ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

オリンピックの政治利用

2008-04-30 | 政治
どうやら世界を回り終わってついにチョモランマの頂上まで聖火は到達したらしい。各地で「チベットに自由を」と叫んでいる人たちが聖火リレーを妨害しようと集まってきている。誰が考えたのか知らないが、中国が必死に聖火を守ろうとすればするほど異常さが強調されるから、チベット問題が浮き上がってくる仕掛けになっている。

 中国も大変だなあ、という思うのだが、そもそもオリンピックを政治に利用するようになったのは、今回が初めてではない。聖火リレーに抗議のために集まっている人たちも、チベットの人権問題を何より大事と考えている人ばかりではない。こんな機会に中国を叩いてやろうという人が多いのだ。それもオリンピックを政治に利用していると言える。もちろん今回のオリンピックを国家の宣伝に利用しようとしている中国はオリンピックを最も政治的に利用している。そしてそれは中国が始めてではない。昔のことはよく知らないが、本で読む限りではオリンピックを政治的に国家宣揚に利用しようとしたのは、ベルリンオリンピックのナチスドイツだった。オリンピックでのヒトラーの演説は、まさに政治がオリンピックを占領した舞台だった。

 あれ以来、オリンピックは大なり小なり国家の宣伝・宣揚に利用され続けてきた。東京オリンピックだってそうだった。そもそも競技の勝者を表彰するときに揚げられる旗は国旗である必要はない。競技団体の旗でもかまわないのだ。しかし、これまでオリンピックの表彰台に国旗以外の旗が揚がったことは私の知っている限りではなかった。どの国も国旗を揚げたがり、国歌を演奏させたがった。しょせんオリンピックは国家がスポーツを政治に利用する道具にしかならなかったのだ。

 だから中国がオリンピックを国家宣揚の道具としようと考えたとて、どこの国もそれを責める資格はない。だからチベットでの人権問題を道具にして反中国の気運を盛り上げたいと思う人々が出てくるのだ。CIAの謀略かどうかは別としても。どちらもスポーツの政治利用という意味では同じなのだから。日本政府の文部科学省予算の中に占めるスポーツ振興予算が文化芸能振興予算よりもかなり多いのは、やはり日本の政治屋がスポーツを政治に利用していることを如実に表している。スポーツなどはそんなにお金がかかるものではないはずだ。オリンピックのメダル獲得に血眼になって国家宣揚を図ろうとするからお金がかかる。政治によるメダル狙いはやめて欲しい。そしてそれに便乗した○○協会とかの利権のたらい回しももうそろそろ化けの皮がはげる頃だ。

 そろそろオリンピックはやめたらどうか。これだけ政治に利用され続け、一部の利権に奉仕しているオリンピックは壮大な虚構と虚栄にすぎない。日本でもミニオリンピックといわれる国体をやめたらどうかといわれて久しい。それでも利権を持つものたちはやめさせないように画策していまだに続いている。オリンピックも国体ももう必要とされた時代は過ぎたのではないか。

はやくも暑くなってきた。暑さの夏が怖い。

サンナシ小屋の春

2008-04-29 | 花と自然
一週間ぶりに北海道から小江戸川越に帰ってきた。サンナシ小屋は春も真っ盛りだった。5月中旬の陽気とかで、あちこちにまだ雪の固まりが残っているので、さすがに桜はまだ咲かないが、早春の花は咲き乱れていた。フクジュソウの花の黄色い絨毯を予想していったのだが、福寿草の花はもうほとんどが枯れて青い実が結実していた。咲いていたのは、エゾエンゴサク(写真)、キバナノアマナ、アキタブキなどの早春のおなじみの花たちだ。
エゾエンゴサク

いろんな草の芽がどんどんと伸び始めていて、柳の芽もいまにも爆発しそうに膨れている。春の爆発。エゾアカガエルの鳴き声もにぎやかで、水たまりには蛙の卵塊がびっしりと生み付けられている(写真)。まもなくオタマジャクシが泳ぎ出す。
エゾアカガエルの卵塊

 この時期の楽しさは、山菜採り。とくにギョウジャニンニク(写真)が今取り頃。となりにはクロユリ(写真)の芽がいっせいに伸び出している。
ギョウジャニンニク(別名アイヌネギ)
クロユリの芽生え

サンナシ小屋の周囲でギョウジャニンニクを採集し、お昼はラーメンに入れて、夕食には焼き飯に炒め込んで、匂いも気にせずに美味しい美味しいと食べる。久しぶりのサンナシ小屋だったが、やはりここにいるとあらゆるストレスから自由になる。ベランダにいると暖かくてストーブも使わずに済んだ。さすがに夕方になるとストーブなしでは無理だったが。この冬に強風が吹いたので、薪にする倒木が多い。少し倒木を集め、ストーブ用に切りそろえておいた。無心に薪割りをしていると、遠くからここへきたことも忘れる。

北の国にも夏が来た?

