ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

鳩山首相の真意はどこに?

2010-04-30 | 政治
鳩山首相の真意が読めない。普天間基地を一部徳之島へ移し、辺野古の浅瀬に杭打ち方式で滑走路を造るという。国外、少なくとも県外と言ってきた鳩山首相が、こんなアホな腹案を出してくるとは思わなかった。徳之島は2万5000人の人口だが、先の反対集会には1万5000人が集まった。沖縄では県内にあらたな基地を作ることに反対して9万4000人が集まった。徳之島を1億2千万人の日本に例えれば、7200万人集まったことになる。沖縄の場合でも日本なら824万人が反対のために集まったことになる。これだけの人が反対で集まったら、まず政府は無理をすることはできない。昨年までの自公政権なら、アメリカの言うとおりに住民の意向など無視してやってきた。しかし、それを批判して政権交代した民主党連立政権は、それをやるわけにはいかない。

 それを承知で、こんなアホな案を出してきた鳩山首相はいったいどうしたんだろう。やはりボンボンはボンボンの甘えがあるのかもしれない。それとも自民党がやってきたことなのだから、自分もやれると思ったのだろうか。あのごり押しで沖縄県民に負担を押しつけてきた自民党のやり方でさえ、辺野古沖埋め立て案ができてから13年も工事をすることができなかったのだ。それを鳩山首相は・・・あまりに甘い。

辺野古の海を埋め立てるのは、自然への冒涜とまで言い切った鳩山首相。杭打ち方式なら冒涜ではないなんて言うのだろうか。それこそ自らの政治信念への冒涜ではないか。そんな詭弁を弄して、恥ずかしいと思わないのだろうか。

 しかし、ひょっとして鳩山首相の真意は別のところにあるのかもしれないとかすかな可能性を考えてみる。つまり、徳之島も辺野古もどうせ無理だ。無理筋を承知で鳩山案を作り、住民の反対でどちらもできないという既成事実を作って、アメリカにあきらめてもらおうという作戦かも。そうすると普天間基地はそのままになるぞとアメリカは脅している。しかし、辺野古に新基地をつくるという前提だが、アメリカは米軍再編の一環として海兵隊の大部分をグアムに移転させる計画を進めている。アメリカのグアム移転の予算も付いた。日本政府も、「おもいやり」で巨額の移転費用を負担しようとしている。これも本当はおかしな負担なのだが、手切れ金だと思えば少しは出してやってもいい。辺野古に滑走路を造ると言うことにしておいて、海兵隊のグアム移転をさっさとやってもらい、最後になってやっぱり辺野古には基地が作れませんでしたと尻をまくればいいのだ。

 日本の安全保障とはおよそ関係ない海兵隊なのだから、それでちっとも困らない。鳩山首相は安全保障上、海兵隊は日本にいてもらわねばならないと口で言っているが、本気なのかどうかはわからない。でも、憲法改正論者の鳩山首相なのだから、きっと軍事が日本の安全を守ってくれていると勘違いしているのだろう。やっぱりそうすると鳩山首相の真意は沖縄に海兵隊の基地を新しく作りたがっているのかもしれない。アメリカには逆らえないと。しかし、それなら「国外、少なくとも県外」と言って政権交代したのはどうなるのだ。やはりウソでしたでは通らない。

 社民党は、鳩山首相の腹案が政府案として確定するのは断固として阻止すると言っている。民主党がその案で固まれば、社民党は連立を離脱することを決めたらしい。それでこそ公約を果たす社民党だ。ここで踏みとどまるようでは、社民党の未来もなくなる。がんばれ、社民党。アメリカ海兵隊は日本にいらない。日本からたたき出そう。

