ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

100歳の恩師

2006-05-28 | 日記風
先日、大学時代の同窓会が開かれた。私は所用で参加できなかったが、出席率は90%くらいだったらしい。その席で、昔の教授が100歳を迎えいまだ意気軒昂で研究をし、論文も書いているという話がでたらしい。いやあ、驚いた。とっくの昔に亡くなっていると思っていたからだ(申し訳ない)。そういえばあの先生は、のんびりとストレスもなく、楽しそうに研究し授業をしていた。きっといまでもそうなのだろう。

 今の大学の先生はあんな風には行かないだろう。競争を大学に導入したおかげで、毎日がストレスだらけで、いろんな書類書きが多く、研究をする時間もなくなっているとか。大学を活性化するとか言って競争を導入したはずなのだが、あさはかな考えだったのだろう。学問は競争でするもんじゃない。

 明日からまた、瀬戸内海の海に潜りに行く。瀬戸内海も中央部だから、先月潜った山口県長島沖のきれいな海とは違って、きっと透明度も悪いだろう。昔懐かしい海なのだが、昔の面影はもうきっと残っていないのだろう。美化された昔の恋人に会って幻滅を味わう気分かもしれない。せめて良い天気であって欲しいが・・・。

教育基本法の改正は無意味

2006-05-25 | 政治
教育基本法という教育の憲法ともいうべき法律を変えようと言う自民党と公明党の改正案が国会で審議されている。いまの教育基本法は、変えなければならないところは全くないことを先に述べたが、各地の新聞も相次いで慎重な対応を求めている。

『西日本新聞』社説 2006年5月25日付

急ぐ理由が理解できない 教育基本法改正

 戦後教育の指針となってきた「教育の憲法」を全面的に見直すかどうか。重要な国会審議の幕開けである。多くの国民が政府の考え方に関心を寄せ、与野党の論戦に注目していたはずだ。
 だが、残念ながら、小泉純一郎首相や小坂憲次文部科学相の答弁を聞いた限りでは「なぜ今、教育基本法を改正する必要があるのか」という素朴で根本的な疑問は解消されなかった。

 首相は改正の理由について「個人の権利も大事だが、同時に礼節や自立心、公共道徳などは今のままでいいのか。戦後60年で、(教育基本法を改正する)いい機会ではないか」などと答弁した。

 だが、会期の残りが1カ月を切った終盤国会でようやく実質審議に入った法案を「ぜひ今国会で成立させたい」理由としては明らかに説得力を欠く。

 与党が改正案を論議する段階から、野党にも協議を呼び掛けるべきではなかったか。国民的な論議が盛り上がらないまま、政府案が唐突に閣議決定され、国会へ提出された印象を国民に与えているのも無理はない。

 その意味では「憲法と同様に衆参両院に調査会を設け、1、2年かけて与野党でじっくり論議してはどうか」という民主党の提案は傾聴に値する。

 焦点の「愛国心」について、首相は「国家というもの(に対して)は誰もが自然に愛国心が芽生える。日ごろの生活の中ではぐくむものだ」とも語った。

 だとすれば、あえて法律に書き込む必要はあるのか。「ひとつの価値観を強制するものではない」(首相)としても、疑問に感じた国民は少なくないはずだ。

 「我が国と郷土を愛する態度」を養うとした政府案と、「日本を愛する心を涵養(かんよう)」するとした民主党案について、首相は「大きな違いがあるとは思えない」とあっさり答弁した。

 残り時間が限られた中で、与野党の歩み寄りを促し、法案の成立を最優先させようとする首相のしたたかな戦略かもしれない。だが、国民の間でも賛否が分かれる重要な法案で対立軸があいまいになるような国会審議は御免だ。

 「国家100年の大計」といわれる教育の根幹を論議する重大な局面である。いたずらに急ぐ必要はない。徹底的な国会論戦をあらためて与野党に求めたい。拙速は将来に禍根を残すだけである。


『日本海新聞』2006年5月18日付

教育基本法を考える -改正案審議スタート

(上)教育の機会均等を論点に

 教育基本法改正案の国会審議が始まった。一九四七年の制定以来、約六十年ぶりに全面改正した内容だ。新日本海新聞社が本社モニター百人を対象に先月行ったアンケート調査によると、「慎重に論議すべき」「改正すべきでない」が合わせて65%を占め、県民の多くが早期改正を望んでいない現状が浮き彫りになった。なぜ今改正か、日本の教育は本当に良くなるのか-。鳥取県内の学識経験者や保護者、教育行政の関係者に教育基本法改正について聞いた。

