ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

「命より金」? 高浜原発動かすな

2013-06-28 | 政治
関西電力は、高浜原発にMOX燃料を運び込み、再稼働をできるだけ早く行うとしている。そして、高浜原発の地元、高浜町の野瀬豊町長は「町民の心情は生命の危険を感じるよりも、生活の糧を奪われる危機感にある」として、新規制基準に適合すれば「早期の再稼働は当然のこと」と話す。

 驚いた。この人たちは福島第一原発の事故から、まったく何も学んでいない。今、原発を地元に受け容れるために働いた人たちも、福島に再び原発を作らせないと言っている。あの事故で故郷を追い出され、流浪の難民となった人々が感じる当然のことだろう。しかし、彼らも昔、この高浜原発のある高浜町の町長と似たようなことを言っていたはすだ。原発を地元にもってくることによって、自分たちの生活は潤う。そのことだけを考えて、原発推進の旗を振っていたのだ。それがどうだ。いまは、故郷を追われ、あの人々が歓迎の旗を振った原発によって、死の恐怖を味合わされ、これからも放射線の恐怖から免れることはできない。

高浜町長は、この福島第一原発の事故をどう考えているのだろうか。福島と高浜は違う。高浜ではあんな事故は起きるはずがない。と考えているなら、本当に事故に何も学んでいない。日本海は津波が来ないから大丈夫だというのだろうか。それならなぜチェルノブイリは爆発したか。あれとは原発のタイプが違うと言うのだろうか。福島の原発推進派の人たちも、あの当時は福島の原発はチェルノブイリとは違うと思っていたのだろう。推進派はみんな自分のところの原発は事故を起こさないと思っているからこそ、「命の危険よりも生活の糧」という発言ができる。まったく福島に学んでいない。命よりも金。そんな言葉を吐ける町長など、政治家とは言えない。

 毎週金曜日の夜、関西電力京都支店の建物の前に立って原発反対の抗議行動を始めてから、早くも1年が過ぎた。短いような長いような、1年だった。その間、東京の官邸前集会にも2度ほど参加した。徐々に関電前の抗議行動に参加する人たちも減ってきているが、それでも「これだけは許せない」との信念で、金曜日の夜は、雨の日も風の日も立ち続けてきた。その間、民主党政権が大飯原発を再稼働させ、反省のない自民党政権が返り咲き、そしていよいよ今年の秋からは全国の原発が再稼働しそうになってきた。参議院選挙で自民党と公明党が過半数を占めると、安倍・アメリカ追従売国政権にとって、もう怖れるものはなにもない。原発を再稼働させ、ニホンの1%の金持ちに儲けさせ、そしてニホンの富をTPPでアメリカに売り渡し、アメリカと一緒に戦争をする。そして、ニホンはいつの間にかあちこちの原発で大小の事故を起こし、日本人の死亡率は急上昇し、いつかニホンには誰も住めなくなっていく。

 ここのところ、毎日株価の動向が気になっている。アベノミクスなどというまやかしは国民の税金を使って、垂れ流しの金融緩和をやり、作り上げた幻想でしかないが、それでも選挙民は「命より金」と安倍内閣支持をうたう。いずれ化けの皮ははがれるが、参議院選挙が終わったら、もう遅い。それまでに大幅に株価が落ち込むことを、ひたすら祈ることしか今の私にはできない。株よ落ちろ。もっともっと落ちて、アホどもの顔を青ざめさせろ。

 小銭を貯めた小市民が株を買って、アベノミクスに期待を寄せる。これほどアホなことはない。株によって多少儲けたところで、それは不労所得である。労働者の汗と血によって稼ぎ出された利益を、手も汚さずピンハネする投資家など、本当の資本家以外は結局のところ自分たちの労働が大きなところにピンハネされていることに気がつかない。わずかのギャンブルで儲けることに血眼で、自分が労働者階級であることを自覚していない。株をすべて売り払え。そして、真の労働によって自らの口に糊せよ。株価よ、下がれ。もっともっと下がれ。

鈴虫姫と松虫姫と宗教弾圧

2013-06-13 | 京に見る歴史
休日に近くの哲学の道を散歩した。桜の季節はとっくに過ぎて、早くも蛍が飛び交う季節となっている。哲学の道から東に登り、鹿ヶ谷を歩く。銀閣寺から法然院を通り、安楽寺の前に来て、足を止めた。いつも門を閉ざしている安楽寺が開門している。掲示を見ると、一年に数回しかない特別開放の日らしい。これはいいところにさしかかったと、さっそく拝観することとした。

