ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

夏が来たら 昔はどうしたか

2011-06-30 | 日記風
とうとう怖れていた夏がやって来た。うだるような暑さが続く。今年の6月は例年になく涼しいなと喜んでいた矢先、下旬になったら6月だというのにもはや猛暑日が現れた。職場でも自宅でもエアコンを使わない生活をしている私。なにも原発が停止して電気が足りなくなるからと言う電力会社の企みに乗せられているわけではない。ずっと前から、冷房は体に悪いと言うことを実感として身についていたからだ。それにしても35℃を超える猛暑には、体がついていかない。子供の頃はどうしていただろうと考えてみた。あの頃は、冷房などはなかった。猛暑日というのは、あの頃にはなかったように思うが、それでも真夏は暑かった。そんなときは、家の前の道路に打ち水をした。窓は開け放ち、夕方になると窓から涼しい風が家の中を通り抜けていった。真昼の暑い盛りには、部屋に蚊帳を釣って、団扇を使いながら昼寝をした。夕方涼しくなってから、みんなと暗くなるまで遊んだ。そんな日が、思い出される。

 そうだ。冷房など無くても、みんな元気に遊んだ。昼寝をしてもっとも暑い日中をしのいだ。熱射病にかかる人ももちろんいた。でも、それでもそれほど大事にはならなかったように思う。暑い日の学校の朝礼は、辛かったが、今のようにバタバタと生徒が倒れると言うこともなかった。冷房で過保護に育った今の若者は、ちょっとしたことで簡単に倒れる。だから、電気がないと生きていけないと本気で思ったりするのだ。

 北海道のサンナシ小屋には、電気も水道もない。でも生きて行くには何も困らない。暗くなれば寝ればいいし、夏など朝の3時半には夜が明ける。明るくなれば起き、暗くなれば寝る。その生活に電気など必要ない。携帯電話など使わなくても、生きることはできるし、むしろストレスが無くなる。こんな生き易い暮らしはない。断捨離という言葉が流行っているようだが、断捨離をするなら、一番に携帯電話を捨てることだ。そして、少しずつ電気を使わない生活を始める。

 といいながら、サンナシ小屋へ行く機会がどんどん無くなってきた。大震災後は、まだ一度もサンナシ小屋を訪れていない。京都の夏が私の体をむしばみ始め、耐え難くなったら、北海道へ逃げだそう。でも、まだ京都の夏は本番には遠い。汗が体をツーッと流れていくのも、まだまだ気持ちいいくらいのものだ。頭もまだちゃんとしている。なんといってもまだ6月なのだ。明日から、7月にはいる。果たして今年はどんな夏が来るのだろうか。

喉元過ぎれば熱さを忘れる

2011-06-22 | 日記風
3月11日の大震災以来、初めて東京に来た。放射性物質を取り込む怖れもあるので、東京へ行くときはマスクをしていった方が良いと聞いていたが、東京にいる時間がわずかなので、マスクの用意もしないで出かけた。さぞかし東京はマスク姿が氾濫しているのだろうと思って行ったが、あにはからんやほとんどマスク姿はいなかった。放射能は姿もなければ色もない、臭いもないので、誰も気にしなくなったのだろうか。おそろしいことだ。

 午後からの会議のために出かけたが、少し早めに目的のビルに着いた。そのビルでは昼休みコンサートが開かれていた。ヴァイオリンとピアノの合奏で、ハンガリアンダンスなど数曲が昼休みの40分間に演奏する。月に一度のランチタイムコンサートだった。ここのところクラシックについているらしい。午後の会議は重苦しい空気だったので、せめてこのコンサートで気晴らしができたのが、幸いだ。会議が終わってすぐさま東京をあとにした。

 福島第一原発の1~3号機では、大量の高濃度汚染水が溜まり続けている。一方、行方不明の汚染水が推定1万トンにも及ぶという。いくら汚染水が行方不明になったか、政府も把握できていないらしい。1万トンの高濃度汚染水が行方不明ということは、もう地下に漏れてしみ出したとしか考えられない。これだけの汚染水が地下にしみ込んだとすると、地下水はもはや人間が住むこともできないほどの放射能を抱え込んでいることになる。しかも、炉心は溶けてしまい、メルトスルーが起こっている。広島原爆の1000発分以上の死の灰を持った核燃料が地下にどんどん沈んで行っていると考えてももう不思議ではない。専門家からは、それを防ぐために地下に巨大なダムを作るべきだという話も出ているが、いまからではその技術もなく、金もない。もはやチャイナシンドロームを手をこまねいて見ているしかない事態になっているようだ。日本はもうおしまいではないか。