支配するものと川の水

2010-04-25 | 南の海
フィリピンのミンダナオ島には、イスラム教徒が多く住んでいる。インドネシアに近く、ミンダナオから島嶼群をつないでボルネオ島までひとつながりの多様な民族が住んでいた。200年近くのスペイン統治時代にルソン島のスペイン総督府が結局まつろわぬミンダナオの人々を完全に統治することをあきらめたほど、ミンダナオ地方の自治意識は強い。その後、日本の短期占領のあと、アメリカによる統治があり、マニラ政府が政治的経済的にミンダナオの統合を進めてきたが、キリスト教徒が圧倒的に多いルソンから移住してきた人々と、ミンダナオのイスラム教徒の間にはしっくりこない関係が続いている。イスラム教徒は貧しい人々が多く、ルソンから来たキリスト教徒には富裕で政治や経済を牛耳っている人が多い。それがいまでもミンダナオに反政府組織が三つもあり、どれもそれぞれ武装組織を持って政府軍と戦闘を続けていることの底流にある。

 今回、これまで何度も訪ねてきた南ダバオ州とは違って、もう少しイスラム教徒の多い北部イリガン州を訪れた。イリガンには多くの鉱山があり、産業開発が行われてきたために、街の賑わいはダバオにも匹敵するほどのように見えた。日本の商社マンもかなり来ているらしい。しかし、街ではやはりイスラム教徒を見かけることが多い。男の人は宗教を見分けるのは難しいが、女性はイスラム教徒は一見してわかる。スカーフなどで頭を隠しているから。さらにブルカとよばれる真っ黒い布で目以外の体のすべてを隠しているイスラム教徒女性もしばしば見かける。このブルカ姿の女性はダバオでは見かけたことがなかった。

 スーパーマーケットの人混みの中でブルカ姿の若い女性たちを見かけた。すれ違ったときにブルカの中の目を見て驚いた。目の回りにきらきらと輝くラメ(というのだろうか?)を装飾しており、睫毛は長く作られ、目の周りにはアイシャドウらしき色がつけられている。まるで原宿あたりをうろうろしている若い女の子のようだ。ブルカを来ている女性といえば、敬虔なイスラム教徒で、おしゃれなんかとは縁遠いと思っていた。実際、これまで南ダバオ州で見てきた頭から布をかぶった女性たちはみな貧しくて、生きていくのが精一杯のように見えた。化粧をしている人は、ほとんどいなかった。でも、よく考えてみれば、若い女性が経済的に許されるなら、ブルカの下でも精一杯のお化粧をしたいと思うのは当たり前なのだろう。しかもブルカを着用することを義務づけられた若い女性にとって、他人に見せるために化粧できるのは目とその周りだけなのだ。彼女らは、思いっきりその女心を目と目の回りに集めたのに違いない。けっして原宿あたりをうろついている不良娘と同じに見るわけにはいかないのかもしれない。

 今回も南ダバオ州のマリタというところで、ジュゴンを見ようと思って来た。しかし、昨年に続いて、今年もジュゴンは姿を見せなかった。観察した時間がせいぜい二日間のうちの4-5時間くらいだったので、ジュゴンがいなくなったと結論づけるのは早すぎる。実際、土地の人は今でもジュゴンが見られると言っていた。しかし、ジュゴンが少なくなっていることも、地元に人たちの共通した話でもあった。どうしてジュゴンが減っているのか。昨年の観察でジュゴンが見られなかったことから、今年はこの原因を探しに行った。およその目処はつけていったのだけど、やはりその原因は山林を切り開いて大規模に作られているバナナや椰子のプランテーションだろうと思う。川をさかのぼってみると、川の両側の平野はほとんどバナナのプランテーションに変わっている。昔はもっぱら日本への輸出のためのバナナだったけど、今は中国やアメリカ向けが多くなっているという。プランテーションの所有者はアメリカ資本やマニラの大資本だ。

 バナナや椰子のプランテーションは、山林をほぼ完全に切り倒して作られるので、表土が流出しやすい。流出した表土は、川を濁らせ、沿岸の海水の透明度を減少させる。それによってジュゴンの餌である海草が減る。そしてジュゴンも餌不足で減少する。しかも、プランテーションの問題は、農薬の大量使用である。使用した農薬が雨によって大量に海に流れ出て、海草を枯らす。どちらにしてもバナナや椰子のプランテーションは、ジュゴンの絶滅に大きい貢献をしている。そしてそれを食べている私たちは、ジュゴンの絶滅を促進していることになる。

