ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

カラオケは気分だから、気分ね。

2008年08月28日 08時43分01秒 | 味わうねーさん
メロディーがいいとか、
英語の唄を歌うとインテリ風でウケがいいとか、
そういうことよりノリ重視。
気分だから、気分ね。


どっぷりシンミリしたい時はさらに痛いくらいにシンミリした唄を唄ってみたり、
なんとなくアイドル気分になりたい時はアイドルの曲を唄ってみたり。

時代を振り返りたい時は当時の曲を唄ってみたり、
自分の歌唱力を試したい時は、自分の声に合う曲を唄ってみたり。



(ね)自身にちょっといろいろあって大変だった頃、
数人でカラオケに行った時、
(ね)はあえてシンミリ曲をチョイスして唄ったことがある。


そうしたら、

「やめときなよ、こういう曲さぁ。大丈夫?」

って、まったくもって心配する心からくる「大丈夫?」じゃまるでなくて、
単に自分がいたたまれない気持ちを、親切ぶった言葉でその人に当てつけて、単に自分をなだめてるだけの「大丈夫?」という、半分吐き捨てるような言葉。



瞬時にざーーっと冷めちゃって、心で超シラけた。
ま、みんながいたので顔色変えなかったけど。


わざとやってることがホントに通じないんだよなぁ…このタイプは。
そこがツマンナイなぁ…と思うし、毎度最終的に他人を許容しきれなくて切っちゃっておいて、立ち去るじゃ~ん。

それがこういう部分でも垣間見れちゃうだよぅ…

言わなくても「わざと」が分かる人は微笑んでるか、逆に「よっ!」ってノってくれたり、「あんたねぇ、いい加減やめときなさいよ。」的なトホホ感風を醸し出したりするんだよね~。

痛みが本当に分かる人(逃げて回ってないで乗り越えてる人っていうのかな。)は簡単に親切そうな言葉を吐かないんだよね~。



だからカラオケは人選していかないと、「どっちらけ」となってしまうんだよねぇ。

時間軸の調整

2008年08月28日 01時02分15秒 | 考えるねーさん
うーん、とにかく、なんていうんでしょうねぇ。

1994年、平成6年頃からこれまでの約10数年、
自分の中の時間軸調整で変な違和感がつきまとったんだなぁ。

関わる人種が前と違う、とか、
何となく肌が合わないなぁ、とか、
そういうことじゃまるでないんだわ。

1989~1993年のたった4年間は、
ここ10数年の3倍から5倍、いや、もっと速い時間でものごとが過ぎ去っていって、
あの猛スピードにのっかって日々やりくりすることに慣らされた感覚を、
まず自覚するまでに非常に時間がかかった。

それに、あの当時に自分の目の前で繰り広げられた色々な出来事や抱えた問題が、
2000年を超えて似たようなニュースの記事となっている。

時代の先を読んだ手法や改革をいち早く実行に移す場に立ち合うってことは、
本当に「今の自分の時間軸がはたして世間と同じか?」ってことを気にしてないといけない。
(ね)は気がつかずにいたし、「みんなこの速さなんでしょ?」くらいな感覚でいた。

だから、いきなり速度を落とすことに非常に恐怖感もつきまとい、
ブレーキをかけるタイミングや、
追い越し車線から左車線に入るタイミングをつかむことやらに、
非常に苦労した。

何度、ひと呼吸するためにサービスエリアに立ち寄ったか。(笑)
それは、友人との飲みであったり、スポーツジムであったり、カラオケであったり、旅行であったり、他いろいろ。

サービスエリアではみんな優しくしてくれた。感謝感謝。

しかしあの経験はあの経験で、すごく貴重なことであって、
あれがあったからこそレイヤーによって時間軸がこんなにも違うことが分った。
同じファイルの中でもレイヤーによって時間軸が違うみたいな、そんな感じ。

そして何も、高速道の速さに乗っかって目的地へ早く辿り着こうが、
地道な国道を使って目的地に到着するのが遅れようが、
やってることの目的にブレさえ無ければいいようだ。欲はブレても。

