ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

京の緑は京の文化を表す

2008-10-30 | 花と自然
京都に来たというと、十中八九が「いいところだね」「いいわね」っていう。たしかに京都は落ち着いたところで、見るところはいっぱいある。名所旧跡をめぐるのが好きな人には、申し分ないところだろう。あちこちに「桂小五郎の立ち寄り先」や「○○天皇がどうとかしたところ」などの建物や寺や神社やあれやこれやが、雨後の筍のように次々と立ち現れる。好きな人には申し分ないところだろう。さすが千年の間支配者が住んでいた都だ。

 緑もいっぱいのいい街だといわれる。たしかにお寺や神社の森は、街の中に緑をしたたらせている。春は桜の花が至るところで満開となり、秋は紅葉が観光客を引き寄せる。しかも多重宝塔や鳥居と組み合わさって、絵になる風景がいっぱいある。まあ、申し分ない街のような気がした。

 しかし、緑の多い哲学の小道や琵琶湖疎水沿いの散歩道を歩いても、もう一つ私には不満が残る。どこか満たされないのだ。最初はそれがなにかよくわからなかったのだが、どうやら、私には京都のような自然とのつきあいがもう一つ好きでないらしい。緑いっぱいの小路にも、実は自然の草花はまったくない。どれもこれも園芸品種であり、雑草は生えてくるのを許されていない。疎水の石垣の間からわずかに芽を出していた雑草でさえも、近所のボランティアのおじさんに、鎌で削り取られているのを見た。

 京都の緑は、作られた緑なのだ。寺院や神社の日本庭園がその見本なのである。街の中も、まるで箱庭のように、手が入れられて、自然の草が生えることを許されない。決定的な光景は、銀閣寺で見た。いろんな種類のコケが生えているが、それに名前をつけて陳列してある。ところが、それらたくさんの種類のコケを、三つに分類して並べてあった。曰く「銀閣寺にとって大切なコケ」「ちょっと邪魔なコケ」「とても邪魔なコケ」と。なるほど、仏教を伝える寺院でも、コケに差別をするらしい。これを見て、京都の町がなぜ私にしっくり来ないのか、そのわけが分かった。

 作り物の自然。それが京都の文化であり、自然とのつきあい方なのだ。やはり私には北海道の大自然が好ましい。

京都北山 雨のデビュー

2008-10-26 | 花と自然
京都に来て、ひと月が過ぎた。ようやく落ち着いた生活が送れるようになった。このブログも新しいものに変えて再出発しようかと思っていたが、休止を宣言した後も、それまでと同じくらい多くの人が見てくれているようなので、せっかくこれまでようやく知られるようになってきたものを止めてしまうのももったいない!というわけで、再び変わりなく復活させることにしました。みなさん、これからもよろしく。

 京都に来てからようやく山へ行く時間ができた。こちらへ来るときに、「近畿地方の山ベスト30」という本を持参して、それから行くところを探してみた。昨日、良い天気に誘われて、大原の寂光院と三千院を散歩してきた時に、大原の里の棚田から向こうに見えた北山連山を、まずは手始めに登ってみようと思った。
 今日は朝起きたら、昨日とうって変わって雨。天気予報を見ると午前中は雨、午後から曇りになっている。空を見ると明るくなってきているようなので、歩いているうちに晴れてくるだろうと、勝手な予報にして、バスに乗り込んだ。歩き始めても、降ったり止んだりの天気は変わらない。
 京都北山といえば、北山杉。杉林を歩くのは奥多摩や奥武蔵の低山で慣れているから、まあ、あんなものだろうと思って歩き出した。1時間ほどで最初のピークの金比羅山(575m)にあっけなく到着。でも手元の高度計は955mを指している。どうやら雨に打たれて壊れたらしい。防水でないので、雨の日は使えない。
 京都北山は、京都市のすぐ北側に連なる低山群で、1000mを超える山はない。いささか不満であるが、昔から京都北山の山歩きは知られているので、それなりの得るものがあるのではないかと期待してきた。しかし、天候のせいかもしれないが、同じ杉の人工林でも、奥多摩や奥武蔵の杉山と比べても、京都北山は暗いという印象が強い。なんとなく陰鬱なのだ。奥多摩の杉林はそれでも明るさがあった。北山は、京の都の近くにあるせいか、山の中に神社が多い。しかも立派なお社だ。そのせいか、どうも山の中になにかの気配がするような気がする。魔物が棲んでいる。カラス天狗が飛んでいるかもしれないというような。



 金比羅山を出発してから、雨が本降りになってきた。今日は大原の里に降り立つまで、とうとう雨が降り続いた。何日も掛けて歩く高山の山旅ならいざ知らず、こんな低山でここまで徹底的に雨に降られたのは、初めてのような気がする。京都の山のデビューとしては、最悪の日だった。しかも、金比羅山から翠黛山(577m)へ縦走する途中に道を迷ってしまった。金比羅山は縦走路から少し外れていたので、もとの縦走路へ戻ろうとしたのだが、いくら歩いても見覚えのあるところにたどり着かない。行ったり来たり、登ったり降りたりを繰り返しているうちに、翠黛山への道標を見つけたが、どうも思っていたのと方向が違う。自分が間違っていたのだろうけど、どうも腑に落ちない。そんなことも北山の神秘性を増幅したのかもしれない。
 翠黛山から、焼杉山(718m)に登る。今日の最高峰だが、それでも700mそこそこしかない。山の頂上にも杉の木が並び立っている。焼杉山からの下山路の尾根筋は人工林ではなく天然林があって、なかなかいい尾根筋の道だからぜひ歩くことを勧めるとガイドブックにあったので、ちょっと期待していったのだが、代わり映えのするものでもなかった。奥多摩など関東の低山の広葉樹林とちがって、こちらには常緑樹が多いことが、やはり明るさのない陰鬱な印象を与えるのかもしれない。
 京の北山デビューは、さんざんな結果となった。これから私は雨男になるかもしれない。関西の山歩きがどうも楽しいものになりそうもないことにちょっとショックを受けた。でもまだ一ヶ所だけだから、これからも期待して行ってみよう。次回を楽しみにしたい。