ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

紅葉の美しさに人は集まらない

2009-11-26 | 日記風
京の今年は 紅葉がもう一つよくない、と言われている。先週の日曜日は午後から晴れてくるという予報を聞いて、大原の三千院に紅葉を見に行った。叡山電車に乗って八瀬でバスに乗り換え、大原に入った。八瀬の駅周辺ではもうモミジがきれいだったから、大原のモミジの美しさに期待がかかった。八瀬から臨時バスがちょうど通りかかったので、がらがらのバスに乗り込んだ。その時点では、今日の混雑はまったく予想もしていなかった。

 大原に着いたときに、人波に驚いた。バス停から三千院までの門前の道は、人でごった返している。もうお祭りのような賑わいだ。三千院に入ると混雑は輪をかけたようになった。玄関から仏間、座敷、廊下と人がどこまでも続く。茶の湯を楽しめるはずの座敷の縁側は、入れ替わり立ち替わり人が押し寄せて、ゆっくりと庭を眺める余裕もない。

 しかも、大原の道すがらのモミジも薄汚れ、茶色に変色して、紅葉とは言い難い色をしている。三千院の庭も、見るべきモミジのかけらもない。こんなにたくさんの人が、この紅葉の時期に三千院を訪れたのは、やはり紅葉を楽しむために他ならないはずだ。しかし、不思議なことに人々は見る影もないモミジについて何の論評もせず、ただ人の尻を見つめながら、入り口から入り出口から出て行く。

 やはり日本人は人が集まるところに集まりたがる人種なのだなあ、と再び感心した。

        人ありて 鳥居に優る 朱の紅葉

そして、今日。目の覚めるような美しいモミジを見た。見ている人はほとんどいない。木の数はそう多くないのだが、その色の美しいこと。近くの稲荷神社の真っ赤な鳥居のそばで、鳥居にまさるとも劣らない朱色のモミジの葉を拡げていた。葉っぱの赤、わずかにオレンジ色が勝った葉の縁辺。葉脈までが美の競演に加わっている。

 紅葉の美しいところに人が集まるのではなく、人が集まるところに人が集まるんだな。

曇天に 雪虫飛ぶや 古都の秋

 雪虫は北国の風物詩だったと思っていたが、京都でも雪虫が飛んでいた。種類は違うのかもしれないが、同じ白い綿状の突起を持った有翅のアブラムシが、冬が来るぞとまるで風花が舞うように、初冬の街に飛んでいた。ああ、冬がそこまで来ている。

核燃料サイクルは核兵器開発と同じ

2009-11-22 | 環境
山口県上関町では、中国電力が原発を建設するために長島の海を埋め立てようと、反対している祝島の住民や反対派の人たちの隙を虎視眈々とねらっており、埋め立て海域にコンクリートブロックを投入したり、反対派の人たちに暴力を使ったりしている。中国電力の社員が反対する人たちに「核実験で放射能物質がいっぱい地球にばらまかれたのだから、少々原発から放射能が漏れたって、たいしたことはない」と暴言を吐いたが、原爆で放射能を浴びて苦悶の死を経験してきた広島に住んでいる人とは思えない人たちが中国電力の社員にはいるということが明らかになった。このような企業に危険な原発を運転させたくはない。

 佐賀県の玄海原発では、プルトニウムをウランと一緒に燃料に入れるプルサーマル運転が始まった。プルトニウムはウラン燃料を使うと核分裂によって生成されるきわめて有毒で危険な物質で、自然には存在せず、核兵器を作るために使われる。原発を運転すると自動的にプルトニウムができてしまうので、プルトニウムを持たざるを得ないので、核兵器開発が疑われるのだ。日本には原発が50基近くも運転しているから、プルトニウムはどんどん作られて溜められてきた。核兵器開発の疑惑を避けるために、日本はプルサーマルでプルトニウムを使って減らすパーフォーマンスをする必要があった。そのためにプルサーマルを燃料に使うというきわめて危険な選択をせざるを得なくなっている。しかし、使う原発はウラン燃料用に作られているので、プルサーマルを燃料として使ったときに安全が保証されるとは限らない。日本各地の原発でプルサーマル運転が計画されている。最初に事故を起こすのはいったいどこなのだろうか。おそろしい。

