ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

自然の秩序と神の冒涜

2007-06-29 | 日記風
マイクル・コーディ著「イエスの遺伝子」を読んだ。ノーベル賞をもらった分子生物学者が、脳腫瘍の遺伝子を持つ愛娘の命を救うために、人々の病気を治し奇跡を起こしたイエス・キリストの遺伝子解析を行い、奇跡を起こす遺伝子を特定した。そして、キリストの再生を信じる宗教団体に命をねらわれながらも、ついに自らイエスの遺伝子を体内に取り込んで娘の遺伝子治療を行うという物語。なかなか物語としてはうまくできていたが、分子遺伝学者たちの、遺伝子が何でも決めてしまうという単純な思いこみや、病気を治すことがいかなる時でも善であるという思いこみには、やや辟易して読んだ。遺伝子治療万能主義者の小説ならつまらないと思いながら最後まで読んだ。

 しかし、最後に狂信的な宗教団体のファーザーという首領が主人公に言った言葉で、最後まで読んでよかったと思った。その言葉とは
「おまえは神が存在しているなら、これら(イエスの)遺伝子が希少なものであるはずがないという。だが、それはちがう。誰もがその遺伝子をもつ世界を想像してみるがいい。誰もが皆を治療できて、誰もが自然な病気で死ぬことがない世界を。どのような行動を取っても重大な結果になることのない世界を。世界の人口は膨大になり、地上に天国が生まれるどころか、この世の地獄が出現することになる。土地はない。食べ物もない。生命に対して、あるいは死に対して敬意が払われることもない。もちろん神はいない。迷える魂の群れにとって、確実にわかっていることはただ一つ・・・苦しみばかりの長い人生だ」

 病気を治すことが常に善だと思いこんでいる単純な医師や科学者は、この狂信者の言葉をよくかみしめるべきだ。狂信者はいったいどちらなのか。

 また、狂信者のファーザーは「自然の秩序に反して!神に背いて!」と主人公をなじった。つまり、彼は神とは自然の秩序であると認めている。それに対して分子生物学者は「神なんかいない。自然の秩序なんてものもない」と切って捨てた。科学者といわれる人間が自然の秩序を否定した。小説とはいえ、この著者の科学者の機械的唯物論への印象が表れた言葉だろう。「神の冒涜」は自然を冒涜すると言い換えるとよくわかる。

 国会は最後の山場を迎えている。どんなに批判されても自分が出した法案をそのまま通してしまおうという議会の機能を無視したぼんぼん政治家によって、日本が少しずつ崩れていく。参議院選挙でアベシンゾーにノーと言おう。争点は年金問題ではない。憲法を守るかどうか、戦争をする国に戻すかどうかが問われている。

偽装民主主義の自民党

2007-06-28 | 政治
牛肉に豚肉や鶏肉を混ぜて牛肉と称して売っていた北海道の会社社長が逮捕された。偽装牛肉とはやってくれたものだ。しかし、彼の風貌はなかなか憎めない。昔の肉屋の感覚でやっていたという彼の言葉もなかなか含蓄のある言葉だ。昔の肉屋の親父はこんなことを日常的にやっていたのだろう。私は肉が嫌いなのであまり彼を憎いとは思わない。しかし食べた人たちも牛肉だと思って食べていたんじゃないか?それで誰もおかしいと思わなかったのなら、それで良かったのかもしれない。ミンチにしたら牛も豚もたいして違わないのだろう。もっとも不正な方法で金儲けをしたという事実は糾弾されるべきだろうが。

 北海道加ト吉のコロッケのあまりをこの会社の人間が引き取って売っていたという。これも食品衛生法とかに違反した行為のようだが、しかし捨ててしまうコロッケをちゃんと資源を無駄にしないでリサイクルしていたというのは、私はけっしていけないこととは思えない。食べられる食品を捨ててしまえと言う食品衛生法の方が問題なのじゃないか?無駄にしないですむやり方をもっと考えるべきだろう。もちろん健康に被害が出ない範囲でだろうけど。

