ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

人生の最後が近づいた

2020-07-29 | 日記風
6月の終わりに、突然倒れた。脳梗塞だった。緊急入院して検査漬け。今はリハビリ病院に転院してリハビリに専念。脳梗塞と言われた時には、すぐに人生の終わりだと思った。しかし、検査の結果は、比較的軽い梗塞で、大脳部分は無傷で、小脳の運動部分が一部やられたようだ。歩くことが出来ず、車いす生活が続く。これもやはり人生の最後の一段階だと感じている。長い人生だったが、そろそろ幕引きかな。病室のベッドに寝ていると、過去のさまざまな場所へ出かけていったことが想い出される。

名月に平和な世界を祈る

2013-09-19 | 日記風
暑さ寒さも彼岸までという言い回しがあるか、まだまだ暑さが残っている。朝晩はかなり涼しくなったものの、日中はまだ30℃を超えている。彼岸が来るのを首を長くして待っている。今日は中秋の名月。昨夜もすばらしい快晴の空に浮かぶ月を眺めて過ごした。涼しくなったので、夜も蚊があまりうるさくなくなったので、お月見には最適だった。今夜も月見をして、夜を過ごそう。

 彼岸に合わせたように彼岸の入りに咲き始める曼珠沙華が今年は少し早めに咲き始めた。気候の変動がおかしくなってしまったので、曼珠沙華(ヒガンバナ)も少し咲き始めが狂ったのかもしれない。台風も、竜巻も、これまで経験しなかったような経験をした。気象庁も来年からは「これまで経験したことの無いような」という形容詞は使いにくくなる。もっとも毎年のように記録に無い雨量や風速が記録されているから、経験したことの無いという形容詞はまたまた毎年繰り返されるのかもしれない。そして、ついに人間がいきられなくなる限界が近づいているのかもしれない。放射能汚染しかり。
 
 東京オリンピックが7年後に決まったとか。そして、リニア新幹線が14年後に完成するとか。喜んでいられるのだろうか。リニア新幹線は、現在の新幹線の40倍もの電気を必要とするという。これを作るというのは、原発で電気を作ることを前提としているとしか思えない。リニア新幹線で東京と名古屋が40~70分で結ばれることで、フクシマの惨事がまた他で繰り返されるなら、これはもう日本人は絶滅するしか無い。存続する価値の無い国かもしれない。

 電気を消して、中秋の名月を心ゆくまで楽しもう。心豊かな生活にリニアなどいらない。原発もいらない。朝鮮半島や中国との軋轢など作り出さずに、なかよくいっしょに生活を楽しもう。世界中の人々と、仲良くしよう。仲良くするためにはまず手をさしのべて握手を求めよう。そのためには、武器を捨てよう。軍事基地を無くそう。丸腰になれば、諍いはおこらない。平和憲法をきちんと守り、中国にも朝鮮にも求めよう。アメリカは世界の警察官をそろそろ辞めよう。もう誰も警察官になってもらおうと思わない。警察は泥棒の始まりだ。

汗を流しながら かき氷を食べたい

2013-08-21 | 日記風
暑い!とにかく暑い!埼玉県から京都に引っ越してきたのは、何の助けにもならなかったようだ。京都は暑い!

熱中症にならないように、水をがぶ飲みするのだが、その端から汗となって流れていく。こんなときは、かき氷を食べたい! かき氷を食べたくなって、探すんだが、どうもおかしい。かき氷の旗が立っているところを探し当てて、小躍りしていくと、その店(喫茶店)は、室内をガンガンにクーラーを効かせており、しばらくいると寒くなる。そんな寒いところではかき氷など、食べたいとは思わない。入った直後に、すぐにかき氷を注文すると、かき氷がやってくる頃には、とても寒くて食べたくない。それでも食べていると、体が冷え切ってしまう。

