ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

懐かしい湘南の海

2012-07-26 | 日記風
ほんとに久しぶりに湘南の海に、知人夫婦を訪ねていった。お二人も最近、引っ越してきたばかりだ。海からそう遠くない山際に新しい家を建てていた。引っ越して間が無いので、まだまだ荷物がそのままになっていたりするのだが、それでも広々とした家の間取りで、ゆっくりと湘南の海の匂いを嗅ぎながら、よもやま話に時間を忘れた。

 昔、この近くに私も住んでいたことが有り、鎌倉から逗子あたりの海岸はよく歩いたところだ。私が歩いた昔と比べて、潮の匂いが希薄になったような気がするのは、気のせいだろうか。海岸の道路脇に立ち並ぶ建物も、もう見たことないものばかりだ。そういえば、私が歩いたのはもう20年以上も前のことになる。

 懐かしく思い出すのは、二人の子供といっしょに鎌倉の海に遊びに来て、帰りに鎌倉駅まで歩くとき、交差点に来るたびに3人でじゃんけんをして、買った人の方向へ曲がるという遊びをした。交差点へ来るたびにじゃんけんをする。行ったり来たり、右に曲がったり左へ行ったり、いつになったら駅に着くのか、とうとう夕陽が親子の顔を真っ赤に照らすようになり、山際に沈み、あたりが薄暗くなっても、まだ私たちのゲームは終わりが見えない。駅に近づいたと思えば、いつのまにか海の方へ遠ざかる。ついに下の娘は疲れて私の背中からじゃんけんをするようになった。あんな楽しい親子の遊びは、今ではもうできなくなった。人々も忙しくなったし、町も変わってしまった。

 今でもこの湘南の道路は週末には渋滞するらしいが、出没する湘南ボーイと湘南ガールのけばけばしさも変わっていない。砂浜の風情は好きだけど、この人たちが群れ集っているところは、決して近づかないようにしている。それでも、湘南となれば、この方々のうちの人と思える人があちこちに出没して、うるさい音楽をかけて、周囲を辟易させている。

 こんな若者とは似ても似つかないような若者たちといっしょに、浜辺を歩いた。彼らはまだ二十歳前後だ。海を見たことがないものはいなかったが、海へ来たことが無い若者もいた。他の若者も海は縁遠い存在のようだ。かといって、山へ出かけているわけでは無い。今の若者はどこへ行くのだろう。どこへも行かないで、部屋の中でゲームをしたり、スマホとかいうものをいじっているうちに一日が過ぎていくのだろうか。哀しい人生だね。海辺で茶髪頭を振りかざして、踊っている若者とどちらの若者が、本当に生きていると言えるんだろうか。

 湘南の海と知人夫婦とのおしゃべりを楽しんで、京都へ帰ってきたら、蒸し風呂のような京都が待っていた。今日も昨日も、35度を超える猛暑日だ。今年は暑さが厳しいとの長期予報がでた。10月になると秋が来るという、誰でも分かりそうな長期予報だった。いつまでこの暑さに我慢すれば良いのだろうか。今日一日をなんとか過ごすことだけが、毎日の最大の仕事になりつつある。そして、関西電力は電気があまったにもかかわらず、また高浜原発の再稼働を狙っている。他人の命より自分の金が大事。彼らの非人間的な論理はいつまでも続く。

ウソにウソを重ねる原子力ムラ

2012-07-11 | 政治
首相官邸前に大飯原発再稼働反対を訴える人の数は、6月末の金曜日に、60年安保闘争で国会を包囲した13万人を超えて、20万人に達した。そして、先週の金曜日には雨が降りしきる中でも15万人が集まった。警察発表は1万8千人と2万1千人だという報道があった。相変わらず警察は大幅な過小評価をしているなと思っていた。でも、本当に治安を第一に考えるなら、正しい評価をしないと、警備に支障がでるのではないかと長い間、疑問におもっていた。ところが、なんとなんと。警察は人数についての公式発表はしていないというのだ。では、マスコミが発表した警察発表とはいったい何だったのか。

 どうやら、これはマスゴミが勝手にねつ造した数字らしい。それを勝手に警察発表として報道していたらしい。いったい、彼らはどうしてこのようないいかげんな数字をねつ造したのだろうか。読売、サンケイなどというおよそ新聞とはいえないマスゴミは、官邸前の報道さえしない。報道している朝日や毎日やテレビ各局などは、ウソの警察発表を垂れ流していたのだ。驚くほかはない。

 いったいマスゴミは、なぜそんなことをするのだろうか?官邸前デモが4万5千人に膨れあがったときでさえ、どの新聞もテレビも報道をしなかった。市民の抗議に、唯一真摯に対応したのは東京新聞だけだった。東京新聞は、デモの取材をしなかったことを反省し、紙面で謝罪した。そして、その後は精力的に取材を行い報道している。ウソの警察発表も載せていない。 