 よく考えてみればこれらの違反は騒がれるほどには悪質とは思えない。偽装○○でもっと悪質なのは、アベシンゾー首相をいただく自民党なのではないか。もちろん偽装しているのは民主主義。アベ首相の口癖のような「戦後レジームからの脱却」とは、いったい何か。レジームなんてフランス語を入れるから難しそうに思うけど、「戦後体制はいやだ」と言っているだけ。では戦後体制とはなんだろうか?それは軍国主義・帝国主義の日本がアジアを侵略して太平洋戦争・第二次世界大戦を起こし、結局連合軍に負けて占領され、米国に民主主義を教えてもらった。その戦後の体制を彼はやめたいと言っているのだ。

 つまり米国に負けたのは無かったことにしたい、中国を侵略して南京で何十万人の中国人を殺したことは無かったことにしたい、従軍慰安婦なんていなかったことにしたい。つまるところ、米国に教えてもらった民主主義を脱却して戦前の体制に戻りたいということなんだ。自民党は自由と民主主義を掲げているが、本当は民主主義なんか嫌いなんだ。嫌いというと米国に駄目と言われるので、一応民主主義の看板だけは掛けているが本当は民主主義を嫌っている党だということが、アベシンゾーの「戦後レジームからの脱却」という言葉ではっきりした。しかしアベはその言葉が決定的な矛盾をはらんでいるということがわかっていないらしい。

 「戦後レジームからの脱却」は、米国の支配を否定するものだ。それを米国に無条件で追随することを党是とする自民党の首相が言うのだから、いったいあいつは何考えているんだとアメリカ人に思われているに違いない。従軍慰安婦を日本政府が強制した証拠はないなんて言う人間が、米国へ行ってブッシュに謝ったって何にもならない。謝るなら被害者に謝るべきだ。河野談話を継承するとはいうけれど、河野談話の中にある軍の強制を否定してみせる首相を「アベシンゾーの二枚舌」と論評したのはアメリカの新聞だ。北朝鮮の拉致は人道上の大問題だけど、日本政府がやった百万人に上る拉致事件は「証拠がない」といって逃げる。

 偽装民主主義者には、日本にはほかにもいっぱいいるようだ。米国の新聞に「慰安婦はいたが軍が強制した証拠はない」という全面広告を載せたアホな議員や「文化人」たち。語るに落ちたというばかりだ。証拠がないから事実がないなんて子供にも見破られる論理だろう。代表格の平沼赳夫はそれを事実だとすり替える。日本人の品格をこれほど貶めた行為も近年無いんじゃないか。自称愛国者よ、本当に国を愛するなら彼らのやったことを怒るべきだ。

 われわれは中国に教えられた漢字を大事に使い続けている。アメリカに教えられた民主主義と憲法も大事に大事にしていきたい。戦後レジームを大事にしたい。
 

九十九里から大洗へ

2007-06-27 | 日記風
千葉県の九十九里浜沿いに北へのぼって、銚子の海を覗いてみた。波が高くて水も濁っていたが、初めての海だったのでとりあえず潜ってみた。波に身体を持って行かれそうだったが、浅い岩礁帯を潜った。予想通り透明度は悪くて1m先も見えない。潜って海底の鼻をこすりつけそうになりながら海藻や海草や岩についている動物たちを眺めてきた。

 条件が悪いので1時間足らずで引き上げて、有名な犬吠崎灯台を見にいった。意外と広い砂浜がある。銚子の外れ、犬吠埼という名前からは荒い磯の先に灯台が建っているというイメージを持っていたが、やはり行ってみないとわからない。ここからさらにもっと北へ向かった。

