ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

菅内閣の外交崩壊

2010-10-30 | 政治
どうも日本の外交はおかしい。前原外相はとても外交ができる人とは思えない。中国とどうつきあっていくかが、これからの日本外交の中心になることなのに、中国脅威論を振りかざし、原則論ばかり言っている前原という人では、アメリカ追随の今までの外交にしかならない。民主党の多くが自民党と同じような考え方の人が多いから、あまり期待もしていなかったが、それにしても素人外交と官僚任せが過ぎるような気がする。官僚に完全に任せればこれまでの自民党政権のやり方が続くだけだし、政治家が主導をすると前原・岡田の硬直した姿勢が前面に出るだけで、対アジア政策の転換が計れない。鳩山首相の提唱した東アジア共同体の実施をどう進めていくか、これこそ政権交代した日本に寄せられたアジアの期待だった。
 日本の外交が崩壊していることを見据えて中国は管内閣と本格的な日中関係を構築しようと思わなくなったようだ。ロシアもここぞとばかり北方四島の問題で強気になっている。政権交代でもっとも脆弱になったのは日本の外交なのだろう。しかし、それは自民党時代が良かったと言うことでは決してない。政権交代したら、民主党は確固とした新しい外交路線を出す必要があった。鳩山さんの東アジア共同体の提唱はその一つとして評価できた。しかし、それを鳩山さん個人のものにしてしまい、岡田前外相は積極的に進めようとしなかったし、管首相はそんなものを見向きもしなかった。しかもそれに代わる新しい外交ドクトリンを出すこともしなかった。
 管内閣では、経済的な要求で、アジアに原発を売り込むことに熱心だし、防衛省の要求で、PKO5原則や武器3使用原則を緩和しようという動きが続いている。もっとも基本の非核三原則でさえ、自民党時代の秘密協定が明らかになったのに、むしろそれを認めてしまおうという議論さえ起こっている。自民党時代からさえ後退しそうだ。アジアの国は日本の行き先を息を潜めて見守っている。かつて日本に侵略された国の人々は、日本はきっとまたやってくると思っている。アジアをかつて植民地にしていたヨーロッパ諸国は、そんな目で見られていないことを考えると、やはり日本は信用されていないと思う。なぜなら、日本は二度と戦争をしない、軍隊は持たないと憲法に書かれているにもかかわらず、強大な軍隊を持っている。きっと戦争をする国になるだろうと思われているのだ。
 日本外交をどうすればいいか。まずは前原外相を更迭しよう。そして、日本の外交をどう進めるか、とくに欧米追随ではないアジア中心の外交をどう進めていくか、民主党の中で十分に議論を進めてもらいたい。自民党時代に逆行したり、平和をないがしろにするようなら、民主党政権もいづれ政権交代してもらわねばならない。もちろん交代するのは自民党ではないが.

愛宕山に登る

2010-10-23 | 花と自然
先週比叡山に登った。今週は愛宕山に登った。愛宕山は京都市内でもっとも高い山なのだそうだ。924mと1000mには届かないが、それでも京都にしては高い。比叡山の843mよりも100m近く高い。愛宕山は信仰の山で、頂上は愛宕神社の境内になり、登山路も神社の参詣道なので、かなり雰囲気の違う山だった。

 観光客でごった返す嵐山からバスで清滝終点まで乗る。照明が無く、車が離合できない狭い清滝トンネルを抜けると、清滝の集落に着く。そこから登山路いや参詣道が始まる。いきなりの急登。階段がかなりの傾斜で続いている。この参詣道は、頂上に向けてほとんど直登なので、傾斜はかなりのものがある。しかも、高低差は800mもあるので、気軽な山の割にはかなりのバイトを強いられる。道は広くて頂上までまったく迷いようがないほど明らかだ。地図も持っていかなかった。

