ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

山尾三省を知っていますか?

2007-08-28 | 日記風
詩人の山尾三省という人をご存じだろうか。東京から屋久島へ移住し、農耕と詩作の日々を過ごし、2001年8月28日、屋久島にてガンのために亡くなった。実は私もこの人のことは最近まで知らなかった。彼の略歴を以下に引用しておこう。

山尾三省、1938年東京生まれ。早稲田大学西洋哲学科を中退し、1960年代の後半にサカキ・ナナオや長沢哲夫らとともに、社会変革を志すコミューン活動「部族」をはじめる。1977年、屋久島の廃村に一家で移住。約20年間、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動の日々をここで送った。旧友のゲーリー・スナイダーのテーマ、バイオリージョナリズム(生命地域主義)が、自分が20年来考え続けてきた「地球即地域、地域即地球」というコンセプトと同じであることに気づいたという。

屋久島の山尾三省の住処を訪ねた人から教えられた彼の遺書を読んで感動した。私も同じ事を考えていたからであるが、彼は亡くなる一ヶ月前、MORGENという雑誌にエッセイ「子供たちへの遺言」と題して以下のような文章を書いている。

 「・・・・ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらない限りは、二・三ヶ月の内に確実にこの世を去っていくことになっているからです」と書き出して、三つの遺言を残した。

 その第一は、彼が生まれ育った東京の神田川の水をもう一度飲める水に再生したいという。そうすることによって「劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかむ」。

 第二の遺言は「とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外して欲しい」という。なぜなら「人間の手に負える発電装置ですべての電力をまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、僕は考える」からだと述べる。

 遺言の第三は、無宗教でありながら仏教を基盤とした彼独自の信仰を文章にして「南無浄瑠璃光・われら人の内なる薬師如来。われらの日本国憲法の第九条をして、世界のすべての国々の憲法に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさし給え」と書いた。

 そして「ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻や子供を愛することなのですから、その願いは、どこまでも深く彼女たち、彼らに伝えられずにはおれないのです。つまり、自分の本当の願いを伝えると言うことは、自分は本当にあなたたちを愛しているよと伝えることでもあります。」その一ヶ月後、彼は半生を生きた屋久島で息を引き取った。

 私は、果たして愛する人たちに何を伝えたろうか? 自分の願いを伝えることができたろうか?


今日は6年ぶりの皆既月食だとか。北海道ではよく晴れて見えているようだが、関東は厚い雲に覆われて見ることができなかった。テレビの画面を通して釧路の月を眺めた。
 

瀬戸内海に原発はいらない

2007-08-27 | 環境
今では瀬戸内海の生き物を見ることができる最後の砦となった周防灘。そこから北に突きあったったところに、上関町長島がある。ここに中国電力が原子力発電所を計画してから早くも20年以上たった。今の瀬戸内海しか知らない人には、とても瀬戸内海とは思えない透き通った水、さまざまな種類の魚や小動物が見られる小さな入江。ここにはカサシャミセンという潮間帯のタイドプールに住む非常に変わった生き物が住む。また、カクメイ科の貝類が島ごとに異なった種類が住んでいるという。まるでガラパゴス諸島のそれぞれの島にフィンチが種を異なって住んでいるように。研究者はこの海域を瀬戸内海のガラパゴスと呼んでいる。

 その他にも珍しい種類がいっぱいこの小さな入り江から見つかっている。瀬戸内海の原風景とか、究極の楽園とか、称されているこの島の自然をなんとか守っていきたい。すぐ向かいにある祝島の島民ほとんどがこの原発建設に反対している。しかし、漁業権訴訟も入会権訴訟も一審ではすべて住民勝訴だったのが、広島高裁で不当な逆転判決が出てしまった。裁判長は判決を言い渡したあと、被告の中国電力に向かって「これでよろしいですね」と念を押したという。企業のいいなりになる司法の姿勢を示したと言える。どちらの訴訟も上告して最高裁で争われている。

 今週、この長島に出かけた。原子炉本体の設置許可を得るための詳細調査というボーリング調査が建設予定の田ノ浦湾で行われている。小さな入江の砂浜に巨大なボーリング台が10台、林立している(写真参照)。あの静かな生き物の宝庫だった田ノ浦がもうこんな姿になってしまった。ボーリング台の周りで泳ごうとすると、警備員が警告を発する。ボーリング台に近寄るな、あっちへ行け、と。海に来て泳ぐのに誰の指図も受けない。海は誰のものでもない。みんなのもの。私有化して危険な原発を建てさせたくない。