 鹿島海岸をどんどん北へのぼる。突然広大な敷地にある原子力関連の施設がたくさん見えてきた。東海村の原子力研究所や原燃の施設群だ。間を通る国道が場違いに見える。この近くで臨界事故がおこったのは3-4年前だったか?おそろしい場所を急いで通り抜けて、大洗に到着。巨大な鳥居をくぐり抜けて宿(オーシャンビュー大洗)へ急ぐ。

 この宿は茨城県の職員共済の宿のようだ。実は本当はもっと北の日立市鵜ノ岬にある国民宿舎に泊まりたかったのだが、聞くとこの国民宿舎は一年中を通して人気抜群でほとんど予約が取れないとのこと。年間稼働率が98%とか言われている。国民宿舎としては例外的な宿らしい。なにがそんなに良いのかわからないが、そんなに人気があると泊まってみたくなるのが人情だ。

 今回、予約を取ろうとしたがやはりいっぱいで断られてしまった。そこで大洗の宿にしたというわけだ。大洗の宿は温泉という。ここ大洗温泉は初めて入る(#404)。名前の通り景色は抜群。浴槽から眺める太平洋の景色は最高だ。しかしお湯は塩素の臭いがきつい。宿の人に聞くと温泉にしたのは今年の1月から、温泉地からお湯を運んできて浴槽に入れているので塩素をたくさん入れて消毒しているという。ちょっとがっくり。

 広い部屋でゆっくりと夜の景色を楽しんで眠った。と言いたいところだが、蚊がいて夜もよく眠れなかった。やれやれ。
 

アマモ場再生という嘘

2007-06-24 | 環境
昨日白浜の海に潜ったことを書こうと思っていたが、ついつい書くことが多くて書き損ねてしまった。今日になるともう白浜の海の記憶が薄れてきて、何を書こうと思ったのかも不確かだ。

 二日間、白浜の海岸でダイビングを練習している若い女性たちのカラフルなウェットスーツを横目で見ながら、浅い海に入った。もうダイビングが若い女性の間で盛んになってから20年以上が過ぎたと思う。最近はダイビングも一時ほどの流行ではなくなってきたようだ。ここ白浜の海は関西のダイバーたちが最初に潜る場所として有名だ。昔ほどにはダイバーの卵が溢れかえることはなくなったが、それでも白浜の海岸ではまだまだ派手なスーツ姿の初心者ダイバーを見かけることは多い。温泉で客を集めていた白浜も様変わりしているようだ。

 宿のすぐ近くに海岸に海水ブールが作られており、中でバンドウイルカが一匹所在なげに泳いでいる。ダイバーたちがイルカと一緒に泳ぎながらダイビングの練習ができるようにと作られたらしい。この企画はなかなか評判を呼んでいるらしい。

 ところで私たちが潜ったのは、サンゴや熱帯魚が見られるような外海ではなく、田辺湾の奥の方の砂浜の沖だ。こういうところに「アマモ場」ができている。アマモとは、別名「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」という長い名前の海草だ。地下茎を囓るとかすかに甘みがするので「アマモ」とよばれているとか。このアマモは昔は田辺湾のあちこちに生えていて、内湾性の魚類や底生生物(ベントス)の住みかを提供していたのだが、いまではほとんど無くなってしまっている。そのアマモを探してあちこち潜ってみた。数カ所にアマモが生えているところが残っていて、少しほっとした。全国からアマモ場がなくなりつつあるからだ。

 アマモ場が無くなる理由は、海の埋め立て。至る所の浅い海が埋め立てられて工場地帯になったり、住宅地になったり、使い道が無くて荒れ地のまま放っておかれたりしている。海の生き物はそのために住みかを失って絶滅していく。

 最近、テレビなどでアマモ場が紹介されることが多くなったせいか、アマモ場の重要性を理解する人が増えてきているのはうれしいことだ。しかし、困ったことも増えた。海岸の環境を守りたいという住民が増えてきたのはうれしいのだが、彼らが最近アマモ場を増やすためにと称してあちこちでアマモを植える運動を始めている。ここ田辺湾でもアマモをあちこちに植えているという話を漁師から聞いた。また、アマモ場の造成や再生と称して大規模に税金を使ってアマモを植える公共事業があちこちで行われるようになった。