2008-04-21 | 日記風
今日は北の国でも夏が来たような陽気だそうだ。サンナシ小屋の周辺ではコゴミやギョウジャニンニクなどの山菜がいっぱい顔を出しているだろう。ギョウジャニンニクを炊き込んだラーメンなどは垂涎ものだ。小江戸も初夏の陽気。明日から北海道に出かける。サンナシ小屋の周りの春を楽しんでこよう。

プランターの花と命の尊さ

2008-04-21 | ちょっと一言
日本各地でプランターに植えて道路を飾っている花が引きちぎられたり、抜き取られたりすることが起こっている。犯人を糾弾する記事が新聞を埋めるが、また同時になんとなくそんな世相を身体に感じる薄ら寒さもある。

 一方、こういう光景もある。春が来て公園や花壇や家の周りにいろんな植物がいっせいに芽を出し花を咲かせ伸び始めた。青いオオイヌノフグリ、赤いホトケノザやヒメオドリコソウ、黄色いセイヨウタンポポやカラシナ、白いナズナやハコベなどなど、色とりどりの花が咲いている。その伸び始めた草花を耳をつんざく騒音とともに電動草刈り機で根こそぎ薙いで切り捨てる。刈った後はまたまた電動吸引器で大騒音とともに草花の死骸を集めてゴミ焼却場へ持って行く。残されたのはわずかの緑色したコケ類くらい。命に溢れていた地面がふたたび冬のような寒々とした風景に変わる。

 なぜ人々はプランターに植えた作り物のような花が切り捨てられるのを非難しても、これら野生の花たちが切り捨てられ根絶やしにされるのは黙って見過ごしたり、むしろ喜んだりできるのだろうか。チューリップを1000本切り捨てるのと何十万本の草花を切り捨て殺すのとどれだけの違いがあるのだろうか。

 おそらくプランターに植えた花が切り取られるのを怒る気持ちは、花の命を惜しんでのことではない。プランターに植えたという人間の行為が無にされたと怒っているに違いない。花の命を惜しんではないのだ。もしそうなら、野生の草花をこんなに簡単になぎ倒し殺し回る草刈りという行為が簡単に行われるはずもない。

 公園にはいろんな野生の草花が咲いていて欲しい。人工的に観賞用に作られた花を植えるのも否定はしないが、野生の草花こそ公園にふさわしいと思う。そしてそういう公園で遊んだ子供が本当に命の尊さを知ることができるし、命を大切にするようになる。観賞用に作られた花は、おそらく命の尊さよりも命を自由に左右しても良いという考えを人々に植え付けるだろう。草刈りはもっと考えてやって欲しい。

違憲判決は「日本の青空」

2008-04-19 | 政治
今週は雨にも祟られ、体調も悪く、とうとう山登りはできなかった。しかし何となく気分が良い。なぜなら名古屋高裁が日本国憲法施行以来初めて、政府の行為を憲法九条違反と認定したからだ。このスッキリ感は何とも言えないくらい嬉しい。

 日本国憲法で戦争を放棄して戦力である軍隊をもたないと決めてからも、自民党政府による憲法九条違反は数限りない。警察予備隊と称して軍事組織を作って以来、保安隊、自衛隊と名前は変わってきたが軍事組織であることはまちがいない。軍隊ではないとごまかし続けてきた日本政府。外国からは日本には軍隊を持たないという憲法があるのに、憲法を守っていない国(法治国家ではない)というそれなりの評価をされて大国としては扱われてこなかった(経済大国であって倫理は問題外だった)。そして今度は九条2項を削除して、自衛軍を持とうとしている。

 日本が法治国家ではないというのは、何度もこのブログで書いてきた。憲法を守ろうとしない自民党政府の首相をはじめとした政治屋の言動を見ていると、法律は自分のためにあると考えている独裁者と変わらないと感じてきた。自分にとって不利と思う裁判の判決は無視し、当然のごとく靖国に参拝を続けたコイズミ首相。そして今回の憲法九条違反の判決に対して「自衛隊の活動に何ら影響はない」と平然と言い放つ官房長官や防衛相。