 さすがに休日でもあり、登山者は多い。ひっきりなしに人が行き交っており、登山というのもおこがましい感じだ。しかも子ども連れが多い。子どもの手を引いたお父さんやお母さんたちが、次々と登っていく。しかし、直登でこの傾斜は、正直言って私にはかなりきつかった。でも小さな子どもも果敢に登っていく。危険なところはまったくないので、親も安心なのかもしれない。三歳くらいの男の子が、登るの嫌だと言って泣きわめいていた。そのそばを追い抜いて登ったのだが、頂上から引き返すとき、この男の子がお父さんの手を引いて、頂上近くまで登ってきているのを見た。時間を掛ければ難しい山ではないので、子供たちを連れてくる人が多いのだろう。

 頂上まで2時間。途中、5合目から7合目までの間は、多少緩やかな道になるが、それ以外は急な階段がどこまでもまっすぐに伸びている。下の方は石段だったが、そのうち杉の木の階段に変わった。5合目付近は背が高く、いい常緑広葉樹の林が続いているが、それ以外は杉の植林だ。石段は杉の木立と合って、いかにも京都北山の雰囲気だが、あまりうれしい風景ではない。


 頂上の境内は、公園のようになっていて、登山客で大賑わいだ。それをみて、愛宕山は市民のピクニックの場なんだなあと実感した。しかし、比叡山がロープウエイやハイウエイがあり、歩いていく人は少ないが、この愛宕山は歩く以外に頂上に行く手段がない。頂上にあるものはすべて今でもボッカをして持ち上げているらしい。ジュースの自動販売機が一台だけあったが、ジュースも200円や300円している。高いなあ、ぼってるなあ、と横にいたお兄さんたちが言っていたが、この坂道をボッカして持ち上げることを考えたら、200円くらい高いとは言えない。

 境内に石碑のようなものが立ち並んでいた。書いてある文字を見ると、「愛宕山 参拝登山3000回記念」と書かれている。1000回記念という石碑はいっぱい建っているが、3000回記念の石碑は10本くらいか。毎週の休みに登ったとしても、年間50回がせいぜい。1000回登るには20年かかる。3000回だと、60年だ。毎日登ったとしても、年間せいぜい300回、それを10年だ。毎日登って10年!とても信じられない。そういえば、老婦人があの階段を駆け上り駆け下りているのを見かけた。すごいなあ。きっとあの人も毎日のように登っており、何千回とか言いながら、石碑を作るのを指折り数えているんだろう。すごい人がいるもんだなあ。それに比べて、私は明日あたり筋肉痛が起こりそうだ。上り下りに結局4時間かかった。比叡山でも膝の痛みがあったが、今日はなかった。少しずつ山歩きに慣れ始めたようだ。


時代祭と将軍の城

2010-10-22 | 日記風
 今日は京都の時代祭の日だった。2年前の時代祭を見て、がっかりしたことを思い出す。今日は時代祭を見るつもりはなかったが、オーストラリアから友人夫妻が訪ねてきてくれたので、いっしょに二条城を見物に行った。京都に来てから二年が過ぎたが、二条城にはいるのは初めてだ。入り口で入ろうとしたとき、聞き覚えのある笛の音が聞こえてきた。ピーヒャラピッピッピ、 ピーヒャラピッピッピと陽気な音を繰り返す。遠くの道から聞こえてくる。どうやら明治維新の官軍の格好をした時代祭の行列が姿を現したようだ。友人は興味深そうに遠くを覗き、馬上の白い長髪のカツラをかぶった官軍の司令官をカメラに納めようと苦心している。あの笛の音は、勝てば官軍と言われた薩長の兵隊が、朝敵となった徳川幕府軍と戦うために行進する行進曲だ。

 昨今の坂本龍馬の流行でおなじみになった官軍の笛と行列を横目に見ながら、朝敵となった徳川将軍の京都の住まいの二条城に入る。なんとなくこの偶然が面白いと思った。

 二条城は本丸の天守閣は、江戸時代に落雷にあって焼失したという。それを建て直す資金もなかったのだろうか。凋落する徳川家を象徴するようで面白い。もっとも本丸の天守閣は戦争用だったのだろうから、もはや無くても戦争もあるまいと思ったのかもしれない。二の丸は立派な御殿だ。江戸城から京都に上洛した将軍が、表敬訪問してくる諸大名に謁見する広間、大名たちが謁見を待たされる広間、天皇の勅使と接見する座敷など、全体で800畳あるという。その広間のすべてが狩野一派の見事なふすま絵で飾られ、欄間には厚さ30cmにもなる板を彫刻して飾られている。どれも国宝級の建物と絵だ。