 原発を建てさせない人たちの「つどいの家」では、集まった30人くらいが真剣に長島の自然観察やその変貌について議論したり報告し合っている。年寄りから若い中学生まで人々の真剣な意見が続く。部屋の壁には「子や孫のために 長島に原発を作らせない」というポスターが貼られている。

 原子炉設置許可が下りたら、いよいよ原発の建設が始まる可能性が高い。あらゆる手だてを講じて原発を作らせない戦いをしなければならない。建設差し止めの訴訟について、弁護士を中心に真剣な話し合いが続いた。建設差し止めの訴訟は、本丸の訴訟になる。大弁護団を構成する必要もあり、困難が立ちはだかる。しかし、いよいよここまで来たら、それしかないのではないかという気持ちはみんな共通だ。準備をしなければならない。
  

原発の規制緩和に驚く

2007-08-24 | 環境
政府の経済産業省は、原発の定期点検を現在の13ヶ月おきから2年おきに規制を弛める方向で検討を始めたという。今なぜ規制緩和なのか? 昔から電力業界には定期点検をもっと減らす方向で規制緩和して欲しいという要求があったようだ。トラブル続きで稼働率が非常に低い原発の稼働率をもっと上げるためというのがその理由だ。もっとも、表向きの理由は2年間くらい定期点検しなくっても安全だというのだ。

 しかし、この13ヶ月おきの定期点検というのは、日本の原発を建設する上で安全に対する危惧が住民の中に強いことを考慮して、安全優先を強調するために設定されたはずである。それを緩和するためには、安全にとって十分な保証が証拠を付して示されなければならない。

 今、この議論をはじめようとする政府の思惑には、電力不足が喧伝される中でこの議論を始めることが世論の反発を招かないという政治的判断があるといわざるを得ない。国民の安全ではなく企業の利益に奉仕しようとする政府のまことに姑息なやり方だ。

 安全は二重にも三重にも保証されてしかるべきである。柏崎刈羽原発で示された日本の原発の地震への脆弱性は、現在の定期点検でも不安をかき立てるのに十分である。いまこそ、原発政策の是非をこそ検討し始めるときではないのか。子供たちの未来を放射能汚染で真っ黒にしないためにも。
 

停電に踏み切ろう

2007-08-23 | 環境
今朝は久しぶりに寝苦しい暑さから解放された。夜半からの雨のせいである。それでも気温は28℃。今日一日は曇りの予報だったし、最高気温が30℃を下回るという事だったので安心していたが、11時現在、真夏の太陽が赫々と照りつけている。

 昨日まで、熱中症のような症状でダウンしていた。朝から水浴びをしたり、氷枕をしたり、水風呂に入ったりしたが、体のだるさはなくならない。昨日は死にかかり、黄泉の国の入り口までたどり着いた感じがした。今朝は黄泉帰った。都内の夫婦が熱中症で死んでいたのが2-3日前に見つかった。彼らもクーラーを使っていなかった。

 柏崎刈羽原発が運転停止したことで電力が足りないと東京電力が対応に追われている。昨日は大手工場の操業短縮や停止でなんとか電力不足が起こらずにすませたという。しかし、工場の操業停止などで削減できた電力はわずか60万キロワットに過ぎなかった。個人の住宅のエアコンはフル回転のようだ。これを止めずには電力不足は防ぎようがない。この需要をまかなおうとすると、火力発電所などもフル回転せざるを得ず、結局温暖化ガスの過剰放出につながり、それはさらに気温の上昇→エアコンのさらなる運転と負のらせんに落ち込む。

 エアコンを使うべきではない。私も熱中症にかかりながらもエアコンのスイッチはついに入れなかった。熱中症で死んだ人たちの中には生活保護世帯でエアコンを買うことが許されなかった人もいる。エアコンの効いた部屋で快適に暮らすことが異常気象を引き起こし、自分以外の人には加害者として振る舞っていることを気がつくべきである。

