ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

三内丸山の縄文人

2010-12-31 | 日記風
青森は新幹線の開業で浮き立っていた。もっとも浮き立っていたのは地元のひとばかりで、観光客はあまり多いとも思えなかった。年末だからだろうか? 青森では、ねぶたとリンゴがどこでも集客の中心のようだ。ねぶたは時期が違う。ねぶたの里というところへ行けば、本来6日間のねぶたが終われば壊されるはずのねぶたが陳列されているということだったが、ねぶたはやはり展示しているものを見るものではなく、ハネトたちを従えて練り歩くものを見た方が良いと思い、行かなかった。どうせ陳列しているねぶたのミニチュアは至る処で見ることができた。



 行きたかったのは三内丸山遺跡だった。これも雪がないときの方が良いのだが、しかたない。雪に埋もれた三内丸山遺跡を見学してきた。縄文時代に1500年の間、日本最大の集落を形成してきた青森の遺跡は思った通りの広さだった。もっともまだまだ発掘が終わっていないらしいから、もっと遺跡は広い可能性もあるらしい。10ヘクタールほどの空間が発掘されて、一部は住居などが復元されていた。三内丸山の縄文集落があったのは、4000年から5500年前の時代だという。それだけ古い時代にかなり素晴らしい土器が作られ、多くの装飾品が使われていたらしい。遺跡の一部に盛り土があり、そこに層をなして多くの土器の破片や勾玉などの装飾品が出土するという。案内してくれたボランティアのおばさんは、盛り土はゴミ捨て場のようなものだと言ったけど、ゴミ捨て場なら勾玉や黒曜石の装飾品や石器が出てくるのはおかしくないだろうか。そのようなものは現代人ならいざ知らず、当時の人にとってゴミ捨て場に捨てるようなものではないだろう。そう思ってボランティアガイドに聞いたが、明確な返事はもらえなかった。盛り土はいったいなんだったのだろうか。



 多くの装飾品はお墓の中から出土する。この遺跡には500人の大人の墓があり、800人の子どもの墓がある。子どもの遺体は瓶に入れられ、埋葬されているが、大人は道路の両側に並べて埋葬されている。もちろん土葬だ。これだけの人数がきれいに並べられ埋葬されているというのはかなり大きな集落であり、1500年もの間続いた巨大な村落でもあったのだろう。小さな国家とも言えるものかもしれない。縄文時代には人の間に身分の違いのようなものはなかったと考えられているが、住居には大きいものと小さなものがあり、墓にもいくつか数少ないがストーンサークルを持った大きな墓が見つかっている。解説員の説明では、縄文時代でも酋長や指導者はいたであろうという。それはきっとその通りだと思う。まったく労働の分担がなかったとは思えない。宗教的な呪術師もいたであろうから、お墓に大小があるのは不思議ではない。それにしても500人に上る大人の墓がほとんど同じような大きさで並んでいるのは、縄文人が思った以上に公平な社会を作っていたと思われる。そして1500年もの間、平和な世界を続けたのだろう。その時代から考えて、私たちはどれだけ進化できたのだろうか。

 建物の中には、巨大な建屋がある。復元された建屋の中にはいると、まるで小さな野球場ほどの広さがある。支えている栗の木は一人で抱えきれない巨大な木が使われている。現在では日本中探しても見つからないほどの巨大は栗の木を使っている。石器だけの道具でこれだけの巨木を伐り、建屋を建てた当時の縄文人たちに畏敬の念を覚えないわけにはいかない。

 この三内丸山の集落を作った縄文人は残念ながら今のわれわれ日本人とは同じ人種ではない。おそらく縄文人は弥生時代を作った日本人の祖先によって滅ぼされた人種だろう。東北では蝦夷または夷(えみし)とよばれる人たちがこのあと現れるが、アイヌ人の祖先かもしれない。やがてこの人々もヤマトとよばれる半島からやってきた人種の末裔の日本人によって東北から追い出され消えていく。

