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国民はSNSのために

2019-11-30 | 雑記
ずっと昔、著名人というか政治家のNGシーン集を紹介している番組があった。

何の番組だとかはまったく思い出せないが、とある政治家が街頭演説で言い間違いをしていたところを流していた。

その政治家が「国民は」と述べ、一瞬間を置いてから続けたものである。

「政治のために」と。

本当は言いたかったことと違ったので、そう言ってすぐに恥ずかしそうに顔を背けていたものである。

他に誰が出たとかそういうのは憶えてないし、それが誰だったかもまったく思い出せない。存命かどうかも判らないレベルである。

近年、政治家の失言がよくやり玉にあがるが、上記の政治家はただの言い間違いである。

言い間違いではない失言だからこそ上がっているというのは論を俟たないというところである。


政治家の如きは人を道具だとしか思っていない、というのはよくいわれる話で、古いが、「生む機械」というのがあった。

作家の石田衣良は、「女性差別どころではない。男性についてなら『働く機械』としか思ってないだろう。だからそんな発言を平然と出来る」と、あるコラムで憤っていたものである。


かつて、マルクスは、「疎外された労働」という言葉を繰り出していたものだが、人のために労働があるのではなく、労働のために人がある状態だと指摘しているとはいえる。

『資本論』を読んだことはないので、どういう文脈で語っているのかは知らぬが、色々と人間を疎外しているというものは世の中にはある。

政治が人間を疎外した結果が、上記の「機械」発言と言えなくもない。

もしくは、政治家は「人でなし」なのかもしれない。罵倒としての意味ではないが、罵倒でもあり得る、ダジャレである。もしくは、デーヴィッド何某を読もう。

例えば医療も、かなり人間を疎外している点を指摘されている。

人のために医療があるのではなく、医療のために人があるという状態といえる。

その具体的な例を挙げるとすると、心理学方面がよかろうか。


高名なフロイトの甥か何かの心理学者がいるのだが、彼の書いた広告業界の古典的名著というのがあって、タイトルはカタカナでいうと、『プロパガンダ』である。

マスメディアに学者だとかの権威を立たせて、有毒の疑いのある物質の安全性を語らせるとかいうことについての心理学的研究である。

実際、当時アルミ業界が発展して来たため、大量に出てきて処分に困っていたフッ素について、上記のやり口で押し通したという功績があるとのこと。


医者ではないが、エジソンもトースターを売るために、当時のアメリカ人は一日二食が平均的だったのを、「一日三食がいい。わたしも行っている」と語り、トースターはアメリカの食卓に当たり前となった。

これだけならいいが、エジソンはそんな食生活はまったく行っていなかったという。上記だけ読んで誤解のなきように。


人間疎外の現代的な例を挙げるとすると、SNSというものがある。


これについては、Facebookの創業者の雑貨、じゃなくてザッカーバーグ達が自供しているとのことだが、それはつまり、「如何に人から時間を奪うか」ということを突き詰めたものなのだという。

フロイトの親戚やらエジソンやらの例だけでなく、欧米の心理学やら大脳生理学やらの研究は徹底している。

では、どうやって時間を奪うのかという話にするが、実に単純である。

ああいう物を起動すると、大体ポップアップ(Windowsだと、右下に何やら効果音と文章が表示されるといった具合の物)でお知らせがピローンと鳴ったり鳴らなかったりするのだが、あれを見た時の心理状態というのは、カジノのスロットで当たり目が出た時と同じ状態なのだという。

それでついつい、何かないかとちょくちょく起動させたりするという流れになる。

これもまた、そういうことになると気づかずに作り上げたというのならまだしも、知ってて作ったと自供したとのことである。

アメリカにはトースター売りしかいないのか?と皮肉を言いたくもなる。日本も似たり寄ったりではある。


人のためにはない代物であるというのは、仕方のないところである。

至る所で人間が疎外されているというのは、近現代の思想家が度々指摘していて、目新しいものでもない。


では、時間とは何か?が疑問として上がる。

欧米の心理学方面の研究で、「エナジー・ヴァンパイア」という理論がある、とは度々紹介したものだが、企業が広告に多大な金をかける理由でもある。

つまり、売れるかどうかではなく、それに注目させることによって、エナジー、日本語化している慣例的な言い方なら、エネルギーを奪い取っている、という具合である。

それで、結果的に売れると相成る。広告したから売れるかどうかはまた別かもしれないが、端から目的は注目させることにある。

酷く挑発的な広告を出して衆目を集める炎上商法というのも、端からの目的が先鋭化した結果か、もしくは狙っているのだといえる。

広告に対しては、我々は抗告しなくてはなるまい。※本当に抗告しないように


時間とはつまり、エネルギーだと言える。時間がエネルギーであるという理屈は、別に拙独自のものではないことをお断りしておく。

ついでに言っておくと、ここでは「物質自体がエネルギー」とも書いている。こういうことを現代社会に向けて言い出したのは、アインシュタインであるとも。


坂の上からボールを転がすとする。坂の下まで行くと、かなりの勢いが付くだろう。下り切った先が上り坂なら、ある程度登ってしまうぐらいに。

そんな坂道だから、下の方から転がしても勢いが付くだろう、ということにはならないのは常識ではある。

何を馬鹿な、と思われるが、ピサの斜塔での実験がなされるまでは、木の玉と鉄の玉を同時に落とすと、重い鉄の玉が先に下につくに決まっている、というのが通念だった。


坂の下の方からでも、上から転がしたのと同等の勢いをつける方法はある。手を放して坂道に任せるのではなく、ボーリング宜しく、転がせばよい。

ボールにとっては、上から時間を掛けて転がるのと、人の手によって勢いづけられたこととに、違いはない。


ボールが坂道を転がる時間によって得たものはエネルギーであり、人の手によって転がされてついた勢いもまたエネルギーである。

つまりは、「時間を奪う」というのはエネルギーを奪うということに相成る。


人が人から「時間」を奪うのが、大なり小なり生業となっているのが世の常と言える。

端から人間は疎外されていたのだと思わなくもないのである。


では、そんな世の中でどうしたらいいのか?と考える人もいるだろう。


多少奪われても気にならないぐらいに頑丈になる、というのもあるとはいえる。

とはいえ、一朝一夕でなるものでもない。これもまた「時間」が掛かるであろう。

頑丈というより、柔軟な方がよろしいのだが、言葉の綾である。

だが、柔軟だろうと頑丈だろうと、人は疲れてしまうもの。


そうい時は、SNSの頭三文字に掛けて、この三箇条を志すとよい。

S:さしあたって

N:なにも

S:しない


三箇条というより、ただの文章であるが、SNSの三文字に掛けたかっただけである。

逆の三箇条も出来る。やはり同じく、ただの文章である。

S:せかせかと

N:なにかしようと

S:してしまう


時間を奪うツール(例:Facebook)に向かって奪われた時間を取り戻そうとすればするほど、余計に奪われるという悪循環になる。

この逆の三箇条(仮)を感じたら、前述の三箇条(仮)を思い出すのが、「時間」を取り戻すのに打って付けであろう。


疲れた時は休んで「時間」を取るのが一番である。SNSをどうぞよろしくお願いいたします。


では、よき終末を。