 世界文化遺産は京都には多い。金閣寺、銀閣寺、二条城、京都御所、清水寺などなど五指に余る世界遺産がある。御所の中は見たこと無いので分からないが、二条城の絵や彫刻、建物はさすがに立派なものだった。これぞ日本庭園と言える広い庭を眺めていたら、行列を作って歩いている外国人観光客にガイドが日本庭園の説明をしていた。日本庭園の岩や木や池などは、かならず左右対称にならないように作っているのだという。なるほどなあ。そう言われてみれば、日本庭園の特徴がよく分かるような気がする。西洋の庭園と違うのはどこなのか、以前からよく分からなかったことが、すっと腑に落ちた。

 疲れたので茶室で抹茶を一服いただき、庭の泉水と鹿威しを眺める。ゆっくりとしたいところだが、友人がこれから新幹線で名古屋経由で高山へ行くというので、のんびりもしていられない。お抹茶もそこそこに二条城を出て帰る。時代祭に向かう人たちの群れを避けながら、あれからもう二年も経ったのだなあと感慨にふけった今日一日だった。

小児病的な日本外交

2010-10-17 | 政治
 日本での反中国デモとそれに反応した中国の反日デモが拡大しつつある。この原因を作ったのは、菅内閣の小児病的な外交姿勢だと思う。もっとオトナの外交をして欲しいものだ。外務大臣の前原誠司は、googleの地図に中国語の「釣魚台」という名前が載っているのはけしからんとgoogleに申し入れたという。まったく子どものすることじゃないか。アホとしか言いようがない。だったら、日本というところにJapanと書いてあるのもけしからんと言ってみたらどうか。アメリカやイギリスには言えないのが前原外交なのだ。

 これだけ反日デモと反中国デモが頻発しているし、日中の外交がぎくしゃくしているのに、東シナ海に領土問題は存在しないなどというのも、まさにオトナの外交とは言えない。小児病的だ。この騒動そのものが領土問題の存在を明らかにしている。菅さんが温家宝首相と廊下で出会って話をし、握手をしたのも、領土問題がこじれているからに他ならない。それなのに領土問題は存在しないと言って相手の尊厳に傷を付ける。それでは何も進展しないし、互恵的関係など成立しない。領土問題は存在しないと言い張ることに日本の国益などまったく何もない。中国政府も尖閣諸島は中国固有の領土だと言っているし、領土問題では一歩も譲らないと言っている。領土問題は明らかに存在している。それをお互いに認めることからしか外交は始まらない。

 ここで日本政府と中国政府が話し合って、お互いに「固有の領土」という主張を引っ込めて、両国による共同管理を模索すべきでないか。そもそも「固有の領土」などというものはどこにもない。もし、日本国が成立したときの領土を固有の領土というなら、日本国の成立は建国記念日が2月11日(神武天皇が建国した日)なので、その当時の日本の領土は、北九州か近畿地方か出雲地方かまだ結論が出ていない現在の日本のほんの一部でしかない。北海道も琉球も日本政府が侵略して日本の領土にしたところだ。いや、本州や九州だって、日本人の祖先が大陸から半島を経由して侵略したのだ。中国だって同じ事。日清戦争で日本が尖閣列島を奪い取った清の国は、蒙古系の国だった。その後の、中華民国や中華人民共和国は、それまでとまったく違った民族が作った国だ。そこには「固有の領土」などというものはどこにもない。

