ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

南の海は平和だ ジュゴンに再会

2014-02-28 | 南の海
ジュゴンをまた見たいと、フィリピンのミンダナオ島を再び訪れた。再びと言っても、もう10回以上は来ている。今回は昨年の2月末以来、ちょうど1年目。昨年と順番を違えて、まずは、東ダバオ州の州都Mati市に行く。ここのプハダ湾でもう一度ジュゴンを見たいと言うのが、今年の願いの一つだった。一日ボートを借り切って、プハダ湾口にある島の周りを重点的に見て回った。湾口には二つの島がある。大きい島と小さい島だ。小さい島に最初行った。島の周りをゆっくりと回り、海草が生えているところ、ジュゴンの食べ跡があるところを探して進む。しかし、どうやらあまり良い場所はなさそうだ。

 今度は大きい島の周りを進む。島の西側から南へ回る。西側には海草の藻場が広がっているが、ジュゴンの食べ跡はあまりない。島の南側に、砂だけでできている島がある。「象牙の島」Ivory islandと呼ばれている。流れによって砂が寄せられて陸地を造ったのだろう。砂が堆積したり流失したりしながら存在している島なのだろう。椰子の木の一本も生えていない。観光客がたまに船を寄せるくらいらしい。2-3人の人影が見えた。大きく回り込んで東側にやってきたとき、目の前にジュゴンが現れた。ジュゴンは何度も見ているが、こんな近くでジュゴンを見たのは初めてだ。続けて2頭、合計3頭が水面に体の前半を現わした。一緒に船に乗っていた地元の保護管も、きゃーわーと大騒ぎ。聞くと、彼女もジュゴンを見たことは初めてだという。地元の人も漁師以外はほとんどジュゴンを見たこともないし、知らない人さえいる。はるばる遠くまで見に来たかいがあったというものだ。

 もっとも写真を撮る暇などはありはしない。ジュゴンは現れたら、すぐに潜ってしまう。しばらく待っていたが、ついにその後は現れなかった。この島の周辺では、4年前にも7頭のジュゴンが群れて次々に湾内に入ってくるところを見たことがある。そのときとほぼ同じところで見たことになる。ここはジュゴンの通り道のようだ。食事をするところでは無いらしい。なぜなら食べ跡のある海草の藻場がこのあたりには見つからないからだ。

 それから湾口の東海岸に寄り、少し北へ行ったところで、ジュゴンの食べ跡をたくさん発見した。プハダ湾でのジュゴンを見る試みは今回もうまくいった。一緒に行ってもジュゴンを見ないままの人もいるけど、私はいつもジュゴンをちゃんと見ることができる。ジュゴンが寄ってくると言われている。そんな気もしないでも無いほど、私は運が良い。


長~いジュゴンの食べ跡を見つけた

比叡山で雪道歩きを思い出す

2014-02-20 | 花と自然
近頃和服で過ごすことが多くなった。仕事も辞め、家で和服でくつろぎ、テレビを見ていると、ついつい体を動かすことを忘れてしまう。これではいけないと、久しぶりに雪の中を歩こうと、真っ白に雪をまとった比叡山に登った。気温は低いが天気は良い。青空が気持ちよい。登り口は、京都側の玄関口である元三大師道だ。比叡山に上る僧が利用する古来からの道だ。「登山口」という名前のバス停から急な階段が続く。比叡山の回峰行者の登り道でもある。

バスから降りたのは二人。もう一人は杖にすがって歩くご老人。ところが登り始めてみると、驚くような健脚だ。すぐに追いつくだろうと後ろからついて行ったが、まったく追いつけない。杖を頼りに歩いているようだが、その健脚さはびっくりだ。休みを取ることもなく、どんどん登っていく。毎日のように登っているのだろうか。むしろ間は広がっていった。運動不足がたたって、自分の方が遅れ気味だ。

ちょうど1時間で、青龍寺に到着。雪が深くなった。先のご老人は、ここで引き返した。どうやら頻繁にここにお参りしているようだ。ここは法然が籠もって修行をつんだところだ。法然の座像が本堂の前に座っている。お寺がきれいに雪を払った階段がまっすぐに続く。 雪も20cmくらいある。夏なら参拝客や観光客が歩いている道なのだろうが、ロープウエイもバスも動いていない今は、歩いて登ってきた人以外は歩いていない。

やがて西塔の釈迦堂に着く。参拝し、法華堂を周り、浄土院を超えて再び元三大師道を途中までたどり、八瀬に降りた。比叡山は、雪があるときもないときも、生き物のおもしろさはほとんどないが、歴史を思わせる古刹や神社などは至る所にある。京都周辺の山に登る楽しみは、そこに見いだすしかない。

久しぶりに雪の中を一人歩いた。北海道の雪道を思い出す。東京や関西の人間はこの程度でも大雪と喜んだり苦労したりするが、雪国の人たちは、これが当たり前の生活なのだということを、あらためて思った。

戦後の平和は誰が守ってきたか

2014-02-11 | 政治
都知事選挙でタモガミが60万票を超える得票を得た。ネトウヨやヘイトスピーチをする輩が一定以上いることが明らかになった選挙だった。おそらく、細川の脱原発や桝添の原発ごまかしなどのことよりも、このネオナチの進出こそ歴史的な出来事なのではないか。怖ろしい時代がやってきた。タモガミが泡沫候補にならなかったもっとも大きい要因は、時の首相の主張とこのタモガミ泡沫の主張がほとんど同じであることに見られるように、都民、とくに若者が政府の言うことに何の疑問も感じない人たちになってしまったことだ。

20代では、タモガミに投票した人が24%にもなるという。4人に一人が、ネオナチを支持したということになる。「戦争こそ希望」と閉塞感に閉じこもった若い哲学者が譬喩したけれど、若者には、「戦争こそ希望」がそのまま信じられてしまったのかもしれない。それほど若者の知識は貧困で、人格は低劣で、レベルの低下は目を覆うほどだ。戦後の若者は、これまで体を張って戦争への道を阻んできた。全共闘運動や新左翼の運動を誹謗する奴は多いが、彼らの献身的な(まさに自らの立身出世を拒否した)運動によってこれまで日本国憲法が守られてきたし、戦争への準備も遅らせてきた。戦後70年近く、一人の人間も戦争で殺さず、殺されもしなかったのは、これら戦後の平和を守る若者の戦いがあったからではないか。それを平和な時代に生まれ、自分たちの祖父・曾祖父の世代が虐げ、殺してきたアジアの人々を蔑視し、敵視する今の若者たちは、自分が戦争に行って死ぬ覚悟があるのだろうか。その覚悟がなくて、戦争準備を進める安部晋三らの政策に大事な一票を捧げるな。

戦争に反対しよう。平和に生きる権利を訴えよう。戦争を起こしたがる勢力から日本を取り戻そう。占拠に行こう。選挙に行こう。