 アメリカはイランや北朝鮮に核兵器開発を止めるように圧力をかけている。イランに対しては、戦争をしかける脅しさえも使っている。ブッシュ政権では、イラン攻撃が現実的になっていたと言われる。イランは核の平和利用に反対する権利はないと言っているが、オバマ政権になってイラン攻撃の可能性はやや減少したものの、欧米によるイラン脅迫は続いている。欧米が実際に核兵器開発を公言している北朝鮮とは違って、平和利用を言っているイランになぜこれほどの脅しをかけているのだろうか。それは、平和利用という原発は、運転すればかならずプルトニウムが生成され、プルトニウムは所持するだけでも危険なものであること、プルトニウムの有効利用が核兵器開発以外にはないことを、アメリカや欧米がよく知っているからである。

 ではなぜ日本の平和利用は認めているのだろうか。それは原発の燃料のウランが日本には産出しないこと、ウラン濃縮はアメリカの技術に頼らなければできないことがあるからである。日本の原発はアメリカのウラン濃縮に頼り、アメリカはそれで儲けている。いざとなったらウラン濃縮を拒否すれば日本の原発は止まってしまうのだ。いわば日本が原発にエネルギー政策を転換することは、アメリカに生殺与奪の権利を奪われることになる。ところがプルトニウムが日本に溜まりすぎると日本が核兵器開発をやりかねないので、IAEAに日本の査察を厳しくやらせている。さらにプルサーマルを燃料として使わせ、プルトニウムを減らすように求めている。それが日本が危険なプルサーマル運転をしなければならない理由なのだ。

 しかも、プルサーマル燃料を原発で燃やすと、またまたプルトニウムが生成するという。これは原発運転を止めない限り、いつまでも続く地獄なのだ。ドイツやアメリカが脱原発を進めてきたのは、この地獄を知っているからである。日本は一刻も早くこの無間地獄から抜け出す決意を固めなければならない。原爆の悲惨な結果を知っている日本がなぜ少々の放射能漏れくらい大丈夫などと言う人間を許しておけるのか、私には分からない。本当の地獄が広島と長崎に続いて日本のどこかで現れるまで、日本人は原発を作り続けるのだろうか。


奥三河の紅葉とダム

2009-11-17 | 花と自然
紅葉が盛りになってきたせいで、市内の道路が混み始めた。あちこちのモミジの名所で夜間のライトアップなどが始まり、人混みができている。モミジの紅葉もきれいだが、銀杏などの黄色も目が覚めるようにきれいだ。黄葉もけっして馬鹿にならない。職場にある銀杏の黄葉が今盛りで、本当にすばらしい色になっているのだが、お寺のライトアップしたモミジには人が注目しても、こんなイチョウのすばらしい黄色に注目する人はあまりないのが不思議だ。

 週末、三河の奥に出かけた。奥三河の足助というところに香嵐渓という紅葉の名所がある。足助の街に入るずっと前から、道路が混み始め、いっこうに前に進まない。車で出かけたわれわれの目的地は別のところだったので、いらいらしてしまったが、忍耐するしかない。渋滞の列を抜けたのは一時間以上も後のことだった。名のある名所なので人々が集まるのだろうが、渋滞の最後の方に並んだ車は香嵐渓に着く前に日が暮れてしまうのではないだろうかと心配になった。

 その渋滞から何とか裏道を探して抜け出た後は、快適なドライブだった。もう少し先に行くと、きれいな渓谷に茶店が一軒あり、そのまわりにはすばらしいモミジの樹があり、紅葉の盛りであった。しかし、ここはほとんど誰もいない。車が1-2台停まっているだけで、紅葉をゆっくり楽しむことができた。それは見事なモミジの大木だった。でも名前の知られていない場所、人が集まらない場所には、人々は興味がないように見える。彼らはひょっとすると紅葉のすばらしさを求めているのではなく、人混みを求めてきているのではないかと思ってしまう。そうすると、あの渋滞も彼らは結構楽しんでいたのだろうか。

 京都よりは500m以上標高が高いところだったので、紅葉もいまがちょうど盛り。きれいな赤や黄色を眺め、渓谷の水の流れを楽しんだ。でもこの川にはいっぱいダムができており、いたるところにダムがある。紅葉はすばらしいが巨大なダムのコンクリートにせき止められた水の流れは哀しいものに見える。ダムはムダっっ!と叫びたい。ここも新しいダム建設の予定があるらしい。もうこれ以上美しい景色を壊して欲しくない。

カニと温泉と海

2009-11-13 | 日記風
日本海のズワイガニ漁がいっせいに始まった。カニが特別好きなわけではないが、なんとなく日本海の冬のズワイガニ(マツバガニ)の風景が見たくなり、また久しぶりに温泉に入りたくなって、そろそろ冬が近くなった北陸を訪れた。冬の日本海は大荒れが続くと聞いているが、まだそんな冬の日本海を知らない。でも好きこのんでそんな日本海を見たいとは思わないので、日本海側に行くなら、冬のさなかには行きたくない。

