は、視神経に異常がないのにまったく目で物を見ることが出来なくなっていたという。

人というより生き物として当然あるべき状態を無視すれば、上記のチンパンジーの如く、あるべきものが当然なくなる。

これをニュー?なんだったかな?横文字大好きおばさんらが言ってたが、ああ、ニューワールドオーダーかな?というのなら、これは野蛮への回帰である。

一つ、また一つと当然あるべきものがありうべからざるものへと変質されていった挙句の果てに、目に異常はないのに目が見えないチンパンジーとなるのである。


オカルト的ともとれる話になるが、脳は記憶装置ではなく、アンテナだろうという説が実際にある。量子論方面で言われていると記憶しているが、それ以外だとオカルト的方面になる。

その論法、というとかなり乱暴だが、目も実は、物を見るのが目的ではないのかもしれない。

見えているものが真実ではない。とするならば、物を見るのは手段でしかなかったと言えよう。

以前書いたものである。命は宝というが、宝は何故大事にされているのかと。

然るべき時に使うため、である。命という手段を使って我々は日々を生きている。


では、よき終末を。