 しかし、これは無駄な公共事業そのものだ。住民たちのアマモの植え付けもぜひやめてほしい。なぜか?それはアマモ場は理由があって無くなったものだ。埋め立て以外の主な消滅理由は、埋め立てや護岸工事で流れや底質が変わったこと、水がよごれたこと、である。そのようなアマモ場の消滅原因をそのままにしてアマモ場造成といって植えたとて、けっして元のアマモ場は復活しない。植えてしばらくはアマモは存在しているが、やがて1-2年後には無くなってしまう。このような運動は海の環境を壊した本当の理由を見逃してしまうことにしかならないのだ。

 アマモの植え付けを環境教育として生徒にやらせている学校もあると聞く。その先生はどう言って生徒に環境教育をしているのだろうか。ゴミ拾いをやらせて環境教育だと思っている先生が多いのと同じことだろう。環境悪化の本当の理由を教えないで環境教育はできない。

 そんなことをみんなでぶつくさ言いながら、夜は白浜温泉「長生の湯(#402)」と「草原の湯(#403)」で温泉を心ゆくまで楽しんだ。


宇井純を学ぶ

2007-06-23 | 環境
7月23日は沖縄慰霊の日。61年前のこの日は、鉄の雨が沖縄の島に降り注ぎ、住民30万人が死に、傷ついた日だ。暑い夏の日差しの中で敬虔な祈りが捧げられただろう。沖縄から戦争のにおいを消してほしいと。

 51年前には、水俣病患者が最初に発見された。あれから半世紀たったが、いまだに解決ができていない。公害としての水俣病に取り組み、企業と行政の横暴に戦いを挑み続けた宇井純さんが昨年74歳でなくなった。今日、彼が1970年代から80年代にかけて行ってきた公害問題自主講座を再現する彼の追悼集会が、東大安田講堂で開かれた。昔、2・3度だけだったけど自主講座に出かけて話を聞いたこともあって、「宇井純を学ぶ」という名の追悼自主講座に出かけた。

 宇井さんとは直接の面識もなかったが、宇井さんが東大助手にきりをつけて沖縄に出かけるときに手紙を書き、彼からそれまでの自主講座の総括をした本を二度ほど送ってもらったことがあった。

 会場になった安田講堂には自主講座を実行し受講した世代を中心に1000名ほどが集まって、原田正純さんや最首悟さんなどの講演を聴き、現代の大学院生などの若い世代と宇井純を語るパネルディスカッションがあった。

 若い世代が宇井純の残した言葉と仕事をどう引き継いでいくか、それがもっとも大きい課題だった。安田講堂という場所と集まった多くの団塊世代から、あの反逆の時代の雰囲気がかぎ取られ、懐かしさに胸がいっぱいになりそうだった。

 しかし、ディスカッションは冗長で、若い世代の発言は自信のない何を言っているのかよくわからないものだった。若者が普段から議論をしなくなったことが背景にあるのだろう。昔の学生は、良いか悪いかは別にして、実に立て板に水のごとく自分の主張を演説し聴衆を酔わせ煽動した。パネラーは多くが役割を果たしていないように思えた。とくに小林某という東大教授の司会はへたくそでいらいらさせられた。会場からの質問で、宇井さんが残した言葉のように、東大が真に市民の立場に立った公害や環境研究ができるかと迫られたときに、彼の言は御用教授を生み出した東大の本質的な欠陥を露呈したと思えた。