 はじめてはいる安楽寺の境内は、静かで落ち着いて庭を見ることができる。落ち着いた書院のたたずまいは好ましく、庭の花たちも風情を誘う。それほど広くはない境内のもっとも奥には、鈴虫姫と松虫姫の菩提を弔う碑がある。昔この二人の名前は聞いたことがあるような気がしたが、どんな物語だったか、まったく思い出せない。そこで、安楽寺のお坊さんの話を聞いてみた。それは、ある意味でびっくりだった。

 この寺の名前は、住蓮山安楽寺という浄土教のお寺である。それは、寺の創建者の住連と安楽という二人の僧侶にちなむ。
今は昔、鎌倉幕府が設立され、武士が政権を取ったばかりの頃、幼い安徳天皇が平氏とともに壇ノ浦で海の藻屑と消えたとき、代わりの天皇に即位したのが、後鳥羽天皇であった。後鳥羽天皇は、鎌倉幕府に実験を握られたことを恨み、なんとか朝廷に実権を取り戻そうと強権政治を進めた。1198年に土御門に天皇の位を譲り、自身は上皇となり事実上の院政を取った。その頃、上皇の側女を勤めていた左大臣の娘に鈴虫姫と松虫姫という二人の世にも美しい姉妹の姫がいた。彼女たちの美しさに、他の側女たちからねたみを受け、さまざまな嫌がらせも受けていたらしい。いつの世も心小さきものの所業は同じなのだろう。二人の姫は、そんな世をのろい、時にちまたの噂高い浄土念仏教に心惹かれていた。ときどき、京の東山で行われていた念仏説法にこっそりと出かけていたという。
1206年、後鳥羽上皇が熊野神社に参宮のため、都を留守にしたとき、二人の姫は館を抜け出し、東山の庵で行われていた、住連房と安楽房という浄土教の僧侶らの念仏説法を聞きに出かけた。念仏浄土教は法然が教えを始めた他力本願を本旨とする教えで、それまでの腐敗した高僧たちの教えに真っ向から反逆し、念仏を唱えればどんな人も救われ、浄土に行けるという教えであり、とくに南無阿弥陀仏という六時礼賛を音楽的に唱える乞食坊主たちの辻説法がちまたの人々の注目を浴びていた。これに既存の比叡山や興福寺の僧侶たちが反発し、法然らの念仏教を取り締まるよう、朝廷にしばしば意見を上奏していた。
その夜、浄土教の説法を聞き、念仏を唱えていた二人の姫君は、やがてその嫌世の気持ちが救われるありがたさに涙を流し、説法の後、住連と安楽の二人のお坊さんに、出家したいと願いでた。しかし、上皇の許可もなく側女たちを出家させることはできないと断ったが、二人の姫君たちは、死をも覚悟の上で出家を願うと涙ながらにかき口説いたため、住連は鈴虫姫を安楽は松虫姫を剃髪し、出家をさせた。二人の姫君は、二人の僧侶を上皇の館によび、夜遅くまでその説教を聞き、ともに念仏を唱えた。夜も遅くなり、二人の僧侶は館に泊まっていった。
熊野神社から帰還した後鳥羽上皇はそれを聞いて激怒し、これを機に、浄土教への弾圧を決心する。法然らの唱えた専修念仏を禁じ、鈴虫と松虫の二人の出家を手伝った住連と安楽の二人を含む四人を死罪、法然を土佐へ、親鸞を越後へ追放、その他多くの門弟を流罪にした。住連は、故郷の近江の国馬淵で捕らえられその場で打ち首に、安楽は京都鴨川の河原で打ち首となる。二人とも念仏を高らかに唱えながら、首を打たれたが、落ちた首はそのまま念仏を唱えていたと言われている。いわゆる承元の法難と言われる事件である。法然は讃岐の国で念仏三昧の生活を送り、4年の後に許されて京に戻るが、2ヶ月後に死亡する。ときに法然、80歳。親鸞は京へ帰り師法然との再会を願うが、法然の死去でそれがかなわず、京に帰らず関東の苫屋で暮らし、専修念仏を伝える。のちの浄土真宗は、それ以後多くの信者を得るが、親鸞は最後まで寺を造らず、草庵で人々を救うために教えを広めた。
以上は、安楽寺のいわれを知って、その時代の仏教の宗教革命との関わりについて、勉強したことである。歴史は好きな分野だが、まともに勉強したことはなかったので、こんな歴史家なら誰でも知っていることにも新鮮な感動を得た。住連山安楽寺の二人の創建者たちと二人の姫君の悲劇も宗教革命の中の出来事と、はじめて知った。これで散歩していた鹿ヶ谷のお寺も見る目が変わってくる。京都は、その気になれば、本当に奥深い。