どうしてかき氷を売っている店が、あんなに寒くしているのだろう。かき氷は、やはり「」よしず」の立てかけてある店の前の縁台で、汗を流しながら食べるのが、もっともおいしいかき氷の食べ方だろう。なぜそれをしないで、寒くした店の中でかき氷を売るのだろうか。不思議だ。

汗をかきかき、かき氷を食べたい! でも、いまはどこもそんな店がなくなってしまった。寒い店内で、フラッペとかいう高価で寒いだけのものを食べたくない。

にんげんをかえせ

2013-08-13 | 日記風
   ちちをかえせ ははをかえせ
   としよりをかえせ
   こどもをかえせ
 
   わたしをかえせ わたしにつながる
   にんげんをかえせ
 
   にんげんの にんげんのよのあるかぎり
   くずれぬへいわを へいわをかえせ
                峠三吉「原爆詩集」より

68年目の原爆記念日も、猛暑の中に終わった。戦争をしたがっているアベシンゾー首相もメッセージで空疎な言葉を羅列して見せた。私は、その数日前、実に何十年ぶりに映画「ひろしま」を鑑賞した。この映画は、戦後すぐに広島原爆の悲惨さを再現して、ふたたび戦争を繰り返させないという強い思いで作られた。私も子供の頃、この映画を学校の授業の一環として見た覚えがある。とにかく原爆の恐ろしさ、被害の非人間的なむごさなどが、幼い心を強烈に打った事だけを覚えていた。ところが、アメリカの占領政策によってこの映画は、その後日の目を見ないまま、どこかの倉庫で眠り続けていた。アメリカは原爆の悲惨な実態を世界の人に知らせることを拒否した。

あれから何十年も経ってようやく再び日の目を見た「ひろしま」。懐かしさもあったが、最後のシーンに目が釘付けになった。子供の目では何のことか分からなかったのだろう。ほとんど記憶に無いが、ラストシーンは、広島の町からあふれ出る人々の群れが平和公園に向けて集まってくる。彼ら彼女らは、戦争を再び起こそうとする人たちの策動に反対し、二度と戦争をさせないための平和集会に集まろうとしている姿なのだ。広島市で原爆に殺された20万人の人々の魂魄とそしてその後を生きる何十万人という人々の静かな意志が、この映画には描かれていたのだ。再びこの映画「ひろしま」を見て良かったと思う。そして、アメリカと日本政府がこの映画を見せたくなかったことが、よく分かる。軍隊を持ち、アメリカのために戦争をしようという安倍政権の今こそ、この映画が見られるべき時代的な必然性がある。

淡路人形浄瑠璃を鑑賞

2013-02-07 | 日記風
先日、京都の春秋座で淡路人形浄瑠璃を鑑賞した。昔一度、国立文楽劇場で文楽を見たことがあり、テレビでは何度か文楽を見たことがある。ビデオでも何本か文楽の出し物を持っており、たまに見ることがあった。しかし、人形浄瑠璃は初めてである。人形浄瑠璃として知っているのは、阿波の人形浄瑠璃で、「・・して、トトさんの名は? 阿波のじゅうろべえと申します。 ・・・してカカさんの名は?・・・ 」という名台詞で有名な「傾城阿波の鳴門」だった。ところが、阿波の人形浄瑠璃の発祥の地は、淡路島だという。日本の国の文化という文楽が、人形浄瑠璃から発しているから、日本の文楽のそもそもの発祥地は、淡路島だということになり、淡路人形浄瑠璃が、その始まりでもある。