 そんなことを考えながら川をさかのぼっていったが、中流から上には行くことができなかった。そこに流れて込んでいる支流は、きれいな水だったので、その支流に沿ってもっと上に行きたかったのだが、その上流は反政府組織の支配地域だという。反政府組織が支配している地域から流れる川の水があんなにきれいだというのは、まさに政治によって環境も支配されていると言うことを表しているのだろう。その意味を慎重に考える必要があると思った。

フィリピンの選挙とホテル

2010-04-21 | 南の海
一年ぶりでフィリピンのミンダナオ島に入る。着いた日に、いきなりミンダナオのバシラン島で爆弾が破裂して15人が死ぬというテロが伝えられ、ちょっと驚いた。しかし、行き先の南ダバオ州からは遠いので、あまり心配はない。それよりもフィリピンではいま選挙の真っ最中で、大統領から地方の議員までありとあらゆる選挙が同時に行われており、フィリピン人の選挙への関心の高さもあり、実に賑やかだ。大統領選挙の投票率はいつも80%近い。日本の人々の選挙への無関心と比べて大きな違いがある。もっとも選挙に関心があるから民主主義が進んでいるかどうかは分からないが。

 とにかく、あらゆるところに選挙のポスターがべたべたと貼られ、景観の悪いこときわまりない。森の中に椰子の葉でふいた小屋が数軒建っている集落を訪れたときも、その周りの椰子の木の幹にたくさんのポスターが貼られているのを見て驚いた。森閑と静まりかえった集落にコーランの声が朗々と響いているようなこんなところまで?という感じだ。モロイスラム解放戦線が近くで反政府の戦争を続けている村で、唯一聞こえるコーランの声を聞いていると、どこからかイスラム教徒たちがじっとこちらを見ているのではないかという恐怖も感じる。コーランの詠唱は、異教徒には威圧感さえも与えている。

 17日にイリガン市の宿にはいる。安宿で部屋が日本ビジネスホテルほどに狭いので驚いた。あまり外国でこんなに狭い宿に泊まったことがない。トイレは一応水洗トイレだが、水槽が壊れていて、便器に水が流れっぱなしになっている。しかし、使用後のフラッシュアウトができない。結局、普通のトイレのように水をくんで流さないといけない。次の日は、別の部屋に変えてもらった。今度の部屋も同じように狭い。しかも窓がない。昼間はいないので、窓はなくてもいいのだが、なんとなく閉塞感がある。トイレはちゃんと使えるし、シャワ-と便器の間には仕切りもある。ところが、問題が潜んでいた。シャワーを浴びようと部屋に入ってドアを閉めたら、ドアのノブが壊れていて、押せども引けども開かない。シャワー室には電話などあるわけ無いし、読んでも聞こえるはずもない。いよいよこれはどうしようもないと、思案に暮れた。しばらくして、ドアを蹴破ろうと思い、ドアを見ると下の方に空気取り入れ口の窓があり、それを引きはがすと簡単にとれて、小さな窓が開いた。そこから体をむりやり通して、擦り傷だらけになりながらなんとか部屋の外へ出ることができた。いまいましいホテルだ。これで勘定がいくらになるのか、チェックアウトが心配だ。

 結局、翌日になって別のホテルに替えることにした。というのも、朝になってホテルのフロントマンに事情を話したら、彼は私が換気用の狭い窓から必死に出てくるのを想像したらしくて、真っ赤になって笑っているのだ。さすがに私もこれには怒りがこみ上げてきた。謝るところを笑うとはいくら私が紳士?でも、許さない。一喝したら、まじめな顔になって謝ったけれども、それまで昨夜のことは忘れかかっていたのに、怒りが頭を支配してしまった。やはり、怒るところは怒らねばならないと思った。ついでに宿代を負けさせた。一泊500ペソ(約1100円)のところを、半額にさせた。そのくらいにしても当然だろう。本当ならタダにさせたいくらいだったが。

