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サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

平野官房長官は解任されるべき

2010-03-31 | 政治
沖縄の普天間飛行場の返還を進めるための鳩山政権の対応は、右往左往していたが、どうやら海兵隊の機能の一部を徳之島などに移し、勝連ホワイトビーチ沖を埋め立てて、新しい基地を作るという案で動いているらしい。どの程度沖縄県外に機能が移るのかまったく分からないが、鳩山首相は県外にこだわっているという噂も流れている。しかし、今日、平野官房長官は「今の北朝鮮の動向を含め、沖縄の皆さんの負担を頂きながら米海兵隊が沖縄にいることは、わが国の安全保障、抑止力、初動態勢を含めて必要だ」と述べたという。

 内閣の調整役の平野官房長官がはっきりと県内移設に踏み切ったという発言である。これは岡田外相とゲーツ国防長官との話し合いで、ゲーツ長官が海兵隊の機能を分断するのは受け入れがたいと述べたことに対する平野長官の反応なのだろう。平野官房長官は前から辺野古沖への移転現行案にこだわっていた。海兵隊が日本の安全保障に必要だと、アメリカが言うのは十分分かる。アメリカはそう言わないと日本に駐留する理由がないからだ。しかし、日本の民主党政府がそれを鵜呑みにするのでは、これまでの自民党政権とまったく同じではないか。鳩山首相は公約を守ろうとしない平野官房長官を解任すべきではないか。それができないのなら、解散してあらためてこの問題で信を問うべきだ。

海兵隊が日本の防衛のための部隊ではないことは、明白な事実だ。海兵隊は日本にはいらないもの。すぐに普天間飛行場を閉鎖してグアムでもアメリカ本土でもいいから帰って貰おう。日本からアメリカ軍のならず者部隊を追い払うことこそ、極東の平和に寄与するものだ。民主党政権は、アメリカと対等な関係を築くと言ったのではなかったか。ノーと言える政権が必要なのだ。沖縄からも、日本からも海兵隊に出て行って貰おう。

 もし、沖縄県内に移設先を決めると言うことになるなら、鳩山政権の公約違反は明らかになる。社民党はぜひとも連立政権から抜け出して、普天間基地の返還と海兵隊の国外移転を最後まで主張して貰いたい。それができなければ、社民党は大臣の椅子に未練を持つだけの政党になってしまうだろう。社民党の正念場が近い。

春だというのに桜に雪

2010-03-29 | 日記風
もう3月も終わりというのに、この寒さはどうしたことか。例年よりも9日前後も早めに咲いた桜も、まだ5分咲きにもならない。普通なら一週間で満開になるはずなのに。今日は、午後からちらちらと雪が降り始めた。3分咲きの桜の花に雪が積もる。梅に雪の景色はよく見るが、桜に雪は久しぶりだ。京都東山三十六峰も雪を被って真っ白な樹氷を見せていた。これはこれでなかなかの景色だ。

 冬が暖冬だっただけに、桜は早めに咲いてしまった。まあ、これで桜の季節が長持ちしていいかもしれない。が、桜が咲いても寒い寒いとこたつに縮こまっているのでは、春が来たという感覚も無くなってしまい、残念でもある。やはり春は暖かで爛漫の花の下で、短い命の桜吹雪を惜しむというのが、四季を楽しむわれわれの感性なのだろう。寒さも明日まで、という予報だが、その寒さが普通ではない。早く春が来て欲しい。

京都の夜の狐の嫁入り

2010-03-23 | 日記風
一週間ほど東京に出かけていた。暖かな日が続いていたが、そのうちまた寒くなった。三寒四温にしては、もうお彼岸が過ぎてしまった。暑さ寒さも彼岸までという言い伝えもあるが、どうやら最近は彼岸過ぎまで寒いことが多いし、厳冬期に随分温かい日が続いたりして、言い伝えやことわざが通用しなくなっている。これも人間が作りだした気候変動とやらのためなのだろう。いったいどこまでこの変動は大きくなっていくのか。恐ろしいばかりだ。

