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サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

相撲協会を変えられるか

2010-01-29 | 日記風
日本相撲協会の理事選挙が行われることになった。日本相撲協会は、昨年の不祥事連発にも理事長も理事も責任を取ることなく、談合体質を続けてきた。過去3回の理事選挙を談合で候補を調整し、無投票で決めてきた。その体質は、親方日の丸のボス支配としか言いようがない。

 今年の理事選挙には、貴乃花が二所の関一門を破門されながら立候補し、8年ぶりに選挙が行われることになった。あわてて押さえに掛かったが、理事長の力は昨年の不祥事で落ちるところまで落ちている。貴乃花の立候補もそのボス支配の破綻を見越してのことだろう。でも当選するかどうかは、難しいと言われている。

 問題は、貴乃花が何を目指して立候補したのかが分からない点にある。マスコミの質問にも、「土俵に恩返し」とか「弟子を育てる」とか、愚にも付かないことばかり。そんなことならこれまでの理事たちでもいくらでも言える。それが談合体質の中で立候補する理由などにはならないことは本人もよく知っているはずだ。はっきりと現体制の批判をして立候補をするべきではないか。このままでは、単に理事になりたいだけではないかと思われる。いや、本当はそうなのかもしれない。

 でも、市民が貴乃花に期待するのは、ボス支配で腐りきった相撲協会を改革して、もっとスポーツとしての相撲をやって欲しいと言うことだ。もともと相撲は歌舞伎役者と同じで、金と権力のひいき筋を持ち、政治の裏社会と結びついていた。その体質はいまでも濃厚に持っている。貴乃花でなくてもいいが、本当に相撲協会を改革するか、そうでなければ相撲協会を解散して、もっとスポーツ振興の健全な団体に成り代わって欲しいなんて、あまり相撲に関心もない私も、少し来週の理事選挙に関心を持たせたのは、貴乃花の功績と言っていいのかもしれない。

「オーシャンズ」の迫力と生物多様性

2010-01-24 | 南の海
いきなりド迫力の映像で始まった。イワシの大群がまるで一個体のアメーバのように形を変えながら濃密な群れを作り出す。そこにイルカの群れがジャンプを繰り返す。空からはカツオドリがまるでミサイルを撃ち込むようにイワシの大群に突き刺さる。さらにはニタリクジラが群れの中を縦横に泳ぎ回り、イワシを空中に跳ね上げながら餌を飲み込んでいる。どうやってこのような映像を撮ることができたのか、驚くばかりだった。映画「オーシャンズ」を今日見ることができた。

 「海底二万マイル」で海中映画の先駆者となったフランス映画陣が、「二万マイル」と違って、純粋にストーリーのない記録映画として撮影したこの映画は、最近テレビでよく見る記録映画(ダーウイン新伝説のような)の集大成だと思って見に行った。たしかにいくつかの場面はそのような記録映画をつなぎ合わせたものであったが、最初のこの画面でまったく圧倒されてしまった。エンディング・テーマを歌っている平原綾香がもっとも驚いたというムラサキダコの異様な姿もたしかに驚きだったが。

 この映画は、国際的なプロジェクト研究である「Census of Marin Life (CoML)」が、生物の多様性の重要性、とくに海洋の生物多様性の危機を伝えるために、とくに今年の10月に名古屋で行われる「生物多様性条約(CBD)」COP10で新たな目標を定めることとなることに向けて作られたものだという。生物多様性という言葉を聞いたことがない人は、かなり少なくなったと思うが、それが何を意味するのか、そしてどういう重要性があるのかなどについては、おそらく十分に知っている人はまだまだ少ないのではないだろうか。

 日本でCOP10が開かれることに合わせて作られた映画「オーシャンズ」だが、海の生物多様性の危機を訴える映像として、イルカの大量虐殺の様子を、海からの視線で描いていたのは、秀逸であった。日本で公開されたこの映画のこの部分がまったく原作と同じかどうかは分からない。日本向けに削除された部分もあったのではないかとも十分想像したくなるほど、映画は控えめにイルカの大量虐殺を描いていた。どちらにしてもイルカの大量虐殺を行っている日本を暗に批判したものであることは間違いない。でもその批判は当を得たものであったように思う。海の中からの視線、つまりはイルカの視線で人間のイルカや魚の虐殺を描くことは、直接的にイルカ猟を描いたりするよりもより強烈な批判を感じさせもした。一瞬だが、捕鯨船からの銛砲がクジラに突き刺さる瞬間の映像もある。その撮影に費やされた努力に感嘆せざるを得ない。

