ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

京都北山でのんびり

2011-10-31 | 花と自然
季候も良くなり、予定の無い休みの日には山歩きをしよう。今週は、秋晴れの一日、京都の北山、雲取山に登った。雲取山というと奥多摩のそれが東京都内で2000mを超える山として有名だが、こちらの雲取山は、わずかに911m。京都府には1000mを越える山がないので、これでも高い方になる。

 京都市の出町柳駅からバスで1時間20分ほど走り、9時過ぎに花脊高原に着く。ここから比較的緩やかな登りで廃止になったスキー場の横を通り、寺山峠まで一気に登る。ここから一度、一ノ谷に下り、再び登りになる。雲取峠まで登ると、あとはのんびりした登り道になり、10時40分頃には頂上に到着した。このままコースタイムで下ると、元の登山口には12時半に到着してしまう。でも帰りのバスは午後3時と7時の2便しかない。そこで、ゆっくり時間を潰して帰ろうと思ったが、頂上で落ち葉の中に横になって飛び上がった。落ち葉の中一面に栗のイガが敷き詰められている。とてもこんなところに横になれない。

 しかたなく、休む間もなく下りにかかる。帰りはニノ谷経由で帰る。三ノ谷経由の道もあるが、ニノ谷の途中には立命館大学の山小屋があるので、それを見て帰りたいと思い、ニノ谷を選んだ。時間はゆっくりあるので、ニノ谷の徒渉を楽しみながら歩く。夏の暑い日なら、この谷を歩くのはきっと気持ちが良いだろうなと思う。来年の真夏に沢を登るつもりでここに来てみよう。

 花脊高原に帰り着いたのは、それでも1時過ぎだった。3時までまだまだ時間がある。一つ先のバス停まで歩こうと歩いていると、途中に喫茶店があったので、入ってコーヒーを飲む。ゆっくり新聞を読み、2時になったので出発。次のバス停でもまだ時間が余る。もう一つ歩こうと次のバス停に向けて歩く。ありがたいことに、この路線では、町を外れると自由乗降区間になるので、途中でバスがくれば、手を上げて乗せてもらえる。だから、安心して次のバス停まで歩くことができる。

 10日ほど前から、万歩計をもらって使っている。平日なら、だいたい2万~3万歩くらい歩いている。昼休みに1万歩くらいは散歩で歩く。意外と椅子から立ったり座ったりするのも馬鹿にならない。残りの1万歩くらいは通勤とそのような動きでカウントされている。でも3万歩になることはなかった。山歩きなら、十分3万歩は超えるだろうと楽しみにして今日の山を歩いた。帰り道で確認してびっくりした。わずかに1万歩くらいしか歩いていないことになっている。万歩計が壊れたのかと思っていろいろ試してみた。すると、柔らかい土の道や落ち葉の道などを歩くと、万歩計のカウントは5-6歩に1歩くらいしかカウントされない。どうやらこの万歩計は舗装道路に革靴で歩かないと正確な歩数を計算してくれないらしい。この計算で行くと、今日は5-6万歩は歩いているはずだが、残念ながら記録には残らなかった。山歩きには別の万歩計が必要なのかもしれない。

沖縄は嘆きの島

2011-10-26 | 南の海
暑い暑いと言っていた日が昨日のように思われるが、急激に冬に向かって気候は変化している。今朝は寒さに震えた。

 沖縄に出かけてきた。病に倒れてふさぎ込んでしまった友人を見舞いに行った。もはや移植手術以外に道はないと言われて、苦しみに耐えながら、ただひたすら移植の順番を待つだけの毎日を過ごしている。見舞いの言葉も探せなかったが、われわれの見舞いを心から喜んでくれた。体調も良くなりそうだと言う。そうだ。その調子。病気などに負けてはいけない。がんばれ。かわいい娘さんは、母親の病をどう受け止めているだろうか。もういろんなことが分かり始めている年になった。娘さんのためにも頑張って欲しい。