 京都に帰ってきたら、寒さは一段と厳しくなっていた。去年より9日も早く桜がもう開花したというのだから、今年は暖かな冬だったのだろうが、それでも彼岸過ぎても最高気温が10℃という寒さなのだ。今年も京都東山の花灯路が行われていたので夜になって出かけてみた。去年も同じ頃に青蓮院の花灯路を見に来たが、寒さに凍えたことを思い出した。やはり今年も寒い寒いといいながら、円山公園の桜の老木を眺めていた。立派なしだれ桜で、ライトアップされた中に2分咲きほどの桜の花を浮き上がらせていた。でも全体のバランスが悪い。毎年秋に枝を切ってしまうので、まるで手足を切られた動物が立ち上がっているような、哀しい姿をしている。どうしてこんなに木の枝を切ってしまうのだろうか。しだれ桜を切ってしまったら、桜の咲く頃にはまだ伸びきっていない短い枝にちょろちょろと花が着いているような姿になってしまい、この老木の尊厳をずいぶんと損なってしまっているように思う。

 円山公園の裏手にある八坂神社を通り抜けて、ねねの小路から狭い路地を大勢の観光客にもまれながら歩いていると、提灯を掲げて紋付き袴の男衆が行列を作ってやってきた。いったい何事かと見ていると、後ろから人力車にのった打ち掛け姿の女性が狐の面をかぶってやってきた。ああ、そうだ。高台寺の「狐の嫁入り」の行列だった。しずしずと行列が進んでいく後ろから、観光客がぞろぞろと続く。外国人も多い。


 
 昨日、キツネの嫁入りを見たせいか、今日は一日雨が降り続いた。明日も雨とか。明後日は水戸へ出かける。雨が降らなければいいが。京都へ帰ってきた頃には、きっと本当の春が来て、桜が咲き、同時に観光客があふれかえって、町の中は渋滞が続くのだろう。それも京の春の歳時記の一コマだ。その騒ぎが終わったら一気に夏が来る。

15年前の3月20日

2010-03-20 | 日記風
今日は3月20日。今から15年前、私は東京築地の地下鉄の入り口にいた。救急車が続々と到着し、パトカーも無数にやってきた。警官がバリケードを張り巡らし、人々を近づけないようにしていた。地下鉄への入り口からは次々と人々がよろよろと出てきてそのあたりに座り込んでいた。担架に乗せられた乗客も階段を登ってきていた。私はてっきり地下鉄で衝突事故のようなものが起こったに違いないと思って、入り口から地下鉄の空間をのぞき込んでいた。まさかサリンなどという毒ガスが播き散らかされたとは思いもよらなかった。消防署員に制止されて中には入れなかったが、今思えばそれが命を救ったのかもしれない。消防署員に何が起こったのか聞いてみたが、彼もよく分からなかったようだった。

 あのときのあの日は、冬の寒さから解放され、暖かな春の日射しがいっぱいに降り注いでいた。築地の地下鉄の入り口のあたりに駅構内から逃げ出してごろごろと寝転がっていた人たちは、一見まるで春の日射しの中でひなたぼっこを楽しんでいるようにさえ見えたものだった。いったいみんな何をしているんだろうか。そんな疑問を持ったまま、現場を離れて、その日の会議があった晴海のビルへ向かったのを思い出す。空には次々とヘリコプターがやってきて、どうやら大きな事故が起こったのだろうと思わせたが、不思議なことに救急車に乗せられていく乗客たちがまったく血を流していないのが、何か不思議な感じだった。

 あれから15年たったんだなあと感慨深い。この15年間、私にはいろいろな生活の変化が起こった。地下鉄サリン事件も日々に記憶から遠のいていっている。今日の新聞も、ほとんどその話題は載っていない。主犯とされた麻原某は、廃人同様になって結局のところ裁判を実質的に続けられなくなったが、それでも死刑判決が出た。本来、廃人になって裁判ができなくなったら、その時点で裁判は中止されるはずなのに、超法規的に裁判は判決を言い渡してしまった。それを誰もおかしいと思わなかった。そして結局のところ、なぜ彼らがサリン事件を起こしたかは何も明らかにならないまま、15年が過ぎてしまった。その間、廃人にされてしまった市民も多かったが、彼らの無念も、原因も真実も何も明らかにされないままでは、晴れることはないだろう。裁判は彼を死刑にしてしまったことで、くさいものに蓋をしたのだろう。

