ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

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今年の読書歴

2014-12-31 | 京に見る歴史
最近は、facebookに書いているので、ブログに書くことがほとんどなくなった。年末になって、今年の読書歴を残しておこう。


今年の読書歴(2014年)

1. 宮坂宥勝・梅原猛「仏教の思想9 生命の海<空海>」
2. 松下竜一「そっと生きていたい」
3. フリチョフ・カプラ「タオ自然学」
4. 浅山泰美「ミセスエリザベスグリーンの庭に」
5. 高橋郁夫「渚と修羅ー震災・原発・賢治」
6. 佐藤正典「海をよみがえらせる 諫早湾の再生から考える」
7. 神坂次郎「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」
8. 吉野裕子「山の神」
9. 梅原猛「日本の霊性 越後・佐渡を歩く」
10. 大林太良編「日本の古代3 海をこえての交流」
11. 広河隆一「帰還の坑道」
12. 篠原資明「空海と日本思想」
13. 梅原猛著作集13「万葉を考える」「歌の復権I」
14. 桜井泰憲・大島慶一郎・大泰司紀之(編)「オホーツクの生態系とその保全」
15. 田巻幸生「10月の向日葵」
16. ジャレッド・ダイアモンド著、倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄(上巻)」
17. プーラン・デヴィ「女盗賊プーラン」(上巻)
18. プーラン・デヴィ「女盗賊プーラン」(下巻)
19. ベルンハルト・シュリンク著、松永美穂訳「朗読者」
20. 「日本の詩歌 高村光太郎」
21. 金子みすゞ「金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと」
22. サトウハチロー「詩集 おかあさん(I)」
23. ジャレド・ダイアモンド著 倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄」(下巻)
24. 池澤夏樹「春を恨んだりしない 震災をめぐって考えたこと」
25. 福島原発告訴団・編「これでも罪を問えないのですか! 福島原発告訴団50人の陳述書」
26. 沖縄県学生会編「祖国なき沖縄」
27. 門脇禎二「日本海域の古代史」
28. 松居竜吾「クマグズの森 南方熊楠の見た宇宙」
29. 赤田秀子「イーハトーブ・ガーデン」
30. 宮本常一・川添登(編)「日本の海洋民」
31. 石川栄吉「南太平洋物語」
32. 金子みすゞ「金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと」
33. 本橋成一写真集「アレクセイと泉」
34. 梅原猛「哲学の復興」
35. スティーブン・ジェイ・グールド「神と科学は共存できるか?」(1999) 狩野秀之・古谷圭一・新妻昭夫(訳)(2007)
36. フランシス・ヒッチング著、樋口広芳・渡辺政隆訳「キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか」
37. 谷川健一「古代海人の世界」
38. 梅原猛・埴原和郎「アイヌは原日本人か」
39. マレイ・ゲルマン「クオークとジャガー たゆみなく進化する複雑系」
40. DAYS JAPAN編集「福島の母 440人の証言集」
41. 盛永宗興老師講演録「禅・空っぽのままに生きる」(2000)
42. 千家和比古・松本岩雄(編)「出雲大社」
43. 桝太一「生物部な毎日」
44. 梅原猛「海人と天皇(上)日本とは何か」
45. 村井康彦「出雲と大和-古代国家の原像をたずねて」
46. キム・ファン著「きせきの海をうめたてないで!」
47. 梅原猛「日本とは何か。海人と天皇(下)」
48. E.J.バンフィールド著、越智道雄訳「渚の生活 ビーチコウマーの告白」
49. 松本清張「古代探求」
50. 井上靖「後白河院」
51. 井野博満・後藤政志・瀬川嘉之「福島原発事故はなぜ起きたか」
52. 佐藤優「国家と神とマルクス」
53. 白井祥平「インドネシアの海を探る-バルーナ探検隊記録」
54. 谷川健一「埋もれた日本地図」
55. 根本昌幸「詩集 荒野に立ちて-わが浪江町」
56. 梅原猛全対話2「古代日本を考える」
57. 中川剛「不思議のフィリピン 非近代社会の心理と行動」
58. 北上田毅「フィリピン・幸せの島サマール ある民際協力の試み」
59. 山代巴「荷車の歌」
60. 松下竜一「松下竜一 その仕事18 久さん伝」
61. 梅原猛「【森の思想】が人類を救う 二十一世紀における日本文明の役割」
62. 林貞子「続 野の花 空の鳥 吹く風」
63. 岩崎允胤「日本思想史序説」

鈴虫姫と松虫姫と宗教弾圧

2013-06-13 | 京に見る歴史
休日に近くの哲学の道を散歩した。桜の季節はとっくに過ぎて、早くも蛍が飛び交う季節となっている。哲学の道から東に登り、鹿ヶ谷を歩く。銀閣寺から法然院を通り、安楽寺の前に来て、足を止めた。いつも門を閉ざしている安楽寺が開門している。掲示を見ると、一年に数回しかない特別開放の日らしい。これはいいところにさしかかったと、さっそく拝観することとした。