 そのような事態になっても、東電は知らぬ振りをして、株主総会対策などにうつつを抜かしている。この事態になっても東電は人の命より自分の会社が大事なのだ。そして、原発推進議員たちといっしょに、菅首相の追い出しに熱心だ。東電は潰して欲しい。東電の資産と社員の個人資産も含めてすべて売り払い、賠償をさせよう。国民の税金で尻ぬぐいをさせられたらたまらない。それでも先日話をした若者は、「でも原発がもっとも安いエネルギーなんでしょ」と平気な顔で言ったものだ。それがエリートと言われる大学の学生だった。

梅雨空の山歩き

2011-06-22 | 花と自然
梅雨らしい梅雨が今年はやって来た。ずっと雨が降り続き、天気予報も傘マークが続く。いろんな会合や集会などもあり、週末の山歩きがなかなかできない。こうなったら、少々の雨でも歩いてみるほかないと、雨模様の日に、近くの山を歩くことにした。近くなら、雨に降り込まれたらいつでも帰ることができるからと思って。

 ぽつりぽつりと落ちてくる雨の中、歩き始めた。すぐに樹林の中になり、雨が落ちてこなくなった。薄暗い常緑樹林の林の中、足元を見ながら歩いていると、大きなカタツムリが木の切り株の上で元気に歩いている。カタツムリも最近は見ることが少なくなったなあと感慨深い。それでも梅雨に入ってからカタツムリが這っているのを何回かみつけた。京都の町の中は、東京ほど自然に遠くないことを感じる。

 どうやら雨も上がったようだ。標高299mの瓜生山の頂上を越え、比叡山への縦走道を歩き始める。梅雨の真ん中にさしかかったこの時期、やはり目につくのはキノコ類だ。朽ち木にはいろんな色のタコウキン類のキノコがいっぱい付いている。とくに先を急ぐ山旅ではないので、ひとつひとつキノコ類の写真を撮りながら、ゆっくり歩く。何度も歩いた道なのだが、この時期はもっとも花が多いように思う。梅雨は雨もあるし、暑さもあるので、近くの山といえどもあまり歩いたことがなかったが、意外とこの近郊の山にも花の多い時期があるんだと覚った。来年からは、雨を気にしないでこの時期、もっと近くの山を歩いてみようと思った。

 林道に出てほとんど水平な山道を歩く。その途中に、ワラビの大群落があるところを見つけた。いや、ここにワラビの群落があることは何度も歩いていたので知っているのだが、6月の今頃になっても少しだがまだ食べられそうなワラビの芽を見つけた。しばらくそこに立ち止まって、今晩のおかずになりそうなだけワラビを摘んで、ザックに入れる。

 そこからまもなく比叡山に直接登る道と街の方へ下りる道の分岐点につく。いつもここから比叡山に直接登る道を行くのだが、今日はまだ歩いていない林道をそのままずっとたどってみることにした。どうやらもう雨は降りそうもない。これなら比叡山まであがれるだろうと。しばらく川に沿って行くと、河原に大型の植物の群落が見えてきた。どうやらクリンソウらしい。花はもう終わってしまったが、クリンソウの大群落がある。いやあ、惜しかったなあ。もう1-2週間早かったら、このクリンソウの大群落の花盛りを見られたのになあ。残念。来年はきっと5月の終わり頃ここに見に来ようと心に決めた。でも来年覚えているという保証はないが。



 さらに歩くと、砂防ダムの上の人工池の周りの木に、白い塊がぶら下がっている。おや。これはモリアオガエルの卵塊ではないか。京都のこんな近くの山でモリアオガエルが普通にいるとは、驚きだ。やはり歩いてみるもんだ。卵塊が産み付けられている木は、エゴノキ。白い花が枝だからたくさんぶら下がっている。地味な花だが、数多いのでなかなかのもの。地味好みの私には好きな花だ。テイカカズラの花と共にあちこちに落花が白く地面を覆う。スイカズラの花もちらほらと見かける。小さな円い蕾から、開くとまるで花火のような薄紫のコアジサイが山道に沿って花を咲かせ始めている。連れ合いとちょっとした言い争いをして家を出たが、浮き世のことは山を歩くとすべて忘れることができる。やっぱり雨など気にしないで山に来て良かったと、山へ来るたびにつくづく思う。


