ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

沖縄の海は危機にある

2012-05-28 | 南の海
梅雨の真っ最中の沖縄へ出かけていた。5泊6日の旅行だったが、そのうち一日は大雨に遭った。しかし、それ以外は、天気予報を裏切るように連日の晴天だった。
おかげで、青い空、青い海をゆっくりと見ることができた。顔は真っ黒だ。もう夏が来たように。

一日、ジュゴンがしばしばやってきている嘉陽の海岸で泳いでみようと思ったのだが、低気圧の通過で、海が濁って、とても潜る気にはならなかった。残念。でも嘉陽の砂浜海岸で、のんびりと時間を過ごし、ジュゴンの話で盛り上がった。

その後、泡瀬干潟を訪れた。泡瀬干潟は現在沖縄に残っている最大級の干潟なのだが、数年前から人工島の建設が行われ、この貴重な干潟を埋め立てている。人工島を作って何をするかというと、スポーツ公園のようなものを作るという。沖縄県民の健康のために作るのだという。裁判でも経済的な合理性が見られないとして、埋め立て差し止めが認められたが、その後の計画を見直して合理性が出てきたといって、民主党政権の国交省が埋め立て続行を認めてしまった。

最干潮が過ぎた頃に泡瀬に到着したので、有名なウミエラの群れ棲んでいる砂州には、行くことができなかったが、一見何もないような砂干潟を歩いていると、実に多様な動物や植物たちが見られる。かつて一度ここを訪れたときに見た、一面の青々とした海草の原っぱは、ほとんど無くなってしまっていた。第1期工事で、潮の流れが変わってしまったことや、工事による土砂の堆積もあり、海草の多くは枯れてしまったようだ。なんて残念なことが起こっているんだろう。スポーツジムを作るために、こんな美しい風景と多くの種類の生き物を殺さなければならないなんて、頭がどうかしているのじゃないのか。それとも頭の中はお金のことしかないのだろうか。

泡瀬では、おじいさんたちが彼らの生活のすべてをかけて埋立反対の運動をやっているのに出会った。彼らのやり方はそれぞれ違っているが、この泡瀬干潟を守ろうと一生懸命なのが伝わってくる。泡瀬干潟の正面に喫茶店兼博物館を作って反対運動の拠点を提供しているおじいがいる。喫茶店の経営はまったく赤字のようで、何年続くかと心配されている。でも、こんな店をつぶしたら、沖縄県民の恥になる。他県からやってくる観光客は、大型リゾートに泊まって、作り物の人工ビーチで遊んでいないで、こんなところをこそ見に来たらどうかと思う。博物館を兼ねたその喫茶店の名前は「ウミエラ館」。泡瀬干潟も、ウミエラ館も守っていきたい。

太陽光発電で乗り切ろう

2012-05-13 | 環境
野田内閣は、消費税増税路線をひた走りに走っている。そして、福島第一原発の事件の終息の見通しもないまま、原発の再稼働に突っ走ろうとしている。亡国内閣としかいいようがない。

 原子力ムラは、相変わらず不落城のように健在のようで、経済発展のためなら、国民の命の10万や20万はどうでも良いとばかりに、原発推進をとなえる人たちがまだまだ多い。大飯原発の再稼働を画策する関西電力は、今年の夏の電力不足を20%と唱えた。原発を再稼働させないなら、停電するぞという脅しだろう。政府もそれを見直して14.9%の電力不足と言い直したが、それでも電気が足りないぞと脅している。自然エネルギーでは安定供給はできないというのが、原発推進派の言い分であるが、政府がどれだけ一生懸命自然エネルギーへの転換を図ってきただろうか。むしろ、自然エネルギーの利用を抑えて、原発建設に邁進してきたのがこれまでの政府ではなかったか。