 はじめてはいる安楽寺の境内は、静かで落ち着いて庭を見ることができる。落ち着いた書院のたたずまいは好ましく、庭の花たちも風情を誘う。それほど広くはない境内のもっとも奥には、鈴虫姫と松虫姫の菩提を弔う碑がある。昔この二人の名前は聞いたことがあるような気がしたが、どんな物語だったか、まったく思い出せない。そこで、安楽寺のお坊さんの話を聞いてみた。それは、ある意味でびっくりだった。

 この寺の名前は、住蓮山安楽寺という浄土教のお寺である。それは、寺の創建者の住連と安楽という二人の僧侶にちなむ。
今は昔、鎌倉幕府が設立され、武士が政権を取ったばかりの頃、幼い安徳天皇が平氏とともに壇ノ浦で海の藻屑と消えたとき、代わりの天皇に即位したのが、後鳥羽天皇であった。後鳥羽天皇は、鎌倉幕府に実験を握られたことを恨み、なんとか朝廷に実権を取り戻そうと強権政治を進めた。1198年に土御門に天皇の位を譲り、自身は上皇となり事実上の院政を取った。その頃、上皇の側女を勤めていた左大臣の娘に鈴虫姫と松虫姫という二人の世にも美しい姉妹の姫がいた。彼女たちの美しさに、他の側女たちからねたみを受け、さまざまな嫌がらせも受けていたらしい。いつの世も心小さきものの所業は同じなのだろう。二人の姫は、そんな世をのろい、時にちまたの噂高い浄土念仏教に心惹かれていた。ときどき、京の東山で行われていた念仏説法にこっそりと出かけていたという。
1206年、後鳥羽上皇が熊野神社に参宮のため、都を留守にしたとき、二人の姫は館を抜け出し、東山の庵で行われていた、住連房と安楽房という浄土教の僧侶らの念仏説法を聞きに出かけた。念仏浄土教は法然が教えを始めた他力本願を本旨とする教えで、それまでの腐敗した高僧たちの教えに真っ向から反逆し、念仏を唱えればどんな人も救われ、浄土に行けるという教えであり、とくに南無阿弥陀仏という六時礼賛を音楽的に唱える乞食坊主たちの辻説法がちまたの人々の注目を浴びていた。これに既存の比叡山や興福寺の僧侶たちが反発し、法然らの念仏教を取り締まるよう、朝廷にしばしば意見を上奏していた。
その夜、浄土教の説法を聞き、念仏を唱えていた二人の姫君は、やがてその嫌世の気持ちが救われるありがたさに涙を流し、説法の後、住連と安楽の二人のお坊さんに、出家したいと願いでた。しかし、上皇の許可もなく側女たちを出家させることはできないと断ったが、二人の姫君たちは、死をも覚悟の上で出家を願うと涙ながらにかき口説いたため、住連は鈴虫姫を安楽は松虫姫を剃髪し、出家をさせた。二人の姫君は、二人の僧侶を上皇の館によび、夜遅くまでその説教を聞き、ともに念仏を唱えた。夜も遅くなり、二人の僧侶は館に泊まっていった。
熊野神社から帰還した後鳥羽上皇はそれを聞いて激怒し、これを機に、浄土教への弾圧を決心する。法然らの唱えた専修念仏を禁じ、鈴虫と松虫の二人の出家を手伝った住連と安楽の二人を含む四人を死罪、法然を土佐へ、親鸞を越後へ追放、その他多くの門弟を流罪にした。住連は、故郷の近江の国馬淵で捕らえられその場で打ち首に、安楽は京都鴨川の河原で打ち首となる。二人とも念仏を高らかに唱えながら、首を打たれたが、落ちた首はそのまま念仏を唱えていたと言われている。いわゆる承元の法難と言われる事件である。法然は讃岐の国で念仏三昧の生活を送り、4年の後に許されて京に戻るが、2ヶ月後に死亡する。ときに法然、80歳。親鸞は京へ帰り師法然との再会を願うが、法然の死去でそれがかなわず、京に帰らず関東の苫屋で暮らし、専修念仏を伝える。のちの浄土真宗は、それ以後多くの信者を得るが、親鸞は最後まで寺を造らず、草庵で人々を救うために教えを広めた。
以上は、安楽寺のいわれを知って、その時代の仏教の宗教革命との関わりについて、勉強したことである。歴史は好きな分野だが、まともに勉強したことはなかったので、こんな歴史家なら誰でも知っていることにも新鮮な感動を得た。住連山安楽寺の二人の創建者たちと二人の姫君の悲劇も宗教革命の中の出来事と、はじめて知った。これで散歩していた鹿ヶ谷のお寺も見る目が変わってくる。京都は、その気になれば、本当に奥深い。