 比叡山ドライブウエイに出会ったところで、今日は頂上まで行かずに来た道を歩いて下りてきた。見てきた花や虫や鳥をもう一度見てみたいと思ったからだ。ワラビの群落まで戻って、そこから京都の町にまっすぐ下りる道を選ぶ。あまり人は歩かない道と見えて、かなり危険な崖のトラバースがあったりする。ちょっとしたスリルも味わいながら下りる途中、足元にサンコタケのけばけばしい橙色を見つけた。三鈷と書き、密教で使う仏具とよく似ているから、その名が付いた。ものの本によると、このサンコタケは鼻もひん曲がりそうな悪臭がすることで、つとに有名らしい。しかし、私には何の臭いもしなかった。この時期だからなのか、それとも私の鼻がもう感度低下してしまっているのか。この色はかなり毒々しいが、形が独特なキノコなので、名前は覚えやすい。



 とうとう下りるまで雨に遭うことはなかった。久しぶりに4時間以上歩いた。でも鼻や虫や鳥を見ながら歩くと、長く歩いた気はしない。長く歩いた証拠は、かえってから体が教えてくれた。疲れてついつい居眠りが出た。翌日は体が少しぎごちない。痛みがどこかにあるせいだろう。筋肉痛も久しぶりだ。昔は4時間超くらいは何でもなかったのだが・・・。

ピアノコンサートと「ふるさと」

2011-06-19 | 日記風
夕食もそこそこに、コンサートホールに出かけた。いまでは世界でも1.2を争う菊池洋子さんのピアノコンサートを聴きに行った。ピアノのコンサートなどというのは、人生長くやっているが、あまり行った覚えがない。ましてや世界に伍するピアニストの演奏など、テレビで見る以外、聴いたことはない。菊池洋子さんというピアニストも、みんな知っている有名なピアニストなのだろうが、私は聞いたことが無かった。クラシック音楽は、BGMとして聴くことはあっても、それを目的として聴くこともなかったし、聴いても分からない。それでは、なぜピアノコンサートに聴きに行ったのか。無料の入場券があったからに他ならない。

 案の定、彼女がもっとも力を入れていたと思われるベートーベンの曲を聴いているうちに、眠気を催してきた。どこかで聴いたような気もする曲だけど、真面目にクラシックを聴いたことがない私には、皆目分からない。真っ赤なドレスに身を包んだ彼女の白い指が真っ白な鍵盤の上で、目にも止まらない速さで動いているのを、不思議な気持ちで見ていた。彼女の指は鍵盤の上を右に左に上に下にと、踊り、飛び、跳ねていく。ところが前の方に陣取った客席から見上げる舞台上のピアノの鍵盤は、まったく動いているようには見えない。学校の先生や、生徒たちが弾くピアノの鍵盤は、弾く人の指が触れれば、下に押し下げられるのが見える。ところが、菊池洋子さんの弾くピアノの鍵盤は、まったく下に下がっていない。いくら目をこらしても鍵盤が押し下げられているようには見えない。しかし、流れるような、轟くような、そして絶えず流れる小川のせせらぎのような音楽は流れ続ける。

 それが気になって、眠気はどこかへ行ってしまった。楽曲は、いつのまにかショパンの短いものに変わり、1回の演奏が3-5分程度になった。演奏が1曲終わるたびに、ためらいがちの拍手があったが、だんだんと拍手も熱を帯びてきた。私でも知っているショパンの「別れの曲」など親しみやすい曲が流れると人々の拍手もいっそう熱を帯びる。そして、演奏曲は終わった。おきまりのアンコールを催促する拍手があり、これも予定通りのアンコール演奏があり、それでも拍手を止めようとしない観客のために、彼女は「ふるさと」を演奏し始めた。これならみんな知っている。そして長い演奏は終わった。クラシックはよく分からないが、彼女の演奏のうまさは、十分よく分かった。音楽だけを聴いていたのでは、きっとその良さは私には分からなかっただろう。弾いている指の動き、手の動きを見て、初めて彼女の凄さが分かったような気がした。