 志賀直哉の小説「城ノ崎にて」で有名な城崎温泉は、昔ながらの情緒あふれる温泉街で知られており、そのせいか、若い女性の観光客が街にあふれている。関西地方の温泉場として定番のようだ。宿に落ち着いて、まず宿の温泉(内湯)に入る。無色透明のお湯で、暖かいがなんとなく温泉という感じがしない。やはり温泉は湯ノ花が湧くような濁ったお湯がいかにもそれらしい。それからおもむろに夕食のカニ料理に向かう。

 北海道にいる頃は、カニ料理には縁が深かった。宴会にはかならずと言っていいくらいカニが並んだ。道東では花咲ガニがよく食べられる。道東でしか採れないカニなので、他の場所ではあまり食べる機会がない。東京あたりで食べると目玉が飛び出るほど高いが、道東なら宴会で出てくる花咲ガニは一人まるまる一匹だ。十分食べがいがある量だ。最初の頃は物珍しいこともあって、一生懸命食べていたが、そのうち宴会でカニが出ても手をつけることはしなくなった。なにしろカニを食べるのは大変面倒だ。きれいに身が外れてくれればそれでも食べようと思うが、なかなか身がきれいに食べられない。すすったり、かみついたり、悪戦苦闘し、食べ終わった頃は口の中が傷ついていて痛い。それでも完全に身を食べきれないので、なんとなく満足感がない。しかもカニを食べ始めると話しをしなくなり、みんな黙々と食べていることになる。宴会では、多くの人がカニに手を出さないで話をしており、そのまま残すことが多かった。カニは値段が高いが、値段に値するほどおいしいものとも思えなかった。

 北海道を離れてはや2年半が過ぎた。カニも久しく食べていないなあと思いながら、マツバガニ料理に向かった。カニの刺身、カニのゆでたもの、カニの煮付け、カニの天ぷら、カニの酢もの、カニの吸い物と、カニだらけ。やはり同じようにみんな黙々と食べている。一本のカニの脚を食べるのにもかなりの時間がかかる。それでもなんとかすべての料理を食べ終わった。注意して食べたが、口の中があちこちちくちくする。お腹いっぱいになった。われわれのコースは普通の料理コース。カニの特別コースを頼んだ人はさらにこれにカニの脚がいっぱい入った籠がつく。そんなに食べられるのだろうかと心配になった。カニコースの人はおそらく簡単に食べて、殻に残った身はきれいに食べずに捨ててしまっているに違いない。しかし、こんなにカニを食べて良いのだろうかと疑問に思った。

 ズワイガニの資源が獲りすぎでかなり減少していると聞いている。ハコガニと称する小型のカニは、卵を持った雌のズワイガニだ。お腹にいっぱい卵を抱いて、店先に山盛りにして売られている。雄のカニに比べて半値以下だ。宿で大量に出てくるカニの脚は、この雌が多いのだろう。しかし、彼女たちのお腹に抱えている卵のことを考えると、われわれはズワイガニを食べ過ぎていないだろうか。せめて雌のカニは獲らないようにできないものだろうか。昔はズワイガニは冬だけのものだったが、冷凍設備が完備した今ではカニ食べ放題という宿のサービスで、一年中毎日のように多くの観光客がやってきている。カニの消費量はものすごい。これだけカニを食べて日本海のズワイガニがいなくならない方がおかしい。

 それなりに食欲は満足したが、なんとなく気持ちに引っ掛かるものがあって、満足感からはほど遠い。また、カニのにおいが体にまとわりついて、頭の髪の毛までカニのにおいがしているようで、気持ち悪い。今度来るときは、カニのあまり入っていない料理を頼みたいと思ったが、この宿のコースは、カニのコースと但馬牛のコースしかない。ベジタリアンの私が選べるのはカニしかない。これは困った。みんなそんなにカニが好きなのだろうか。きっとそうでない人もいるに違いないと思うのだが、冬の日本海と言えばカニしか考えない人が(宿の人を含めて)多いのかもしれない。日本人は個性を重んじないところだというのはいろんなところで感じる。



 カニのにおいを消すためにも、城崎温泉名物の外湯のはしごに出かけた。宿の宿泊客は宿の浴衣を着ていけば外湯の入浴料はただになる。そこで浴衣を着て宿の名前が書かれた下駄を履いて、カラコロカラコロと湯の町を歩く。あちこちの宿から出てきた浴衣の観光客で湯の町はいっぱい。それが作り出す湯の町の風情がまた観光客を呼び込むのだろう。みんなその風情を楽しんでいる。温泉街には昔懐かしい射的場などもあって、かつての美人おねえさんが昔のままの風情で客の相手をしている。何十年ぶりかでスマートボールも見つけた。パチンコのような台を斜めにおいて、ピンポン球のような玉をはじく。子供の頃にお祭りの夜店でよく遊んだ記憶がある。