 病の友人宅ばかりにいるわけもいかず、せっかくの沖縄だから、海へ出かけた。京都は土砂降りの雨だと聞くが、こちらは澄み切った青空が続く。もっとも先週までは沖縄は台風並みの雨風だったらしいから、やはり晴れ男の私のせいだ。南国の日差しは夏そのもの。暑いが、日陰で海風に肌をなぶらせると、懐かしい南国の心地よさが、沈んだ心も癒やしてくれる。本部半島まで車を走らせ、観光客が押し寄せている美ら海水族館を横目で見ながら、備瀬の浜辺に腰を落ち着けた。沖縄の都会と違って、このあたりの民家は、昔ながらの赤瓦の屋根を持ち、家の周りは福木(ふくぎ)を密に植えて、立派な屋敷林ができている。民家の路地を
通ると福木の並木が連なり、空が見えないほどだ。森林浴を毎日家の中でできる。すばらしい環境ではないだろうか。こんな家をやめて、都会の新建材やコンクリートの家に住もうという人たちの気持ちは分からない。コンビニがないことなど、なんのつらさでもないと思うのは、コンビニがあるところで住んでいる人間の考えることだろうか。そうではないように思う。

 帰りに辺野古に寄った。辺野古への米軍ヘリ基地建設反対の座り込みがもう2000日以上も続けられている。有名なテント村ともう一つの基地建設反対の小屋があった。行ってみるまでよく知らなかったが、辺野古の港の前には、二つの座り込みが行われていたのだ。もう一つは、地元のおじいとおばあを中心とした「命を守る会」の人たちが行っている。「命を守る会」の代表の人と話をした。この会は、全国からの100を超える多数の団体が行っているテント村の座り込みとは異なり、地元の住民だけで行っている行動だった。全国からの支援はありがたく受けるが、あくまで地元住民だけで反対運動をしたいという人々の集まりだった。30人以上いた当初の会員も、老人中心の故に、いまでは半数近くになったという。それでもこれから起こる民主党政権による日米合意(辺野古新基地建設)の実行に、ただ淡々と反対の意志を示すだけだと覚悟を語ってくれた。テント村の行動も「命を守る会」の行動も、ただアメリカ一辺倒の自民党、公明党、民主党の政治家たちへ、強い私たち国民の気持ちを代弁していると思っている。おじいやおばあの健康を祈りながら、いとまごいをしてきた。

 那覇空港で帰りの切符を買ったあと、時間つぶしに、もっとも近くの自然海岸に出かけた。空港の近くは米軍基地と人工ビーチばかりだ。唯一残されたこの浜は、ながらく米軍基地だったため人間の立ち入りが禁止されていた浜だとか。でも今は自由に来ることができる。浜辺で線香を並べて功徳を説いていたおじさんの話によると、立ち入り禁止が解かれたとたん、多くの人がこの海岸にやってきて、貝やウニやナマコをとったため、「あっという間に何もいなくなったさあ」。潮の引いた海岸を1時間ほども歩いてみたが、たしかに何もいない。珊瑚のかけらや貝殻に厚く積もった泥が見えるだけだ。どうやら人間が獲ってしまっただけが
原因では無さそうだ。周りの土木工事の影響は大きいのだろう。陸は海岸沿いの道を除いて、いまだ軍事基地に占領されている。米軍から自衛隊に代わっただけで。

西欧白人国家のたそがれ

2011-10-21 | 政治
リビアのカダフィ大佐が殺された。マスコミはリビアが解放されたと大騒ぎしている。広場に集まって喜んでいるリビアの国民のインタビューを報道して、カダフィ独裁の終焉を喜ぶ記事をあふれさせている。しかし、リビア国民は本当に喜んでいるのだろうか。もちろん喜んでいるものもいるだろうが、喜んでいない人々は町に出てきたりはしないし、マスコミも絶対取り上げないだろう。

 カダフィ大佐の独裁をどう評価するかは、もっと将来にならないと難しいだろう。でも、私が今おかしいと思っているのは、このリビア政府の転覆劇があきらかにフランスやアメリカなどの白人国家によって行われたということである。カダフィの弾圧政策や独裁が国民にとって良くないものだったかどうかは別にしても、フランスやアメリカに他国の政権を武力で転覆させる正当な理由など無いことははっきりしている。でも、どのマスコミもそのことを批判しているものはない。なぜだろうか。イラクでも、アフガンでも同じように、アメリカが軍事力を持って政府を転覆させ、自分たちの傀儡政権を成立させた。リビアでも同じような傀儡政権ができるだろう。それは、リビアの石油などの資源の利権を欧米の資本が、自分らの思うままに利用したいという欲望を、フランスやアメリカ政府が荷担したと言うだけのことだ。チュニジアやエジプトのアラブの春と言われる民衆運動とはあきらかに異なる。しかし、これもマスコミはいっさい思考抜きで、リビアも第3のアラブの春などとかき立てている。マスコミや記者の劣化は、ここまで進んでいる。

