昨日のことだった。自宅に居ると、ケータイにメールが届く。
ラヂヲの編集をしていて、すぐには取らなかったのだが、弟からだった。
「兄貴の結婚式には出るのか」と。
多分出ると思う、で返信し、また作業に戻ったら、すぐにメールが返って来た。
なんでも、「嫁と子供に会わせたいからよかった」とのことである。
読んでこう思うわけである。
会わせたところでどーするのかと。
次に会うのは五十年後かもしれませんがよろしく、と挨拶すればいいのかと。
結婚式とやらで結びつくのが二人の身体なのか、家族とか言う集合体の想念に惑わされたマインドの結合なのかしらないが(恐らくこちらである)、どうにも嫌な予感がしてきた。
子供というのは可愛らしいとは思う。子供が無邪気に遊んでいるのを眺めるのは実に喜ばしい。
キセルにタバコを詰めるときに近寄ってきて、珍しそうに見るので、「こうなっててな」と説明するのを見ている子供を見るのもまた楽しい。
店内を練り歩く子供を抱き上げたらちょっと嫌がってたようだが、力尽くで逃げなかったので、それほど嫌ではなかったのだろう。
そんなことをしていたら、店員のお嬢さんに「子供好きなんですね」と言われたりする。「酔っているから」と訳のワカラン返答をしておいた。
そんなわけで、子供が子供単体で対峙するのなら、こちらも構えず相手にするだろう。何を構えるのかしらんが。
弟は、肉親として子供を見せたいわけである。そうしてお互いに喜び合いたいのだ。
それが余計である。
一々宣言してもらいたくない。兄貴の結婚式に出るのは多少発想の転換で、見聞を広めるつもりで見に行こうかと思っていたが、こうなるのならやめておいたほうがいい。
そもそもが、結婚式とやらが件の弟が家族にあわせたがっているのと同じ意味であった!
家族というのを工場とするなら、血のつながった存在というのはその工場内の同じ区画で作られた製品である。
箱詰めされて隣り合ったビール瓶がお互い誰に飲まれたかを報告しあうかと、思ってしまうわけである。
ビールを飲むときに、それを作った工場に感謝するのか。「何事にも感謝」といってはそういう想像を膨らませる人は放っておくとして、工場長が知人だとかいうならまだしも、それでもビール自身とは関係ない。
同じ工場で出来たビールだからと言って、黄色いのと黒いのを一緒くたにするのか。それならまだしも、ビールと発泡酒を同じにするか。同じ工場で出来たからと言って同じではなかろう。
ビールに発泡酒を混ぜるというようなつまらない真似をしようとしていると、感じている。混ざりに行こうとしていたわけだ。
不味かろうが美味かろうがビールはビール。その発泡酒とやらが仮に美味かったとしても、不味いものを美味くしに行く必要もない。ごまかしである。
変な言い方だが、不味いからこそのこのビールである。不味いとか美味いというのも人の評価である。好きか嫌いかというだけである。
最近の発泡酒のCMで「私にはビールです」とやっているが(電車の広告で見た)、発泡酒は発泡酒である。
今回は混ざりに行くとはっきりではないとはいえ言ってしまったが・・・。混ぜるのは今回切りにしてもらおうか。
招待状は、Yes or No としかない。
かつて、釈迦は約束をしなかったそうだ。
仮に行くと約束して、道がふさがれたり、唯一の橋が崩れていくことが出来なくなる可能性というのは今よりもあったろうが、行けなかったら嘘になる。
本当に行けなかったら断るのだが、もし行ける可能性が高い場合なら、「行きます」などといわずに沈黙で持って返答(なるべくなら行くつもりである)としたそうである。
釈迦とは事情が違うが(多分とはいえ行くつもりとは言ってあるから)、古式に則って(ないが)、招待状の真ん中に丸でもつけて返送しようかと考えている。
さて、長々と書いたが、質問は簡単である。その答えも簡単である・・・。
「安生は兄の結婚式に出たいのか出たくないのか」
これに簡単に答えを出そうとしないのが、今を生きていない証拠である。
出たくないけど・・・である。出たくないんだろう?ならば・・・。
そこでこう考えてしまうわけだ。母親曰く「親戚が・・・」などと。
親戚が困ったところでわしは困らん。困ったところでその場限りである。その場限りにしない奴らは頭が腐っているだけの話である。
困ったら腹切って死ぬつもりだとしても止めはしない。
強制参加ではないから、建前とはいえ、「ご自由に」である。自分で自分の自由を止めるのはひどくふざけた話である。
「なるべくなら出ないつもりである」として、「ご出席・ご欠席」の真ん中の・に丸をつけて送ることにする。
欠席よりに丸をつけるとかどうだろう。
あいや、欠席に丸だな。ビールを飲んでいる途中に発泡酒を注がれるというような無粋なまねはしたくない。
