ねーさんとバンビーナの毎日

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サラリーマンが増えたからしかたないだよ。

2008年08月29日 23時43分20秒 | 考えるねーさん
そうやって諭してきた人がいた。



産業が発達して、
(ね)らの父らくらいの世代から、
田舎の人も都会に出てきては、
学をつけたり、
大企業に勤めることが、
主流になっていったかと思う。


そして、それはやっぱり、
時代が流れて行くほどに、
世間の一般的な生き方として、
はたまたステータスとして君臨しつづけている。


それが豊かさを産み、
ひとまず不自由のない生活を産み、
贅沢まで出来る世の中になり。

しかしその逆に、
オトナの他人が何かの用事で家に訪ねてくるような風景を無くし、
子供がそういう場で行儀であるとか、
気遣いや挨拶などを、
学べなくなり。

サラリーマンは、
人付き合いの上でのオトナの事情を家庭に持ち込む必要もなければ、
お膳立てされた場に子供を連れ出して、
安全で間違いのないお楽しみをするのがやっと。


オトナの事情は、
夫婦間の不仲の問題や、
ぐうたらな贅沢の問題に成り下がり、
人付き合い上の事情などといった実のある事情は、
変に厄介扱いされるまでになってしまった。


その中でも、
続く自営は自営で奮闘し、
人付き合いの難しさや大切さを肌に叩き込みながら、
毎日オトナの他人が生活に入り込んでくるような毎日を送る。
そこで子供らは教科書で学べない行儀を学ぶ。
ことばや理論を叩き込むのではなく、
見て触れて動いて肌に叩き込む。


この真っ二つに違う両方の環境下で育った子供らが、
世の中で集うことになる。


正しい数字をはかったことはないが、
今の世の中はサラリーマン家庭が圧倒的に多いはずだ。


ということはつまり、
阿吽で伝い合う人達が激減してるはずで、
とにもかくにも説明が無いと伝わらなかったり、
行儀ひとつにもルールが明確に定義されていなければ、
「なんで気分を悪くするのか。」とか、
「いちいち気分を害することではない冗談。」すら、
伝わらない事態を生んだ。


こんな鈍感な神経、
いや、麻痺した神経、

いや、外から操られないと働かない神経に成り下がってしまった。



少なからず救いは、
そういう変貌ぶりに、
「肌触りがなんか違うんだよな、なんか違う。どうしてだか分からないけど。」と、
違和感を感じてる人が確かにいること。

「なんでこんなことまで説明しないと分からないの?」と感じてる人が確かにいること。


そういう気分になった時、
なんとなくその人の家庭環境を垣間見れるような振りをしてみるといい。
「うちはこうだからね。」と自白して、聞き出すもいい。


そうか、本当に分からないんだ。
経験する場がなかったんだ。


そうか、自分が知らなかった行儀があるんだ。
うちはその経験をする場はなかったなぁ。


と思い直すことができるから。


これじゃ仕方ない。
経験してなきゃ仕方ない。
嫉妬しても仕方ない。


その人が親から与えられた環境をとやかく言っても仕方ない。


そうしたら、

不毛なつっつきあいも、
不毛なからかいあいも、
不毛ないじわるも、

バカバカしくなるはず。


どうせやるなら、

オモシロイつっつきあいや、
オモシロイからかいあいや、
オモシロイいじわるが、

楽しい気分になる。


どうせやるなら、

厳しいつっつきあいや、
厳しいからかいあいや、
厳しいいじわるが、

なにかを解決する。



面白さと厳しさには「愛」がないと面白くないし厳しくない。

「知」や「技」の面白さや厳しさもあるが、
「考えさせる愛」がないと面白さも厳しさも、
単なる「薄っぺらな痛い芝居」を見せられてる気分になる。
「考えさせる愛」ができれば分かりずらく面倒臭く組み込まれてないと芝居はツマラナイ。


サラリーマンの数が増大したから仕方ないだよ。
伝わらなくなったのは、
サラリーマンの数が増大したから仕方ないだよ。


そういって諭された、こないだ。


だけどこの人は頑ななまでに分かりやすい説明ありきで人に関わらない。
相手が考えなくてはならないような状態を作ったり、言葉を発しては、人試しをしている。
多分それが「一番伝わる」とふんでるんだろう。
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