 領土問題の存在をお互いに認め、どう解決するかを「固有の領土」等という言葉を使うことを止めて、真摯に話し合うこと。どちらの国もナショナリストのわめき声などほっといて、どうすれば最も良い解決方法があるかを話し合い、知恵を出し合うことこそ、いま必要な外交ではないか。それには前原誠司などという人物を即刻首にした方がいい。中国はロシアと長い間領土問題を抱えていたウスリー川の国境線を両国が納得する仕方で解決した実績がある。日本政府が居丈高な態度をとらず、話し合う姿勢を示せば、中ロと同じように解決する方法がきっと見つかるだろう。

秋祭りと亡くなった人たち

2010-10-13 | 日記風
今日は松尾芭蕉忌。そして忘れられない浅沼稲二郎さんの亡くなった日だ。それから、私の二度目の父親が死んだ日。10月12日は、いろいろと忘れられない日なのだ。親父は、病床にあって二年目の秋を迎えていた。まもなく秋祭りだな、と楽しみにしていた。私の家は八幡宮の参詣路に面していたので、病気の父も窓からお祭りを見ることができたのだ。そして明日から秋の大祭が始まるという日の朝、息を引き取った。

 私がまだ子どもだった頃だった。そして、ヌマさんこと浅沼稲二郎社会党書記長が右翼の愛国党の青年に演説会場で刺されて亡くなった。ちょうど私はテレビで立会演説会の様子を実況中継で見ていた。演説を始めてすぐに、左の舞台脇からあがってきた若い男がヌマさんの体にぶつかっていった。北海道の炭坑で鍛えたあの太いヌマさんの体がぐらっと揺れて、倒れ込んでいった。すべては一瞬のことだった。その出来事がようやく育ち始めた戦後の民主主義の挫折を意味するものになるとは、その時は分からなかった。しかし、聡明だった私の少し上の友人は、そのことを敏感に感じ取った。その一週間後、彼はこの世をはかなんで、自ら毒を飲んだ。若すぎる人の死だった。

 あの年は、そういえば身近な人の死も複数あった。まさに激動の時代だったのだろう。200万人が参加した戦後の日本でもっとも大きかったゼネストが行われ、日本中の鉄道が止まり、商店も店を閉めた。それだけの民衆の抗議にもかかわらず、日米安保条約は自然承認された。あの時以来、日本はアメリカに従属してきた。その時の首相の孫があの元首相の安倍晋三。アメリカさまさまの日本人だ。あいかわらずヌマさんを殺した右翼青年と同じような言説を垂れ流している。

 明日から故郷では祭りが始まるのだろうか。故郷を出てから故郷の祭りを見たことがない。親父の顔はもうすっかり忘れたが、祭りの景色は今でも目に浮かぶ。きっと現物を見たら幻滅するかもしれない。変わっていないはずはないだろう。こんなに世の中が変わったのに。祭りは続いているのだろうか。故郷にも祭りを見に、帰ってみたくなった。

「人間」の「静かな大地」

2010-10-12 | 読書
池澤夏樹の「靜かな大地」を読んだ。明治維新で侍の身分を失った淡路島の人たちが、明治政府太政官の命で、蝦夷地に入植する。そこでアイヌの人たちに出会う。主人公の宗形三郎・志郎の兄弟はアイヌの少年と仲良くなるが、多くの和人はアイヌを軽蔑し、差別し、遠ざける。宗形三郎は、アメリカの牧畜を学び、静内にアイヌの友人と共にアイヌのための牧場を開き、成功する。しかし、アイヌびいきと言われ、和人からいとまれ、妬まれ、圧力を受ける。アイヌが日本政府による「土人同化政策」によって徐々に死に絶え、抹殺されていくのと軌を一にして、宗形牧場も衰え、希望を失った彼は妻の死に際して自らも自死する、という物語だが、この小説にはモデルとなる人物がいる。そして和人の入植によって民族の消滅への道を歩まされていくアイヌの人々の様子を、うかがい知ることができる。アイヌを差別しいじめ抜いた和人の中にも、江戸時代の松浦武四郎のように、そしてこの宗形三郎のように、アイヌを差別することを嫌い、アイヌと共に生きた人がいたということ、そこに一つの小さな灯りを見ることができた。