 思うに、警察は公式発表はしないで、記者クラブなどでそっと情報をリークしているのではないだろうか。「今日の参加者は○万人」とか言って。公式発表するとその事実との乖離を追求されたときに困るけれど、マスゴミに警察はこの程度とみているとそっと耳打ちすると、マスゴミは喜んでそれを記事にする。しかし、警察は責任を問われない。責任をうやむやにするのが、この日本の体質でもあるから、いつのまにかその数字が一人歩きを始める。

 最近驚いたもう一つのウソは、関西電力大飯原発の再稼働の理由だった。暑い夏が来ると電力が足りなくなるからというのが、再稼働をお願いした関西電力の言い分だった。そして、それをそのままノダ首相は、再稼働容認の理由にした。「国民の安全を守るため」原発の再稼働が必要とのたまわった。そして、大飯原発を稼働しなければ、今年の夏は15%以上の電力が不足し、計画停電をやらねばならないかも知れないと、市民を脅している。大飯原発の再稼働をすると、15%不足のところが、10%の節電要請ですむというのも、マスゴミが大々的に伝えてきたことだった。

 ところが、大飯原発が再稼働し始め、フル稼働になったとたん、関西電力は次々と火力発電所を止め始めた。大飯原発のフル稼働で得られる電力は、118万キロワットだという。ところが、8基の火力発電所を停止するという。その8基の火力発電所の発電量は、300万キロワットだそうだ。これ、どういうこと? これまで火力発電で賄っていた電力でも15%足りないと言っていたのに、原発再稼働すると、火力発電よりも3分の1くらいの電力しか作れない。それなのに、なぜ節電要請が10%に減るの?

 関西電力と政府は、明らかにウソを言って大飯原発を稼働させた。原発を稼働したかったのは、「国民の安全」などありえない。関西電力の経営が赤字に転落するのを防ぐこと、これ以外に大飯原発再稼働の理由はまったく見えてこない。こんなウソがどうして許されるのか? 原発は嫌だけど、停電になったら困るから、再稼働も仕方ないなどと、物わかりの良い風を装っている人たち、自分たちが騙されていたと言うことを、もっと自覚して欲しい。

 ノダ首相はいますぐ辞職をして欲しい。国民を舐めるのもいい加減にしろ! 関西電力の電気代値上げは、許されない。毎週金曜日に官邸前に集まる人の声が聞こえないのか。今週は私も官邸前に行くぞ。
 

愛は世界を救わない

2012-07-04 | 日記風
近くにある有名なお寺に、気軽に散歩に行った。ちょうど、このお寺の住職が法話を話すときだったので、気軽に聞きに行った。このお坊さんは、まだ若いが、かなり有名な人のようで、いろんな人から噂を聞いてはいたが、会うのは(見るのは)初めてだった。

 最初はちょっと聞いて途中で出ようと思っていたが、話を聞いている人が10人くらいと少なかったことも有り、途中で出るのも勇気がいる。観光客と思われる若い女の子の二人連れは、途中でさっさと出て行ったが。でも、法話の内容が面白くて、為になるので、最後まで話を聞いた。終わっても去りがたくなり、しばらくお坊さんと話をした。

 この法話の中では、仏教における宗派の違いについての話があった。キリスト教などでは、カソリックとプロテスタント、その他いろいろな宗派があり、それらの間には決して超えられない確執や憎しみがあると、聞き及んでいた。しかし、仏教の宗派にはどうもそういう気配が薄い。いったい仏教の宗派とはなんだろうと、常日頃から不思議に思っていた。浄土宗と浄土真宗、天台宗。最澄、空海、法然らの間にはどのような確執や憎しみがあったのだろうか。その疑問が彼の法話ですっかり解けた。日蓮は少し違うが、最澄、空海、法然らの教えには、根本的な違いは無い。他力本願は、仏の情けにすがって浄土へ行こうという庶民の願いが反映されている。本願成仏も、自分の努力と勉強で、浄土へいけるというもの。どちらも阿弥陀浄土へ行くことの願いを説いたもので、そのちがいはほとんど無い。多少のお経の解釈の違いがあるだけである。だから、日本では、葬式や法要などでは、違う宗派のお坊さんがきてお経を上げていくことも、普通のことなのだ。キリスト教との違いは、はっきりした。

 宗派のことも面白かったが、もっとも印象に残ったのは、「愛は世界を救わない」というお説教だった。「愛が世界を救う」「愛さえあれば」「愛こそ平和」などという言い方を良く聞いている私には、「愛は世界を救わない」という言葉は一瞬、耳を疑った。でも、お坊さんの説教は、すぐに理解できた。「愛は我欲である」「欲は、愛を要求する」「自己愛、夫婦愛、家族愛、故郷への愛は、日本への愛、愛国心へとつながっていく」「これは平和では無く戦争につながる」「仏は愛を説かない」「仏は我欲を排する」「仏の望むのは無我」と法話は私の理解を導いていった。仏教の説くのは、『愛』では無く『無我』であることを教えてもらった。キリスト教が愛を説いているのとは、あきらかに異なる。愛は欲につながる。これは、今日の私にとって極めて大きな収穫だった。散歩はしてみるものだ。京都はそんなことが散歩の効用にある。