ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

台風に翻弄された

2011-09-26 | 日記風
台風のおかげか、ようやく秋らしい涼しさがやってきたようだ。彼岸入りの頃から、曼珠沙華が咲き始めた。毎年、秋のお彼岸の前後に、律儀に燃えるような花を咲かせる。そういえば、桜や紅葉や、アヤメや菖蒲などの季節の花は、年によって早かったり遅かったり、かなり変化するようだが、曼珠沙華は、本当に正確にお彼岸に咲いているように思う。しかし、この時期に秋の到来を感じさせる金木犀の花がまだ香ってこない。

 台風15号が関東を通過した際には、都内で帰宅難民の人々に混じって駅に座り込んでいた。予想より早い台風の通過で、予定が狂ってしまった。隠岐の島へ出かける予定が、飛行機が飛ばず、しかたなく京都へ帰ろうとしたが、新幹線は完全に止まってしまった。それなのに、東京駅の新幹線の切符の自動販売機はちゃんと動き、列車が止まっているのに、指定席を販売している。自動販売機が切符を売っている以上、列車は動いているのだろうと思って、駅にはいると、長蛇の列が新幹線の改札口にできており、人々は新聞紙を敷いて、床に座り込んでいる。駅員になぜ自動販売機が動いているのかと聞くと、いま自動販売機を停止する作業をしていると言う。それでは新幹線が動かなくなったばかりなのかと聞くと、いえ、正午からずっと止まっていると言う。こんなウソをどうして言うのだろう。ますます腹が立ってきた。

 駅の床に座り込んで、夕ご飯の弁当を食べ、公衆電話を探し回って、行けなくなった宿の予約のキャンセルをし、床で開いたパソコンを使って、3回分の飛行機の予約をキャンセルしていたら、台風の風でパソコンが煽られて床を転がっていった。パソコンを片手で押さえながら、急いで仕事を済ませ、再び新聞紙を広げて階段に座り込んで、電車の復旧を待った。新幹線は、翌日まで復旧しないというアナウンスを聞き、京都へ帰るのをあきらめた。夜中近くになってのろのろと動き出した山手線と東上線を使って、川越に到着して、なんとか野宿を免れた。

 東京駅の階段に座り込んでいた70代と思われるおじいさんが、しみじみと言った。最近の気象はおかしくなってしまったと。台風はこんなものだとも思ったが、雨の降り方はたしかに異常さが目立つ。梅雨明けの特徴的な豪雨が一年中見られるようになった。台風の動きも秋の台風の動きとは思えない。いったいこれは何が起こっているのだろうか。人間活動が自然のバランスを崩してしまったのだろうか。火山活動や地震さえも、以上と思えるように活発になっている。これも人間の影響なのだろうか。分からないが、とにかく今、私たちが異常な時期に当面しているのは、間違いないようだ。そんな時に、原発を動かすことは、もうありえない。

台風とともに旅は続く

2011-09-18 | 日記風
台風15号がのろのろと沖縄をねらって進んでいる中を、ボンバルディアのプロペラ機で伊丹から高知空港へ向かった。予想通り、小さな飛行機は揺れた。がたがたするのは雲の中を通るときだが、エアーポケットに落ち込むときは、思わず拳を握りしめる。何年乗っても、飛行機のこの感覚は、嫌なものだ。そういえば、子供の時もエレベーターに乗るのが嫌だった。落ちていく感覚が。

 高知はやはり雨だった。時折驟雨が雨脚を白く光らせながらはりまや橋の広い道路を駆け抜けていく。雨は確固とした意志のないように、あがったり降ったり、傘を出したり仕舞ったり。台風を感じさせる風と、南国の湿ったような暖かい空気を動かしているような、高知という場所の今を思い出させる風が吹いている。

 主催する少し気の張った会合が終わり、ほっとした気分で高知の街を歩く。台風はどうやら迷走しているらしい。沖縄へ行こうとして立ち止まり、あらためて今度はこちらの方向へ針路を定めようとしているらしい。道理でいつまでたっても台風の風がやまず、雨も同じような降り方を繰り返している。歩くときは雨のやむ一刻をねらって素早く出かけるしかない。高知市内には、東南アジアの国のように、街の大きい通りに、屋台レストランが軒を連ねている。来た最初の晩は、それを知らずに食事をするところを探し歩いた。酒を飲まない私には、夜の食事をするところを探すのが一苦労だ。こんな屋台街があれば、食べるところを探すのは苦労しない。昔は日本のどこの街にもこんな屋台店がいっぱい並んでいたはずなのに、なぜ無くしてしまったのだろうか。衛生面の懸念を並べ立て、潔癖症に冒された日本人たちが、こんなに楽しい屋台街を無くしてしまった。