 アメリカやフランスによる軍事力による世界の支配は、カダフィ大佐の独裁よりももっともっと恐ろしい。白人の西洋国家にまつろわぬ国々は、いつでもこれらの軍隊がやってくることを怖れなければいけない。これが民主主義を広めたいと言っている国のすることだろうか。

 ギリシャの国家破産が現実のものになりつつある。しかし、それでも国を救うため、EUを救うため、国際金融資本を救うために、ギリシャ国民が増税や社会保障の減少、年金の大幅減や、失業・貧困の増大に耐えねばならないのだろうか。そうではない。ギリシャに打つ手がないのではない。国際金融資本に翻弄される新自由主義の根を断ち、1%の富裕層を認めない社会主義への道を選べば、ギリシャ国民が生き延びる道はある。EUのユーロ圏からまず脱出することだ。

 アメリカを首魁とする白人西欧帝国主義にそろそろ陰りが見え始めた。イラク、アフガン、リビア、イランなどなど、軍事費がアメリカやEUの経済を圧迫してきた。日本も、そろそろ目覚めるべきではないか。TPPは、アメリカが陰りゆく自らの経済を他国の犠牲で復活させようという企みでしかない。参加しないと損をするというのは、新自由主義者の言葉でしかない。アメリカのくびきから脱却しよう。TPPなどに関わってはならない。参加しないと損をするというのは、経済界の一部の人間だけだ。1%の人間だけ。99%は、TPP反対。新自由主義反対だ。

太神山600mと矢筈岳562m

2011-10-08 | 花と自然
しばらくぶりに歩いた先週の山歩き(天王山)は、わずか2時間半歩いただけなのに、足の一部が筋肉痛になった。それほど長い間山に行けなかったということだ。これではいけないと、一週間後の今日も、低山歩きをした。冬のシーズンに向けて、少しは歩くことを続けなければ、このまま歩けなくなりそうだったからだ。昼休みに近くの吉田山に毎日のように登っているのだが、吉田山はわずか標高105m。急がなくても10分で頂上に立てる。このくらいでは、どうやら2時間半で筋肉痛になってしまうらしい。

 今日は滋賀県の湖南アルプスとよばれる山に登った。太神(たなかみ)山、600m。田上不動寺という天台宗の宗門の寺が頂上にある信仰の山だ。湖南アルプスという名前は観光用に付けた名前だろうが、それなりの景観が期待できそうな気がして、登ってみようと思った。JRの駅からバスで登山口へ。そこから長い舗装道路を天神川沿いに歩いた。どうやら車で河原にバーベキューやお弁当を楽しむ人々のための舗装道路らしい。途中、迎不動にお参りして、さらに舗装道路を歩く。しばらくして登山口があるはずなのに、見落としてしまい、余計な舗装道路歩きを30分も余計にしてしまった。

 登山口から歩き始め、ざれた花崗岩砂の坂を登る。少々疲れてきた頃、自然石に彫り込んだ泣き不動が現れ、ここで一息。さらに登ると不動寺の山門がある。ここからは急な石の階段が頂上まで延々と続く。そろそろ嫌になるころ、田上不動寺に到着。室町時代前期に建てられたという本堂は巨大な自然石に寄り掛かるように作られた茅葺きのお寺だ。そこで線香に火を付けてお参りしたあと、頂上までは一足だ。何も見えない。この山は湖南アルプスの名前にも拘わらず、景観はほとんど無い。登る途中1ヶ所だけ、遠くの景色が見えるところがあり、そこから向こうの山の斜面に岩がごつごつと突き出ているのが見える。これがアルプスという名前を付けたゆえんの景観なのだろう。しかし、今はその岩たちがすべて金網がかかってほとんど岩と見えない。崖崩れを防止するための安全策なのだろうが、景観は台無しだ。