 最高裁判所が憲法判断をしなくなって久しい。いや憲法九条に関しては一度も憲法判断をしたことがない最高裁判所。統治行為には司法が口を出さないと、政府の憲法解釈を無制限に許してきた最高裁判所。三権分立とは名ばかりの裁判所だった。だからこそ、今回の青山邦夫裁判長と二名の裁判官の勇気ある判決を、「日本の青空」だと思う。日本にもまだ良識ある裁判官がいた。司法を立て直すためには、このような裁判官にこそ司法改革を担って欲しいと思う。裁判員制度などで司法改革の本来の目的をごまかさず、真の三権分立を作り上げることこそ、いま必要な改革である。

 直ちに自衛隊は中東から撤退すべきだ。

     

きちんと精算して欲しい

2008-04-17 | ちょっと一言
JRなどの鉄道の駅には近年自動改札や自動精算機が普及して、便利にはなったような気がする。しかし、昔から納得できないことが一つある。それは切符を買って乗った時に、目的地までの切符を買っていない場合は、不足分を精算して降りないといけない。それは当然であるが、しかし目的地よりも遠くの切符を買った場合には目的地で精算しても決して余分に払ったお金を返してはくれない(かなり長距離の場合は途中で旅行を止めれば返還される)。それは何故なのだろうかと昔から不思議に思っていた。足りない分はきちんと取るが、取りすぎていたときは決して返さない。ちょっと不合理ではないか。

 高校や大学への入学金を支払った場合、入学を取り消しても決して返してくれなかった。授業料も一度払ったものは何があっても返さないという注意書きを読んだことがある。最近は返すべきだという議論があり、いくつかの高校や大学で返していると聞く。鉄道の運賃もおそらく運送約款とかで返さないということが書かれているのだろうけれども、切符を買う人はいちいち運送約款を読んで承認しているわけではない。しかし、切符を買うとこの運送約款を承認したことと見なすということも運送約款には書かれているようだ。

 それでも精算という手続きができ、しかも人の手を煩わさないで自動で精算ができる庸になった今では、やはり払いすぎたお金は自動で精算して返しても良いのではないか。精算とは過不足を精算することなのだから。

 今日は雨。これから明日に掛けて大雨になるという。しかし、今日は雨に負けない素晴らしいニュースを聞いた。名古屋高等裁判所が自衛隊のイラク派遣は一部憲法9条違反になると判定した。しかも判決は政府側の勝訴という形を取っており政府は上告できないので、この判断は確定する。コイズミ、アベという好戦内閣が推し進めた戦争参加が憲法違反とはっきり認定された。素晴らしい(当たり前だが)判決は雨の日本に青空を見るようだ。コイズミ・アベの戦争準備政策を「精算」する時が来た。
 

沖縄は軍隊を許さない

2008-04-16 | 政治
 沖縄における集団自決に軍が関与しているという記述をめぐり文部科学省の教科書検定官が、記述を変えさせたということが問題になった。その後の沖縄の人たちの反撥で、文部科学省は教科書会社からの変更申請を受け付けるという形で、幾分の修正を試みた。けれども文部科学省検定官の歴史を無視した検定意見を撤回しようとは絶対しない。今日、沖縄の自治体の首長や議員たちが文部科学省を訪ねて、検定意見の撤回をあらためて求めた。しかし、文部科学省はその要求に応じようとしないだろう。それなら、教科書検定制度そのものが問われるべきだ。

 そもそも検定官の意見によると、住民の集団自決に軍の命令があったかどうかという事実は、裁判で係争中で決着がついていないから、決定したこととして教科書に書くべきではないというものだった。しかし、沖縄戦で住民が集団自決したのは日本軍の命令や訓辞があったからだというのは歴史学者の間ではすでに自明のこととして学問的には疑う余地はなかった。そのために教科書にも長い間書かれてきた。岩波書店から出された大江健三郎の「沖縄ノート」に書かれているのもそのような事実であった。

 それが、元座間味島の戦隊長・梅澤裕氏と元渡嘉敷島の戦隊長・赤松嘉次氏の弟である赤松秀一氏が「軍が関与したものではない」と名誉毀損で訴えたことから、文部科学省の検定官がこれ幸いと教科書から「軍の関与」を伺わせる文章を削除させたのだ。そもそも文部科学省の検定官とくに社会科の検定官には右翼的な思想を持った人間が意識的に採用されており、皇国史観を教科書になんとかして潜り込ませようと手を変え品を変えて検定してきた。最近は検定では生ぬるいという右翼学者が自分たちで皇国史観を貫いた歴史教科書を作ってしまった。しかし、東京都など右翼知事に囲い込まれた教育委員会などほんの一部で扶桑社の教科書が採用されただけで、全国の多くの学校では採用されなかったため、彼らも別の道を探り始めている。