 この後、東京へ行き、それから隠岐の島へ行く予定だが、台風はどうやら勢力を強めているらしい。そして、ゆっくりと本州に近づくという。予定通りの行動ができるかどうか、10日間に及ぶ旅の行方がちょっと心配だ。でも、なるようになるだろう。それが旅の楽しみでもある。

やはり鉢呂大臣は刺された

2011-09-15 | 政治
やはり、鉢呂経産相の辞任は仕組まれたものだったようだ。鉢呂さんは刺されたのだ。経産相に就任早々、鉢呂さんは「脱原発」に向けて新しいエネルギー政策を作成すると明言した。また、TPPに反対の姿勢を見せた。経産省の官僚にとっては、どれも許せなかったようだ。鉢呂さんに辞任後、インタビューしたジャーナリストによると、鉢呂さんは、オフレコの囲み取材で、記者の体に防災服をなすりつけて「放射能 うつすぞ」と言ったというような報道について、記憶にないと言っている。防護服をこすりつけるようなことをした覚えもないと言っている。

 実際、そうされた記者は誰かということも明らかになっていない。そして、そのことを最初に報道したのは、フジテレビだった。フジテレビは、鉢呂大臣に発言内容を確認したこともないまま報道した。フジテレビが経済界や自民党のお先棒担ぎの報道をするのは、今に限ったことではないのだが。

 フジテレビの報道を見て、この囲み取材があった二日後に、ようやくいろんな新聞社やテレビがこの事件を報じ始めた。しかし、鉢呂経産相がなんと言ったかは、すべての新聞でまちまちだった。同じ言葉を報じたところはほとんど無かったのは何故だろうか。それは、経産相の「放射能 うつすぞ」とか言う言葉が、結局記者たちの勝手な想像でしかなかったことを裏付けている。このオフレコの囲み会見に参加したのは、記者クラブに所属している大手マスコミの記者たちばかりだった。そこでオフレコと言う約束で集まった会見でのことが、伝聞として、つまり誰も証拠はないまま、報道されて、大臣を辞任に追い込んだ。

 「死の街」発言については、自民党の河野太郎氏もブログで、現場を見た後の感想としてなんの不自然さもないと言っている。この言葉を問題にしたのも、一部のマスコミだった。それに自民党や公明党などの野党が乗って、経産相は辞めろと言い出した。経産省の官僚OBは、この騒動の中で、経産省が鉢呂氏をかばう姿勢をまったく見せなかったことを不思議に思うと述べている。普通は大臣の多少の失言を官僚はかばうのだがと。ここにも、経産省の官僚が鉢呂氏を嫌悪していたことが明らかになる。

 そして、鉢呂大臣の辞任会見で、ある通信社の記者による暴言が出てくる。辞任会見で、謝罪をした鉢呂大臣に「何を言って不信の念を抱かせたか説明しろと言ってんだよ」とまるでやくざのような言葉で難詰した記者がいた。取材していたフリージャーナリストの田中龍作氏が、「そんなヤクザ言葉あなたやめなさいよ。記者でしょ。品位を持って質問してくださいよ」とたしなめ、「どこの記者だ」と問い詰めると、その暴言記者は、胸に下がった記者証を慌ててシャツの下に隠し、こそこそと出て行ったという。

 そして、その背後にあった経産省幹部の動きが、鉢呂大臣の首を経産省自身がほしがっていたことを明らかにしている。経産省は、新しいエネルギー政策を考える上で、「総合資源エネルギー調査会」で議論をすることになっている。その委員は経産大臣が指名するのだが、原発推進派が12人、脱原発が3人の合計15人が、鉢呂大臣が就任する前に決まっていたのだという。このままでは、公平な審議ができないかもしれないと、鉢呂大臣は脱原発派の委員を追加して、あと9~10人の脱原発派の人を入れて、半分半分にして議論してもらおうと、委員候補もリストアップして、経産省で公表する予定だった。その発表直前に、この辞任騒動が始まったのだ。いったい誰がその騒動を引き起こしたのだろうか。そして、誰が得をしたのだろうか。脱原発路線で新しいエネルギー政策が作られることを嫌っていた人間が経産省にいた。そして、鉢呂さんは刺されたということだ。

