京都に来たというと、十中八九が「いいところだね」「いいわね」っていう。たしかに京都は落ち着いたところで、見るところはいっぱいある。名所旧跡をめぐるのが好きな人には、申し分ないところだろう。あちこちに「桂小五郎の立ち寄り先」や「○○天皇がどうとかしたところ」などの建物や寺や神社やあれやこれやが、雨後の筍のように次々と立ち現れる。好きな人には申し分ないところだろう。さすが千年の間支配者が住んでいた都だ。
緑もいっぱいのいい街だといわれる。たしかにお寺や神社の森は、街の中に緑をしたたらせている。春は桜の花が至るところで満開となり、秋は紅葉が観光客を引き寄せる。しかも多重宝塔や鳥居と組み合わさって、絵になる風景がいっぱいある。まあ、申し分ない街のような気がした。
しかし、緑の多い哲学の小道や琵琶湖疎水沿いの散歩道を歩いても、もう一つ私には不満が残る。どこか満たされないのだ。最初はそれがなにかよくわからなかったのだが、どうやら、私には京都のような自然とのつきあいがもう一つ好きでないらしい。緑いっぱいの小路にも、実は自然の草花はまったくない。どれもこれも園芸品種であり、雑草は生えてくるのを許されていない。疎水の石垣の間からわずかに芽を出していた雑草でさえも、近所のボランティアのおじさんに、鎌で削り取られているのを見た。
京都の緑は、作られた緑なのだ。寺院や神社の日本庭園がその見本なのである。街の中も、まるで箱庭のように、手が入れられて、自然の草が生えることを許されない。決定的な光景は、銀閣寺で見た。いろんな種類のコケが生えているが、それに名前をつけて陳列してある。ところが、それらたくさんの種類のコケを、三つに分類して並べてあった。曰く「銀閣寺にとって大切なコケ」「ちょっと邪魔なコケ」「とても邪魔なコケ」と。なるほど、仏教を伝える寺院でも、コケに差別をするらしい。これを見て、京都の町がなぜ私にしっくり来ないのか、そのわけが分かった。
作り物の自然。それが京都の文化であり、自然とのつきあい方なのだ。やはり私には北海道の大自然が好ましい。
緑もいっぱいのいい街だといわれる。たしかにお寺や神社の森は、街の中に緑をしたたらせている。春は桜の花が至るところで満開となり、秋は紅葉が観光客を引き寄せる。しかも多重宝塔や鳥居と組み合わさって、絵になる風景がいっぱいある。まあ、申し分ない街のような気がした。
しかし、緑の多い哲学の小道や琵琶湖疎水沿いの散歩道を歩いても、もう一つ私には不満が残る。どこか満たされないのだ。最初はそれがなにかよくわからなかったのだが、どうやら、私には京都のような自然とのつきあいがもう一つ好きでないらしい。緑いっぱいの小路にも、実は自然の草花はまったくない。どれもこれも園芸品種であり、雑草は生えてくるのを許されていない。疎水の石垣の間からわずかに芽を出していた雑草でさえも、近所のボランティアのおじさんに、鎌で削り取られているのを見た。
京都の緑は、作られた緑なのだ。寺院や神社の日本庭園がその見本なのである。街の中も、まるで箱庭のように、手が入れられて、自然の草が生えることを許されない。決定的な光景は、銀閣寺で見た。いろんな種類のコケが生えているが、それに名前をつけて陳列してある。ところが、それらたくさんの種類のコケを、三つに分類して並べてあった。曰く「銀閣寺にとって大切なコケ」「ちょっと邪魔なコケ」「とても邪魔なコケ」と。なるほど、仏教を伝える寺院でも、コケに差別をするらしい。これを見て、京都の町がなぜ私にしっくり来ないのか、そのわけが分かった。
作り物の自然。それが京都の文化であり、自然とのつきあい方なのだ。やはり私には北海道の大自然が好ましい。