 鑑賞した淡路人形浄瑠璃の演目は、「賤ヶ岳七本槍 清光尼庵室の段」だった。この演目は、淡路人形浄瑠璃の独創の演目で、文楽などでは上演されることは無いそうだが、淡路人形浄瑠璃ではもっとも代表的な演目だという、本能寺の変で織田信長が殺され、織田家の跡目相続をめぐって柴田勝家と羽柴秀吉の間で繰り広げられた賤ヶ岳の合戦のときの、前田利家が両者の間で苦悩し、柴田勝家の息子勝久と恋仲になった自分の娘の清光尼を、羽柴秀吉の命令で撃たねばならなくなった蘭の方(織田家転覆を狙った滝川将監の娘)の代わりに殺さざるを得なくなる父の心を描いたものだが、この複雑な敵味方の入り乱れた関係がよく分からず、浄瑠璃を見ていても理解ができない場面が多い。浄瑠璃の語りもなれない劇場ではよく聞き取れない。テレビで見ている分には、語りもよく聞き取れるのだが。テレビで見る歌舞伎やお芝居は、やはり特等席なのだろう。

 実は、この淡路人形浄瑠璃を見る前の週に、南あわじ市に出かけていた。これはまったくの偶然で、他の用事で南あわじ市を訪れたのだったが、そこへ行って初めて淡路人形浄瑠璃のことを詳しく聞くことができた。そして京都へ帰ってみると、連れ合いが淡路人形浄瑠璃のチケットを2枚手に入れていたという具合だった。偶然とは思えないが。しかも、いっしょに見に行くことになった友達が、南あわじ市出身だと言うことだし、もう一人の友人は、浄瑠璃に使われる人形のミニチュアを自作するのが趣味の人だという。偶然がこんなに重なることもあるんだなあ。なんとなく人形浄瑠璃が身近なものになってしまった。

 そして、最近 淡路島がテレビで取り上げられることが多くなったような気がする。南あわじ市には広大な水仙のお花畑があり、500万本の水仙がいま盛りと咲いているらしい。南あわじ市へ日帰りで出かけたときは、話を聞いただけだった。見に行く時間はなかったのだが、今思えば一泊していても、見てくれば良かったとも思う。南あわじ市では、タコとフグが有名らしいと言うことも知った。タコは、現地でごちそうになった。明石だこは知っていたが、島の南側でもタコが美味しいらしい。渦潮の中でもまれたタコの筋肉はよく締まって美味しいのかも知れない。淡路島三昧の最近だ。

iPS細胞で世界はどうなるのか

2012-11-02 | 日記風
京都大学の現職教授である山中伸也さんが、iPS細胞の開発で、ノーベル賞を受賞した。京都大学では、ノーベル賞受賞はそれほど珍しくないのだが、それでも京都の町では山中教授の話でもちきりだ。まずは、おめでたい。が、本当におめでたいのだろうか。新聞やテレビでの取り上げ方を見ていると、ちょっと心配になる。

 山中教授が開発したiPS細胞を使って、あらゆる種類の体細胞が作れるようになると、病気で機能を失った細胞の代わりに新しいiPS細胞から作られた細胞で入れ替えて、病気を治すことができる可能性が開かれた。マスコミの騒いでいるのは、この可能性についてだ。森口某という東大の特任研究員が、マスコミの期待を背負って、みごとな詐欺師ぶりを働いたようだ。そういえば、東大からはまだ一人もノーベル賞受賞者がでていない。政府・文科省の顔ばかりを見てきた大学が、良い研究を育てられないのは、十分な理由がある。

 しかし、一方で気になるのは、iPS細胞で万能の病気治療ができるようになることが、そんなに良いことなのだろうか。その結果はどうなるのか。人々が病気で死ななくなった時に、どういうことが起こるだろうか。高齢化は極端に進み、若者は生まれてこなくなる。ロボットのような人間ばかりになり、やがて人類は消滅するだろう。iPS細胞で病気治療をしようとしている医学者は、そこまで考えているのだろうか。目の前の患者が助かるようにしたいという思いはよく分かるが、その結果を医学者は十分考えていない。医学界は、そこまで結果に責任を持って欲しい。戦争に勝利し、戦争を止めるために、原爆を開発した科学者たち。その結果を彼らは考えただろうか。山中教授のノーベル賞受賞の理由が、iPS細胞が病気の治療に道を開いたということであるなら、それは危険な方向かも知れない。まあ、ダイナマイトを作ったノーベルの賞なのだから、現在の悲惨な戦争の罪滅ぼしにもならない。山中教授の本当の業績は、病気治療ではなく、細胞の分化を制御する遺伝子の解明にあったのだが。

