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ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

いじめがあって当たり前だ

2006-10-29 | ちょっと一言
各地でいじめを原因とする自殺が報じられている。幼い子供たちが自ら命を絶つというのは、哀しいことだ。教師がいじめに関与していたという驚くようなことも報道されている。まさに、教育の荒廃ここに極まれりという感じで報道がされている。

 文部科学省には過去7年間の間、いじめを原因とする自殺はゼロであるそうだ。しかし、多くの人が感じるようにこの統計はおそらく嘘であろう。もっとも文部科学省の役人がデータを改ざんしたと言うわけではない。各地の教育委員会からの報告を集計したらゼロだったと言うことであろう。では、なぜそのような報告になるのだろうか。

 いじめによる自殺などはあってはいけない、そのようなものがあったら教育委員会の責任問題になる、まして教師によるいじめなどはありえない、という気持ち(いや圧力)があったと考える方が自然だ。教育委員会ではいじめによる自殺があったとは認識しないような構造になっているのだろう。

 では何が問題なのか。いじめはあってはならないという考え方がおかしいのではないか。マスコミの報道もそのような書き方がほとんどすべてだ。だから学校長は自分の学校でいじめを無くすことに一生懸命になるし、いじめがあったらなんとかなかったことにしたがる。

 私はいじめを無くすことに教師や校長や教育委員会が必死になる必要はないと思う。いじめはどうやっても無くならない。何故か。親たちが生きているこの社会が今はいじめだらけだからだ。会社では年寄りは早くやめろといじめられる。窓際族というのは立派ないじめだ。失業しても生活保護をもらおうとすると窓口の役人にいじめられる。さらに医療費や生活保護費などの切り下げが行われる。政府による弱いものいじめが堂々と行われている。そんな社会で、子供たちにいじめをするなとどの口で言えるのか。

 そもそもこのいじめを公然と始めたのは、国鉄民営化を旗印に反対する組合員を隔離して草むしりなどの不要な労働を強制した中曽根内閣の政策に端を発する。そのあと、このような社会的ないじめが大手を振って登場してきた。政府が率先しての不当労働行為に対して、いまだに1047名の人たちが職場復帰を求めて闘っている。思えば、この不当な首切りを日本社会が認めてしまったことが、今のいじめ社会を招いたと言える。

 いじめを無くすな、いじめはけしからん、という言い方はもうやめよう。いじめはあって当たり前の時代だ。

 では、学校ではどうすればいいのか。以上のことを考えれば、学校でやることは決まっているではないか。教育を担う人は、いじめに負けない人を育てることだ。いじめに遭っている子供を見つけたら、いっしょにいじめる人と闘うことだ。今、学校にも社会にも必要なものは、連帯のこころ、団結のこころではないか。