 私が15年間住んだ北海道だが、アイヌ民族の存在はアイヌ人とはっきりさせて観光業に従事している人を除けば、日常でアイヌの存在を知覚することはなかった。しかし、戦前の地図をみると、アイヌという言葉がちゃんと印刷され、図示されている。この人たちは多くは日本人に同化することを強いられ、自らのアイデンティティを失っていったのだろう。北海道はまさに侵略された土地なのだ。もっとも日本という国も、大陸から渡来してきた今の日本人の祖先によって侵略された土地なのだけど。

 しばしばアイヌの人たちの生きる知恵を書物などで教えられてきた。食べ物は神から送られた贈り物であり、食べた後は感謝して神の国に送り返す。生き物を捕らえ食べるときには、かならず取り尽くすことはしない。熊や狐やフクロウたちにも食べ物を分ける。そのような自然を敬うアイヌの生き方と、何ものも取り尽くそうとする和人の生き方の違いが、この本にはよく分かるように書かれている。宗形三郎の夢に現れたアイヌの神カムイはこう言った。「今、和人は驕っているが、それが世の末まで続くわけではない。大地を刻んで利を漁る所業がこのまま栄え続けるわけではない。与えられる以上を貪ってはいけないのだ。いつか、ずっと遠い先にだが、和人がアイヌの知恵を求めるときが来るだろう。神と人と大地の調和の意味を覚るときが来るだろう」。それは今ではないだろうか。

久しぶりの山歩き

2010-10-07 | 花と自然
今年の夏はいつまでも本当に暑かった。彼岸過ぎて急に涼しくなったが、昨日今日とまた27~8℃と夏が帰ってきたような暑さだ。もう10月なのに、今年の異常さは昨年の異常さを超えて、さらにいっそう大きくなった。先週から秋風と共に香り出した金木犀の花も、再びの暑さに色あせて見える。

 暑さのために山歩きを控えていた。ほぼ三ヶ月ぶりに山歩きをしてみた。三ヶ月というもの、ほとんど歩くことがなかった。コンクリートの道を少し歩くことがあったが、一日1000歩以下の日がほとんどだったと思う。さすがに体重は高止まりで、体は夏ばてをしているのに、いっこうに減らなかった。運動不足で血圧も高め。これではそろそろダメになりそうということで、足慣らしに歩き始めることにした。まずは、最も近くの大文字山、またの名を如意が岳。500m程度の山だけど、自宅から歩いて簡単に行けるので便利だ。

 銀閣寺の裏から歩き始めて、10分ほども歩いたとき、左の膝が激しく痛み始めた。4年ほど前に北アルプスに登ったときに感じた痛みと同じだ。しかし、あのときは5時間ほど歩いた後だった。痛い足を引きずりながらそれでも9時間歩き通した。今回はわずか10分歩いただけだ。休み休み騙し騙し歩いていたら、そのうち痛みが無くなった。おそらく永らく使わなかったところが、急な山歩きに驚いたのだろう。そのうち、慣れてきたようだ。五山の送り火の東大文字の火床にある展望台までそれでも25分でたどり着いた。まだまだ暑いので、汗が流れる。さすがに体が重い。これから少しずつでも歩いておかねば、もう高い山には登れなくなるかもしれない。

 少し休んで歩き始める。火床の周りにいくつかオミナエシの花が咲いている。秋の七草のオミナエシとオバナ(ススキ)がここで見られる。そういえば、仲秋の名月をここで眺めたら良いだろうな、と思ったことがあったが、結局来ることはなかった。来年もし京都にいるようなら、ぜひ仲秋の名月を見るためにここに登ろう。いや、上賀茂神社の古式豊かな観月の夕べのほうに行こうかな。

 頂上まで登って一休み。汗が顔を流れる。銀閣寺の山門から頂上まで45分かかった。頂上付近で年取ったおばあさんたちが登ってくるのに何人も出会った。近くに住んでいる人たちだろうか。荷物も持たず杖一本で歩いている。そういえば、すぐ近所のおばさんは、毎年100回は大文字山に登るのだそうだ。私は京都へ来てから二年。その間に大文字山には10回程度は登っている。それにしても年100回とはすごい。別に登山を趣味にしているわけではないようだが、健康のために老人がそのように登っている。