 小林某教授が「二酸化炭素の排出権の売買で企業が儲かる仕組みは、良いことだ」といいきったのには本当に驚いた。排出権の売買は自らの排出削減努力をお金で貧乏な国から買うという仕組みであり、それは最終的に人類の生存が脅かされたときに金持ちが生残る権利を貧乏人から買い取ることができる仕組みである。貧乏人や貧乏な国は先に滅びても良いという思想だ。それを宇井純に学ぶ集会を主催している人が積極的に肯定したことは驚きだ。閉会の言葉を述べた宮本憲一元滋賀大学長が、原稿を離れて、宇井純がこの集会を見たら「まだ俺の言うことがわからないのか」と言うだろうと苦言を呈したのは、むべなるかな。宇井純の思想はやはり東大教授にはわからないのだろう。東大には御用学者になる以外、環境や公害の研究者はいないという宇井純の指摘は結局いまもって本当なのだろうと感じた。

そして今日、キャンドルナイトの日。電気を消してろうそくの火で環境を考える日だ。近くのスーパーにろうそくを買いに行ったら、売っていなかった。あれれ。

南の海からトラブルの海へ

2007-06-22 | 日記風
南紀白浜の海に潜りに行った。今日、帰ってきたが、帰る早々JRのトラブルに巻き込まれた。JR東北線が架線事故を起こし、その影響で京浜東北線や埼京線、湘南新宿線など軒並み運休や大幅遅延を引き起こした。羽田空港から自宅までずいぶん時間がかかった。

 事故が起こったのが午前8時だというから、帰ったときはもう終わっているだろうと高をくくっていたのだが、とんでもない。しかし、最近首都圏の交通網がトラブルを起こすことがずいぶん多いような気がする。最近ではどこかの線が運転中止や大幅遅れなんていうことはほぼ毎日のように起こっている。昔の国鉄は時刻表通り運転するということを最大の誇りにしていた。その当時はトラブルで遅れるようなことがあったら大騒動だったが、今はみんな当たり前のような顔をして受け入れているようだ。日本人が鷹揚になったのだろうか。それともそういうものだとあきらめさせられているのだろうか。

 しかし、問題は単に時刻表通りに動くかどうかだけの問題ではない。多発するトラブルは、間違えると重大な事故につながるおそれが強い。昨年のJR西日本の大事故をあげるまでもない。国鉄の分割民営化以来突き進められてきた人減らし・利益追求と安全軽視は、今日のトラブル続きの最大の原因だと思えてならない。

 今日も10万人以上の人が電車から降ろされて雨の中を線路上を歩かされたという。4時間も電車の中に閉じこめられた乗客も数百人はいる。これだけの不祥事でも、いつものことと済ませられるのだろうか。最近、企業の不祥事が日常茶飯のごとく起こり、テレビカメラの前に企業幹部がそろって頭を下げる風景がよく見られる。これも頭を下げれば終わり。コメントは百年一日のごとく「再発防止に全力を」というものばかり。けれどもJR東日本の社長や会長がトラブル続きの件で謝った姿を見たことがない。会長、社長、出てこい。謝ったらどうだ。

 というわけで、今日は南紀の海の話を書くつもりが、飛んだところへ行ってしまった。明日は南の海の話を書こう。
 

ようやく梅雨入り?

2007-06-19 | 南の海
梅雨入りしたはずが、すぐに梅雨の晴れ間になった。しかし、西から雨雲が日本を覆い始めたようだ。昨夜は南紀白浜に局地的な豪雨があったとか。わたしはこれから白浜へ向かう。海に潜るためだが、豪雨のあとでは海は濁ってしまっているだろう。日程は早めに決めてしまったので、いまさら変更もできない。本来なら澄んだ海の水と美しい珊瑚や海藻類・貝類がみられる海なのだが。魚も濁っていたらあまり見られないかもしれない。そのときは、温泉を楽しんでこよう。
 