 先月だっただろうか、ある雑誌の投書欄で、「君が代」の起立斉唱を強制する都の教育委員会や、大阪府の橋本知事などのやり方を批判した投書があった。その投書氏は、いまもっとも国歌にふさわしい歌は、「ふるさと」だとして、この歌こそ国歌にして欲しいと言っていた。ウサギ追いし かの山 小鮒釣りし かの川 ・・・・ 大震災で被災した人たちを慰めるために行われた地元の高校生の合唱で歌われたこの歌に、多くの被災者が涙を流した。「ウサギ追いし」を「ウサギ美味し」と勘違いしている若者もいると聞くが、誰しもこの歌を聴いて自分たちの故郷を忍んで涙しない人はいないだろう。いつどこで聴いても良い歌だ。「君が代」を聴いてもだれも感動などしない。ぜひとも、「ふるさと」を日本の国歌にして欲しい。この歌なら、すべての人が起立して斉唱したいと思うに違いない。それこそ国歌にもっともふさわしい歌である証拠だ。

反原発集会に参加した

2011-06-11 | 日記風
今日は6月11日。3月11日の大地震、大津波と原発事故から3ヶ月目である。3ヶ月経ってもフクシマ原発事故の収束の目処も立っていない。やはり原子力は人間が制御できないものであることが、明らかになってきた。原発を核の平和利用だとして原発を作り続けたことが誤りであったことは間違いない。それでもいまだに原発推進を掲げ続ける人間がいる。よっぽど美味しいことがあるのだろう。そんな奴らに人々の将来を託すわけにはいかないと、今日、全国で「反原発100万人集会とパレード」が全国で行われた。

 私もこれに参加しなければイケナイと、大阪中之島公園で開かれた関西集会に駆けつけた。中之島公園はほとんどがバラ園などに占められて、広場と呼べる空間は少ない。その空間に今日は人がいっぱいだ。それぞれてんでに自作のポスターやプラカード、脱原発への思いを書きつづった上着などを用意し、狭い会場に溢れている。集会の途中で主催者の見積もりでは5000人を超えたかなということであった。この原発事故が深刻化している中で、反原発集会に関西でわずか5000人かと、残念に思う。全国で100万人を集めると豪語している集会にしては、あまりに少ない。東京がもっとも多いのだろうが、それにしても関西で数万人は集めないと。原子力村の人たちからやはりバカにされるだろう。

 淀屋橋駅前から天満橋を通り、御堂筋を南下し、難波駅近くの公園まで歩いた。約2時間と15分くらい。最近の運動不足が少しは解消されたようだ。コンクリートの上をずっと歩いたので、終わった後駅の階段を上るとホッとする。足が棒のように硬くなっていたから、登るときの足の曲げ具合が気持ちいいのだ。途中、右翼の攻撃があった。といっても暴力をふるわれたわけではない。日の丸を持ち、デモ行進に向かって、ありとあらゆる暴言、侮辱をありったけの大きな声で投げかける。感心したのは彼らの声。デモ隊の声は拡声器を使う人以外は温和しく、聞こえにくいくらい。だが、かれら右翼の声はよっぽど鍛えているのか、高い声で良く通る。しかし、10人くらいがそれぞれに大声で叫んでいるので、何を言っているのかはまったく分からない。でもあの熱心さと執念にはちょっと驚いた。最近、旧来の暴力団と一体になったような右翼と異なり、若者中心の狂信的な排外主義者の集団が活動を盛んにしている。主に「在日特権を許さない会」とかいうナショナリストで、日の丸を掲げるところは旧右翼と同じだ。今日の右翼にも、若い女性が混じっていた。髪を茶色に染めて、おしゃれな帽子をかぶり、その口から聞くに堪えない汚い罵詈雑言が発せられていた。彼らは本当に愛国主義者なのだろうか。ナショナリストならもっと日本の文化を大切にして、アメリカに押しつけられた原発を拒否するくらいの気構えが欲しいのだが、彼らが言っているのは、原発反対は非国民が言うことだというのである。驚いた。国を愛するが故に、国を無くしてしまうほど危険な原発を止めようと言っている。彼らはアメリカの言いなりで日本をダメにしてしまおうというのだ。いったいどちらが愛国なのか。茶髪にするのが日本を愛することなのか。アメリカ人のまねをしていないで、もっと日本文化を愛してはどうなのだろう。