 城崎温泉は歴史のある古い温泉だが、外湯はみんな改装してきれいだ。近代的な温泉に生まれ変わっている。有名でこれだけ観光客が押し寄せるところだから、改装費用は惜しまないのだろうが、古い温泉地の共同湯の風情は無くなってしまったと感じる。若い人にはこの方がきっと受け入れられるのだろうが、ちょっと残念な気もする。そういえば、温泉街を歩いている浴衣姿の観光客は、若い女性が圧倒的に多い。温泉街は金持ちのおじさんか新婚さんの時代だったころから見ると、時代は変わったなと思う。良い方向なのだろうが。でも城崎温泉は、旅館がどこも高額で、外湯に入るだけでも銭湯よりはかなり高い。それでも客が来るという強気なのだろうか。



 翌日は快晴。日本海側はいつも天候が悪いという印象が強いので、この晴れた空はうれしかった。海岸の砂浜に座って真っ青な空の下に、穏やかなあおい海を見つめていると、日頃の勤めのストレスがすうっと抜けていくのがわかる。前々日のストレスのある会合を無事済ませたあとの良い休みだった。

低線量放射線が私たちを蝕む

2009-11-09 | 環境
日本の気温が上昇を続けている。各地の水温は気温を上回る勢いで上昇している。地球温暖化を促す二酸化炭素の濃度は、ほとんど直線的に20世紀を通して上昇し続けているのに、気温や水温の上昇は、なぜか1980年代以降に突然上昇を始めた。不思議なことにいろんな現象がそれに伴って起こっている。そのほとんどがあまり良くない方向を示している。地球上の魚が減少しているのだが、その傾向も1980年代以降はっきりしてきた。水産物の水揚げがはっきりその頃から低迷を続けている。日本の人口も1980年代以降頭打ちになり、減少に転じた。

ジェイ・M・グールドとベンジャミン・A・ゴルドマン共著の「死に至る虚構 国家による低線量放射線の隠蔽」という本を読んだ。アメリカでは、4回以上のきわめて多量の放射能漏洩事故が発生している。核兵器開発工場、原子力発電所の2度にわたる大事故、そして繰り返された大気圏核実験による放射能降下物の雨だ。これらによるアメリカ人の乳幼児死亡率の上昇は、極めて高くなった。さらに驚くことにロシアのチェルノブイリで起こった原子力発電所の事故の直後から、アメリカのかなりの部分で人々のガン発生率=死亡率が著しく上昇した。チェルノブイリからは地球の反対側に当たるアメリカ大陸でこのような大きな影響があったということは、われわれはほとんど知らなかったのではないだろうか。ましてや、チェルノブイリ原発からの距離はアメリカに比べてきわめて近い日本では、そのようなことがなかったのだろうか。

 彼らの本には、アメリカ政府が核兵器製造工場の事故も、スリーマイル島原発の事故も、核実験による場合も、あらゆる国の統計資料が改ざんされ、もしくは偽のデータを紛れ込まされ、あるいはデータの公表を突然中止されるなどして、国家規模でこれら国民のガン発生率や乳幼児の死亡率の極端な上昇を隠蔽し続けたことが暴かれている。同じ事が日本で起こっていないと言えるだろうか。

 チェルノブイリ原発の事故は、1986年6月。アメリカのある州のガン発生率は、この年の前半と後半で数倍にも上昇しているという。いろんな地球上の現象が1980年代以降に、突然のように発生し悪い方向へ一直線に向かっているように見えるのは、偶然のことなのであろうか。

 そして今年、地球温暖化対策と称して、世界の国の多くが原発推進へと向かっている。日本の民主党政府は二酸化炭素25%削減という先進的な目標を掲げながら、その実現のために原発を利用しようとしている。原発の温排水は海水を温め、それは海水という巨大な二酸化炭素貯蔵庫を暖めることによって、多量の二酸化炭素を海から追い出し、大気圏の濃度を上昇させることに役立っているのだけれど、誰もそれを知らない振りをしている。なぜなのか。二酸化炭素削減のためと称して原発を発展途上国へ売りつける商売を日本の経済界は狙っている。二酸化炭素削減の目標を達成するためには、経済界の協力を取り付けなければいけないと思った政府が、経済界の要求である原発の推進を後押ししているからである。