 宮沢りえによる映画のナレーションも、あまり多くは語らないが、このような直接的な殺戮以外に、人間による海の汚染、温暖化による北極の異変など、物言わぬ海の生物に代わって突きつける全編の映像が、その多くを物語っている。ぜひともみんなに見て貰いたい映画だった。そして、海の生き物を守るためになにをするべきか考えたいし、考えて欲しいと思った。

検察とマスコミの相関

2010-01-22 | 政治
今日の朝日新聞朝刊を見て驚いた。民主党が検察のやり方とマスコミの対応を批判的に見ていることに対して、元特捜検事の言葉で「世の中が思い描くようなリークはない」と言わせ、外務省の機密漏洩事件に関して「取材の手段や方法が社会通念上是認されるものである限りは正当な業務行為である」という最高裁の判断をひいて、マスコミの報道に問題はないと居直っている。そしてわざわざデスクが署名入りで、「特捜部の狙いを薄皮を一枚一枚はがすように明らかにする作業を毎日繰り返している。多角的な取材と吟味なしに、真相に迫る事件報道はあり得ない」と大見得を切っている。

 もちろん、新聞報道のすべてが検察のリークで成り立っていると言うつもりはないが、リークというものは、検察が漏らすよといって出てくるものではない。業務上知り得た秘密を正式な記者会見や情報公開に基づいて公表する以外のものは公務員の守秘義務に違反することは、誰よりも検察はよく知っている。しかし、漏らさないといいながら、意図的に口を滑らし、今のは内緒だよとか言うと、記者は特ダネとばかりに飛びついてくる。記者はそれを苦労して得た取材によるものだと信じて、記事を書く。しかし、それが検察のリークなのだ。教えるから書いてくれというのは、リークでもない。そんなリークはあり得ない。だから、元特捜検事の言葉もそう思って聞けば、「世の中が考えているようなリークはない」ということになるのだろう。

 朝日のデスクが大見得を切ったが、小沢幹事長の周辺の捜査でマスコミが流した情報をマスコミがきちんと検証したとはとても思えないものが多い。陸山会の預金通帳への書き込みの内容などは、果たして記者は自分の目で見たのだろうか。それともコピーを見せて貰ったのだろうか。もし検察がコピーを見せていたら、これは明らかな守秘義務違反にあたるはずだ。おそらくマスコミはほとんど検証なしに「関係者によれば・・」という書き方で話を作っている。NHKニュースなどは「関係者によれば」とも言わない。

 関係者とはだれか。それが検察官であるのか、それとも小沢さんの関係者なのか、どういう関係なのかによって、読者は書かれている内容を判断できる。検察関係者の話なら、小沢の都合の悪いように言うだろうし、小沢さんの関係者なら都合の良いように言うだろう。われわれはその関係者によって書かれた内容を判断する。しかし、マスコミは「関係者によれば」としか言わない。それではわれわれは内容を判断できない。

 マスコミは結局、マスコミが書いたことはすべて真実なのだと思いこんでいる。しかし、それが全くのウソであることは、一度でもマスコミの取材を受けた人ならよく分かる。彼らは自分の頭で取材する前からストーリーを作っているのだ。そしてそのストーリーに合うようにコメントを求める。合わないコメント、矛盾するコメントが出てきたら、無視するか曲げて書く。それが大部分の記者のやり方だということは、私のわずかの経験からも言える。