東京で3600ベクレルの内部被曝

2012-10-31 | 日記風
昨日、下痢をした。水のような便が出る。このところ、ときどき原因不明の下痢が起こる。1~2日すると、下痢はけろっと治っている。よく考えると、そのような症状が出るのは、東京へ出張に出かけた直後であることが多い。東京では、1ヶ月で3600ベクレルの放射能の内部被曝があったという報告が出た。これは2011年度のことだから、今は少し低レベルになっているのだろうけれども、一般の人が考えるほど東京が安全なところではないということが明らかだ。そのせいだろうか。私は関東地方へ行くたびに、なにか体調不良を感じる。東京で食べる食物が原因なのだろうか。毎日東京で暮らしている人は大丈夫なのだろうか。放射線の影響は、数年後に出てくるガンの多発だけではない。フクイチから放出される放射線によって活性酸素が体内に生み出され、それによって心臓や内臓に不調を来たし、持病を持つ人はそれが悪化する。脳梗塞や心筋梗塞が多発するなど、健康被害が多くなると言われている。福島の人はもちろんだが、フクイチから250kmも離れている東京でも、十分そういう心配がある。東京から多くの母子が京都など関西に避難移住してきている。本当に大丈夫なのか。東京の人たち。金より命が大事だ。関西に来て、いっしょに関西電力の前で原発反対の声を上げよう。

早朝の山とジプシー音楽

2012-10-17 | 日記風
今年は「春夏夏冬」と言われるほど、暑い日が遅くまで続いた。快適な秋を感じさせたのは数日だったような気がする。あっという間に朝夕は寒さを感じるようになり、冬がもうすぐそこに来ている。暑い夏は、山に登らず、近くの小さな沢を歩いていたが、いよいよ低い山歩きには最適な時が来た。歩くぞ~~、と思ってみたが、この季節には週末はいろいろと文化的な催しがあり、山歩きをしたいなあと思いながら、土日は講演会や音楽会、美術館などで過ごすことが多くなり、山へ行くことができない。そのせいか、体重が夏を過ぎて一気に上昇しはじめ、高値安定となってしまった。これではいけない。

 日曜日には、午後から近くの春秋座で、ジプシー楽団による演奏会があり、ある人から入場券をいただいたので、行かない手はない。ロマの人たちの音楽は、楽しそうではないか。そこで、週末に少しでも山歩きをしておこうと、日曜日の早朝に近くの大文字山を歩くことにした。7時に家を出て、銀閣寺の山門の前を通り、裏手の山道に入る。早朝というのに、大文字山を登る人が三々五々歩いている。さすがに日曜の昼間に比べると少ないが、それでも他の山を歩くときに比べると圧倒的に多くの人が歩いている。さすが町のすぐそばにある山だ。毎日大文字山に登っている人が10人は下らないと言われているくらいだ。

 登山口から大文字の火床まで、約20分。急げば15分くらいで行くのだが、そんなに急ぐ必要も無い。もっとも花もほとんど見られない山なので、見るものもあまりない。ひたすら歩くばかりだ。火床には、毎日登っている人たちが集まっている。やはりお年寄りが多い。平日も朝から山に登るには、仕事を持っていては登りにくい。でも、私のよく行くレストランの主人は、まだ50前後だが、店を開ける前に、毎日大文字山に登っているという。健康には最高だろう。私も朝早く起きれば、仕事の前にちょっと歩いてくることもできないことでは無さそうだが、そこまでやろうという元気がない。いや、あの山を毎日登るモチベーションが湧かない。