 真実がいかに大手マスコミの論調と異なっているかが、ここでも明らかになった。この報道をしたネットのBLOGOSが行った世論調査では、75%の人が鉢呂大臣は辞める必要は無かったと回答している。真実を誰が報道するかが、これからの社会で大事になってくる。大手マスコミの大本営発表報道には、もう怒り心頭だ。暴言記者も、社名と氏名を明らかにし、謝罪会見をしてはどうか。そしたら「何を言って謝罪しているのか、説明しろ」と私も言ってみたい。

鉢呂さん、辞めるのはあなたじゃない

2011-09-12 | 政治
鉢呂経産大臣が辞任した。発言の責任をとって辞めるのだとか。原発事故で避難した後の町を見て「死んだ町のようだ」と言ったという。なぜこれが責任を取らねばならない発言なのか、わたしにはまったく分からない。誰が見ても、そう見える。人っ子一人いない町。死んだ町に見えるのは、正常な感覚だろう。それがなぜ被災者の心を逆撫でしたことになるのだろうか。本当に責任を取らなければいけないのは、「死の町」にした東電である。原発を推進してきた原子力ムラの人たちだろう。しかし、誰一人として責任を取って辞めた人もいない。被害者からは自殺者まで次々に出ているというのに。

 原発被災地から帰ってきたときに、記者に「放射能うつっちゃうぞ」といってこすりつけるまねをしたという。これはまるで子供みたいな幼稚な言葉だった。たしかに放射能は伝染性の病気とは違うので、「うつる」というのは、正確な言い方ではない。福島から避難してきた子供を見て、「放射能がうつるからあっち行け」と言った子供や大人がいたと伝えられているが、それと同じことを経産相がいったとするなら、これはたしかに問題だろうが、服についたものをこすりつけたことは、放射能が「移る」という意味なら、間違いでも無い。もっとも正しいかどうかよりも、こんなつまらない子供じみた遊びを経産相が記者たちとやっていることは、怒られても仕方ないことだろう。もっとまじめにやれ、と。でも、それもその程度のおとがめですんだはずだ。記者もおかしいのではないか。その場で経産相をたしなめればそれですんだ。おもしろおかしく報道して、経産相の首をとったと喜んでいるのだろうか。もしそうだったら、記者の方が悪質だ。鉢呂さんもすぐ謝罪をすればそれですんだ。こんなことで辞める前例を作ってはいけない。野田首相もなぜ辞任を認めたのか。

 その程度の失言を、針小棒大に報道し、野党がそれにのって大臣の首を切れとせまり、やっと発足してこれから震災対策に本腰を入れようという新内閣を、つまらないことで足を引っ張る。まったく自民党も公明党も、被災者のことなど考えてもいない。経産相は、原発の事故終息に大きな役割を果たすべき人だ。その人のちょっとした失言をとらえて首を取り、復興への努力をまたまた一からやり直させる。こんなばかげたことをやっているから、日本は世界から馬鹿にされ、放射能の垂れ流しの責任を追及されるのだ。

 自民党、公明党など野党は、もっと被災者の方を見てどうすればもっとも終息と復興に貢献できるかという視点で政局も見て欲しい。そうでない野党は、民主党がいかにだらしなくても、野党に政権をということにはならない。メディアの記者たちにも、もっと大局的な目を持って欲しい。紙上に記事が大きく載れば、それがどう影響しようと中立だなどと考えて欲しくない。「日本は一つ」「頑張れ ニッポン」などというスローガンは、スローガンでしかないのだろう。彼らにとって。

死の商人の手先と愛国

2011-09-09 | 政治
支持率が大幅に上がって、まずはめでたい野田民主党政権の誕生だが、やはりこの政党で気になるのは、前原政調会長の存在だ。民主党代表選挙の一次投票で、本人にとっては「まさかの敗北」。不本意だったのだろうが、反小沢で野田にまとまり、政調会長に納まったと思ったら、さっそく調子に乗ってやらかした。武器輸出三原則の見直しと、PKOにおける武器使用原則の緩和だ。しかも、アメリカへ行って英語で演説して、日本の安全をアメリカに売るような言動をする。天木直人さん(小泉政権のイラク戦争荷担に反対して解任された元レバノン大使)のブログでも、前原売国奴とののしられている。