 このマスコミ記者のやり方はどこかで見たように思いませんか。そうです。検察のやり方とそっくりです。多くの冤罪が検察が書いたストーリーに合わせてでっちあげられてきた。検察とマスコミは、実に仲の良い体質もそっくりの双子だった。今日のニュースで冤罪の再審で、犯人とされた菅家さんが、当時の検察官に謝って欲しいと言ったにもかかわらず、検察官はついに謝罪しなかった。無実の人を30年も獄に閉じこめておいて、死刑になるかもしれないという恐怖に陥れておいて、今になっても堂々と「犯人でないという証拠が見つからなかった」と言う。こんな人間が検察官をやっているとは恐ろしい。犯人だという証拠をつかむのが検察の仕事であり、犯人でないという証拠がないから犯人だというのでは、いったい大学で何を習ってきたのか。どうやって司法試験に合格できたのか。刑事司法の最低限のことも分かっていない。

 マスコミも同じだ。検察から聞き出したのが独自の取材だというなら、検察(釈迦)の手のひらで踊っている孫悟空みたいなものだ。検察の取り調べの可視化は絶対に必要だが、この際マスコミの取材もすべて録画して、のちのちの検証に備える義務を付けさせる方がいいのかもしれない。

検察は正義の味方ではない

2010-01-20 | 政治
自公政権の末期症状の頃に始めた検察の国策捜査だったが、政権交代したからと言って止めたら国民から何を言われるかしれない。だから鳩山首相の捜査では、政治資金規正法違反(母親からのお金を一般からの個人献金にしてしまった)で秘書を起訴して体面を取り繕い矛を収めた。しかし、小沢幹事長とは積年の恨みがあったから、国会開会の直前にむりやり秘書の国会議員を逮捕までして、小沢を責めるつもりらしい。検察のメンツがかかっているのだろうか。正義の味方「東京地検特捜部」という国民の声援を頼みにして。

 しかし、石川議員の通帳に何が書かれていたかとか、大久保秘書が何を供述したかなど、検察以外の人がとても知ることができないような捜査上の秘密が、堂々とNHKのニュースになる。NHKも検察からのリークだということも言わず、もちろん検証もしないで、石川議員が陸山会の預金通帳に「先生」とか「不動産」とか書いていた、と断定してニュースを流している。朝日新聞他の大新聞もまったく同じだ。検察が情報を漏らして、報道を自らに有利に誘導しているのはミエミエだが、マスコミ連中は新聞を売るためなら、悪魔にでも心を売るつもりなのだろう。検察の手のひらで踊りを踊るのになんのてらいもない。

 東京地検特捜部の国策捜査は、ここ数年目立ってきた。得意の情報操作で自らを正義の味方に見えるようにした上で、筋書きを書き、議員といえども逮捕する。国会議員がなぜ国会開会中の非逮捕特権をもっているか、検察はどれだけ理解しているのだろうか。政治の世界は悪と善の区別は見る人によって異なる微妙な世界なのだ。だからこそ警察や検察が勝手に話をでっちあげて判断し、国民の代表である議員を逮捕できないようにしているのである。

 民主党に政権交代して、国民の多くは政治の世界に新しい変革を期待できるようになった。しかし、それはまだ一部に過ぎない。事業仕分けは国民の耳目を集めたが、自公政権が作ってきた予算案の一部を衆人監視の中で切り捨てたに過ぎない。一種のパーフォーマンスだったとみんなが感じ始めている。本当の改革は再来年度の予算編成で見せてもらえるだろう。でも、まったく無駄な空母型ヘリ搭載艦の建設や、何の意味もないPAC3ミサイルの新規購入など、民主党政権になってもまったく手が付けられていない軍事費は山ほどある。さらにハイチへの自衛隊の派遣など、災害救助隊が行けば良いものを、むりやりに自衛隊を派遣している。

 そして、民主党政権に望みたいのは、警察と検察、裁判所など司法の改革だ。司法の改革を言われながら、最高裁は裁判員制度という裁判所の意向が最大限反映されるやり方で司法改革をやったと胸を張っているが、検察と裁判所の一体化は著しい。今回の石川議員の逮捕状も、検察の要求に裁判所はまったく判断を放棄して検察の言うままに判を押している。自党の幹事長が狙われているから検察と戦うというのは、ちょっと情けないが、しかし、これも良い機会かもしれない。検察の事情聴取や自白強要がすべて公開できるように、録画を義務づけたり、最高裁による地方裁判官いじめを止めさせ、本当の裁判官の独立を保証するような司法改革が求められている。裁判員制度は、刑事裁判ではなく行政裁判にこそ導入すべきなのだ。