 10月ということもあって、この山のほとんどが立入禁止になっている。というのは、ここは松茸の生産地なのだ。そのために、登山道を外れることも許されない。この時期のこの山は、本当に見るものがない。花も、田上不動寺の大岩の脇に一輪咲いていたママコナを除けば、まったくない。キノコは、エノキダケがたくさんあったし、よく見るといろいろなキノコがあるようだ。ただ一つ、今日の収穫は、目にも鮮やかな青銅色の羽を輝かせながらあちこちで飛び交うルリセンチコガネ。太陽から生まれると言われるエジプトのスカラベと同じ仲間で哺乳類の糞を食べる甲虫の仲間だ。しかし、スカラベよりもずっと美しい。羽は瑠璃色から青銅色。好天気の日に映えて、きらきらと光りながら飛んでいくルリセンチコガネの美しさに、歩を止めてしばしうっとりしていた。残念ながら、今日はカメラを持ってくるのを忘れてしまった。ぼけが始まったかなあ。

 太神山から、矢筈岳に登り返して、別の道を歩いて帰ろうと思っていたが、矢筈岳の手前の出合峠から下る道は、松茸の時期に限り通行止めになっていた。私有地を通る登山路なのだろうが、ガイドブック通りに歩こうと思っていた身には、辛い。しかたなく、もと来た道をまた歩いて戻り、長い舗装道路も再び歩くことになってしまった。今日の歩行時間は、道に迷った時間も含めて5時間。どうやら膝も痛くならずに5時間歩けたようだ。明日は、足をいたわりに、温泉にでも行こうか。 

正体見たり のだいこ政権

2011-10-07 | 政治
党内融和を旨とし、慎重に滑り出したはずののだ内閣だが、化けの皮がそろそろはがれてきたようだ。鳴り物入りで行った民主党の仕分け作業で、凍結となった朝霞公務員宿舎建設事業が、いつのまにかこっそりと再開されていた。東北復興で国民に負担を増やす増税案が取りざたされているときに、整理すべきとされた首都圏の公務員宿舎を、凍結解除すると決めたのは、当時財務相だったのだ首相自身だった。関東の公務員宿舎全体を考えて、この朝霞の宿舎建設を行うかどうかを再考するというのが、凍結の理由だった。凍結解除したと言うことは、この関東の公務員宿舎全体について検討し廃止するところはどこか、建設し統合するところはどこかをきちんと検討して結論が出たから、凍結を解除したとばかりに思っていた。ところがどっこい、そうではなかったようだ。

 国民からの批判が増えたことから、のだ首相は部下の一団をおおぜい引き連れて朝霞の工事現場を見に行くというパーフォーマンスを行った上、再び「5年間凍結」して、公務員宿舎全体を再検討するという結論を出した。これはいったいどういうことだろうか。再検討して凍結解除をしたのではなかったと白状したのだ。「5年間凍結」というのは、5年もすればみんな忘れてくれるだろうという、財務省官僚の作った詐術でしかない。官僚のいいなり「のだいこ」の面目躍如というしかない。

 脱原発依存とはっきり言った所信表明から一ヶ月もしないうちに、国連総会で原発を「最高の安全なものにする」といい、脱原発は一言も言わなかった。さらに原発輸出に積極的な姿勢を示し、休止中の原発の再稼働を積極的に行うことも明言した。これはいったいどういうことだろう。もともと原発推進だったのだ首相だから、後から言ったことが本音に近いのかもしれないが、わずか一ヶ月もたたないうちに前言を翻し、ぶれまくりの姿勢では、国際的な信用はなくなってしまう。支持率も下がっているはずだ。こんなのだ首相の姿勢では、せっかく戻り始めた民主党への支持も、またまた元の木阿弥になる。

 いまや国民の7-8割が脱原発を指向している。経団連などの原発で甘い汁を吸ってきて、自分は放射能の被害を受けないところに住んでいる資本家どもとマスメディアは、いまだに原発の夢から覚められないらしいが、チェルノブイリを上まわり、残留放射能では広島原爆さえも上まわるこれだけの放射能被害を受けながら、いまだに目が覚めないこれら原子力ムラの住民たちの言うことなど、妄言でしかない。政治家はいまこそはっきりと原子力に頼らない文明を選択しなければならない。それが今を生きる政治家の使命だ。