鳥取大学地域学部・渡部昭男教授

 鳥取大学地域学部の渡部昭男教授(51)=教育行政学=は、国民や教育関係者の声を踏まえた議論がなく、政治主導で拙速に改正案が作られたことに問題を感じている。「愛国心」をめぐる表現に注目が集まりがちだが、重要なポイントは「教育の機会均等」(第三条)と強調。「広がる経済的格差への対応が『大きな論点』となるべきで、国が真っ先に果たすべき責務だ」と訴える。

人権先進県

 与党自らが改正案を「ガラス細工の法案」としていることに危機感を覚える。「改正論議は高松塚やキトラ古墳の修復工事に似ている。リメークしたつもりが、英知を集めた慎重な対応を怠ったため、カビを広げて壁画を台無しにする恐れが強い」と指摘する。

 平和主義や民主主義、自由主義という普遍的な理念を基盤としている現行法を「文化的価値が高く、その先進性ゆえに、ようやく真価を発揮する環境になりつつある」と評価。その上で「鳥取県弁護士会がいち早く反対声明を出したように、拙速な改正で逆に人権が侵害される事態が一番怖い。人権先進県の鳥取から全国に発信した意義は大きい」と強調する。

経済格差への対応

 一方、格差社会が大きな問題となっている今だからこそ、「教育の機会均等」の議論を深め、実現させることが大切と主張。「改正論議以前に問題は山積み。国の無策により、経済的な進学格差や教育格差は広がるばかりだ」と、特に経済格差への対応が今後は不可欠と考える。

 現行法では、経済的地位による差別の禁止を定めており、「憲法にもない画期的な内容」。しかし、国内では現在、高校入学から大学卒業までに一人当たり一千万円かかるといわれ、そんな中、奨学の対象は困窮者全員ではなく、法律で「能力がある者」に限定されている。

 「敗戦直後ならいざしらず、六十年経った今も『能力がある者』を残しているのには失望させられる。今日にふさわしく『必要に応じて』と変えるべきだ」と指摘する。

国連から勧告

 さらに、一九七九年の国際人権規約の批准に際し、日本はルワンダ、マダガスカルとともに、高校・大学の『無償教育の漸進的導入』の項目を留保した数少ない国だ。このため、国連から「留保の撤回」を求める勧告を受け、今年六月末までに返答が求められている。

 「回答期限が間近に迫っているのに、議論が全くない。今の国会でまずなすべきことではないか。与党や野党、マスコミさえも無関心と言わざるを得ない」

 改正する前に取り組むべき課題は多いとみる。「教育現場や自治体の試み、努力を、国の施策に反映させる必要がある。慎重な議論はもちろん、国民的な論議と合意形成を求めたい」と願う。

教育基本法第3条(教育の機会均等)
 条文では「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」「国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない」とうたっている。この条文について中央教育審議会は、改正を見合わせ、奨学の規定を変更しないことが適当と答申した。


馬鹿と嘘つき

2006-05-24 | ちょっと一言
ちょっとした頭の体操

「クレタのエピメニデスが、すべてのクレタ人は嘘つきだと言っていますが、クレタ人である彼がそう言っているのだから、これは本当のこと?」

これはばかげたことかも。

それでは、これは?

「エピメニデスが嘘つきだと考えているものは、クレタ人は嘘つきではないと思わざるを得ないが、クレタ人はクレタ人を信じてはいない。故にクレタ人は誰もエピメニデスが嘘つきだとは思わない?」

これもばかげている?

「この場合はばかげているのですか、どうですか」
「それはあなたが考えることです。私は貴方に馬鹿を見分けることは難しいといったでしょ?馬鹿でもノーベル賞は取れるのです」(ウンベルト・エーコ<フーコーの振り子>より)

ミンダナオの海から(8)

2006-05-22 | 南の海
アロヨ大統領の不正問題で揺れているフィリピンですが、紛争の地ミンダナオ島では、むしろ平和が訪れてきたようです。政府軍とモロイスラム解放戦線(MILF)とのあいだに休戦合意が成立しつつあり、人々の間でも急速に和平への期待が高まっているようです。

 今回も、そのミンダナオでジュゴンを観察に行きました。ジュゴン観察の地のマリタまで、ダバオ市から完全に道路が舗装されており、さらにその先まで来年中には舗装道路が延びるとのこと。ダバオ市からマリタまでわずか2時間半で行けるようになってきた。もっともすごいスピードで車と車の間を通り抜けるので、もっぱら運転手の腕が頼りではあるが。途中でも道路脇に飛び込んだ車や追突していた大型トラックなどを見てしまい、ちょっと恐い思いをした。