 この際、東京電力は停電に踏み切るべきである。無理して温暖化ガスを増やすことを止め、これ以上は電力は供給できませんといって停電すべきである。第3世界では、停電は日常的に起こっている。先進国だからといって無制限に電力を使うことは許されない。どこかで停電に踏み切れば、住民も節電を考えるだろう。エアコンを使うことを考え直すことがあるだろう。

 冷蔵庫もできれば使わない生活をしたい。現状ではなかなか難しいが、昔は毎日の食料品は毎日お店に買いに行った。だからそれほど冷蔵庫を必要としなかった。今では冷蔵庫があるから、買い物も大型スーパーで一週間の食料を買い込んでいる。それだから、ご近所のお店はみなつぶれ、郊外の大型スーパーが繁栄する。郊外まで買い物に行くから車がないと不便になり、なんでも車を利用する。車社会が温暖化と光化学スモッグを引き起こす。そして町の中がシャッター街と化す。

 すべて便利さを追求しすぎたことが、今日のいろんな問題を引き起こしている。もっと便利さよりも大事なことがあることを知るべきではないか。停電のローソクの下で、それを考えてみてはどうだろう。
 

ペットボトル入りのお茶

2007-08-21 | 環境
会議に出席すると、最近しばしばペットボトル入りのお茶が机上に配られることが多い。ペットボトルはリサイクルも可能になったが、その大部分は燃やすか埋め立てられているゴミの主要な部分を占める。最近は中国など第三世界に利用可能なゴミとして輸出もされており、公害の輸出と問題になっている。

 そのような理由で、私は会議に出されたペットボトル入り飲料には手をつけない。のどが渇いても手を出さないようにしている。会議用に自宅から魔法瓶を持って行くという人の投書を新聞で読んだ。私もそうしたいと思いながら、遠くでの会議などではなかなかそうもできない。のどが渇いたときなど、目の前にあるお茶に手をつけないというのは、なかなか苦行である。

 このペットボトル入りお茶を会議のときに出席者に出すというのは、今日では一般的になっているようだが、よく考えればかなり失礼なことなのじゃないだろうか。たしかに手軽で簡単ではあるが、お客をもてなすという意味では手抜きですといわんばかりなのだ。昔はそれでもペットボトル入りを出すときは、こんなもので失礼ですが、といいながら出していたように思う。しかし今頃は当然のごとくペットボトルを配っている。

 これはしかし、お客を夕食に招いてインスタントラーメンを出すようなものではないだろうか?もっとも会議はお茶を飲みに来ているわけではないので、些末なことではあるのかもしれない。それで思い出したが、喫茶店などでも紅茶を頼むとティーパックで入れてくれる店がある。入れてくれればまだいい方で、ティーパックとお湯を持ってくる店もある。それで何百円も取られるとちょっとむっとする。コーヒーを頼むとインスタントコーヒーを入れる店も昔はあったが、今ではさすがにそれはなくなった。しかし、紅茶はまだそのレベルのようだ。

 話が飛んだが、会議ではできればちゃんと急須と茶碗でお茶を飲みたい。たしかに面倒でもあるけれど、会議の際に高価な昼食を出したりすることもある。そんなお金があったら心を込めてお茶を入れてほしいと思う。それが環境を守ることにも通じるのである。それが駄目なら、コップに水だけでもいいのだ。
それにしても暑いですね

地震の巣へ出かける

2007-08-18 | 日記風
千葉県東部で大きい地震が続いている。今のところ大きな被害は出ていないが、震度4くらいが頻繁に起こっている。埼玉県の私の家でも一日何度も小さな揺れを感じている。茨城県東部でも今年は地震が多かったような気がするが、千葉の東部もその続きなのかもしれない。

 明日は、茨城県の日立市に行く予定だ。明後日は船にも乗って洋上の散歩も楽しみたい。ところが地震騒動があり、しかも明日と明後日は雨模様だとか。どうも気乗りのしない旅行になりそうだ。

 気乗りのしない原因の一つは、パソコンが壊れてしまったこと。4月に買ったばかりの新しいパソコンなのに、突然壊れて再起動を繰り返し、まったく立ち上がらなくなってしまった。幸いセーフモードでは立ち上がるのでなんとかファイルを一つ一つ拾い集めてバックアップをとり、OS(windows vista)を再セットアップして、また一つずつファイルを戻して、普通にパソコンを使えるように再構築した。それだけに3日間もかかってしまった。この暑い3日間、汗みどろでやったことだ。

 そのパソコンが日立製。日立市へ行ったら日立製作所へ行って文句を言いたい。たった3ヶ月で壊れるなんて。もっとも異常に暑い気象のせいだというなら、これは仕方ないかもしれない。この暑さでパソコンの調子が悪いという人がいっぱいいるかな?
  