 このようなことは二度と起こって欲しくないと思うけれども、原因が明らかにならなかった以上、おそらく同じようなことが将来起こるような予感がする。時代の閉塞感は、死刑になりたいために人を殺す人を作り続けている。死刑を存続させても、この状況はなんら良くならない。何をすればいいのか、どのような変革が必要なのか。真剣に考えてみるべきだろう。オーム真理教を気が狂ったように排斥しているだけでは、世の中は良くならない。

原発推進の民主党への落胆

2010-03-14 | 南の海
民主党への落胆は続く。鳩山首相のお母さんからの譲渡や、小沢さんの政治資金での不動産購入や、北教組からの献金などが原因ではない。これらはたとえ違法だとしても微罪でしかないし、検察による民主党つぶしの狙いが見え見えなので、むしろ民主党頑張れと言いたくなることばかりだった。

 しかし、今回、鳩山内閣が決めた温暖化対策基本法案には、心底あきれた。温暖化対策のために原発推進を明記したことだ。なぜ原発が温暖化対策になるのか。CO2排出量がほかの発電よりも減るという証拠はどこにもない。以前書いたように(2009/12/20のブログ参照)、現在存在する約50基の原発から流れ出す巨大な熱排水の流れは、海水から大量のCO2を大気中に放出させる。政府はCO2削減のためと称して電気自動車をエコポイント制で推薦しているが、その電気は半分くらいが原発によって作られている。原発の熱効率は約30%ときわめて悪い。日本の自動車の半分を電気自動車にしても、その電気を原発増設でまかなおうとすると、自動車がガソリンで走っているのと同じくらいのCO2を排出することになってしまう。

 つまり電気で走っても、ガソリンで走っても、CO2は同じくらい出てくると言うことだ。しかも、個人的には電気自動車は燃費が高くつく。さらに問題なのは、原発の運転でできた高レベルから低レベルまでの放射性廃棄物の処理に、多額の金と危険と多くの土地や施設が必要になり、しかも、高レベル放射性廃棄物は処分方法さえまだ決まっていない。

 さらにやっかいなのは、原発を運転するとウラン燃料からプルトニウムといういっそう危険で核兵器の原料になる物質ができてしまう。プルトニウムを所持すること自体が核拡散防止条約に違反するため、IAEAの核査察を受け入れないといけない。核物質を使って発電を始めると、永遠に核物質が生産されて、その危険を未来永劫管理しないといけないことになる。

 このような危険で、しかもCO2の削減にもつながらない原発を推進するというのは、民主党政権も何も分かっていないのだろうか。いや、きっと分かっている。それでも原発推進というのは、原発建設によって手に入る巨大な利権とそれによる一時的な経済発展を得ようとしているからなのだろう。経済の成長政策が無いと批判される民主党だから、それを経済の成長政策だと言いたいのだろう。鳩山首相はベトナムに原発を売り込みに行くらしい。発展途上国に公害を輸出してきたこれまでの自民党政府のやり方と、何も違わない。

 山口県の上関原発建設のための埋め立てが中国電力によってまもなく始まろうとしている。3月9日から、広島の中国電力本社前で、一人の若者が原発建設を止めて欲しいと、72時間のハンガーストライキを始めた。中国電力はこれを無視。警察も路上への夜の座り込みを許可しないなど、露骨な企業よりの姿勢を示している。全国から集まった若者がいっしょに一日だけのハンスト(絶食)に参加したり、いっしょに座り込んだりしている。