それは一時的に、表面的には矛盾してる風でも、
腹を括る目的にブレさえ無ければいいようだ。欲はブレても。

高速道使って遠回りして高速代を余計に散財することになっても、
国道使っても遠回りして時間を余計に散財することになっても、

どうやら事故ることは無いようですねぇ、、、、どうやらそういう気がする。

腹を括る目的にブレさえ無ければ。欲はブレても。

「これが目的だー!」と旗振り回しても目的が目的になってない妙ってありますな。
それって「理性」がブレてるんだよなぁ。
「理性」をしっかり持つのって、どっぷり近くから物事を見るんじゃなくて、
少し引き気味とか、
少し低い位置とか、
少し高い位置とか、
少し右とか、
少し左とか、
そうやって見定めないといけないのよねぇ、大変なの。
人の上に立つほど、善悪/真偽は、よ~く見定めないといけないから、大変なのよねぇ。
自分の欲に負けちゃって、善悪/真偽を取り違えちゃってる人がいるんだよなぁ。

ほら、いろんな人が集う会社組織の管理監督者でありながら、
自分の欲からくる善悪/真偽で判断する人、結構いるよねぇ~。
個人のプライベートの問題だったらいいんですよ、別に。
だけど公になればなるほど、それが人知れずジェラシーを呼び、組織をかき乱す。
まぁそういう手に引っ掛かる輩も多いのは事実。
(ね)はその手は子供の頃から苦手なのでスルーだけど。

目的からくる善悪/真偽で判断しても、まぁ必ずといってもいいほどジェラシーの波はかぶる。
「今にも出火しそうなジェラシーを鎮火する作業」はしたにこしたことはないとは思うが、
鎮火する消防士もほどほどに上手くやらないと炎に巻かれて殉死・・・ってことになるのは目に見えており、
これではまったくもって本末顛倒。
ジェラシーの炎は「欲」のあるところだけに集って欲しいのだが、
「目的」のあるところにも集ってくるから、まぁ厄介なんだなぁ。

しかし「ジェラシー対策」って超面倒くさいわ。

会社組織の改革劇やらシステム構築やらを長くやってると、
結構鼻が利くようになってきましたよ。
というより無意識でやってきたこの感覚の再確認~認識が出来たっていうのかなぁ。


あれ、今気がついた。
「理性が無いんだからぁ・・・」ってよく使われる言葉だけど、
案外「本当に理性が無い人」には向けてなくて、
言動の振れ具合が分りやすく大きい人(単に欲が強い人とか)への総称として、
「理性が無いんだからぁ・・・」
を乱用してませんかね。

言動の振れ具合が分りやすくて大きい人でも「理性」はきっちりありまさーねぇ。
こうやって確かめてみると。
「理性の有る無し」は「欲の有る無し」じゃないじゃん。


もく‐てき【目的】
実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。
倫理学で、理性ないし意志が、行為に先だって行為を規定し、方向づけるもの。

り‐せい【理性】
道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力。
善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。

どう‐り【道理】
物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。
すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。

よく【欲】
不足、不満を満たしたいと願う。ほしがる。

ご静養地と同じになっちゃった。

2008年08月27日 23時31分30秒 | まんまねーさん
今年の夏の天皇ご夫妻は、軽井沢と草津でご静養らしいですねぇ。
(ね)もこの夏は軽井沢と草津でご静養してきました。



だからって?
いや、意味は特にないです。

極端に取りつくろうとする行動

2008年08月27日 23時05分28秒 | おもうねーさん
なんていうんでしょうか。

世間のモノサシではかると、

突出してるものとか、
突出している人とか、
突出している言葉とか、
突出している行動とか、
突出している情報とか、

そういうものに、

必要以上に極端に脅えたり、
必要以上に訂正して回ったり、
必要以上に撫で回ったり。

そういう人に出くわすと、なんだか、恐怖感を感じてしまって。
そうする意味が分らないんだ。
こういう感じする人って少なからずいると思うんだけど。

そういう人ってなんだか話術が巧妙で逆の恐怖感があるんだよね。
どんな人をも逆撫でないような話術を使うんですよ?