 そう言う意味で、民主党にはがんばって欲しい。「どうぞ戦って下さい」。いまこそ検察の横暴と裁判官との癒着構造を断ち切る好機である。小沢さんを守るだけではなく、本当にきちんと検察を叩いて欲しい。正義の味方面をさせないために。

学会のシンポと原発の電気

2010-01-19 | 環境
今年正月明けの1月10日、広島で三つの学会が合同でシンポジウムを開いた。シンポジウムのテーマは、「上関 瀬戸内海の豊かさが残る最後の場所」。埋め立てがいつ始まるかしれないという危機を前にした時期に、上関原発を建てようとしている中国電力のお膝元の広島で、これまで何度も中国電力に埋め立てを見合わせ、もう一度この場所の環境調査を行い、自然豊かなこの上関に原発を建設するのではなく、残していく方向に考え直して欲しいという趣旨で行われた。

 会場は、平和公園の一角にある国際平和記念館。私も京都から駆けつけた。600人はいる大きな会場で、いったい何人人が来るか、心配でもあった。あまり少ないようだと、中国電力にバカにされるだけかもしれないとちょっと心配だった。ところが始まってみると、ほぼこの広い会場が人で埋まった。さすがに広島。核を扱うテーマでは、やはり広島の人は関心が高いことが分かる。

 シンポジウムでは、生態学会が上関の長島という小島の貴重な植物の話をし、鳥学会は、世界でも日本に5000羽しかいないというカンムリウミスズメがこの上関あたりで生活していることが初めて分かったと報告した。ベントス学会は、カクメイ科のヤシマイシンという面白い名前の貝が、本当に革命的に貴重なのだという話をしてくれた。ここのあたりの海には、スナメリというクジラの仲間や、ナメクジウオという脊椎動物の祖先や、カサシャミセンという生きている化石とも言える奇妙な動物など、驚くような動物や植物が生き残っているということだった。

 こんな素晴らしい海を埋め立てて、温排水で無茶苦茶にしてしまおうという原発には、本当に腹が立つ。ところが、このシンポジウムの報告を受けた中国電力の社長が批判をしたという報道があった。それによると、カンムリウミスズメは他のところでも見つかるかもしれないから、ここが大事だというのは偏った見方だと言ったのだそうだ。それを聞いて本当に驚いた。羽があるから鳥はどこにでも行けるから、ここだけが貴重なのではないと言っている。その程度の頭だから、自然なんてどこにでもあると思っているんだろう。お金儲けの方が大事だと思っているのが、よく分かった。

 上関原発の電気は中国電力が関西電力に売るのだそうだ。つまり、中国電力は電気が余っているから、貴重な自然を壊してまで作ろうとしている原発の電気は、よそへ売るために作っているらしい。でも関西圏もこれからは人口が減少する。電気は太陽熱や風力でどんどん作るように変わってくる。原発の電気はこれから関西でも買わなくなるに違いない。上関原発ができるころには、きっと中国電力は膨大な借金で今のJALのようになっているに違いない。それまでに致命的な事故で広島に住んでいる中国電力の社長や社員も放射能で苦しんでいなければいいのだが。

辺野古の基地は誰のため?

2010-01-09 | 政治

普天間飛行場の移設問題で、鳩山政権が優柔不断だとか、アメリカを怒らせ日米同盟に亀裂が走っているとかいうようなマスコミの一方的な宣伝が続いている。たしかに鳩山政権の閣僚がそれぞれの立場から意見を表明してきたから、鳩山政権が右往左往しているように見えたことは事実だった。しかし、年末に来年5月までに決着を付けたいという鳩山首相の態度表明で、決着が先送りになった。

 混迷を深めているというマスコミの論調とは逆に、私はこの一連のバタバタ劇から、物事がかなりよく見えてきたと思う。マスコミがアメリカは怒っている、現行の日米合意案だけが唯一の選択肢だと、マスコミは書き立ててきた。しかし、よくみると、そんなことを言っているのは、ブッシュ時代に自公政権とこの日米合意案(辺野古に新しい基地を作る案)を作り上げてきた旧政権のいわゆる「知日派」と言われる人だったり、ネオコン路線でなにがなんでも戦争を従っている軍人だったりする。オバマ政権の要人たちは、けっして鳩山政権を追い込むような言い方はしていない。沖縄の人たちの意見を十分聞こうという鳩山首相の言い方に理解を示すような言い方をしている。