 火床からさらに標高差100mくらい、時間にして約20分歩いて、大文字山の頂上に着く。頂上は最近少し広く整備して、丸太のベンチをたくさん揃えたようだ。シーズンになるとこのベンチがいっぱいになるくらい人が押し寄せるのだろう。この日は、朝早くでもあったから、数人がおしゃべりを楽しんでいた。私は、そのままもと来た道を戻った。下るのはさらに早く、登山口まで約20分くらい。自宅と登山口の間も20分くらいなので、自宅から頂上まで往復して、1時間半だ。朝の散歩にはちょうど良い。でも、体重対策にはなりそうもない。帰って体重計に乗ってみたが、行く前とまったく同じだった。

 午後から、ジプシー楽団の音楽会に出かけた。これが実にすばらしい演奏会だった。5人の楽団で、バイオリン、ビオラ、コントラバス、チェンバロ、クラリネット。これだけで、クラシック音楽からハンガリー民謡、ジプシー音楽、そして日本の歌(さくら、荒城の月)まで演奏する。とくに、リーダーの男性の操るバイオリンがすばらしい音色を聞かせてくれた。ロマの音楽でもヨーロッパの場所によってかなり音楽は違うようだ。この楽団は、ハンガリーからの人たちだった。ハンガリアンダンスの演奏ももちろんあった。また、民謡に会わせて、ハンガリーの踊りもあった。2時間半の演奏だったが、実に満足して帰った。これが無料だったのだから、こんな良いことはない。ちなみにお金を払うと8000円だとか。う~~ん。良い音楽でも、これだけ払っていく気がするだろうか。テレビ以外に音楽に触れる機会が無い私の貧しい文化生活に思い至って、ちょっと反省した。

それぞれのパワースポット

2012-09-05 | 日記風

 北海道の阿寒湖で、遊覧船に乗って、パワースポットとして近年若者の間で人気を呼んでいるというチュウルイ島へ出かけた。チュウルイ島の周辺はマリモの群生地としてもよく知られており、小さな島には小さなマリモの博物館がある。桟橋に大型の遊覧船が横付けになり、そこから10mも歩いて博物館に入る。マリモの勉強をして、飼育中のマリモを見て出てくると、島を全部歩いてまわることができるほどの小さな島だ。この島にパワースポットがあるという。近頃の観光は、名所旧跡よりもパワースポットがあることの方が観光客を呼ぶことができるらしい。でも、いったい誰がパワースポットを決めるのだろうか。あやしい。

 阿寒湖の温泉街でも、シャッター街よろしく締め切った商店が目立つ。ホテルも閉館したものがあり、阿寒湖の観光も少しずつ厳しさが感じられる。町並みも少し寂しくなったような気がする。阿寒湖は平成の大合併で釧路市と合併し、阿寒湖も釧路市になってしまった。でも、ここが釧路市とは思えない。ただ、観光情報センターの立派な建物が、釧路市になったことを誇示している。このセンターで、昔なじみに出会った。ここに勤めているらしい。自然を観光の対象として、エコツアーをガイドしている。彼女にもっとも似合った仕事のようで、実に生き生きと働いているようで、見ていてうれしかった。何事もやりたいことがやれる仕事に就くのが、もっとも幸福なのだろう。今の自分に引き比べて、実にうらやましい。

 弟子屈では、私の大好きな喫茶店「三城」に行き、コーヒーを飲んだ。この喫茶店は、これまでいろんなところの喫茶店に行ったが、その中でももっとも気に入っている。客席は、6人用のテーブルが一つ、4人用のテーブルが一つ、2人用のテーブルが一つの3つだけ、あとはカウンター席に4人程度が座れるくらいなのだが、部屋全体は広々としており、天井も高い。部屋には、グランドピアノが置いてあり、巨大な振り子時計があり、出窓には様々な花や調度品が置いてある。調度品は、古い時代の理化学機械を、いかにもアート風に飾っている。和室も横にあり、客は入れないが、そこには豪華な花嫁衣装が掛けてある。外観は西洋のお城のようで、周りには美しい花畑が建物に似合った風情で作られている。

