ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

人に嫌われてナンボ

2010年10月20日 20時08分14秒 | 考えるねーさん
よく聞かされる言葉だったりする。

まぁリーダー的役割の立場や交渉の立場に遭遇したりすりゃ、誰だって一度は諸先輩から聞かされたりする言葉だろうと思う。


しかしこれを解釈違いしてはやっぱりマズイ。


「相手を○弱らせる(×困らせる)ような行為をしていい」ということではなくて、「時に煙たがられるくらい客観的になっていきなさい?」ってことなんだと思う。


「幼稚な人間」にそういう役目を任せておいて、そんな言葉をむやみに投げかけると、前の意味の解釈に傾きがちかと思う。


これが「子供な人間」ならばココロのどこかに後の意味を置きながら、「でもどうしていいかわからないし…どうしたらいいの…どうしたらいいの…」と延々底や山にぶつかりながら葛藤すると思う。



オトナになっての「○幼稚さ(×子供さ)」ってのは「とっとと抜けないとさ…」てつくづく思うんだよなぁ…。(厳しい?)
考え方とかやり方が発達するのってココロの成長あってのことだと思うんだけどもね。
ココロの成長は「○現実(×リアル)から○逃げない(×逃避する)回数」に関わってくるだよ。

考え方は(実は)達観気味でも行動が幼い人っていますわなぁ。
あれさぁ・・・「ほぼ確信犯」だから。
自分を幼く見せておいて、他者を立ててるんだよねぇ、多分。
「自分があなた方の先に大人になる訳にはいかないでしょう?
そっちが早く大人になって先を行ってよ?」的な「半分茶化し」みたいなもの。

幼稚な人のほうが実は大人っぽく見えたりするんですよねー。
幼稚さをカモフラージュする演技をどんどん身につけて行きますから。



ようち【幼稚】
考え方・やり方などが未発達なこと。

こども【子供】
行動などが幼く、思慮が足りない者。

客観的。

2010年10月20日 19時42分38秒 | 考えるねーさん
きゃっかんてき【客観的】

1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。

2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。



きゃっかんてきせいしん【客観的精神】

主観的精神から絶対的精神へと展開する中間の段階に位置するもの。



きゃっかんてきかんねんろん【客観的観念論】

哲学で、精神的・観念的なものを主観的意識から独立した客観的原理として立て、世界をそのあらわれとする立場。




客観的モノの見方が凄く減ってると思うんだけど、モノ作りの部分が激減してるせいじゃないのかね?

何か作る側にいると品評とか評価が必ず入るでしょう?

この経験というか土壌にいないと「客観的にさせられる訓練がされてない」ってことでさ。


その中で「主観」を通し続ければ、「まだまだ幼稚だなぁ、出直しなさい?」と言われてしまうのが(普通は)オチじゃないですか。


「主観」同士が事を進めちゃうと、だいたい「お行儀悪いことに気がつかない(というかそういう同士で理屈の壁を作って逃げ切ろうとするからさ。)」で平気で手をかけたりするんだで。

「故障」はまだ「修理」ができよう。

2010年10月20日 19時35分51秒 | 考えるねーさん
こしょう【故障】

1 機械や身体などの機能が正常に働かなくなること。

2 物事の進行が損なわれるような事情。さしさわり。

3 異議。苦情。



イロイロといじくり過ぎて形が歪んだり、内容的にややこしくなり過ぎたものは一度チャラにしないと、結局ろくな再生にはならないよなぁ…。


そういう状態はもはや「故障」の域ではなく、「単に芸術(それも超個人的趣味)」の域で(笑)、企業がこれにかかったならば、やっぱりどう考えたってロクな結果にはならないだろうと思う。


「企業経営」は「芸術」をやる場ではないしさぁ。
サグラダファミリアのようにいびつだろうが何年も建ててくれる人がいるというのは「理念はひとつ」でそれがぶれてないからだろう。(想像)


イロイロといじくり過ぎて形が歪んだり、内容的にややこしくなり過ぎというのは、必ずどこかで最初の理念を無視したりスルーしたりして、「何かをしてしまった」ってことだ。



先々、

「あぁ延命措置だっただけで、なるほど、やっぱりね。(チャラにする(別の何かに乗り換えておいてチャラにするとか))」

になるのだ。


こんなのは人間がどうやろうが歯向かえない「宇宙の法則」かと思う。


それでもそこに歯向かうならば「宇宙人」か「ロボット」にでもならざるおえないかと思う。

昔名古屋で。

2010年10月20日 19時04分04秒 | 掘り出ねーさん
仕事でお世話になった重鎮がこう呟いた。


「介護をビジネスにしちゃいかんの。
儲けを沢山出したり、だからって金を沢山やり過ぎたら、所詮人間、介護なんてやらなくなるんだぞ?
金を持てば怠慢になるのが人間なんだから。
そんな風な人間に介護やらせられるか?
任せられるかぁ?自分の肉親を。
適当な賃金でコツコツやってくれるような状態を作っておいて、それでも真面目に働いてくれるような人間を集めにゃダメ、介護の商売というのは。」




そう呟いたのは聞き逃しませんでしたわ。

いくつもの林檎を食べたから客観的になれる訳でもなく…。

2010年10月20日 18時51分38秒 | 考えるねーさん
「林檎との向き合い方のバリエーションがどんだけ豊富か?」

でないと決して「客観的」にはなれないと思う。


「林檎を食べた経験上で「○○産」のバリエーションが豊富にある」

ということよりも、

「林檎を育てた、林檎を収穫した、林檎のデザートを作った、それを食べた」

というような経験がある人のほうが、口でしゃべる言葉が主観的風だろうが「客観的に観る目は養われてる」ってことだ。



生産されたものを消費して評価してるだけの環境にしかいないのはどう考えても「主観しか生まれない」と思うのだ。


しゅかん【主観】
その人ひとりのものの見方。

きゃっかん【客観】
第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。



生産されたものを単に消費して評価してる側っていうのは実は「第三者でもなんでもない」んで。


だいさんしゃ【第三者】
当事者以外の人。
その事柄に直接関係のない者。


「第三者」ってのは見識がなけりゃ意味ないんで。