新聞を見ていると、環境教育であいかわらず「ごみ拾い」を実施している学校が多い。いったい環境教育では何を教えているのだろうか?「ごみ拾い」でいったいどのような環境問題が解決できるのか、先生たちに聞いてみたい。
環境教育では、人間が生き延びるための重要な環境問題をどのように考えて行動していくべきかを教えるはずだ。しかし、多くの「環境」教育では、ごみ拾いのように身の回りをきれいにしましょうという「環境美化」教育がほとんどのような気がする。これは環境の意味が違う。「環境教育」とはいえない。
整理整頓やごみを捨てないというのは、たしかに大事な教育である。しかし、それは環境教育ではない。道徳の範疇の問題だろう。もっとも「ごみ拾い」から環境教育につなげることは十分出来る。それは、ごみが散らかっているから何とかしようという発想ではない。ごみは散らかっていても人間の生存には関係がない。しかし、なぜこんなにごみが散らかっているのか、という問題を考えさせるところから環境教育が始まる。
その答えをみんなのモラルが悪いからとしてしまえば、それは環境教育にならない。モラルが良かろうが悪かろうが、ごみを大量に出す消費社会に問題があるといいう答えを生徒から引き出すことが出来るかどうかが、環境教育を行う先生の力量だ。さらには、消費社会に引きずられて生きている自分たちの生活様式を何とかしよう、変えていこうという方向が出てくれば、環境教育は成功したといえる。
安易にごみ拾いをさせ「環境教育」と称していると、生徒たちは勤労奉仕が環境問題の解決方法だという間違った考え方をしてしまう。それでは、だから環境教育は嫌いだという生徒が出ても不思議ではない。来れからの子供たちには「環境」問題は死活問題になりうる。地球温暖化についても、生徒たちに何が出来るかを考えさせる必要がある。教師も実践が求められている。
いよいよ明日は参議院選挙。今回は自民党の暴走政治にストップをかけられる可能性のある選挙のような気がする。最後まで眉につばを塗りながら期待している。
環境教育では、人間が生き延びるための重要な環境問題をどのように考えて行動していくべきかを教えるはずだ。しかし、多くの「環境」教育では、ごみ拾いのように身の回りをきれいにしましょうという「環境美化」教育がほとんどのような気がする。これは環境の意味が違う。「環境教育」とはいえない。
整理整頓やごみを捨てないというのは、たしかに大事な教育である。しかし、それは環境教育ではない。道徳の範疇の問題だろう。もっとも「ごみ拾い」から環境教育につなげることは十分出来る。それは、ごみが散らかっているから何とかしようという発想ではない。ごみは散らかっていても人間の生存には関係がない。しかし、なぜこんなにごみが散らかっているのか、という問題を考えさせるところから環境教育が始まる。
その答えをみんなのモラルが悪いからとしてしまえば、それは環境教育にならない。モラルが良かろうが悪かろうが、ごみを大量に出す消費社会に問題があるといいう答えを生徒から引き出すことが出来るかどうかが、環境教育を行う先生の力量だ。さらには、消費社会に引きずられて生きている自分たちの生活様式を何とかしよう、変えていこうという方向が出てくれば、環境教育は成功したといえる。
安易にごみ拾いをさせ「環境教育」と称していると、生徒たちは勤労奉仕が環境問題の解決方法だという間違った考え方をしてしまう。それでは、だから環境教育は嫌いだという生徒が出ても不思議ではない。来れからの子供たちには「環境」問題は死活問題になりうる。地球温暖化についても、生徒たちに何が出来るかを考えさせる必要がある。教師も実践が求められている。
いよいよ明日は参議院選挙。今回は自民党の暴走政治にストップをかけられる可能性のある選挙のような気がする。最後まで眉につばを塗りながら期待している。