 また、上関の原発で壊される祝島の人々の生活や長島の貴重な自然を紹介した映画「ぶんぶん通信」(鎌仲ひとみ監督)の上映会が日本各地で頻繁に開催されるようになった。瀬戸内海の中に作る上関原発を止めさせようという動きは全国的な広がりを持ち始めている。しかし、大手の新聞やテレビは決してこの問題を報道しようとしない。電力会社はこれらマスコミの巨大スポンサーであるからである。大手新聞には、電気事業連合の全面広告が「原発はCO2を出しません」というウソの宣伝を続けている。それでも人々は少しずつそのウソに気づき始めている。民主党の誤った政策が破綻するのは、わかりきっているのだが、それがばれるまでは、日本中で毒をまき散らし、将来の人々の財産と安全を食いつぶし続けておらが春を謳歌しようというのだろうか。原発反対の社民党は、温暖化法案の原発推進の部分を削れないなら、閣外に出るべきだ。

 72時間ハンストを成功させた若者には心から敬意を表したい。そしてその若者に対して巨額の損害賠償を請求している中国電力に、限りない軽蔑を送りたい。民主党へは、さらなる支持率の低下を予想しよう。

ベトナムの海からアメリカの犯罪を思う

2010-03-11 | 南の海
 フエから南に車で1時間ちょっと、Langco beach という美しい砂浜が広がるリゾートが、今回の仕事の場所だった。二日間、難しい話をした。1日目の夕方、おかしくなった頭を冷やしに海に入った。でもしばらく運動していない体は思ったように動かない。太平洋から打ち寄せる波に、潮水をのんでしまった。もっと体を鍛えないといけないと反省した。

 すべての仕事が終わってみんなで近くのラグーンの水上レストランに昼食を食べに出かけた。店の前でハマグリやカニや魚を水槽で飼っているのを見ていたとき、一人の物売りの子供が近づいてきたのを見て、息をのんだ。水頭症の子供だったのだ。お多福のように巨大な頭をした5-6歳の子供が、なにやら土産ものを売りに来た。私はどう対応して良いか分からず、いそいで目をそらし、彼がなにやらベトナム語で言っているのも無視して、足早にそこを去ってしまった。

 彼を見て、やっと思い出した。このベトナムは35年前まで20年間もあの偉大なベトナム戦争を戦い、アジアの小国が世界の覇王アメリカ帝国を実力で追い出した国だったのだ。アメリカがベトナム全土に徹底的に撒き散らした大量の枯れ葉剤というダイオキシンを含む猛毒によって、いまだにベトナムではその後遺症に苦しむ人たちが多い。母親の胎内で被曝した子供たちが、あるいは異常発生で胎児のうちに死に、あるいは異常を持ったまま生まれてきている。ベトちゃんとドクちゃんの多頭一体の例などは日本人にもよく知られているが、ベトナムではこれまでそのようなことが日常茶飯事だったのだ。アメリカはそれでも乳児の高死亡率や異常児の出生とアメリカが行った枯れ葉剤の散布には関係がないと言い張っている。責任を取ろうとしない。その姿勢は、イラクやアフガンで起こっている白血病の多発とアメリカ軍が使った劣化ウラン弾の間に関係はないというのと同じ構図である。アメリカはベトナムの事例に何も学んでいないか、もしくはベトナム人やイラク人が死のうが異常になろうがかまわないと思っているのだろう。

 いや、そうとも言えないのかもしれない。同様なことはアメリカ国内でもあるのだから。スリーマイル島の原発事故や、核実験場、原子力発電所周辺の住民の放射能被曝による乳幼児の死亡率の高騰さえも、関係ないと未だに言い張っているだけではなく、あきらかに周辺の住民の乳幼児が他と比べて10倍以上の死亡率が明らかになったときに、それ以後の乳幼児死亡率の統計を取ることを止めてしまった(もしくは公表しなくなった)。自国民でさえ、平気でそのようなことをする。(日本もいまだに原発は安全だと言い張っている)

 すべての水頭症がダイオキシンの影響とは言えないのは承知しているが、ベトナムで見たあの子供の未来を押しつぶしたのがアメリカの行為でないとどうして言えようか。そして、その子供を見てどうして良いか分からなかった自分に今、やりきれなさを感じている。あのベトナムで行われた米軍によるベトナム虐殺に日本の自民党政府もアメリカの前線基地を提供しておおいに協力したのだから、彼の巨大な頭は私たち日本人にもその罪を問うているのだ。