 今日、東電の福島第一原発で働いていた原発作業員が死んだ。3人目の犠牲者だ。東京電力はあらゆる被害を補償する義務がある。国民の増税も、東電への貸しでしかない。将来は東電が国民に増税分を支払わなければならない。福島あたりではがれきの処理ができない地域が多い。東京でさえ、下水処理の汚泥が高濃度に汚染されている。汚泥の処理ができないで困っている自治体が増えている。これらのがれきや廃棄物は、すべて東電が引き受けるべきだろう。東電の敷地へ持って行こう。東電本社の敷地内で下水処理汚泥を貯蔵すべきだ。置くところがなくなったら、東電のもつすべての原発敷地にがれきと廃棄物を持って行こう。東電はそれを何十年かけても抱えて生きていけ。国民の税金で処理してもらうと考えてはいけない。東電がつぶれて経済が下降しても、日本はそれを甘受しなければいけない。原発を作った国の、それが運命なのだから。

天下分け目の「天王山」

2011-10-03 | 花と自然
「天下分け目の決戦」とくれば、豊臣秀吉と徳川家康が天下の覇を競った「関ヶ原の戦い」だが、もう一つ「天下分け目の決戦」が、「天王山」であった。これは織田信長に反旗を翻し本能寺に信長を闇討ちした明智光秀と、急を聞いて毛利と休戦し、岡山から引き返した羽柴秀吉が京都の南「天王山」の麓の淀川河原で対決した合戦である。京都の東山を歩くのに少々飽きたので、南にある山を探していたら、ガイドブックに天王山の名前があった。歩く距離も少なく、長い間歩いていない体には、ちょうど良いだろうとあまりガイドブックも読まずに「天王山」へ向かった。

 二日前から風邪を引いて、体がだるい。咳も続くし、鼻水もでる。体調は悪い。しかし、このままでは精神的に持たないような気がして、少々熱っぽい体をおして「天王山」に登ることにした。そこを選んだ理由は、まず比較的楽に登れるようだったこと。そして、駅からすぐに登り出せること。なにしろ車がないと行けない山がガイドブックにはいっぱいある。バスを利用すると、一時間に一本というのは、まだかなり良い方。ひどいのは一日一本しかないようなバスも少なくない。車を捨てた私にとって、バスの不便さはつくづく困る。駅から歩けるというのは、なによりうれしい。

 歩き始めて初めて、「天王山」の故事を知った。光秀が秀吉軍に負かされて、落ちる途中で土民の竹槍に傷つき、自刃して果てたというのは知っていたが、その闘いがここで、だから天下分け目の天王山と言われているのは、今日初めて知ったのだ。お恥ずかしいことに。いきなり急な舗装路の坂道を登ると、宝積寺に入る。みごとな三重の塔がある。そこから山道になるが、登りはゆるやかで、途中の見晴台から京都の町並みを眺め、看板に書かれている秀吉軍の行動と光秀との闘いの記述を読み、ぼちぼち歩いている内にいつのまにか天王山の頂上についた。見ると、頂上の標識に、標高270mとある。えっ、こんなに低い山だったのか。ガイドブックをよく見てこなかったので、びっくり。これなら家の近くの大文字山の方がよっぽど高いや、とちょっとがっかり。でも、山、高きが故に尊からず、と思い直して、縦走路をもう少し歩くことにした。ここまで駅から45分で着いてしまった。縦走路も上り下りがほとんど無い散歩道。低い山だけに、杉や桧の人工林も多いが、縦走路は天然林も多い。もっともほとんどが常緑樹なので、明るさはない。この山には、花がまったく咲いていない。常緑広葉樹や人工林の下には、目を楽しませるような花はないのが、つらい。涼しくなったので、歩けるが、夏の暑いときならこんなところは歩けるものではないだろう。

 縦走路からはずれて、十方山へ向かう。樹林に隠れて頂上があった。良く注意しなければ分からないような頂上だ。そこから再び縦走路に帰り、北に向かう。舗装道路に出て、西に向かうと西国巡礼十七番の柳谷寺がある。ここで、弘法大師が発見したという泉の水で目を洗う。この泉は弘法大師が母猿が子猿の目を洗っていたのをみて、目の病に効くことを発見したという言い伝えがある。白内障が始まった私の右目を洗って、帰り道についた。目は良くなるだろうか。


人気ブログランキングへ