 肝心のジュゴンは陸上のこのような変化にもかかわらず、今までと同じように、岸よりの浅い海でのんびりゆったりと海草を食べている。この姿はおそらく昔から何万年も変わらない彼らの生活なのだろう。この生活がこれからも変わらず、私たちに安心を与え続けて欲しいと願う。

 南の海 ひねもすジュゴンのたりかな (盗作)


南の国と北の日本

2006-05-20 | 南の海
南の海から帰ってきたら、こちらはもう桜が満開になっており、春爛漫だ。今日もあたたかい日差しに、蝶も飛び始めた。

 出かけてきたミンダナオでは、人混みと喧噪の中で、人々の表情はかならずしも明るくはなかった。しかし、子供たちの表情はいつも明るい。子供が多いのだ。一世帯の平均の子供の数が10人を超えるだろうと地元の人は言っていた。いたるところで子供たちが群れて遊んでいる。働く現場にも子供の姿がある。幼い子供を遊ばせているのも、子供たちである。昔の日本もこうだった。その切磋琢磨が人々とのつきあい方を子供たちに学ばせるのだろう。

 一人っ子で育った子供は、自分が人間社会の中でどのような位置にあるかがわからない。だから何をしていいか、何をしなければならないかがわからない。世の中が自分中心に回っていると思っている。過保護がそれを助け、テレビという自分中心の機械がそれをさらに助長する。

 いま、日本の若者の偏狭なナショナリズムが問題になっている。また、信じられないような動機の犯罪が横行している。これらの原因はそこにも求められるだろう。党首討論で、民主党の小沢代表はこれら犯罪の原因を国が教育に責任を持たなかったからだと述べて、民主党の教育基本法案を提出した。しかし、それはまったく違うのではないか。国が責任を持たなかったからではなくて、自民党政府=国が口を出しすぎたからなのだ。教育基本法に書かれている「教育への不当な支配」を国がしてきたからに他ならない。

 一人っ子政策で一人っ子を大量に生産してきた中国が、これから偏狭なナショナリズムに陥る危険も高い。こんな時こそ、本当の意味の政治家が必要なのだろう。「周囲の国と仲良くできている国なんか無い」などとうそぶく人は外務大臣の資格はないだろう。

しばらく南の海へ

2006-05-05 | 南の海
連休もそろそろ終わりに近づいた。仕事で忙しい連休だった。

 また、ここらで南の海へジュゴンに会いに行こう。しばらくブログもお休みします。また、帰ってきたら、南の海からのお便りをお届けしましょう。

        

石原慎太郎という存在

2006-05-04 | 日記風
まったく信じられないほど品格のない都知事がいたものだ。

 先月20日、東京都現代美術館で「カルチェ財団現代美術コレクション」の開幕式が開かれ、カルチェ財団インターナショナルの理事長や代表らフランス側・日本側の1500人が集まった。その席で、石原「都知事」は、以下のような挨拶というよりは、罵詈雑言を述べたらしい。

 「今日ここに来て、なにかすごいものが見られるんだろうと思っていました。ところが、実際は何も見るべきものはなかった」

 この「芸術の国連(ライザ・ルー)」とまでよばれるこの企画展には、コンゴのシェリ・サンバ、フランスのジャン=ミシェル・オトニエル、アイルランドのジェームズ・コールマン、アメリカのデニス・オッペンハイム、イタリアのアレッサンドロ・メンディーニやアメリカ女性作家のライザ・ルーまで、12カ国から32人の作家たちが出品している現代美術の結集と言うべきものだ。

 さらに「都知事」は、「ここに展示されている現代美術は、まったくもって笑止千万なものである」と彼は付け加えた。さらに、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい」そして、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい」と、とどめを刺した。集まった参加者は、言葉を失った。嗤った人もいたらしい。

 石原慎太郎という人は、よほどフランスが嫌いらしい。フランス語は数を数えることができないほど駄目な言語だ、などと無知と偏見に満ちた発言を公式な記者会見などで披露して、名誉毀損の裁判を起こされているほどの人なのだ。

 しかし、信じがたいほど、おどろくほどの失礼で品格のない挨拶では無かろうか。このような人が「都知事」であることの恐ろしさは、アジアの人たちを考えることのできない首相と同じように、日本の将来を本当に危うくする。東京都民は恥とすべきだ。