 ベトナムから帰った昨日、夜中に大きな頭をしたお多福のようなお化けの夢を見た。心の中に彼の姿がいつまでも残っているのだろう。非人道的な戦争を今すぐ止めさせたい。地球の上から戦争が無くなる日が来ることを祈る。そのために私は何をしたらいいだろうか。

民主党政権は大丈夫なのか

2010-03-10 | 政治
政権交代が起こってから、6ヶ月が過ぎた。友愛政治を掲げた鳩山内閣は、政権発足後ただちにダムの建設を中止するなど、政権交代によるこれまでの政治の見直しが始まる予感があった。自民党にかわいがられてきた検察の国策捜査とマスコミのイジメによって、鳩山、小沢に代表される民主党のイメージはずいぶん落ちてきたが、それは検察とマスコミのイメージ操作なので、まったく気にしないで鳩山内閣をこれまで支持してきた。政権交代の真の効果が始まるまではと期待しながら。

 しかし、どうやらそろそろ見直しをしなければならないのは私の鳩山内閣支持そのものになってきたようだ。マニフェストに掲げていた労働者派遣法の改正は、骨を抜かれた状態で国会に上程されたが、それさえもまだ成立の見通しがない。高校の一律無償化は、いつのまにか朝鮮高校を除外するという民族差別に変質してきた。夫婦別姓のための民法改正は、鳩山首相のイニシアチブ放棄によって国会に法案を出す予定も立たない。予算の見直しや仕分け事業でも、航空母艦に相当する護衛艦建設の予算が無傷でそのまま通ってしまう。外国人参政権法案もいつのまにか反対の声に腰砕けになってしまった。どうやら民主党政権は、「歌を忘れたカナリア」になってしまったようだ。

 そして、私の民主党離れを決定づけたのは、普天間基地の問題。沖縄県民の声を聞いて最低でも「国外・県外への移設を実現しなければならない」と言ってきた民主党なのに、ここにきてその姿勢が怪しくなってきた。辺野古陸上案に決めたという情報もあり、名護市長が海も陸もダメだと言い、名護市議会が全会一致で反対決議をしても、平野官房長官は「地元の気持ちを斟酌する必要はない」とか「決議を超えてお願いすることもある」などと露骨に辺野古案をちらつかせている。それにしても鳩山首相の「県外か国外が望ましい」という発言がいよいよ軽くなった感が強い。本当にそう思うなら、アメリカを相手に堂々と主張すればいいのだが、アメリカからの圧力に腰が引けてしまっているのではないか。普天間基地の撤去に本気で乗り出そうとしているとは思えない。

 マスコミの世論調査で鳩山政権の支持率が40%を割ったと言われている。検察とマスコミによる意識的な民主党たたきによる支持率の低下には、私は眉唾だと思っているが、普天間基地問題の帰趨によっては、民主党への支持を撤回しなければならないだろう。その時期はもうすぐかもしれない。

ベトナムの古都フエから

2010-03-08 | 南の海
ハノイからベトナムの古都フエまで1時間のフライト。フエの町は以前やってきた時の静かな面影は消えて、町の中は建設ラッシュ。のっぽのビルが建ち並んできた。道路沿いの民家も新しい家が多い。ドイモイで社会主義政策を資本主義政策に大幅修正した結果の経済発展なのだろう。10年前は町の中を除くとほとんどの道路は舗装していなかった。町中の道路も中央だけの舗装で、両側には雨が降ると水たまりができていた。でももうそんなところは見かけなくなった。

 前回とは違って、新しくできた高級ホテルに泊まる。一泊50ドルとかいうので、日本で私が止まるビジネスホテル並みの値段だなあと驚いた。こんなに物価が安いベトナムで日本と同じくらいの値段のホテルとは・・・。たしかに立派なホテルだったが、でも50ドルとは高いなあと思いながら支払いをした。でも請求されたのは、50万ドン。日本円に直すと約2500円だった。ホテルの値段表にも5万ドンと書いてある。しかし、50ドルとも書いてある。ドルで払うと倍も取られるようだ。この値段表は昔の為替レートをそのまま書いてあるのかもしれない。その後修正していないのだろうか。ドンで払うに限る。