 前原誠司という人は、小泉とよく似た性癖を持っている。アメリカに頭が上がらないところだ。アメリカが右と言えば右を向き、左と言えば左を向く。それが日本の国益だと思い込んでいる。外務大臣を外国人からの献金事件によって辞めた後も、沖縄へ出かけて裏工作を続けていた。もちろん普天間飛行場を辺野古に移転させるための工作だ。日米合意をなんとしても実現してアメリカに喜んでもらうのが日本の国益だと信じている前原だから、辺野古基地建設をなんとしても進めたいと思っているのだろう。裏工作とは、辺野古基地建設にあくまでも反対を貫いている名護市長を次の選挙で引きずり下ろし、辺野古基地建設に賛成する市長を実現することである。名護市長が反対する以上は、辺野古移転は一歩も進まないことを一番よく知っているのが外務大臣であった前原誠司その人だからだ。

 彼は、基地推進派の島袋前市長や地元建設業者らと何度も会って、外務大臣だったころに官房機密費を懐に、そのお金をこれら賛成派の選挙運動に貢いでいたという噂もある。なんとしてもアメリカさんに辺野古の基地を提供しなければ日本の国益にならないという思いが、前原氏にはあるらしい。彼の愛国心はどこで間違ったのだろうか。その彼が、民主党政権の政調会長になり、あらゆる法律案は、政調会で議論し、政調会長の承認が無ければ政府案も提出できないという強権を持とうとしているのだ。まさに小沢一郎の内閣一元化という理念を完全に葬り去って、自民党政権とまったく同じやり方を復活させ、そして自分がその権力を握ろうとしている。恐ろしいことだ。

 日本は、先の大戦を経て、二度と戦争をしない国になることを誓った。そのために、公権力が武器を取らないことを誓った。そして核兵器をもたず、つくらず、もちこませないという三原則を作った。さらに武器の売買で設ける死の商人になることを拒否して、武器輸出三原則を確立してきた。さらには、軍隊を持たず、自衛隊という武力も外国には派兵しないことにしていた。それを自公政権は、少しずつ経団連の死の商人になりたがっている人たちのために、規制を徐々に緩めてきた。それをアメリカも望んでいる。内政干渉とも言うべきアメリカからの政策要求が毎年日本政府に届いているが、郵政民営化もアメリカからの要請に基づいて行われた。武器輸出三原則の緩和も、PKOにおける武器使用原則の緩和も、みんなアメリカが陰に陽に圧力を加えてきた結果なのだ。それをもっとも従順に、そして積極的に動いているのが、自民党であり、民主党では前原誠司という男なのだ。売国奴とは、そういう人のための言葉ではないか。

どじょう内閣に期待しないこと

2011-09-03 | 政治
涼しさの北海道から、一気に九州へ南下した。台風12号が四国に上陸し、こちらも荒れている。北海道も大雨が降っているようだ。久しぶりの台風の上陸で、各地で大変な対応を迫られている。東日本大震災の復興がまだまだ見えない中、しかもフクシマ原発事故の影響が各地にこれから顕在化しようという中だから、台風対応も大変そうだ。佐賀県では、久しぶりの雨とかで、台風は恵みの雨をもたらしている。

 天災や人災に気を取られている間に、菅政権が終わって、野田新政権ができたようだ。ノーサイド政権とかいわれているが、いったい何のことだろうか。訳が分からない。全員野球とかノーサイドとか、どうして政治にスポーツ用語が使われるのか、私には分からない。政治とスポーツは違うだろう。

 小沢一郎を排除するかどうかが問題になっているらしいのだが、民主党に政権を取らせるに当たってもっとも功績があった政治家を排除して民主党政権が成り立つとも思えないのに、なぜ排除しようとするのか、これも訳が分からない。検察が小沢を貶めようとしたことは、元秘書の国会議員の裁判で早くも破綻を来している。検察はアメリカの意向を受けた政治家におもねるように小沢を引きずり下ろす計画だったようだが、いずれその企みは破綻を来す。政権交代の効果が徐々に裁判の判決に現れてきている。まだまだおかしな判決も多いが、少しずつ正義が復活しつつある。