 さすがに今日の警察のデモ規制は、これまでにくらべて緩やかだった。いつもなら武装した警官も出るのだが、今日はみな警棒だけの丸腰だった。さすがに原発反対の世論が過半数を占めるようになったことに警察も無視できないのだろう。もっと人々が街頭にでることが、日本から原発を無くすことに確実につながる。結局何人が参加したのか分からずじまいで帰ってきたが、全国で10万人くらいは参加したのだろうか。予定の10分の1だが、やがてそれが10分の2になり、10分の3になれば、日本は明らかに変わることができる。そうでなければ、日本はもう人間が住めない土地になるだろう。

 3月12日にはもう燃料棒のメルトダウンは起こっていたという。そして、原子炉の圧力容器の底が溶けて、メルトスルーが起こった。それを東電も、原子力保安院も今頃気がついたという。ウソも休み休み言え。彼らはもっと早く分かっていたが、それを国民に言う勇気がなかった。そして今まで隠蔽し続けてきた。今回、それを認めたのは、IAEAへの報告書の中だ。国民には知らせようとしないで、外国の機関に報告するだけ。日本国民を無視し続ける彼ら。

 でも、管直人首相への不信任案は、いま出すべきではないと先日書いた。どうしていまになって不信任案が出たのか、よく分からなかった。しかし、それが今日、よくわかった。管直人首相が、浜岡原発を停止しただけではなく、エネルギー政策の見直しに言及し、さらに自然エネルギーへの転換を唱えだしたのが許せないと考えた奴らがいたのだ。この原発事故の最中に、地下原発推進会議を立ち上げた国会議員がいた。その一人が、鳩山前首相。その他にメンバーとして、森喜朗、平沼赳夫、羽田孜、安倍晋三、谷垣禎一、渡辺恒三など、過去に自民党で原発推進してきたA級戦犯ばかり。いままた国民を犠牲にする犯罪に手を染めようとしている。与謝野馨大臣は、かつて日本原子力株式会社で原発を作ってきた。そんな奴が、東電に罪はないと庇う。彼らが、菅首相の脱原発政策への移行に焦って行ったのが、内閣不信任案だった。小沢一郎も電力会社とずぶずぶの関係だった。みんな責任を取って辞めてくれ。

今年も蛍は飛んだが・・・

2011-06-01 | 花と自然
今日は6月1日。衣替えの日なのだが、寒い。そこで今朝は昨日までと違って上着を着ていった。歩けば上着は暑くなるが、部屋でデスク仕事だけをしていると上着があった方が良い。いったい今年はどうなってしまったのか。自然も原発事故に惑わされてしまったのかもしれない。今年の春は原発事故に惑わされて、いつか花も散り終えてしまった。しかし、梅雨に入ったというのにまだ紫陽花は咲いていない。

 ところが、蛍はもう飛び始めた。いや、去年よりは1週間ほども遅いようだ。でも、夕食を終えて、琵琶湖疏水沿いの道を散歩しながら、蛍の飛び交うのを眺めるのは、心休まる。昨夜は蛍よりも人の数の方が多いほど、見物客が多かった。ここしばらく蛍が飛び始めたのにも拘わらずずっと雨が続いていたから、梅雨の晴れ間の昨夜は一気に人も増えたようだった。でも今日はまた雨。気温もかなり低めだ。1週間遅れで飛び始めた蛍も、しばらくは草むらや石垣にしがみついてほとんど飛び出そうとしなかった。ようやく昨夜になって水の上の空間を発光しながら飛び交わし、人々のため息を誘った。

 ところが、今夜はまたまた冷たい雨で、蛍も数少ない。じっとしている。そして今週末はまた雨続きのようだ。この調子では今年は蛍が盛大に飛び交うところが見えるのは、ほんの数日しかないかもしれない。雨に降り込められている内に、蛍もいなくなり、紫陽花も枯れてしまうのかもしれない。でもフクシマの原発事故が収束もできず、避難者がまともな生活も取り戻せないときに、蛍も紫陽花も味わう気持ちではないのかもしれない。そんなときに、国会の大騒ぎ。ああ、無情。