 フエにある広さが数十平方㎞という大きなラグーンに出かけた。焼き玉エンジンのような音のする漁師の舟に乗って、ラグーンを見て回った。10年前に来たときは、数カ所で魚の養殖が行われていたが、今回見てみると、このラグーンの中の枝湾全体が養殖網と竹竿でびっしりと区切られ、ラグーン全体がまるで養殖場に変わってしまっている。養殖しているものは主にブラック・タイガー。日本にもいっぱい輸出しているエビだ。昔は日本が東南アジアのエビを一手に輸入して買いまくり、ひんしゅくを買っていたが、いまは最大の輸入国はアメリカになっているとか。第2位が中国で日本は3位らしい。アメリカ人はエビが好きになったのだろうか。健康食指向で肉ではなくエビになったのだろうか。あまりそんな話は聞かないが。

 ラグーンでとれた天然のエビとノコギリガザミを買って、近くの食堂へ行き昼食にする。エビとカニは持参したものを料理してもらい、それ以外のシーフッドを注文する。出てきたのは、まずハマグリの吸い物が鍋に山盛り。だしがよく出ておつゆがおいしい。次にイカのゆでたものが皿に山盛りで。おいしい蔓植物の煮物がこれも皿に山盛りで出てくる。次いでエビをゆでたものがまたまた山盛り。それからノコギリガザミも山盛り。ノコギリガザミはマングローブガニともいい、熱帯地方では極上の味。ただ、今回のカニはやや小振りで、ガザミ程度の大きさ。味もまあまあ程度だった。でも、ニンニクがたっぷり入った美味しいたれで、両手をどろどろにして山盛りのカニに挑戦した。

 お腹いっぱいになって満足してフエ市内のホテルに戻り、街中の道路に広げられた露天商たちのありとあらゆる種類の商品や食品を眺めて回る。ちょうど、これまで10年以上南方へ出かけるたびに履いていったサンダルの金具が壊れたので、惜しげもなくそれを捨てた。本当は惜しかったのだが・・・。昔、フィジーでインド商人から買ったものだった。代わりのサンダルを近くの立派な店のショーウインドウから探し出し、早速買って履いた。革のサンダルだが、足にぴったりで、よくフィットする。気に入った。値段も1000円しない。町から帰って、シャワーを浴び、夕方のパーティに備える。夜もまた美味しいものばかりで、過食気味だ。10年ぶりのベトナムも来て良かったと思わせてくれる。

ハノイから

2010-03-04 | 日記風
 関西空港から5時間。ベトナムのハノイにやってきた。ほぼ十年ぶりの再訪だが、ベトナムはずいぶん変わったと聞いている。どのように変わったのか、半分期待し、半分はおそらく変わって欲しくないという気持ちがあった。前回は、ハノイからホーチミン市まで行ったので、昔の北ベトナムと南ベトナムの違いも実感したが、今回はハノイとフエだけなので、昔の北ベトナムのテリトリーだけの訪問だ。
 まず驚いたのは、ベトナムの安いホテルでもインターネットが自由につながるので、ちょっとびっくり。おかげでハノイの町からブログの更新ができる。町にもインターネットカフェがあちこちにある。
 夕食を食べに出た。おいしい食事を腹一杯食べてコーヒー飲んで、340円だった。表の看板には220円とでていた。それにコーヒーを頼んで340円だ。懐かしいベトナムコーヒーが飲めて満足だが、10年前には5-60円くらいで飲めたコーヒーが、今度は120円もした。基本的な食料品はあまり上がっていないようだが、嗜好品の類は少しずつ物価が上がっているのだろう。前回は、2週間くらい滞在したので、5万円を換金したら、札束を二つか三つ積み上げられた覚えがある。なにしろベトナムの通貨「ドン」は、一円が約200ドンだから、5万円なら1000万ドンなので、1万ドン札で1000枚になる。当時は5万ドン札がもっとも額の大きい札だったと思うので、食事に行くにも札束を持って行くことになった。その印象が強かったのだが、今回は換金しても札の厚さは薄い。よくみるともっとも高額の紙幣は50万ドン札のようで、1000万ドンでもたった20枚だ。