 降り続く雪の中、広大な三内丸山遺跡を見ながら、悠久の昔を思い、縄文人の生活を思い、感じるものがあった。長い間の懸案であった雪の青森に来た最大の目的が今回果たされた。こんど青森へ行くときは、下北半島の恐山などと周辺の温泉に行きたい。でも青森県の東は、六ヶ所村を始めとして建設中の大間原発など、恐ろしい施設がいっぱいできている。青森は日本でももっとも危険な地帯の一つだ。あまり長期に滞在したくはないところでもある。

 帰り着いた京都の大晦日は、雪に埋もれている。青森空港は欠航でほとんど閉鎖状態のようだ。良いときに帰ってきた。我が家の正月は終わったようなものだ。紅白歌合戦も訳の分からない若者の歌で占領されている。彼らはなぜ一人で歌えないのだろうか。集団でないと歌えないとは情けない。見たくもない。北島三郎の風雪流れ旅だけは聞いてみたいが。

津軽の温泉三昧

2010-12-30 | 温泉を楽しむ
年末に東北の温泉を楽しんだ。久しぶりに温泉をいくつか回ることができた。今回入った温泉は、浅虫温泉、酸ヶ湯温泉、寒水沢温泉、黒石温泉、婆娑羅温泉の津軽の五湯。このうち浅虫温泉はもう何度も入ったことがある。酸ヶ湯温泉も4度目か5度目だ。曽有の地だ。その他の温泉はどこも今回が初めての温泉だ。昔、八甲田山に3度ほど登りに来たことがあったので、そのたびに酸ヶ湯には寄ったことがある。ここの千人風呂はすこぶる有名だ。混浴だが、浴槽が広く、お湯は硫黄泉で白く濁っており、照明は暗くて湯気がモウモウと立ち籠めているため、混浴と言っても入っている人がよく見えないくらいなので、女性もあまり気にしないで入れるようだ。

酸ヶ湯温泉

 ここに最初入ったときは、八甲田山を濃霧の中縦走した後だった。その時には、霧の中、同じ道をぐるぐると回ってまるで狐に騙されたようだった。あの八甲田山だっただけに、まるで死の彷徨をしたように焦って霧の中を歩いたことを思い出す。結局、頂上の火口壁をぐるぐる回っていたことに気がついて、無事酸ヶ湯に下りる道を見つけ、ホッとしたことを思い出した。入った酸ヶ湯温泉で生き返ったものだった。

 2回目は高田大岳にも登ったときだ。まだ雪が残っていたので、夏早くだったのかもしれない。このときも雪に苦労して酸ヶ湯によろよろと降り立って、温泉の湯で生き返ったことを思い出す。3度目は、大勢でここで泊まって会議をし、夜は懇親会で盛り上がった。翌日の朝、一人で早めに朝食を終え、朝食に向かう同行者たちと別れて、一人で八甲田大岳に軽装で登った。2時間半の行程を走るように1時間半で登り、下りも1時間で下りてきた。下りたときに同行者たちはまだチェックアウトして貸し切りバスに乗るところだった。間一髪間に合って、私もいっしょにバスで帰ることができた。あの元気な登山が懐かしい。

 今回は浅虫温泉と寒水沢温泉に泊まった。寒水沢温泉は、昔来たときにはまだ温泉はなかった。近くの城ノ倉温泉に入ったと記憶している。その頃の城ノ倉温泉は湯船の周りを木の小屋で囲っただけの素朴な宿で、狭い湯船に地元のおじいさんやおばあさんが仲良く入っていた。良く理解できない津軽弁が飛び交って、意味は通じなかったが、気の置けない雰囲気が楽しめた。今では立派な洋風のホテルになってしまっている。寒水沢温泉は八甲田山ロープウエイの駅の近くに新しく温泉を掘ったらしく、ここも立派な洋風山小屋ホテルが建っている。温泉は近くの酸ヶ湯と違って、アルカリ性の単純泉だ。でもなかなか良いお湯だった。