突出事項を自分の懐に抱えてひと練りして、
その上でその突出しているモノや人を何でもかんでも切り捨てるんじゃなく、
肯定する時は肯定して対応する、ってわけじゃ決してなくて、
とにかく逆撫でない話術で万人にウケる話術でとにかく平らにしてくんですよ。

まぁどっちかというと万人に共感してもらえて票が稼げる、
「突出してるものに対して苦言を言う。」
という側の気持ちが大きく現れた言葉で。

それって、結局、その人の心の中では「突出=すべて切り捨てる」そういう処理がなされているんだよなぁ。
なんで? それが超簡単だからです。
なんで? 面倒くさいらしい、突出事項が。
ある意味、非常に寂しい人だよぉ・・・って思う。

とにかく話術が上手だから、見抜けない人は大勢いる訳で、この手の人は上手く世渡りしてますよねぇ。
昔から(ね)なんて、しょっちゅう背筋が「ゾゾゾゾーーーーっ」て凍る思いしながら、
胃が「ムカムカするーーーーっ」って吐きそうな思いしながら、
適当に対応してますけど。仕事なので。

悪いが、何にも生まないどころか、かえって目に見えない締め付けして、変な空気作るから。

だ~から、信用おけねぇんだなぁ。
仕事でも信用おけねぇんだよ。おお。

人はいろんな環境で育まれていて、
経験値も色々で、
同じ24時間でも時間軸も人それぞれ色々で、
関わっている人もその人なりにいろいろで、
だからこそ、はかりきれない突出しているものや人がいる訳で。

(ね)なんて、

「いろんな人がいて、暴言あり、皮肉あり、社交辞令あり、悪口あり、仕方無いんじゃ無いの?
それを言う人はそれを言いたいんだもん、吐かせてやろうよ。吐いてりゃいいよ。
溜めるくらいなら、吐いてくれ~~~ってんだ。(笑)
恐いんだよね、実は溜めてるくせして、切り捨てるくせして、お行儀の良い平然を装われるのが。
暴言、皮肉、悪口、それがイヤな人はスルーでいいんじゃん?
「いかがなものか!」って絡むから、逆にあおっちゃうのに。
「いかがなものか!」って絡んだって、吐いてる当人って分っていて吐いてるよ、結構。
吐いてる人は逆に腹になんにもなかったりするぞ!? おい!?」

って感じなので。


(ね)は腹の括りのヌルさを感じると「コラッ!しっかりせー!!」って感じで、
ついつい何か一言吐きたくなる人。
「わざと抜き加減でやってる。」っていう賢い人は、人知れず見えないところで、必死になってるものでね。
それしないで、「わざと抜き加減でやってる。」人は、「コラッ!しっかりせー!!」対象になっちゃうわけ。

厳しくてすんませーん!!(苦笑)

やっぱり1990年代でものスゴイ差がついたんだぁ。

2008年08月27日 19時38分14秒 | 観察屋ねーさん
年収の格差じゃなくてね。

経験値っていうのかなぁ。


まぁとにかくあの時代に「単なる時代の変わり目の過渡期の一時しのぎ的なポーズで執り行われていたこと」が、20年近く経った今、万人の教科書みたいなことになってる。


げげーん、びっくり。
やっばーい。


なんか上手く説明できなくて申し訳ないけど、あの時代に乗っかって、泡に溺れているポーズしながら、でもひたすら走っていた人達には阿吽で伝わる、この状況。


極端な意見で申し訳ないが、会社からパソコン削減しません?
一人に一台なんてこの際やめない?
「仕事に必要な最低限な台数に絞って共有」にしないかね。


エクセル、もう限界でしょ?
パワポ、騙せるでしょ、素人を。中身が薄い資料をそれっぽくカッコつけても仕方ないんで。(笑)


趣味で自分で自宅に持つのは結構。
どうぞお楽しみください、みたいな。


けど、そもそもの生業がパソコンを使って無かったような人は、携帯電話で充分なんじゃ?


まぁ(ね)がここであえてぼやかなくても、時間の流れでだんだんと、なるようになるんでしょうがね。