 かくて、二酸化炭素排出量削減目標は達成できても、大気圏中の二酸化炭素濃度は減らないという、滑稽な事態が起こるだろう。そして地球の温暖化は続く。さらに国民は原発のまき散らす低線量放射能の恐怖で、次々と子供が生まれなくなっていくだろう。この恐怖が取り越し苦労であることを祈っているが、それにしても、一刻も早く放射能の被害から人々を救う政策が採られなければならない。もう日本に原発はいらない。

「沈まぬ太陽」鑑賞記

2009-11-05 | 日記風
文化の日、天候も悪くてアウトドアは止めて、久しぶりに映画を見た。「白い巨塔」や「大地の子」など社会派の作家、山崎豊子原作の「沈まぬ太陽」だ。3時間を超える大作で、途中に休憩時間が10分間入る。長編の「沈まぬ太陽」は、その一部をつまみ読みをしたことがあったが、6冊のうちの1冊のさらに一部だけだったので、内容はほとんど把握できなかった。今度映画を見て、その全容がはっきりと理解できた。

 日本航空ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故を主要な題材に取った小説=映画だったが、日本航空は「国民航空」という名前に変えられ、経営陣の名前も仮名を使っている。しかし、政府首脳がナショナル・フラッグ・キャリアーという言葉を何度も使っていることを見ても、御巣鷹山という実名の事故地が出てくることからも、日本航空のことであることははっきりしている。

 労働組合委員長をやっていた主人公が会社からの報復人事で、海外の小支店に左遷される。労働組合には第2組合が経営者の画策で作られ、第1組合の幹部はそれぞれ報復人事で閑職への左遷といじめにあう。9年目にようやく日本へ帰ってきたら、御巣鷹山墜落事故の遺族対策係をやらされる。このあたりは現実の日本航空で行われてきた労務対策を、細かい点は創作でも、かなり事実に沿って作られていると感じた。日本航空経営陣の腐敗を描いたこの映画の配給を阻止すべく日本航空があらゆる方法を通して圧力をかけてきたということが伝えられていることからも、この映画の真実性が暗示される。

 時の政権がナショナル・フラッグ・キャリアーという「国民航空」を潰さないために、関西の経済人を会長にすえて、会社の改革を行おうとする。この会長が主人公を会長室メンバーとして、「国民航空」改革に当たらせる。そこで為替の不正操作と海外のホテル取引に関わる不正を暴こうとする。それに危機感を覚えた政権の首脳=首相は会長を解任する。しかし、その会長と主人公は協力してホテル取引の不正を行った取締役を解任させる。また、組合を裏切って常務に昇進した男の巨額資金の不正を、第1組合の仲間が手伝い、そのすべての経緯を手帳に記した上で自殺する。手帳は検察庁へ届けられ、常務は逮捕される。

 要するに、政府の都合と政治家と「国民航空」という企業の幹部との癒着を描き、組合活動への露骨な経営者のいじめ=不当労働行為を描いている。さらに職場の仲間を裏切ることを拒否して左遷された男の家族の苦難と苦しみ、会社の安全よりも儲けを優先した経営が大事故を引き起こし、その遺族たちに対して非人間的な対応をする会社経営者の姿を描いている。細かいところは創作に違いないだろうが、このようなことが行われてきたと言うことは容易に想像できることでもある。

 渡辺謙の熱演は、この映画の質を高めたと言えるのではないだろうか。大作ではあったが、会社の中の権力争いを絡ませたことは、本来の主題をやや希薄にさせてしまったような気がした。でも、御巣鷹山の事故の大きさと遺族の苦しみや悲しみは十分に届いたように思う。普段テレビを見るときは、目の疲れでつらくなることが多いのだが、この映画は、見ながら目の疲れをまったく感じさせなかった。

 職場の仲間を裏切らず、左遷という悲哀を味わう主人公だが、カラチとテヘラン、そしてナイロビという場所の勤務は、それぞれ2-3年ということだったから、私ならかえって喜んでいったのにと思った。それがもう一つ主人公の感情に完全に入り込めなかった理由かもしれない。商社や企業の転勤で海外へ行く人たちの多くは、つらいと思っていっているのだろうか。私にはそのあたりはよく分からない。行きたいと思っていくのと、命令で行かされるのとはきっとまったく違うのだろう。ケニヤの真っ赤な夕日が大地に沈むシーンは、逆にそのような人間の所業を小さなものに見せてしまう。「沈まぬ太陽」は、かつての大英帝国と同じように、世界中に航空路線を持つ日本航空の別名でもあったが。