 喫茶店を経営しているのは、美人のママさん。ご主人もときどき店を手伝っている。ご主人の趣味とする絵が飾られているが、この絵がまた私の大好きな絵なのだ。弟子屈に来るたびにこの店には寄っている。毎年ご主人の新しい絵が掛けられるのを楽しみにしている。ご主人がいるときは、絵の話を伺うのも楽しみだ。コーヒーの値段は500円とちょっと高めだが、味も雰囲気もすばらしく良いし、チョコレートやお菓子、時には朝取りのトウモロコシを茹でてくれたり、コーヒー以外のサービスも至れり尽くせりだ。500円だけで良いのかと心配になるほどである。最近、開店が午後からになったので、行こうとする人は注意が必要。閉店も5時と早い。昔は阿寒付近の山に登る時には、帰りにここによってコーヒーを飲んで帰途についたものだったが、最近は北海道へ来ることも少なくなり、ちょっと残念だ。ここは、わたしにとってのパワースポットでもある。

サンナシ小屋を蘇らせる

2012-08-31 | 日記風
京都の暑さは格別なので、今年も釧路へやってきた。釧路ではお盆前まで今年は夏がこないのではないかと話していたという。でもお盆の頃から気温が上がり初め、ようやく夏らしくなったという。釧路へきたのは、サンナシ小屋が危機的な状況になりつつあったからである。サンナシ小屋も建ててはや9年が過ぎた。小屋の土台は、トドマツの丸太を9本立てて、それに小屋を乗せているだけだ。そのために、土に直接土台の丸太が乗っており、そこから腐食が始まった。4月にサンナシ小屋へ行ったとき、一本の土台が腐朽菌が入ったらしく腐食しており、その上の小屋の柱が土台を押しつぶしつつあった。それが、今月見たら、完全につぶれており、さらにとなりの土台も小屋の重さに耐えきれずにつぶれかけていた。

 サンナシ小屋に入ってみると、床が傾いている。ボールをおくとごろごろと転がってしまう。このままでは小屋全体がつぶれてしまいそうなので、急遽修理をしようと思い立ったわけだ。小屋までの道は、夏草が生い茂って、歩くには草を分け、しずくにぬれながら30分も歩かねばならない。そこを丸太の代わりに決めたコンクリートの土台を運ばねばならないから、とても歩いていくわけにはいかない。土台1個だけでも30kgもあるからだ。土台を2個とその下に敷くコンクリートの平板を4枚、四駆の軽自動車に積み込んで、この道を決死の覚悟で行った。途中のぬかるみに車輪を取られないようにしながら、それでもなんとか小屋まで行けた。さすが四駆は違う。

 手伝いの人を頼んで、なんとか小屋の丸太の土台二つをコンクリート製に取り替えて、なんとか小屋も水平に戻った。ほんとにうれしい。またしばらくは、サンナシ小屋の美しい景色を眺めながら、お茶を飲んだり、本を読んだり、のんびりした時間を過ごすことができる。でも、残りの7本の丸太もいずれ腐ってくる。また、こんな作業をしなければならない。でも、夏でなければ、もう少し楽にできるだろう。むしろ雪が少ない年の冬の方が、車は入りやすいだろう。やり方は確認できたから、次回はもう大丈夫だ。もっとも、重たい土台を持ち運んだので、それから腰が痛い。

 釧路の気温は、暑い日と涼しい日が交代にやってくる。8月になって25℃を超えた日が二日。28℃と今日の27℃。一昨日は最高気温が21℃だった。夜は寒さで毛布を引き寄せる。暑さの京都から見れば、天国だ。しばらく北海道に居続けることになる。