 夕食の340円=68000ドンを支払うために10万ドン札を出すと、おつりがないという。それで思い出した。前回も高額紙幣を出すとおつりがないといわれた。でもおつりを日本円に直すと、わずか数十円か1-200円程度なので、もういいよ、とおつりをもらわずに店を出ることが多かったが、よく考えるとどうもこれが店の戦術らしい。外国人と見るとお釣りがないといって、差額をもらうのだ。それに気がついてから、お釣りがないといっても両替をしてこいと言ってお釣りを用意するまで待つ構えを見せると、何のかんのと言いながらも時間をかけてお釣りを持ってくる。あきらめるのを待っているのだろう。

 今回もそのことを思い出したので、「待つから」といって椅子に再び座り込んで待った。32000ドンのお釣りは日本円にすると160円くらいだから、おいしい夕食を日本の感覚ではずいぶん安く食べたので、そのくらいはいいか、とも思ったが、32000ドンといえども、ベトナムの人にとっては決しておろそかにできる金額ではない。10000ドンあれば朝食のフォーが食べられるのだから。そう思ってしばらく待ってみた。店の奥から経営者らしいおばさんが出てきて、通りの向こうに両替に出かけた。お釣りがないのは本当なのか、それとも無いといった以上、両替に行く振りをしないわけにはいかないのか。まもなく帰ってきてお釣りの30000ドンをくれ、細かい2000ドンのお釣りは無いという。どこまでも端額をかすめ取ろうとする。ベトナム人たち同士ならこんなことはしないし、細かいお金が無いなどとは言わないはずだと思ったが、それ以上頑張るのもこちらもあほらしいので、OK, OKといって出てきた。う~~ん。

 町を行き交うのは昔と違ってほとんどバイク。昔は自転車の洪水のようだったが、今では自転車をみなくなった。みんな立派なバイクに乗っている。若い女性がハンカチなどの布で覆面をしてバイクに乗っている。ホコリがするのでマスクをしているのだ。昔はマスクをしてアオザイを来て自転車に乗っている若い女性を多く見かけたが、今ではアオザイを町で見ることはない。若い女性も東京で見るようなファッションを着飾って颯爽と歩いている人もいるし、ペットボトルやプラスチックゴミを集めて肩に担いでいる女性もいる。共産国のはずのベトナムにも確実に格差は広がっている。昔はみんな平等に貧乏だった。今は富めるものとそうでないものが分かれてきた。日本も同じだが、社会主義国までそうなっているのを見ると、哀しくなる。日本ほどではないのだろうが。

 ようやく春の兆しが出始めた日本から、30℃を超える気温のところへ来たので、体は少々とまどっている。明日は古都フエに向かう。では、またフエからブログを書こう。

青い海 碧い空

2010-03-02 | 南の海
先週、冬将軍が最後?の攻撃に来た頃、沖縄に遊んだ。八重山地方を含めて沖縄にはこれまで何十回と来ているのだが、ゆっくり遊んだ覚えはほとんど無い。いつも仕事で来ていたので、沖縄にはなじみが深いが、観光客が行くようなところに行ったことがほとんど無い。今回はまったく私的にお休みを取り、観光に行った。でも、多くの観光客が訪れる南部戦跡巡りは行かなかった。なぜか?やはり、人々の苦難の歴史を観光気分で見て回るというのが、私には何かきわめて不遜なことのように思えてしまうからだ。また、戦争の傷跡を観光に利用しようというのも、あまり感心しないと思ったこともある。

 もちろん、人が集まるところで、それが観光客であろうがなかろうが、戦争の悲惨さや戦争の無意味さや反戦を説くことの重要性も理解できる。そうでもしなければ戦争の傷跡を歴史を知るためだけに訪れる人はきわめて少ないのだから、観光客にもそれを知ってもらうのは重要なことだというのも理解しているのだが・・・。