 在アメリカの日本大使がクリントン国務長官に呼びつけられて現行の日米合意案が最善だと言われたというニュースが流れ、マスコミが鬼の首でも取ったように、アメリカは怒っていると書き立てた。しかし、これも大使が呼ばれもしないのにクリントンに会いに行って、現行の案がいいと言ってきたというのが本当だと分かった。自公政権で大使に任命されたので、自公政権がブッシュ政権とつくった合意案を何とか通そうという大使の勝手な行動だった。本当ならこんな嘘をついてまで現行案を通そうとする大使なんぞ、即刻首にしても良いくらいの重大なウソだったはず。しかし、岡田外相は大使に注意もしていないようだ。マスコミはウソだったことさえ認めようとしないで、一言も記事にしなかった。

 米軍再編計画で、アメリカは沖縄の海兵隊の機能をグアムに移転させる計画を作っていた。これもマスコミは無視し続けていた事実だった。宜野湾市長がアメリカ軍関係者から詳しい説明を受けてその計画書まで手に入れている。もっともそれは秘密でも何でもないことだった。しかし、日本のマスコミは8000人の海兵隊がグアムへ移転するという計画は報道したが、沖縄には18000人の海兵隊がいるから、主力は沖縄に残ると言い続けてきた。でも定員は18000人だが、実際にいる海兵隊員は11000人なのだ。8000人がグアムへ移転すれば、残りはわずか3000人。とても主力とは言えない。

 アメリカが米軍再編で計画しているのは、海兵隊の主力はすべてグアムへ移転する。しかし、いざというとき(戦争を始めるとき)には、沖縄の基地を発進基地として使いたい。だから普天間に変わる新しい基地を作りたいと言うことだった。それが辺野古である必要はない。しかし、日本の自公政権の利権によって辺野古に作ることが日本から提案され、アメリカは喜んでそれを受け入れたのだ。戦後のアメリカ占領時を除けば、沖縄に米軍基地が新しく作られたことはこれまで無かった。新基地建設によって利権が転がり込んでくる人たちが自公政権とつながっていた。辺野古に新しく基地を作ることによって、利権が転がり込んでくるし、アメリカにも喜んでもらえる。アメリカ追従路線の自民党政権だから、辺野古の合意案ができた。三白眼の自民党の石破政調会長がアメリカへ行ってアメリカの彼らの一味とあって現行の辺野古案が日米同盟にとってもっともいい案だと言っている。それ以外に選択肢はないなどと、何とかして辺野古に米軍基地を作らせようと躍起になっている。それがまさに自民党の願っていることなのだと今更ながらよく分かった。彼の目玉はアメリカの親分に向けられているのだ。

 しかし、鳩山政権は、長い混乱を通って、ようやく現行案以外の道を探り始めたようだ。再び辺野古へ戻ってくることはないと思いたい。そうでなければ、政権交代の意味はない。再び日米外交で密約をつくることのない民主党の連合政権で会って欲しい。社民党の重さがこれから重要になる。政権交代の実のある良いニュースを今年は聞きたいものだ。

もっと良い歌を聴きたい(紅白に思う)

2010-01-06 | 日記風
  正月気分もようやく過ぎて、たまった仕事に焦りを感じる頃になってきた。毎年のことなのだが、年末年始の休みに日頃手が着かなかった仕事をやろうと、書類を抱えて休みに入るのだが、結局休み明けになっても仕事はほとんど手に着かなかったということになる。今年も、例年と同じことが繰り返された。今年は休みに入ってすぐにそのことに気がつき、仕事をやろうという気持ちをまず捨ててしまった。経験に裏打ちされた素早い決定だったと感心して良いのだろうか(笑)。休みにはまとめて本を読み、温泉に行って過ごした。