灼熱化と生命保険

2007-08-18 | 日記風
あまりの暑さに3回連続で灼熱化の話題です。

 日本列島で3日連続の40℃超を記録した。異常な熱波で熱中症で倒れる人が相次いでいる。熱中症死が3日間で20人を超えたようだ。私も熱中症になりかかっている。なんとか水分の補給を欠かさずに持ちこたえているが、これがもっと続くようならだれもが熱中症で倒れても不思議ではない。

 クーラーを使わないで生活しているから、この灼熱化の影響をまともに受ける。しかし、クーラーを使って灼熱化をいっそう推進したいとは思わない。原発の電気もできれば使いたくない。現在の大量消費型文明が作り出した灼熱地獄なのだから、この生き方を変えなければ灼熱化はもっと続く。

 熱中症で死んだ場合、生命保険は病死となるのか、それとも事故死となるのだろうか。病死か事故死かで保険金の額はかなり違う。保険会社は病死と判定したがるだろうけど、熱中症による死亡は限りなく事故死に近いのではないか。校庭で倒れた中学生など、病死とは言い難いと思うがどうだろうか。

 こんな事を考えたのも、灼熱地獄の中で熱に浮かされたせいかもしれない。死んでも不思議ではないと思わせる暑さだった。昨日から北海道では低温化しつつあるらしいが、こちら関東では今朝も30度を超える暑さが続いている。
  

灼熱化と地震と原発の停止

2007-08-17 | 環境
埼玉県の熊谷で40.9度の日本新記録を作ったようだ。熊谷の近くの私の町も、体温よりも高い気温が続いた。もう本当に死にそうになった。熱中症で8人もの人が亡くなったとか。灼熱化は現実に人々の命を奪いつつある。気温だけではない。異常気象はもはや異常ではなくなった。局所的に豪雨が続く。ゲリラ攻撃のように。そして人が被害を受け死んでいく。

 なんとかクーラーを使わずに暮らしているが、異常な暑さに頭はもうろう。熱中症対策にプールの水に浸かって過ごすことを覚えた。すぐ近くの公営プールは、60歳以上の市民は利用料が100円、60歳以下でも市民は300円という安さ。この値段でプールと露天風呂付きお風呂に入り、そのあとは休憩室でカラオケも楽しめる。もっとみんなも自宅のクーラーを切って、こういうところで過ごしたらいいのではないか。

 「地球灼熱化」は、二酸化炭素などの「温暖化ガス」濃度の増加による。柏崎原発が地震で危機一髪のところまでいったために、全面停止を余儀なくされた。そのために東京電力は他の電力会社から電力を融通してもらったり、止まっていた火力発電所を運転したりしてしのいでいるという。だから、二酸化炭素の排出量がふえてしまい、京都議定書の約束が守れなくなりそうだということが新聞に書かれていた。しかし、京都議定書の約束が守れないというのは、地震が起こる前にわかっていたことだし、それを地震のせいにするのは卑劣な言い訳でしかない。

 止まっていた火力発電を再開したら、二酸化炭素の排出量が増えるのは確かだが、他の電力会社から電力を融通してもらったりすることはこれまででも出来たはずだ。それをこれまでやらなかったということは、無駄な電力を作ってきたことを証明したようなものではないか。また、原発が止まったからといって火力発電を再開しないでも良いように、電力の消費を抑えるのが本当は行くべき道であるはずだ。

 活断層の上に原発を作るなんて、本当に恐ろしい。しかもそのことはこれまでも何度も指摘されてきた。しかし、電力会社も政府も原発は安全だ、地震があっても大丈夫だと言い続けてきた。それが今度は「想定外の地震だった」と言う。想定外は存在しないと言い続けてきた責任は誰がとるのだろうか。「自衛隊が行くところが安全なところだ」という強弁・言い逃れをしてきた小泉とまったく同じ無責任を日本人は再び許してしまうのだろうか。