寒水沢温泉からスキー場を望む

 今回は登山はしなかった。八甲田山中にいる間中、雪が降り続き、積雪は数十cmにもなった。登山するには相当なラッセルをさせられるし、間違えば命取りになりそうな雪だった。宿に来ている人たちのほとんどは八甲田ロープウエイを利用してスキーやスノーボードを楽しむ人たちばかりだった。温泉や登山を楽しみに泊まっている人はわれわれ以外にはいない。昔と雰囲気は随分違ってしまった。もっとも夏はまたまったく違う雰囲気なのかもしれないが。

 黒石温泉は、足湯だけを利用した。じゃんじゃん雪が降り、足湯に浸かっていても雪が体を濡らすので、ゆっくり楽しめる雰囲気ではなかった。黒石の街では、「こみせ通り」という昔の雪深い街の風情を楽しんだ。昔の建物には道路の方にも屋根が伸びて、学校の教室の廊下のような小路が続いている。道路の雪を避けて通れるような工夫がされている。そのレトロな建物とこみせ通りが残されている。

こみせ通り

 温泉を楽しみ、のんびりとして数日を過ごしたので、体調もだいぶん回復してきた。来年は身体に気をつけて、また山を歩き、花を愛で、温泉を楽しみたい。仕事もしないといけないが。


最後に入った婆娑羅温泉。モール泉のようなお湯だが、なかなか強烈な泉質だった。

コップの中の嵐の民主党

2010-12-21 | 政治
 先週、生まれて初めての経験をした。といってもうれしい体験ではない。職場で倒れてしまった。めまいが激しく立ち上がることができない。それ以来、ふわふわした雲の上を歩いているような毎日だった。そしてパソコンやテレビの画面をみたり、バスの窓から外の景色を眺めていると、不快な感覚がわき上がってくる。ひどくなると吐き気がしてくる。というわけで、ブログを書く気にもなれなかった。こうして書いているのは、多少とも良くなったせいだが、長くは書けない。

 体調を崩しているうちに、管内閣はおしまいを迎えそうだ。小沢をたたいて自らの支持率を上げようと姑息なことを考えたらしい。政倫審に小沢招致の議決をさせようとしているらしい。しかし、自民党からさえも議決には加わらないと言われ、いったい管内閣は何のために党を割るような方向を打ち出しているのだろうか。管内閣が続けば、民主党が崩壊してもかまわないというのだろうか。民主党員の小沢さんをトカゲの尻尾のごとく切り捨てて、自らは浮かび上がろうというのだろうか。愚かしい。

 小沢さんのことなんかほっといて、辺野古の基地を止めたり、諫早湾の水門開放や八ッ場ダムの中止など、野党時代に管さんが唱えてきたことを真剣に実行してみたらどうだ。その方がきっと支持率は上向くだろう。自民党ができないことをやらねばダメだ。自民党と変わらない政策ばかりを続けるなら、民主党への期待がしぼんでしまう。

久しぶりに1000m峰へ

2010-12-13 | 花と自然
年も押し詰まった今日、今年最後になるかもしれない山行を思い立った。低山歩きでも少しは山らしい山にしようと思って、比良山系の釈迦岳を選んだ。朝ゆっくり出たこともあって、JR湖西線の北小松駅に着いたのは10時20分を回っていた。でもバスを使わず駅前からすぐに登山道に入れるというのが、ここを選んだ理由でもあった。駅を出ると小雨が降っている。今日は晴れたり曇ったりの天気ではなかったのかなと悔やみながらも、たいした雨でもないからと合羽を着て出発する。