 頂上から下り始めると、秋の日はつるべ落とし。林内ははや暗くなった。杖一本のおばあさんたちは、明るいうちに下りられるのだろうか。人のことを心配しながら、暗くなりかかった山道を下っていった。帰り道、登山口近くまで下りたとき、林道のどん詰まりのところで、二人の男女の若者を見かけた。その格好を見て驚いた。いわゆるコスプレとかいうやつなのか。漫画のベルばらに出てくるような格好をして、二人で写真を撮り合っている。杖を突いて山に登るおばあさんと、山に登らず麓でコスプレごっこをしている若者たち。なにか大きな時代の流れを感じた一日だった。

 さあ、気温が低くなってきた。歩き始めるぞ~~~。

心と体を癒しに 熱帯雨林とガムラン音楽

2010-10-02 | 環境
先日、「森里海連環学と地球環境」というシンポジウムを聞きに行った。一般市民を対象にしたシンポジウムであったが、それほど多く集まらなかった聴衆の中で、一般市民らしき人は数えるほどで、大部分が研究者か学生であったような気がする。でも、まあまあ面白い話が多かったように思う。その中でとくに面白い話を聞いた。高周波がうつ病やガンに効くという。

 インドネシアの熱帯雨林が先進国の需要で伐採され、熱帯雨林の減少が続いている。そんな数少なくなったインドネシアの熱帯雨林の中で、環境の音を収録して解析すると、50キロヘルツ以上の高周波が波を打つように記録されるらしい。同じように日本の田舎や都会で環境音を収録して解析すると、ほとんどの音が30キロヘルツ以下の低周波だけしかないのだそうだ。50キロヘルツ以上の高周波の部分はまったく音が記録されないという。この高周波の波のような音は、熱帯雨林のみで記録されるらしい。

 さらに面白いのは、インドネシアの民族楽器として有名なガムランの音には、その高周波の音が含まれているらしい。インドネシアの環境にある特別な音が、インドネシアの民族楽器に反映されているというのは、きわめて興味深い。ちなみに、西洋音楽の楽器にはどの楽器の音にもこれらの高周波音は無いという。日本の民族楽器の尺八には、それでも多少とも高周波が含まれているらしいが、それでもせいぜい50キロヘルツ程度なのだ。

 この自然の中の高周波を出す音源は一体何だろうか。はっきりとは確認されていないが、どうやら熱帯雨林に棲む多様な昆虫が出す音ではないかという。熱帯雨林の生物多様性が極めて高いことはよく知られているが、それが音にも現れているのだという。興味深いのは、この高周波を含む音を聞くと、心も体も癒され、うつ病やストレスが軽減されるだけでなく、ガンのような病気も治るのだという。近年、癒しの音楽として流行っていたアルファ波は、この原理を応用したものらしいが、残念ながらアルファ波の音楽として市販されているのは、それほどの高周波を含んでいないらしい。せいぜい、日本の田舎で記録できるていどの周波数らしい。なぜなら、熱帯雨林の環境音を普通のCD再生機で聞いても、50キロヘルツ以上の高周波は再生できないからだ。その高周波を聞くためには、特別仕様の音の再生装置が必要らしい。現在では特殊な研究用にしか無いという。

 熱帯雨林の環境音をそのまま聞くのは、熱帯雨林に出かけて聞くしかないのだ。近い音がガムランの音楽にある。ガムランの民族音楽を聴くと、熱帯雨林と同じように、心と体の癒しが得られるという。うつ病もガンも良くなるなら、ぜひとも聞かせたい人がいる。明日、京都の法然院でガムラン音楽と舞踊の夕べが開かれると言うことを聞きつけてきた。心を静めにストレスでずたずたになりそうな心を癒しに、明日はガムランの音を聞きに行こう。