 なにはともあれ、政権交代した民主党政権が、内輪もめしていては自民党や公明党に足を掬われるだけだろう。三党合意などは、まさに自公の思うつぼだ。小沢グループを排除して民主党政権が維持できるわけがない。なぜ、そんなことをしようと菅総理が考えたのか。前原や仙石に乗せられたのかもしれないが、ちょっと信じられない。自信過剰だったのだろうか。

 というわけで、野田政権の人事は、当たり前の結果だった。やっと人は揃ったといえるだろう。民主党政権のあらためての発足に、とりあえずは期待をしておこう。ただし、野田首相の公約だった「大連立」「大増税」は、なんとしても止めてもらいたい。「大連立」と「大増税」は、内閣で意見不一致のまま先延ばしを期待したい。興石東幹事長の手腕はまだよく分からないが、ぜひ民主党をマニフェストの実行へ引っ張っていって欲しい。野田首相の役割は、財務省官僚の思うような方向に内閣を引っ張るのではなく、内閣の意見調整に徹することだ。ゼイゼイとうるさい「どじょう内閣」には、風邪薬を調合したい。

 もう一つ、防衛大臣になった一川保夫議員が、辺野古問題をどう扱うか、日米合意をなんとしても進めようとする前原政調会長を押さえることができるかどうか、期待したい。

愛車と分かれる

2011-09-01 | 日記風
長年私の足となって北海道の広い原野をともに駆けめぐった車を、とうとう手放した。廃車にするまで乗るつもりだったが、幸か不幸か18万㎞乗ったこの車を今しばらく乗りたいという人がいたので、墓場に送るのではなく、別の人に使われてくれと別れを言ってきた。サスペンションがダメになっているようで、少々乗り心地が悪いが、気になるほどではない。エンジンはまだまだ快調な響きを聞かせてくれる。これまで一度もエンジントラブルを起こしたことがなかった優秀な車だった。トラブルを起こしたのは常に運転する人間だったから、車は10年間ほど、堅実に、雪と氷の冬道も、濃霧にぬれた夏の道も、私を望むところへ連れて行ってくれた。

 思えば、この車と出かけた道すがらには、いろんな思い出がある。路肩に寄せたつもりが深い雪の中に潜り込んでしまい、車はほとんど横向きに近く傾いてしまったこともあった。近くを通りかかったトラックが、親切にワイヤーで牽引してくれたので、助かったが、あのトラックが助けてくれなければ、夜の峠で野宿だったかもしれない。

 サンナシ小屋への道すがら、小道の横の小川に入り込んで、このときも車がほとんど横倒しに近くなってしまったこともあった。しかも小川の底はもがけばもがくほど深く潜り込む泥地獄。このときもどうなるかと思ったが、近くの農家に助けを求めたら、除雪用のブルドーザーで引き上げてくれた。九死に一生を得る思いで助かったが、このときに車の左前輪のカバーが大きく壊れてしまった。でもそれも直さないまま、今日まで乗り続けた。そういえば、この人のブルドーザーにはもう一度お世話になっている。冬の雪道に、サンナシ小屋への入り口までのアプローチで、雪の吹きだまりに車が突っ込んで、動けなくなった。このときも、この農家のブルドーザーで周りの雪を除雪してもらい、なんとか抜け出した。

 思い出せば、トラブルだけが思い出に残っている。しかし、すべてこの車のせいのトラブルではなかった。この車で北海道のあちこちの山を登った。登山口まで前日の深夜に車で行き、早朝まで車で仮眠して登り始める。そして頂上まではピストンで日帰り。夜ひた走りで家まで帰るという山行が続いた。おかげで、北海道の有名な山はかなり登ることができた。大雪山系の山々は言うまでもない。十勝岳、アポイ岳、斜里岳、羅臼岳、雌阿寒岳、雄阿寒岳、富良野岳、暑寒別岳、後志羊蹄山などなど。車で行けなかったのは、利尻岳くらいだ。

 空港で、車に別れを告げたときに、涙が流れたわけではないが、ただ、これまで感じなかったような車への人間的な思いが湧いてきて、ああ、この車ともお別れだなと思った。私の夢とともに北海道を駆けめぐったこの車に、ありがとうと言いたくなった。車が無くなったと思ってはじめて感じる、いささか勝手な感情なのだろうけど。

 これで車を持たない生活が始まる。せいせいしたような、なんとなく心許ないような。いつまで続くのだろうか。