恥知らずの名簿

2007-06-19 | 政治
自民党などの国会議員たちがアメリカのワシントンポストに従軍慰安婦を国が強制したことはないという全面広告を掲載した。アメリカ下院で日本の性奴隷(従軍慰安婦)問題に関して政府に謝罪を要求する決議案が提出されて議論を呼んでいることに言い訳をして『日本が当時、日本政府や軍が慰安婦動員に介入したという文書を見つけられなかったとし「日本軍が若い女性たちを性奴隷に追いやった」というマイク・ホンダ議員の慰安婦決議案内容は歴史的事実と違う』(共同通信・中央日報)と書いている。

 これほど恥知らずの広告はない。日本の知性の低さを世界に知らしめる広告だろう。日本軍が動員したという文書を見つけられなかったのは、見つけようとしなかったからだし、敗戦時に政府や軍が大量の証拠書類を焼却隠滅したのは周知の事実だ。だから政府も軍も女性たちを強制的に慰安婦にしなかったなんて、厚顔無恥きわまりない。アベシンゾーがアメリカへ行ってブッシュ大統領に河野議長談話を継承する(政府や軍による強制があったこと認めを謝罪する)と謝ったのはなんだったのか。政府として強制はなかったと言えなくなったので、代わりにこれら国会議員に代弁させたのだろう。アベシンゾーはどうみても本心から謝ってはいない。

日本の恥をさらした国会議員は以下の通り。参議院議員が少ないのは選挙が近いからこんな恥をさらすと選挙結果に影響が出ると心配したのだろう。民主党からも13人も赤恥議員がいる。選挙で恥知らずを国会から追い出そう。

自民党衆議院議員
愛知 和男, 赤池 誠章, 稲田 朋美, 江藤 拓, 大塚 高司, 岡部 英明, 小川 友一, 鍵田 忠兵衛, 亀岡 偉民, 木原 稔, 木挽 司, 坂井 学, 島村 宜伸, 杉田 元司, 鈴木 馨祐, 薗浦 健太郎, 平 将明, 土井 亨, 土井 真樹, 戸井田 とおる,西本 勝子, 林 潤, 古川 禎久, 松本 文明, 松本 洋平, 武藤 容治, 山本 ともひろ, 渡部 篤,

自民党参議院議員
中川 義雄

民主党衆議院議員
石関 貴史, 泉 健太, 河村 たかし, 北神 圭朗, 神風 英男, 田村 謙治, 牧 義夫, 松木 謙公, 松原 仁, 吉田 泉, 笠 浩史, 鷲尾 英一郎

民主党参議院議員
松下 新平

無所属衆議院議員
西村 真悟, 平沼 赳夫

 
急に暑くなってきた。蒸し暑い。本格的な梅雨が近づいているのかもしれない。こんな記事を読むと、ますます暑くなる。早く一掃して涼しくしよう。
 

朝鮮の非核化開始と日本の外交

2007-06-17 | 政治
朝鮮(民主主義人民)共和国が核開発を中止するためのIAEAの査察を受け入れることになった。いろいろ紆余曲折があったが、なにはともあれ核兵器開発の流れが止まることを喜びたい。

 この問題ではアメリカは比較的冷静な判断をしたようだ。朝鮮共和国の核開発をやめさせることがもっとも重要なことであるから、多少の譲歩は決してアメリカの損にはならないことをきちんと理解していたのだろう。もっとも、今のアメリカはイラクに足を取られていて、石油もない朝鮮に本気でかかろうという余裕もないのだろう。

 それにしても、この問題で日本が果たした役割、いや果たせなかった役割を考えると本当に日本政府の外交のまずさに辟易する。小泉政権以来、日本の外交は崩壊したといってよい。拉致事件にこだわり続けて、朝鮮共和国が核停止に向けた動きを開始しても、何もできない日本。アメリカのGOサインで韓国は重油の供与を実行しようとしている。米韓中ロがそれぞれ朝鮮の核開発停止に対して六カ国協議で約束したことを実行に移そうとしている今、日本政府はことの成り行きをただただ指をくわえてみているだけだ。この結果、日本は東アジア諸国からますます軽視されるだろう。