 新年早々、我が家は引っ越しをした。その際に、少々値段は張ったが、思い切ってソーラーパネルを設置して、太陽光発電に取り組むことにした。3月までは、留守にする時を除けば、いくら頑張っても発電量が消費電力量を上回ることは無かったが、4月からは、ほぼ我が家の使用電力は自家発電でまかなえている。さらに関西電力に売電できている。梅雨に入るとちょっと心配だが、4月から10月くらいまでは、関西電力の電気を買わないでも済みそうだ。もっとも設備費などの費用があるので、電気が無料というわけにはいかないが、少なくとも原発の電気を使わなくても良いというのは、精神的にすごくうれしい。ソーラーパネルの発電量と買電量を表示するパネルが部屋に取り付けてあるが、そのランプがオレンジ色だと買電しており、ブルーだと売電していることになる。ソーラーパネルを設置して以来、このランプが常に気になる。青いランプがつくとなんだかうれしくて、拍手したくなり、青いランプが時々オレンジに点滅し始めると、太陽頑張れとつい大きな声で応援したくなる。ランプだけではなく、数字でもいまいくら電力を使っており、発電量はいくらというのが表示板で確認できると、ついつい少しでも電気を消して回る。ソーラーパネルを設置しなくても、この使用電力の表示板だけでも、節電効果は非常に大きいのではないかと思う。

 電力会社や原子力ムラの脅しと圧力に負けないで、今年の夏を過ごしたい。エアコンは毎年使わない生活をしてきたが、新しい家はどの程度暑くなるのか、ちょっと心配している。もっとも今のところ、エアコンは買っていない。電力会社や野田政府のやり方をみていて、エアコンを買わないままに生活する決意を新たにした。

すべての原発が止まった日に

2012-05-07 | ちょっと一言

山口県柳井市まで新幹線と鈍行を乗り継いで出かけた。柳井市は、舟運の港町で、江戸時代からの蔵造りの家が建ち並ぶ町だ。「白壁の町並み」という名前を付けて、観光客を呼び込もうというのだろう。それにしては、観光客もそれほど多くないし、日帰りの客が多い。ホテルや旅館も少ないし、ホテルも古くて狭くて高い。トイレの水もまともに流れてくれない。サービスも良くない。ただ、人は親切だ。

 柳井から上関町室津に出た。室津港から船に乗って、上関原発建設予定地を見て、原発反対で頑張ってきた祝島を見に行こうと思った。何度か行っているのだが、今回は大勢の人たちといっしょで、楽しみだ。中電の工事も中断しており、再開の目処も立っていないから、祝島や長島を見ても、のんびりとした雰囲気がある。そして、ちょうど出かけた日に、日本の全原発が停止した。こどもの日に、子供たちにもっとも良い贈り物ができた。

 瀬戸内海と言うことで高をくくっていたら、風に吹かれてたいへんだった。小型のクルーザーは、波に翻弄された。船酔いする人も出た。私はなんともなかったが、船に乗り付けない人にとっては、内海の海も風が吹けばこんなに荒れるんだと勉強になっただろう。

 それでも、祝島の周辺の海は美しい。水は澄んできれいだ。15mくらいの深さでも底が見える。青い海がきらきらと輝いている。こんな美しい海を壊して原発を作ろうと考える人は、いったいどういう神経をしているのだろう。第一次産業で生きてはいけないと、祝島の人たちに言い放った中国電力の社員。彼らは第一次産業は、自分たちのようなサラリーマンより劣っていると心から思っていたのだろうか。そうでなければあのような暴言は出てこないだろう。今でも彼らはそう思っているのだろうか。社員の資格を失いたくないためだけで、あのような言葉が出てくるものだろうか。「社畜」という言葉が浮かんでくる。

 祝島で道路脇に座り込んで暇そうにしていた男たちは、都会からやってきた者どもを睥睨しているようだ。どうだ、俺たちが原発を止めたんだぞと言わんばかりに。福島の事故で反省して祝島を見学に来る都会の人間たちは、馬鹿ばかりとでもいいたいような態度が、気に掛かった。映画「ミツバチの羽音と地球の回転」や「祝の島」で、もてはやされた島の人間のおごりではないかとも思えた。「お邪魔します」と言った人に、島の男は「邪魔だと思うなら来るな」と言い放った。このような態度を取る男たちは、ひょっとしたら、島の原発容認派の人だったのだろうか。腑に落ちない思いを抱いて、祝島を後にした。