淡路の海へ

2013-06-06 | 花と自然
しばらく山を歩いていない。その代わり海へ出かけた。明石大橋を渡って、淡路島の海を見てきた。淡路島で大きな地震があった直後のことである。あの地震があって、そういえば昔、阪神淡路大震災があったことを思い出した。あのとき、私は北海道にいたので、阪神淡路大震災を身を以て経験していない。そこであまり地震のことを考えていなかった。あのときの北海道は、釧路沖地震、東方沖地震、日本海地震と続けさまに震度5以上の大地震を経験していたので、その直後に起こった阪神淡路大震災も、一連の地震の連鎖の一つとしか思わなかったから、被害の大きさにもかかわらず、あまり自分の身に引きつけて考えられなかったのだろう。なにしろ、あの年は、家が壊れるかと思う地震が一年のうちに3度もおこったのだから。

 淡路島へは、車で渡った。ちょうど3連休だったので、阪神地方の高速道路は渋滞が続き、淡路島へ渡る明石大橋に掛かったのは、もう昼をかなり回っていた。渋滞無くスムーズに走れば、京都から目的地の南あわじ市までは、2時間強で到着できるはずだが、休日に動くしか無い私の場合は、渋滞を覚悟で片道3時間半は覚悟しなければいけない。日帰りだったので、往復だけでも7時間かかる。現地でゆっくりできるのはほんの1~2時間しか無い。これは車で行っても、バスで行っても同じ事だ。現地での動きを考えると、来るまで行く方が良いことになる。

 淡路島は、今年の初めにも行った。もっともこれは仕事だったが。仕事にしろ遊びにしろ、淡路島へ渡ったのは、今年が実に初めてだった。瀬戸内海のもっとも大きい島なのに、来たことが無いというのも不思議な感じがする。淡路島は人の動きのメインルートから外れていたのだ。今でも、明石―徳島の架橋がなければ、淡路島へ来ようとは思わないかもしれない。それほど、淡路島の存在感は私にとって薄かった。しかし、海を見ようと思ったとき、京都から行ける海として思いつくのは、京都府の日本海側の舞や天橋立付近か、和歌山県の白浜くらいだ。この両方とも何度か出かけているので、どこか違う海へ行きたいと思ったときに、ようやく淡路島を思いついたと言うわけだ。

 京都から行く海としては、もっとも近いのが大阪湾か神戸の海だが、どちらもコンクリートで固められた海しかない。そんな海には行きたくもない。釣りを楽しむならそんなコンクリートがあっても、気にならないかもしれないが、釣りを楽しむというのは、私の好まざるところだ。そうすると、近畿地方でもっとも近い海は、やはり淡路島と言うことになる。やっと気がついた。

 しかし、行ってみて、淡路島の海はすっかり気に入った。とくに、南あわじ市の海は、西側の瀬戸内海側も、南の太平洋側も、美しい。慶野海岸の松林は、名勝にも指定されているだけあって、一見の価値がある。ただ、松林の周辺が開発され、松の痛みも激しい。徐々に松林が減少して、松の勢いも衰えているらしい。名勝の指定を取りやめるという話しも出ているらしい。地元の人は、もっとこの松原の貴重さを知った方が良いのではないか。

 南側の太平洋側は、黒潮が直接入ってくることもあり、海の水は透明できれいだ。ここでいつかは是非とも潜ってみたいと思ったが、この日は時間が無い。しかも、吹上浜は遊泳禁止になっている。すぐ前が渦潮で有名な鳴門海峡なので、おそらく浜辺の近くも潮流が激しいのだろう。潜水できるところがあるかどうか分からないが、潜ってみたくなる海ではあった。