 拉致問題が解決しない限り日本は何もしないと見得を切った以上、日本は朝鮮共和国の核兵器開発を阻止するための何の手だても失ってしまった。本当の国益とはなんだったのか?過去の朝鮮半島政策の間違いから拉致被害者を出してしまった自らの責任をごまかし、朝鮮半島の非核化というもっとも日本にとって緊急の課題をなしえなかったアベ政権は、日本の国益を損なった内閣として末代まで非難されるだろう。
 

年金問題の本質

2007-06-17 | 政治
年金記録が無くなってしまった問題で、アベ首相が本質をねじ曲げる公務員たたきを始めた。曰く「責任をきちんと明らかにする。社会保険庁長官も政治家もタブーではない」と。なかなか良いことを言っているように見える。しかしその後がおかしい。「上から下を見るような態度で国民に接している職員が社会保険庁にいる」「一生懸命国民のためにやろうとしている職員もいるが、そうでない職員もいる。そうでない職員にはやめてもらうしかない。だから社会保険庁を解体し、非公務員型の公益法人にする法案を何が何でも通さねばならない」

 少し頭を冷やして考えれば、アベ首相の言は自民党の責任逃れでしかないことがよくわかる。まず、ずさんな年金記録の管理と職員の態度というのはあまり関係のないこと。「上から下を見下ろすような態度」は、別に社会保険庁に行かなくてもどこにでもいる。総理大臣だって閣僚だってみんなそうだ。それとこれとは関係ないのに、公務員たたきをしてみせることによっていかにも自分は国民の味方であるというポーズをする。政治家の常套手段だ。苦しいときの「公務員たたき」。だから社会保険庁を解体しなければならないというのは、嘘八百。何の関係もない。こんな子供だましに簡単にだまされてはいけない。

 それでは社会保険庁が年金記録のそんなずさんな管理をなぜやったのか。社会保険庁の職員がほかの官庁よりも人一倍怠け者であったわけではない。ずさんな管理をやらざるを得なかったのは、まさに自民党政治の責任なのだ。2002年それまで自治体の職員約20000人以上でやってきた国民年金事務が、国民基礎年金として国に一元化された。その結果、社会保険事務所のわずか数百人の職員で数千万人の年金事務を取り扱わねばならなくなった。それは、自民党政府が進めてきた「小さな政府」政策による国の財政支出削減を目的とした姑息な手段だった。わずかな職員でできるはずもないので、民間業者や派遣職員などに事務の一部が委託、外注、丸投げなどがなされた。それが今回の記録の消失や逸失につながっているのだ。

 現在、社会保険事務所への年金相談には社会保険庁職員が労働基準法を無視した残業体制で臨んでいる。それでも窓口に殺到する人をさばけないので、またまた派遣職員などで対応している。それでは責任ある対応もとれない。

 結局、今回の事態は起こるべくして起こっていることだ。自民党政府の政策がその原因である。その責任をあいまいにするために、アベ首相の「公務員たたき」「社会保険庁たたき」がある。そうして社会保険庁など解体してしまえという国民の声を煽って、社会保険庁を民営化して、そこに天下り先を作ろうとしているのが、今度強行採決して成立をねらっている「社会保険庁解体法案」と「公務員制度改革法案」である。しかもこれで自治労潰しもやれると思っている。

 いま本当に必要なのは、社会保険庁にもっと予算を投じ、年金事務を丁寧にやれるだけの人員を配置することだ。派遣職員では国民の年金事務に責任を持ってもらえない。「小さな政府」政策の失敗が誰の目にも明らかになってきたこの事例を持って、政策の転換をすべきではないか。それができないなら、参議院選挙で自公政権に引導を渡すしかないだろう。国民の生活をきちんと保証できるだけの大きさの政府が必要だ。