 晴れ男の私は、今回も晴れ男ぶりを大いに発揮した。連れ合いも晴れ女なのでどちらのせいかは知らないが、沖縄は晴れ上がっていた。沖縄へ飛ぶ日の午前中まで那覇は雨が降っていた。那覇に住む知人の話だと、それまでほとんど毎日雨ばかりだと嘆いていた。ところが飛行機が那覇空港に着いたときには、雨は上がり、雲間から薄日が射し始めていた。でも、これまで何回も沖縄に来ていた私には信じられないほど寒く、Tシャツで十分だと信じていた私はあわてて長袖のシャツに着替え、それでも寒くて上着を着たほどだった。

 その夜は那覇の知人と一緒に沖縄料理の店に。琉球の晴れ着を着た女性に迎えられ、個室で琉球料理を楽しんだ。もっとも琉球料理と言えば豚肉だらけだが、ご存じ私はヴェジタリアン。「てびち」とか「みみがー」とか、沖縄そばの上に乗っている分厚い豚肉のかたまりなどは見るだけで気持ち悪い。そこは我慢して、私はひたすら「ごーやちゃんぷるー」と「じーまみーどーふ」を食べていた。それでも久しぶり(もっともこの2年間で4度目の沖縄だけど)に沖縄の味に満足した。この店には、三線(さんしん)を抱えた歌い手が個室を一つずつ巡って琉球の歌を披露してくれる。歌の間には軽妙な会話を入れて、実に上手に客を楽しませてくれる。本州からの客と見てまずはよく知られた「安里屋ゆんた」を上手に歌い、私のリクエストで「谷茶前(たんちゃめ)」を歌ってくれた。本物の琉歌を聴きたかったのだが、どんな琉歌があるのか知らないから、リクエストもできなかったのは残念だ。他の部屋で歌っているのもほとんどが「涙そうそう」とか「島唄」と言ったようなものが多かったようだ。琉歌はもう島の人たちにもこのような場所で聞くものではなくなったのだろうか。帰りには玄関先で琉球の着物を着た若い女性たちと記念撮影をして、1分後にできあがった写真をいただき、感激してお店を出た。京都でこれだけのサービスのある店に行けばきっと目玉が飛び出るほど取られるのだろう。でも沖縄ならきわめてリーズナブルな値段で楽しめる。

 翌日からは快晴に恵まれた。沖縄の人もしばらく太陽を見たことがなかったと言って、私の沖縄行きを喜んでくれた。首里城をゆっくり見学。昔訪れたときには朱礼の門以外は何もなかったところに、首里城が復元されて立派な建物が建っていた。昔の琉球王国の王様の住まいが復元されていて、初めて来たらきっと昔からこの建物が残されていたように錯覚するのだろう。もっとも京都に代表される日本の多くの寺社のほとんどは、建立されてから何度も火事で焼失したり戦争で破壊されていたのが再建されているのだ、3年前に再建された首里城の玉殿も、いつか歴史的な建物になっていくだろう。首里城を見たあと、県立博物館でサンゴ礁の展示を見、サンゴ礁保全のための講演会を聞いた。

 それからは、レンタカーで北部へ出かけ、ご存じ「美ら海水族館」を見学し、残波岬の夕日を眺め、海岸の砂浜に座って南国の海を眺めた。どこの観光地へ出かけても、ホテルの駐車場でも、並んでいるのは90%がレンタカーなのに驚いた。沖縄は街中のモノレールができたものの、いまだに車が無ければどこへも行けない。バスも昔に比べると速くなったが便数は減ってしまった。車がなければ生活できない社会になっている。

 最後の日も快晴だった。前の夜にはずいぶん雨が降っていたが出かける頃には雲一つ無い快晴になった。南部の海岸へ行き、海を見ながらのんびり昼食を食べお茶を飲み、人にあまり知られていない砂浜に行き、碧い空、青い海、白い砂を心ゆくまで楽しんだ。仕事がなければ、沖縄は、南国はいいなあ。いや、仕事があっても良いかもしれない。沖縄に住んでみたいと思いながら、関西への飛行機に乗り込んだ。

 明後日から、今度は仕事でベトナムへ行く予定。ベトナムの多くの海岸はマングローブの泥地だから、白い砂浜と青い海という訳にはいかないが、おいしいベトナムコーヒーを飲みながら、人々と難しい話をしてこよう。