 読んだ本は、J. クリード「シリウス・ファイル」、リチャード・パタースン「ラスコの死角」、マニュエル・プイグ「蜘蛛女のキス」、大塚柳太郎「トーテムのすむ森」、日高義樹「アメリカ内乱 白人の論理」など。そして今は、いまさらの感もあるレヴィ・ストロース「悲しき熱帯」を悪訳に苦しみながら読んでいる。ごらんの通り、まったくの乱読。なんの脈絡もない。書棚の中で昔買っただけで未読の本を探し出し、かたっぱしから読んだと言うだけである。それでも休みには本がまとめて読める喜びがある。

 大晦日には、こたつに入って紅白歌合戦を見た。これは毎年の恒例行事みたいなものだけど、ここ数年は見終わった後の満足感はほとんど感じられなかった。一年前の紅白は、半分以上を別のチャンネルに合わせて見ていたような気がする。今年は他の局の番組に見たいものがなかったせいもあって、ずっとNHKにチャンネルを固定していたが、やはり半分くらいは居眠りをしていたような気がする。昔、お祖父さんがテレビを見ながら居眠りをしているのを見て、不思議でならなかったことがあった。眠たいのならテレビを消して寝ればいいのに、と思ったのだ。若い頃は私はテレビを見ながら居眠りをすると言うことは決してなかったからだ。テレビを見るときは、一生懸命テレビを見ていた。一生懸命みるほどの価値がない番組だったら、テレビを消した。ところが最近は見たいと思ってテレビを見ながら居眠りをすることが多くなった。これは私が年を取ったからだろうか、それとも見たいはずのテレビの番組が羊頭狗肉だったということなのだろうか。

 紅白がつまらないのは、あの素人芝居のような幕間のドタバタとNHKの番組の宣伝。これらは今に始まったことではない。最近、といってもずいぶん前からだが、つまらないのはじっくりと聴かせる歌が無くなったと言うことだと思う。歌謡曲にも良い歌が少なくなったが、若者のやかましいだけの歌は、聞くに堪えない。歌は、メロディやリズムも重要だけど、やはり詩が必要である。若者の歌う歌は、聞かせる詩がない歌ばかりだ。彼らの歌は詩ではなく単なる台詞であり、もっぱらダンスが本来のものらしい。ダンスならダンスだけやればいいし、歌うなら体の振りは最小限にして、しっかり歌って欲しい。ラジオで紅白を聞くと、若者たちの歌はCMと変わりがない。聞こえても騒音でしかないのだ。

 見たくもない若者たちのダンスと歌を居眠りしながら見ていて気がついたのだが、若者、とくにJ-popsと言われるジャンルの男の若い歌手たちは、すべてと言っていいくらい一人で歌っていない。かならず何人かでつるんで、グループを作って歌っている。それだけ歌に自信がないのだろうか。ダンスを見せるために歌手をやっているように見える。女性の場合もグループが多いが、それでも女性では少しは一人で歌う歌手がいる。しかし、女性歌手の場合は、みんな歌い方がきわめてよく似ている。歌も似ているのだろう。歌の途中で急に1オクターブほども高い声に上がり、そこで平坦になるという歌い方は、ほとんどすべての女性J-pops歌手に共通しているので、誰が歌っても同じに聞こえてしまう。

 若い人に、もっとじっくりと聴かせるような歌を歌って欲しいと思うのが、こたつの中でうんざりしながら若者の歌を「見ていて」思ったことだった。それにしても紅白がますますつまらない番組になって行くように思う。いや、紅白がつまらないのではなく、音楽がつまらなくなっているのかもしれない。布施明が今回の紅白で卒業すると宣言したことは、このような番組編成に抗議したのであろう。つまらないJ-POPSをもっと減らして、本来のPOPSや、クラシックや、カンツオーネや、ジャズや、フォークなどいろんな聴かせる歌をもっと入れて欲しい。NHKに貢献した歌手やレコードの売り上げが多い歌手ばかりを入れるのではなく、紅白はじっくりと聞かせる歌を聴きたい。スーザン/ボイルさんの歌のような歌を3時間たっぷりと。今年の紅白で聞かせたのは、ボイルさんと布施明くらいであったのではないだろうか。