 駅前から急な車道を歩いて観光名所の楊梅の滝を目指して登山道にはいる。京都周辺の山がどこも人工林なのとちがって、ここ比良の山は常緑広葉樹林だ。快適に登って雌滝への入り口から登山道を離れる。雌滝は16mの滝だが、その上に20mの中間の滝があり、一番上に40mの雄滝があり、連続させると滋賀県ではもっとも長い滝なのだそうだ。JR湖西線の車窓からもその勇姿が見える。雌滝から滝を回って雄滝に登る。さすがに雄滝は大きいだけでなく水量も豊富で、夏の暑いときならきっと楽しいだろう。だが、今日は雨模様。滝の水滴か雨滴かわからないけど、身体が濡れる。登山道まで登り返して、涼峠へと登っていく。途中、花一と言うところがある。地元の唄の歌詞に、「涼むきあげ 花一下りる 大滝小滝は唄で越す」というのがある。昔、柴を麓の民家に売りに行った山人が涼峠まで汗水垂らして登りあげ、花一の方に下りてくる。下の方の二つの滝までくれば街は近い。もう鼻歌がでる。というような意味だろうと勝手に解釈した。花一というくらいだから、きっと昔は花が咲き乱れる場所だったのだろう。いまでは花が咲くような場所ではない。きっと常緑樹が生い茂ってしまったので、花もあまりない場所になったのだろう。雨はほとんど上がったので、雨具を脱ぐ。

 涼峠に出た。きっと昔はここで峠越えの人が一息入れ、汗を乾かしたのだろう。涼峠とは良い名だ。いまでもここで登山者が休憩するにはなかなか良いところだ。ここから釈迦岳方面の登山道から外れ、寒風峠に向けて歩く。ほとんど上り下りのない平坦な道が寒風峠まで続いている。この道を歩くのは、涼峠から寒風峠までの間に湿地帯があり、なかなか良い風景があるというガイドブックの情報からだった。涼峠を過ぎる頃には、山はほとんどが落葉広葉樹林に変わっていた。落ち葉が地面に厚く散り敷いて、明るい樹林帯が続く。といっても今日は雨模様だから、ちょっと淋しく暗いが。秋の天候の良い頃なら、ここを歩くときっと素晴らしいだろう。天候が悪くてもこの道のすばらしさは、折り紙付きだ。地面はもろい花崗岩地帯。比叡山と大文字山の間にあるもろい花崗岩と非常によく似ている。きっとここまで続いているのだろう。寒風峠までの道は、狭い湿地帯を流れる渓流沿いの道だ。ときおり花崗岩が現れて、美しい渓流の景観を作る。この小川のほとりで弁当にしようとしたが、一番良い場所に親子連れ3人が七輪を持ち込んで料理をしていた。邪魔をしては申し訳ないので、挨拶だけにして私は少し先のあまり景色は良くない川のほとりで昼食をとった。この湿地は川の両側に狭い湿地があるばかりだが。源流に近いところに少し広くなった湿原があった。全体がミズゴケ群落で覆われており、京都に来てから近畿地方で初めてミズゴケ群落を見たような気がする。



 寒風峠のそばは、杉林が広がっている。天然の杉林なのか人工林かよくわからないが、どうも人工林のような気もする。山の上にこれだけ平らな場所が広がっていれば、あの拡大造林の時代に杉を植えないはずがない。寒風峠は名前からいかにも寒風が吹きすさぶ吹きさらしの峠と思っていたが、周りには落葉広葉樹林があり、風はほとんど吹いていない。むかし寒風峠と名前を付けて頃からずいぶん変わったのだろう。風は寒風峠からヤケ山への急登にかかる頃、強くなった。気温が急に下がり始め、雷も遠くで鳴り始めた。前線が通過したのかもしれない。雨もまた降り始めたが、気になるほどではないので、合羽も着ないで歩く。ヤケ山を越え、さらに急登が続く。木の根や石にすがりつきながら登る。今日の登山は標高差が約1000mだ。時間は短いが急登が続くため、かなりきつい。しかし高度はどんどんかせげる。800mを超えた頃から、登山道の周りに雪が現れ始めた。やがてまだらな雪がつながり、ヤケオ山に着く頃は、一面の雪原となった。降ってくる雨もどうやら雪に変わったようだ。気温は0℃近くになったらしい。合羽を防寒着代わりに着て歩く。手袋も出して防寒をしないと手が凍える。