 朝日新聞の原発従業員からの聞き取りでは、地震直後から20時間以上にわたる緊迫した三つの原子炉の緊急停止作業がとりあえず終わったとき、彼ら従業員がもっともその恐ろしさを身をもって体験したのではないか。三つの原子炉が爆発・メルトダウンを起こさなかったのは、奇跡的だったとも言える。もう二度と原発を柏崎で動かして欲しくない。
   

灼熱化と孤立化

2007-08-15 | 日記風
ひたすら暑さに耐える毎日だ。35度を超える日がもう5日目。道東に生活しているときは、地球温暖化を問題にしていたが、こちらでは「地球灼熱化」と言った方が正確な表現のような気がする。温暖化ではなにか良いことのように思う人もいるに違いない。

 北海道でも、道東以外はやはり30度を超えているようだ。「灼熱化」は北海道といえども同じなのだろうか。道東も25度を超えているようだ。この暑さになぜ道東からこの暑い関東にきているの?と聞かれる。好きで来ているわけではない。サンナシ小屋が恋しい。小屋の前の小川でぜひとも素っ裸で水浴びしてみたい。だれかサンナシ小屋を利用したいという人は現れないかしら。そうしたら今なら一日でも一週間でも喜んでご案内したい。

 先週の常念岳の登山は、深田久弥の日本百名山の54座目だった。常念小屋から常念岳への登りは北アルプスの三大急坂の一つだそうだ。帰ってからわかった。行く前にわかっていたらきっとコースを変えただろう。蝶ヶ岳は、残念ながら百名山はおろか二百名山にも三百名山にも入っていなかった。たしかに頂上が二つもあるような変な山では登頂の感激も薄れるが、ちょっと気の毒なような気もする。先日のブログに書いた徳沢園のお風呂は温泉ではなかったようだ。残念。

 今日は敗戦記念日。先の無謀な戦争で亡くなった人を偲ぶ催しが各地で行われている。400万から500万人の日本人があの戦争で死んだ。私の父親もその一人。しかし、2000万人に上るアジアの人々が日本人に殺され、また巻き添えにあって死んだことを忘れてはならない。そしてこれらの人を殺した人が靖国神社に祭神として祭られていることも。靖国神社の存在を許さないことこそ、これからの国際社会で日本がアジアの人々といっしょに生きていける条件なのだろう。世界の空気を読めない小泉・アベの外交音痴がここまで日本を孤立化させてしまった。彼らの罪は万死に値する。
今日も

常念岳から蝶ヶ岳へ(2)

2007-08-14 | 花と自然
二日目。朝食を5時半に終え、ほとんど見上げるような常念岳(2867m)の稜線をひたすら登る。この高度であればヒンヤリする冷気を感じるはずなのに、気温は30℃近い。すでに太陽は直接肌を焼き始めている。汗を流しながら登っては西に見える槍ヶ岳と穂高連峰の残雪を眺めながら小休止する。しかし、太陽が早くも高く登り始めたので、岩の陰に寄っても太陽の直射から身体を隠せない。

 1時間15分かかって頂上を踏む。すばらしい眺めだ。天気も良すぎるくらい。昨日から前になり後になりして登ってきていた関西からの二人連れと頂上でも出会う。写真を取り合って一足先に頂上を後にし、蝶ヶ岳に向かう。蝶槍と称する稜線からの突起が小さいながらも槍の穂のように登頂意欲をかき立てる。

 しかし、常念岳から蝶ヶ岳へは予想に反して稜線沿いのそぞろ歩きではなかった。これまで苦労して登ってきたのとほぼ同じくらいまでいったん下る。まだかまだかと言うくらいどこまでもどんどん下る。鞍部まで垂直に600mくらい下って、ゆっくり休息をする。これから登るぞと気合いをかけて、蝶ヶ岳への登りにかかる。再び400m以上の標高差を登らねばならない。蝶ヶ岳への登りは、樹林帯があって太陽の直射から遮ってくれるのがうれしい。ダケカンバやアオモリトドマツが涼しい木陰を創ってくれる。

 樹林帯を抜けたら蝶槍の岩礫の登りにかかり、すぐに蝶槍の頂上を超えた。あとはなだらかな稜線をのんびり歩く。途中、一等三角点の蝶ヶ岳(2667m)頂上が登山道の脇にあった。三角点を踏んで蝶ヶ岳ヒュッテを目指す。蝶ヶ岳ヒュッテにたどり着いたのは11時半。ヒュッテでコーヒーを入れてもらって飲む。疲れた身体に甘い砂糖が染みこむようにうまい。