 この「岩波大江裁判」では、地方裁判所で「軍の関与は明らか」という判断が出されたのは、事実と研究を重視すれば至極当然のことだと思う。しかし、原告たちは控訴した。教科書の検定意見が間違っていると言わせないための控訴なのだろう。いまの裁判所は上に行くほどおかしくなっているので、最高裁ではどういう不思議な判決が出されるかわからないというのは哀しいことだ。

 それにしても不思議なのは、この二人の戦隊長だ。あれだけの死者を出し、住民を守ることができずに戦隊長である自分だけは逃げ出してきておいて謝りもしない。集団自決して軍の命令に従った人たちにはどれだけ血の涙を流しても謝りきれないはずだろう。それを俺は死ねなどといった覚えはないなどと白を切り、挙げ句の果てに名誉毀損で書店や作家を訴える。ホントに恥ずかしい。帝国陸軍の将校というのはそんな恥ずかしい人間だったのだろうか。

 沖縄では今でも軍隊が大手を振っている。米軍兵士による犯罪が後を絶たない。つい先日も海兵隊員の子供が万引きをして取り押さえられたのに、米軍憲兵が日本の警察よりも早くやってきてこれらの犯人たちを連れ去り、その日の内に釈放してしまった。そして警察の事情聴取を拒否している。日本の国で起こった犯罪を日本警察が調べられないという植民地状態が続いているのだ。だから沖縄の人たちは軍隊を信用しない。沖縄以外の日本人も自分のこととして感じることが必要なのではないか。

姥捨て山制度の廃止を

2008-04-15 | 政治
ガソリン税の暫定税率が廃止になると市民生活に混乱を来すと、民主党の対応をあれだけ口を極めて批難していたフクダ首相や自民党幹事長だったが、「後期高齢者医療保険制度」でこれほど国民生活が混乱し、驚き呆れているのに、彼らのやったことは「説明が足りなかった」だの「制度の定着に万全を期す」だのと、制度そのものについての反省の色はまったくない。「長寿医療保険」と呼び名を変えただけだ。国民の混乱なんて彼らには何の関心もないことが証明された。

 そもそも「後期高齢者医療保険制度」というのは、これまで無料に近いお金で老人の病気治療ができていたのを、老人の中でも75歳以上からも保険料というお金を年金から天引きし、しかも(ここが大事なのだけど)十分な治療を受けさせない仕掛けを作っている。「高齢者にふさわしい医療体系」をつくるという。言い換えれば「死んでいく人にふさわしい医療」ということだ。無駄な金は使わないぞと宣言しているような制度である。まさに「姥捨て山」に他ならない。

 しかもフクダさんやマスゾエさんは、保険料が今より安くなる人がほとんどだと保険料軽減措置による例を強調する。しかし、半年後に一つ、一年後に一つ、2年後にすべてと徐々に軽減措置が無くなっていくことは言わない。この医療保険は非常に複雑で、自分がどの場合に当たるかは説明を聞いても知るのが困難だ。75歳以上のお年寄りに理解せよと言うのが無理というもの。そして気がつくと高い保険料を払わされ、満足な治療を受けられず、早く死んでくれと言わんばかりの扱いを受けることになる。

 先日、千葉県の県立高校で入学金の納付が終わっていない二人の新入生を入学式から締め出し、別室に閉じこめていたというまるで教育者とは思えないような学校の対応が問題になった。こんな人にあらざるような行為を教育者がやって良いのだろうかと思うのだが、この校長は「問題はない」と広言してはばからない。ここまで教育の質が落ちてきたのだろう。改悪された教育基本法の精神が早くも現れたといえる。

 今度の「後期高齢者医療保険制度」は、困難な時代を生きてきた老人を、この高校の校長や教育委員会と同じように切り捨てる制度である。保険料の支払いが一日でも遅れたら、高額の医療費を全額支払わねばならない。それができなければ、治療そのものを拒否される。また、延命治療を断るなどの意志を事前に書いておく「リビングウイル」を作成すると医療機関に報酬が支払われるなどの「終末医療制度」も狙っているらしい。いよいよ「姥捨て山」が本格的に政府の狙いとなる。