 ヤケオ山から釈迦岳まではほとんど上り下りのない尾根歩き。危険はあまりないが、それでも雪があるので、左側の崖に滑り落ちないように、慎重に歩く。ガイドブックには、この尾根歩きは左に琵琶湖を一望にしながら歩けると書いていたが、今日は雲と霧に覆われて、展望はまったくきかない。周りの葉を落とした樹木の幹と地面の落ち葉と雪を見ながら歩く。この尾根はしかし、芽生えの頃にはきっと美しい林なのだろうと想像できる。地面にはいっぱいのイワウチワの群落が広がる。春はこの薄いピンクの可憐な花を楽しみながら歩けるのだろう。



 釈迦岳頂上に到着。標高1060m。久しぶりの1000m超えだ。一面の雪と霧。頂上と言っても展望はない。写真だけを撮って早々に下り始める。帰りはリフトかロープウエイを利用しようと思っていたから、もうそんなに歩く必要はないと高をくくって歩き始めたが、なかなかの急坂で、下るのも大変だ。途中、シャクナゲの大群落に出くわした。大木になっているシャクナゲが青く大きい葉を拡げている。もちろん花はないが、立派なシャクナゲに感動した。そこでふっと思い出した。「比良のシャクナゲ」という井上靖の小説があったなあと。昔読んだことがあるが、中身までは思い出せない。でもたしかに比良のシャクナゲという題だった。これがその比良のシャクナゲなんだなと、あらためて思った。春にはきっと素晴らしい花を咲かせるのだろう。小説になるほど比良のシャクナゲは有名だったんだ。比良に来たこともなかった私はその小説を読んでも何の感興も起こさなかったような気がする。

 リフトの駅までほうほうの体で下りたが、リフトの駅は閉鎖。どうやら動いていないらしい。ロープウエイも動いている気配はない。しかたなく歩いて下りる。歩き始めてそろそろ4時間を超えた。急な下りで足が痛み始めた。標高500m付近まで下りたところで、足が痛くて歩けない。足を引きずるようにしながら、痛みをこらえながらの下山だ。リフトが動いていればと恨み節もでる。リフトの下の駅までようよう下りたが、そこにあるはずのバス停もなくなっている。ちょうど前後して下りてきた人に聞くと、ロープウエイもリフトも数年前に閉鎖し、したがってバスも無くなったとのこと。琵琶湖畔のJRの駅まで歩いていくほかないとのこと。いや、泣きたくなったが弱音は見せられない。舗装道路になったので、足の痛みはごまかしがきくようになった。結局、1時間以上かけてJRの駅まで歩いた。比良山系は主峰の武奈ヶ岳を始め、有名な山が多く、登山者もきわめて多い山だったが、ロープウエイを利用できなくなって、いまではほとんど登る人が亡くなったと聞いた。武奈ヶ岳に登るのも倍近い時間がかかるから、登れる人が限られてくる。今では登山道も荒れてきているという。これは何とかして欲しいものだ。

新自由主義からの脱却を

2010-12-10 | 政治
コイズミ首相以下4人続いた自民党内閣で行われた新自由主義に基づく福祉切り捨て政策を批判して、民主党の政権交代が実を結んだ。その選挙で民主党は、「国民生活が第一」と叫んで、国民の圧倒的な支持を得て政権にたどり着いた。しかし、鳩山政権でも財源がないという理由で、福祉政策はなかなか進展しなかった。鳩山さんはそれでも理想を語っていたが、結局のところ福祉は前に進まなかった。