道は狭い方が良い

2012-05-03 | ちょっと一言
京都では、最近2件ほど車の暴走による多数死亡事故が発生した。一つは祇園の繁華街交差点で。もう一つは亀岡市の道路で。そして、先日は関越自動車道で、大型バスが居眠り運転で多くの人が犠牲になった。交通事故による死者が出るのは、なにも珍しいことではなく、日常的なことになってしまっているが、これら最近の事故の原因を考えると、なにかが壊れたのではないかと思う。風評だといえばそうかもしれないが、原発の事故が人々をおかしくしているのではないだろうか。なにしろ放射線は目に見えないのだから、まったく影響していないとも言えない。

 亀岡市の事故のあった道路は、通学路でありながら、国道からの抜け道として最近道路を広げて整備したために、交通量が増え、車のスピードも上がり、危険が増えていたという。私は昔から、狭い道を整備して広げることに反対だった。車に便利な道にするということは、結局のところ、歩行者にとって危険な道になるということなのだが、人々は広くすること、大きくすること、便利にすることに、無批判だ。車の離合がやっとという狭い道は、狭いままにしておく方が良い。そこでは車は、けっしてスピードを出して走れないから、人間にやさしい。

 車優先の社会を作って来たのは、いったい何のためか。それは、要するに、車を作る大企業の為だった。トヨタやニッサンのために、国中に高速道路を作り、道路の幅を広げた。それによって、自動車会社は世界に輸出する大会社になった。道路を作るために、土木会社も大もうけした。その結果の日本の経済成長だった。東南アジアの多くの国に、日本は鉄道建設の援助を抑えてきた。それは日本の自動車をそれらの国に売るためであった。今でも、マニラ、バンコク、ソウル、ジャワなどに行けば、交通渋滞が日常化している様子がよくわかる。車社会文化を日本がこれらの国に押しつけてきたからだ。

 日本の高度成長の時代、その間、どれだけ多くの人が交通事故で死に、障害を負い、人生を棒に振ってきたか。交通戦争という言葉さえ生まれた。命を犠牲にして、経済発展を遂げたのが、今の日本である。車社会はいまだに人々の命を奪い続けている。

 さらに、亀岡市の事故で驚いたのは、児童の名前と保護者の連絡先を加害者の親に知らせた警察と小学校の教頭がマスメディアによって、袋だたきにされていたことだった。加害者の親が、子供の犯した過ちを謝罪するために、被害者の葬儀に行って謝罪したいと思うのは、至極当たり前の感情だし、だから葬儀の場所と日時を知りたいと思うのも、保護者にそれを許可して欲しいと願うのも、当然のことだ。そして、その心情を良しとして、被害者の保護者の連絡先を教えたことも、普通の人の感情からすれば当たり前のことだと思う。実際、加害者の親は、知り得た電話番号に電話して、葬儀に出て謝罪したいと申し出ている。警察のや
り方には腹の立つことが多い中で、今回の警察の担当官のやったことは、人間味あふれる行為だと思う。いや、普通の人の感情だ。

 それをメディアは、個人情報の漏洩だと騒ぎ立て、警察署長や小学校長らが勢揃いして平身低頭謝罪させている。おかしくないだろうか。まともの人間の感情を失っているのは、メディアの方ではないか。そしてそれを当たり前のように受け取っている人々がいる。いつから日本人はそのような情を失った人間になったのか。個人情報を漏らして困るのは、権力に対してなのだ。権力が個人情報を集めて、人権を踏みにじる行為をすることこそ、メディアが批判すべきことなのだ。個人が個人の情報を得ることに何の問題もない。近頃では、小中学校や高校、大学などでもクラスの名簿を作ることさえ、個人情報保護と言って作られない。職
員名簿も作られなくなっている。そんなことは何の問題もない。問題なのは、個人情報を政府、警察や大企業が握って漏らさないことなのだ。権力が個人情報を握れば、それは莫大な人権侵害を引き起こす可能性が大きい。自衛隊が市民の活動情報を収集していたり、大学が警察に学生の情報を流していたりしたことが発覚したが、これこそ徹底的に批判されるべき個人情報の漏洩ではないか。政府が計画している秘密保全法や、国民総背番号法にメディアはどれだけ反対してきたのか。大きな権力にはしっぽを振って、一人の交通事故の加害者に巨大な批判の矢を降り注ぐ、メディアは猛反省して欲しい。