 取り替えたホテルは教会の横にあり、べたべたとキリストの顔のポスターをいたるところに貼り付けてある。キリスト教にあまりいい感情を持っていないのだが、安心できるような気にはなる。安ホテルには違いないが、昨日のホテルに比べるとややましだった。シャワーもお湯が出たのには感激した。日本からツアーで行くような旅行者は決して泊まらないホテルもいろいろあって、リスキーだが面白くもある。

「たちあがれ」だって、終わっているよ

2010-04-11 | 政治
立ち上がることも難しくなったお年寄りたちが集まって、「たちあがれ日本」だって!近年、驚くことも多くなったが、これくらいアホらしくて、おかしい話はない。平均年齢が70歳の老人たちが新党を作るという。新党を作るんではなくて、引退するんじゃないのか。平沼赳夫なんて、前世紀の遺物のような右翼ナショナリストが、新しい党をつくるなんて、おかしくておへそが茶を沸かす。どうみても新党ではなく、古党だろう。石原慎太郎なんて、税金を使って身内を優遇したり、遊び回るだけの人間と、ナベツネなんて自分を何様だと思っているのか知らない尊大じじいが仲を取り持ったというが、しょせん「終わり」の面々ばかりだ。

 与謝野馨も「みだれ髪」を振り乱して、いまさらの新党。たんに自民党が沈みそうなので逃げ出したネズミでしかない。自民党は莫大な借金があるそうで、与党にいる間は官房長官の機密費を横流ししてなんとでもごまかせたが、野党となると借金をどうするか、幹部は青息吐息だという。与謝野は経済には強いと言われているから、自民党の借金財政の責任を取らされるのがいやで、急いで逃げ出したんじゃないか。古代復古の平沼なんかといっしょになって日本を世界から孤立させるのでは、財政再建なんかやったって、無駄だろう。保守主義という名の反動主義とはっきり決別しなければ、与謝野たちものたれ死にするだけだ。

 とにかく思想的立場がまったく違う人たちが、政党助成金を欲しくて、5人を何とかそろえて新党を立ち上げたが、しょせん第二自民党でしかない。早くも自民党と一緒に沈んでいくだろうという予想がでている。あわよくば無党派層の票を獲得しようという思惑なんだろうが、結局自民党の票の奪い合いでしかない。無党派というのは、政治の素人とは限らない。むしろ冷めた見方で政治をちゃんと見守っている人が多い。無党派と行って甘く見ていたら大間違いだ。

 自治体の経験者も新党を立ち上げるという。それもいいだろう。政界再編という流動的な情勢も悪いことではない。しかし、政治家の軸ははっきりしていないといけない。利権のために動くか、自分のために動くか、金持ちのために動くか、それとも貧しく、虐げられた人のために動くか。そこが軸だ。続々できる新党は、どうも利権で動いている。もしくは自分の利益で動いている。民主党政権の中にも、そういう人はいっぱいいる。

 今度の参議院選挙では、民主党に過半数を取らせてはいけない。もちろん自民党に復活させてもいけない。社民党や共産党にもっと議席を与えて、民主党の単独政権を阻止しなければいけない。みんなの党も、少しは頑張ってもらいたいが、この党も軸は自民党と変わらない。期待しない方がいい。

桜、桜、そしてまた夜桜

2010-04-04 | 花と自然
久しぶりに良く晴れて、一気に春が来たように暖かだった今日の日曜日だった。みんな外へ出て浮かれていたように見えた。ちょうど桜も満開に近く、各地で花見の人で賑わったようだ。私も浮かれて花見に出向いた。テレビでやっていた京都平野神社の桜が見事に思えたので、出かけてみることにした。京都市内はあちこちで交通渋滞が始まっている。それでも家から30分くらいで平野神社に到着した。道路の反対側から見ただけで、その賑わいが察しられる。道路の人波が次々と赤い鳥居の中に吸い込まれていく。鳥居の下に着てみると、境内の空がピンクに染まって見えるようだ。どうやら桜は満開らしい。しかも、食べ物屋の出店が建ち並び、紅白の幕で仕切られた花見の桟敷席が用意されており、まさにお祭りのようだ。