 菅政権になってからは、後退路線がやたら目につく。官僚とバトルを繰り広げた長妻厚労大臣を更迭して、官僚の言いなりになる大臣を作った。廃止するはずだった後期高齢者保険を作り直すと言って、さらに高齢者の負担を増やす法案をまとめた。介護保険では、さらに高齢者の自己負担率を1割から2割に引き上げようとしている。いったいこれのどこが選挙の時に叫んだ「国民生活が第一」なのだろう。自民党政権と変わらないばかりか、防衛大綱では武器輸出三原則を緩和して、死の商人の仲間入りをしようとしたり、原発を輸出して世界に死の灰の悪循環を拡げようとしている。さらにPTTなどという新自由主義の権化のようなアメリカの都合だけで作られようとしている条約に加わろうとさえしている。国民のことなどお構いなしだ。菅首相の目には、アメリカと財界のご都合しか見えてこないようだ。アメリカと財界におべっかを使っていれば、自民党も認めてくれるだろうと思っているらしい。そうして、限りなく民主党は自民党と同化してきた。

 でも本当はそうしなくても良いはずなのだ。国民に約束した福祉の充実は、財源がないと言いつのっているが、けっしてないわけではない。今日の朝日新聞に河野洋平前衆議院議長の投稿が載っていたが、彼が言うとおり、防衛費を削れば国民に新たな負担を求めないでも、福祉の充実はできるのだ。しかし、民主党政権のだれも防衛費の縮減に取り組もうとするものが見あたらない。対中国関係や北朝鮮問題を口実に、むしろ防衛費を増やそうとさえしている。防衛大綱の基本であった基盤的防衛計画を捨て去り、動的な防衛を標榜しようとさえしている。動的な防衛というのは、まさにアメリカの海兵隊が担っているような、即戦力であり、殴り込み部隊の創設に繋がるだろう。民主党政権が自民党でもできなかった反憲法的な防衛大綱を作ろうとしている。

 防衛費を削れば高福祉は十分達成できる。しかし、民主党政権は自民党などの野党が強硬に反対するからできないという言い訳をしている。しかし、それはウソだ。やる気がないからに他ならない。防衛大綱に日米同盟の深化、強化という言葉が入るそうだ。まさにこれこそが日本がアメリカの一部隊になって、アジアや中東に派兵することを予見させる。いくら自民党が反対しても、民主党は衆議院では過半数の圧倒的多数を持っており、予算案は参議院で否決されても自然成立できる。関連法案は、国民のためになり、平和のためになる内容であるなら、国民新党と社民党、内容によっては共産党も賛成して、3分の2以上で再議決できる。やろうと思えばできるのだ。

 国民新党との約束であった郵政見直し法案や、社民党との約束であった労働者派遣法の見直し法案など、自民党の新自由主義的政策を見直すことこそ、民主党がやらねばならないことだ。自民党といっしょになって新自由主義政策やアメリカ一辺倒政策を行うのでは、民主党は自民党といっしょにやがて崩壊していくだろう。菅首相よ。めざめよ。国民が何を望んで政権交代させたか、もう一度よく考えてみよ。

 自民党や公明党を納得させるために、小沢一郎を国会政倫審に多数決で呼ぼうなどと言う姑息なことは止めた方がいい。自民党や公明党にすり寄るのではなく、政権交代させた国民の意思に寄り添うことこそ、必要なことである。それができないようなら、菅政権は存在意義はない。

この楽器はなんでしょう?

2010-12-02 | 南の海
タイのプーケットのリゾートホテルで、毎日夕方になるとやってくる来客のために、玄関の一段と高くなったところで、真っ赤な伝統衣装を着た女性が、楽器を演奏する。この楽器の音色が何とも言えず美しい。音楽に造詣のない私には、この楽器が何というものなのかまったく分からない。弦を張った上をスプーンのようなもので軽く叩いて音を出しているが、その音がえもいわれぬ軽やかで心癒される音がする。先日聴いたインドネシアのガムランの音にも似ているが、もう少し高い音のようだ。誰か知っていたら教えて欲しい。やはりこの楽器も、ガムランと同じように高周波の音を出して、熱帯雨林の自然の音を再現しているものではないだろうか。日本では聴かれない。