 野党四党がこの問題では足並みをそろえたようだ。「後期高齢者医療保険」廃止法案を国会に提出した。廃止法案をぜひとも通していただきたい。そのためには、自民党と公明党に衆議院をいつまでも占拠させてはいけない。山口2区の衆議院補欠選挙で民主党に勝ってもらって、すぐに解散総選挙といきたいものだ。そうすれば衆議院での再可決だの「ねじれ国会」だのという問題はなくなる。

 山口2区の自民党の候補者は「山本某」。例の「耐震偽装事件」で失政をした張本人とか。自らの失政をほおかぶりして姉歯某らに責任をすべて押しつけ、自分は国交省審議官に昇任し、今度は自民党候補として「地域活性のために」とか嘘八百を並べている。国交省役人に地域活性を言ってもらいたくない。地域破壊をやってきた彼らに。

 暑くなってきた。

死刑は犯罪抑止に役立たない

2008-04-13 | 政治
茨城県土浦のJR荒川沖駅で手当たり次第に人を殺傷した青年は、「多くの人を殺せば死刑にしてもらえる」「自殺するのは嫌だから死刑になりたかった」と供述しているとのことだ。その他にも最近「死刑にして欲しい」という犯罪が増えているように感じる。自殺者も増え続けているようだ。

 これまでは、死刑が犯罪抑止に役立つというのが、死刑存続論者のよってたつ論拠であった。しかし、いまその根拠がなくなってきているのではないか。原因はハッキリしないが、日本の現状に生きる価値を見いだせなくなった若者やお年寄りが増えてきている。格差の拡大、貧困、そして政治の貧困、拝金主義の横行など、その原因はいっぱいあるだろう。どちらにしてももう死刑が犯罪防止に役立つという論拠は崩れ去っている。

 いまこそ死刑を考え直してはどうだろうか。死刑を存続させているのは、先進国では非常に少ない。アメリカでも一部の州にすぎない。自ら死刑になりたくて、人をなるべく多く殺すことを望む犯罪者が出てきているのだ。極刑を望む被害者の家族というのも、感情的な復讐主義に陥っている人が多い。論理的な司法の世界に感情を挟むことが昨今多くなってきているのは、嘆かわしい限りだ。裁判官までマスコミや世論の「殺せ」「殺せ」という声に死刑を宣告することが多くなってきているという。来年から始まることが予定されている裁判員制度が始まったら、まさに感情論やマスコミの主張が簡単に判決に反映されてしまうようになるだろう。

 いまこそ死刑を廃止しよう。ブログ「きっこの日記」で知らされた今日のテレビ朝日の報道を見ると、警察のデッチアゲで犯人にされた人がかなり多いことに驚く。そして検察が警察と一体化して冤罪を作り出しているというのも何ヶ月か前にこのブログに書いたとおりである。さらに恐ろしいのは裁判官もおかしくなってしまっていると言うことだ。

 テレビ朝日の報道によれば、警察と検察のデッチアゲと思われる強盗殺人の容疑者の事件で、まったく物証がないのに一審で自白を理由に無期懲役にされた被告の控訴審判決が驚くべき理屈でこの自白の信用性を認めたというのだ。弁護側の長時間掛けた犯行の事実と自白との齟齬の証明をすべて棄却し、自白の信用性を認めた高裁の判決で言うその理屈とは「自白と事実にいくつかの食い違いがあるということは、むしろ自白が自主的になされたことを推察させる」から、自白は信用性があるという。この裁判官は、頭がおかしいんじゃないだろうか。そんな理屈が通るなら、どのような自白もすべて信用性があるということになってしまう。要するに、警察と検察が作った書類は信用性があると言っているに過ぎない。ここまで裁判官はおかしくなってしまっている。テレビ朝日の報道でも元高等裁判所調査官にこの裁判官の資質を疑うというコメントが出されている。

こんな警察や検察や裁判官によってたかって犯人にされ、死刑や無期懲役などの罰を科せられた人の無念さは想像にあまりある。そしていつわれわれがそうなるかもしれないのだ。今日のニュースで九州の田川市で覆面パトカーが暴走族を追いかけて急にUターンしようとして後ろから来た女子短大生の車と衝突し、短大生が骨折して重傷を負ったという。この事故もどのように処理されるだろうか。高知の白バイ衝突事故の例を見れば、きっとこの女子短大生が悪いとされて処理される可能性が高い。どうかんがえてもサイレンも鳴らさず緊急用のライトも付けないで無理なUターンをしようとしたパトカーに咎があると見えるが、冤罪が作られる可能性が大きい。しっかりと経過を見ておかねばならない。