というわけでビールでも飲んでくる。では、また。
ラヂヲの編集をしていて、すぐには取らなかったのだが、弟からだった。
「兄貴の結婚式には出るのか」と。
多分出ると思う、で返信し、また作業に戻ったら、すぐにメールが返って来た。
なんでも、「嫁と子供に会わせたいからよかった」とのことである。
読んでこう思うわけである。
会わせたところでどーするのかと。
次に会うのは五十年後かもしれませんがよろしく、と挨拶すればいいのかと。
結婚式とやらで結びつくのが二人の身体なのか、家族とか言う集合体の想念に惑わされたマインドの結合なのかしらないが(恐らくこちらである)、どうにも嫌な予感がしてきた。
子供というのは可愛らしいとは思う。子供が無邪気に遊んでいるのを眺めるのは実に喜ばしい。
キセルにタバコを詰めるときに近寄ってきて、珍しそうに見るので、「こうなっててな」と説明するのを見ている子供を見るのもまた楽しい。
店内を練り歩く子供を抱き上げたらちょっと嫌がってたようだが、力尽くで逃げなかったので、それほど嫌ではなかったのだろう。
そんなことをしていたら、店員のお嬢さんに「子供好きなんですね」と言われたりする。「酔っているから」と訳のワカラン返答をしておいた。
そんなわけで、子供が子供単体で対峙するのなら、こちらも構えず相手にするだろう。何を構えるのかしらんが。
弟は、肉親として子供を見せたいわけである。そうしてお互いに喜び合いたいのだ。
それが余計である。
一々宣言してもらいたくない。兄貴の結婚式に出るのは多少発想の転換で、見聞を広めるつもりで見に行こうかと思っていたが、こうなるのならやめておいたほうがいい。
そもそもが、結婚式とやらが件の弟が家族にあわせたがっているのと同じ意味であった!
家族というのを工場とするなら、血のつながった存在というのはその工場内の同じ区画で作られた製品である。
箱詰めされて隣り合ったビール瓶がお互い誰に飲まれたかを報告しあうかと、思ってしまうわけである。
ビールを飲むときに、それを作った工場に感謝するのか。「何事にも感謝」といってはそういう想像を膨らませる人は放っておくとして、工場長が知人だとかいうならまだしも、それでもビール自身とは関係ない。
同じ工場で出来たビールだからと言って、黄色いのと黒いのを一緒くたにするのか。それならまだしも、ビールと発泡酒を同じにするか。同じ工場で出来たからと言って同じではなかろう。
ビールに発泡酒を混ぜるというようなつまらない真似をしようとしていると、感じている。混ざりに行こうとしていたわけだ。
不味かろうが美味かろうがビールはビール。その発泡酒とやらが仮に美味かったとしても、不味いものを美味くしに行く必要もない。ごまかしである。
変な言い方だが、不味いからこそのこのビールである。不味いとか美味いというのも人の評価である。好きか嫌いかというだけである。
最近の発泡酒のCMで「私にはビールです」とやっているが(電車の広告で見た)、発泡酒は発泡酒である。
今回は混ざりに行くとはっきりではないとはいえ言ってしまったが・・・。混ぜるのは今回切りにしてもらおうか。
招待状は、Yes or No としかない。
かつて、釈迦は約束をしなかったそうだ。
仮に行くと約束して、道がふさがれたり、唯一の橋が崩れていくことが出来なくなる可能性というのは今よりもあったろうが、行けなかったら嘘になる。
本当に行けなかったら断るのだが、もし行ける可能性が高い場合なら、「行きます」などといわずに沈黙で持って返答(なるべくなら行くつもりである)としたそうである。
釈迦とは事情が違うが(多分とはいえ行くつもりとは言ってあるから)、古式に則って(ないが)、招待状の真ん中に丸でもつけて返送しようかと考えている。
さて、長々と書いたが、質問は簡単である。その答えも簡単である・・・。
「安生は兄の結婚式に出たいのか出たくないのか」
これに簡単に答えを出そうとしないのが、今を生きていない証拠である。
出たくないけど・・・である。出たくないんだろう?ならば・・・。
そこでこう考えてしまうわけだ。母親曰く「親戚が・・・」などと。
親戚が困ったところでわしは困らん。困ったところでその場限りである。その場限りにしない奴らは頭が腐っているだけの話である。
困ったら腹切って死ぬつもりだとしても止めはしない。
強制参加ではないから、建前とはいえ、「ご自由に」である。自分で自分の自由を止めるのはひどくふざけた話である。
「なるべくなら出ないつもりである」として、「ご出席・ご欠席」の真ん中の・に丸をつけて送ることにする。
欠席よりに丸をつけるとかどうだろう。
あいや、欠席に丸だな。ビールを飲んでいる途中に発泡酒を注がれるというような無粋なまねはしたくない。
というわけでビールでも飲んでくる。では、また。