 今日の予定はここに泊まるつもりだったが、まだ体力は問題なさそうだし、あとから来た関西からの二人連れもこのまま徳沢まで降りるというので、がんばろうと決めて長塀山(ながかべやま)の尾根にかかる。

 長塀山に降りる手前の高まりに「蝶ヶ岳頂上」と記した道標が立っている。しかし、地形図を見る限り小屋の手前にある三角点が頂上のはずだ。どちらも標高はそう違わないのでどちらを頂上としてもかまわないと言えばかまわないのだが、こちらの頂上はおそらく山小屋を利用してさらに南へ縦走する人のために、わざわざ北の方へ10分ほども行かないでも頂上を踏んだと言えるように、だれかが作ったにせの頂上なのだろう。三角点はない。

 長塀山の尾根はあまり期待していなかった。ただ梓川のほとりまで降りるにはこのコースがもっとも近いので取ったまでだった。ひたすら降りることだけを考えて歩き始めたのだが、実はこの蝶ヶ岳ヒュッテから長塀山までの40分間が今回の登山でもっとも多くの高山植物を見た場所だった。狭いながらもあちこちにお花畑があり、しかもよく残されている。このコースは登山者に不人気であまり歩かれていないらしいことが幸いして、お花畑が残っているのかもしれない。

 長塀山を越えるとあとはひたすら樹林帯の中を下る一方だ。朝から5時間以上あるいたためにこの下りの頃から左足の膝関節が悲鳴を上げ始めた。痛くて前に進めない。もってきたサポーターを左膝にきつく巻いて、なんとかごまかしながら歩く。60分歩いては休息5分のペースで歩いてきたのが、30分歩いて5分休むとスローペースになり、やがて30分続けて歩けなくなり20分歩いて10分休みとなり、最後は15分歩いて15分休むという情けないことになってしまった。

 やがて左膝だけでなく右膝も痛み出した。前に歩くと激痛が走る。平坦な道は何とか歩けるが、段差のある道はとても歩けない。もっとも山道は80%以上が段差のある道だ。しかたなく、後を向いて歩き始めた。急な坂道を下るときは後ろを向いて歩く方が歩きやすい。目は身体の下を見ていれば行き先は何とか見える。

 あと少しと言うところまで来てとうとう歩けなくなってしまった。しかし、梓川の流れはもうすぐそこに見えている。夕方の樹林帯はどんどん暗くなってくる。足が壊れてもかまわないからと歯を食いしばって歩き出す。小さなコーナーを回ったとたん、目の前に山小屋「徳沢園」の赤い屋根が見えた。どんなにうれしかっただろう。屋根を目の前に見ながら大休止。心からゆっくりと休憩をとった。

 徳沢園も金曜日の夜で大入り。飛び込みの私も押し入れの下に寝床を確保できた。徳沢園は梓川のほとりにあるので水は豊富。温泉もある。稜線の山小屋ではお風呂などはない。笑い話で「山小屋の宿泊客がお風呂はどこ?って聞いてきた」というのがある。山小屋に風呂はないのだ(サンナシ小屋も同じ!)。しかし、徳沢園は特別の山小屋だ。ゆっくりとお風呂に入り、汗と足の痛みを流す。生き返った思いとはこのことだろう。

 翌日も上天気。週末の登山客の入り込みで大賑わいの徳沢から上高地までをのんびり花や川の流れを見ながら歩く。上高地からの登山客はまるで銀座並み。あとからあとから引きも切らずに人の波が続く。今夜の山小屋は大変だ。布団一枚に2-3人が寝ることになりそうだ。平日でよかった。

 私が歩いているときも、穂高連峰などでヘリコプターが遭難した登山客の救助に飛んでいるのを見た。私がヘリコプターに乗らなくて良かったとつくづく思う。遭難しても、ヘリコプターに乗るのはいやだ。遭難したくはないが、そうなったらひっそりと死ぬのが理想だ。

 まだ足の痛みは残っている。再度の山行に備えてリハビリの毎日だ。さあ、次は北海道の山だ。