 昔、東京に住んでいた頃、上野の花見に行って驚いたことがあった。とにかく人が多くて、桜を見ている人なんかいなかった。ほとほと人の波に酔い、埃にまみれ、疲れ果ててもう二度と上野に花見になど来るもんかと誓った事があった。今日の人はその時とは比べものにならないほどの少なさではあったが、それでも人の多さに驚いた。桜の木も100本くらいはあったのだろうか。でも桜の花はにぎやかに咲いているので、それで良いのだろう。桜の花見は、花を愛でると言うよりは、その華やかさと賑やかさが人々を満足させるのだろう。私は、40品種もあるという平野神社の桜の品種を見て歩いたが、ソメイヨシノは満開だったが、それ以外の品種はほとんどまだ咲いていないものが多かったので、どの花が何という品種なのかはよく分からないままだった。もっとも40品種も一度に咲いていたのでは、とても覚えるのもできそうもない。

 桜の花の下に懐かしい春の草花が咲いている方に、私の関心は向いていた。なにしろ、京都の町はきれいに作られすぎていて、町の中では道ばたにも家の庭にも雑草の花もほとんど見られないのであるから、久しぶりにタンポポの花や、スミレの花、ムラサキハナナ、オドリコソウ、ヒメオドリコソウ、ムラサキケマン、ミミナグサ、ツボスミレなどの雑草・野草の花を見て、心が和んだ。タンポポは、セイヨウタンポポではなくカンサイタンポポだったので、うれしかった。神社の外ではセイヨウタンポポしか見られなかったからだ。

 家に帰ってから、夜桜を見に行った。琵琶湖疏水の小道に沿って、桜の花がいまを盛りに咲いている。自宅から歩いて1分のところでこれだけの桜の並木が見られるのだから、昼間に人混みの中を出かけていったのがなんだか馬鹿らしくなる。なんとなく遠くに行けば良いものが見られるように思って出かけるのだが、よく見ると、家のもっとも近くでもっと良いものが見られると言うことは良くあるものである。隣の芝生は青くみえるのだろう。疏水道路のすぐそばに、古びた木造のアパートがあり、門などは今にも崩れそうに傾いていたりするのだが、その庭に一本の紅枝垂れ桜があって、これが実に美しい。知る人ぞ知るという名木なのだが、昼間も夜も、その桜を見に来る人が常にそのアパートの前で写真を撮っている。私も撮ってみたが、この古くて人も住んでいないようなアパートの様子とこの桜の木がなかなか良い組み合わせなのだ。家から近いので、連れ合いは毎日のように眺めに行っている。毎年、この時期には、われわれの目をどれだけ楽しませてくれるか分からない。


 
 ただ一つ残念なのは、全体の大きく枝垂れている枝の一部が、そこを走る電線のために、根本から切られていて、ややバランスが欠けてしまったことだ。非常に残念だ。この枝を切るくらいなら、電線を切って欲しかった。いや、電線なら、張り方を変えるなどいくらでも対応ができたのではないか。桜の枝は切ってしまえば、その桜の姿バランスは永劫失われてしまう。枝を切られた枝垂れ桜のみっともなさは、有名な円山公園の大枝垂れ桜の例で十分である。なぜあんなにみっともなく名木を切ってしまったのだろうか。枝が折れると危ないからというのが、切る名目のようだが、それなら周囲をしばらく立入禁止にすればいいのであり、木の枝が風などで自然に折れたら、桜の木はその後を自然に忠実に再生する。人間が無理に切った枝の後は、桜は再生しようとするが、その姿はまるで両手両足を切り取られて不具になった動物を思わせて、心から哀しくなる。もっと都会の植物への扱いを考え直して欲しいと思う。