花いっぱいの浅間尾根

2008-04-12 | 花と自然

山路来て なにやらゆかし すみれそう (芭蕉)

有名なこの句が浮かんでくる。一週間ぶりの奥多摩はスミレの花に埋もれていた。自分でも句をひねってみるが、芭蕉にはかないそうもない(笑)。

 先週の三頭山の続きに、笹尾根を歩いてみようと朝早く出かけた。今日は午後から天候が下り坂になると言うので、午前中に太陽に照らされながら笹尾根の尾根歩きを楽しんでみようと思った。1000mを超える笹尾根なら太陽が出ていて欲しいと思ったのだった。ところが、登山口に着いてみると、早くも空は曇り空。暗雲がたれ込めて暖かさも昨日のようではない。そこで急遽行き先を変更して、反対側の浅間尾根を歩くことにした。こちらは900m前後のなだらかな尾根通しの道なので、太陽がなくても寒さは多少とも耐えられるだろうと思ったからだ。

 登山口から舗装した林道を20分くらい歩いて山道に入る。尾根に上がるのに40分。そこからはたいした上り下りもなくしっかりした道が東に続く。昔、この道は周辺の集落に人たちの荷物運送の主要な道だったという。現在国道が走っているのは沢沿いの道だが、昔は渓流沿いの道は険しくて荷物を運ぶ馬にはとても嶮岨であったようだ。そこで尾根通しの道が開かれ、浅間道と言われていた。江戸の文化を山村に運び、山の絹や山菜を江戸に運ぶ道だった。そのためにこの尾根通しの道には至るところに石室や道祖神が立ち、神社が造られている。今ではハイカーが歩くだけの道になってしまったが。


 尾根はまだ木の芽が膨らみ始めたところで、緑の色はまだこれからだ。しかし、落ち葉の下から草の芽が伸び始めている。もう一週間もすれば地面は緑に変わるだろう。春の妖精(spring ephemeral)といわれるカタクリの群生も3ヶ所ほど見られた。薄いピンクの花が落ち葉の間に一帯を華やかにするほど群生している。不思議なことにカタクリはかならず大群落をつくっている。一本だけのカタクリの株は見られない。それは何故かというと、カタクリの種子を拡げるのはアリなのだ。カタクリの種子にはエライオゾームという美味しいけれども種子には無役な部分がある。そのエライオゾームはアリの大好物で、アリはそのためにカタクリの種子をせっせと自分の巣に運び込み、エライオゾームを食べる。そして残りの種子はそこで芽を出すという仕組みになっている。そのためにカタクリの種子はアリの行動範囲にしか広がらない。それがカタクリが大集団を作りあまりあちこちに広がらない理由のようだ。アリを見ると意固地になって踏みつぶしたり殺虫剤を振りかける人がいるが、そう言う人もカタクリの花を愛でる。しかしそれではカタクリは生きていけない。アリも含めて自然は全体として生きているのだから、その中の一部だけを自分の都合で選んでは自然は存続できないのだ。

 スミレも実はエライオゾームを持っている。きっとアリといっしょに共生してきたのだろう。しかし、スミレはカタクリと違ってもっとばらばらに生えている。スミレの花言葉は「浮気」なのだ。いつどこに現れるか判らない。スミレはきっとアリ以外にもいろいろと種子の分散を助けてくれる補助者をいっぱい持っているに違いない。カタクリほどアリに依存していないのだろう。そう言う意味でもこの花言葉は適切かも。

 スミレはカタクリとは比較にならないほどあちこちに咲いていた。しかもいろんな種類がいっぱいだ。「スミレの花咲く頃」は、まさに今のこと。ツボスミレ、タチツボスミレ、シハイスミレ、エイザンスミレくらいまでは何とか判るが、色もいろいろ、形もいろいろでそれ以外にもいっぱい種類があったようだが、名前は判らない。


 その他に、ニリンソウ、アズマイチゲ、キクザキイチゲ、ハシリドコロなどなどこの時期の低山は花がいっぱいだ。今日は4時間半歩いたが、ピークは浅間嶺(930m)、松生山(933m)くらい。あとはなだらかな尾根道をずっと鼻歌を歌いながら、花を眺めながら、楽しく歩いた。山としてはちょっと物足りないくらい。