ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

公訴時効の廃止に反対する

2010-02-24 | 政治
法務省の勉強会は、殺人など重大な犯罪について、死刑などの特に重い罪については公訴時効を廃止し、それ以外の罪についても時効を延長する方向で見直すべきだとの最終報告を発表した。時効撤廃を強く求めている被害者や遺族の要望に応えたもので、法務省は今秋の法制審議会に刑事訴訟法の改正などを諮問する考えだという。マスコミは例によって時効廃止の大合唱をしている。しかし、私は反対だ。

 反対の理由は大きく三つほどある。その一つは、冤罪が多発する可能性が多いと言うこと。殺人など死刑に相当する罪の現在の時効は25年。それをそれ以上伸ばしても、事実上新しい証拠を見いだすことは難しいし、既存の証拠も劣化する。粗雑な捜査が行われ、罪もない人が罪を着せられる可能性がいまよりもずっと高くなる可能性が大きい。今でもたくさんの人が冤罪に泣いているというのに。

 反対する二つ目の理由は、現実に無理だろうということ。もし、時効が廃止になって、無限に捜査が続くことになれば、刑事の数は今の数倍が必要になる。増員をやらずに時効を廃止したら、結局のところ犯罪捜査の刑事・警官が過労になり、犯罪の検挙率は今よりずっと落ちるだろう。昔の犯罪にいつまでも足を取られて、今の犯罪も捜査がずさんになってしまうのだ。さらに、犯人が知らない間に死んでしまっていたら、捜査は無限に続けざるを得なくなる。いつまで経っても捜査を止めることができなくなるからだ。これはものすごくお金が掛かる。今の政府や自治体の財政ではとてももたないだろう。公訴時効の制度は、現実の制度の限界から考えられたものである。時効廃止などと言うのは非現実的だ。

 最後の理由は、被害者のすべてがいつまでも犯人捜しを希望してはいないだろうと思うからだ。マスコミには、いつまで経っても犯人が捕まらない限りは、心の傷は治らないという被害者の遺族のコメントに溢れている。しかし、本当にそんな人ばかりだろうか。けっしてそうは思わない。早く忘れたいと思っている人もいる。そしてどんなに身近な人が非業の死を遂げたとしても、いつかはかならず人の心から忘れ去られるときが来る。生き残った遺族は時効がなければ、いつまでも被害者のことを思い出さざるを得なくなる。それは本当に良いことだろうか。癒されるのは、犯人逮捕ではなく、時間が過ぎ去ることだ。

 それでも時効で犯人が許されることが納得できないという人も多いのかもしれない。しかし、それは個人の感情であって、国の司法が考えるのはそういう報復感情ではない。人々に法を尊重させ、治安を守るための司法なのだから、絶対に許せない犯罪はそうあるものではないのだ。凶悪な犯罪件数はどんどん減少している昨今なのに、なぜか人々の報復感情は激しやすくなっている。これと意味の不明な(手当たり次第の)殺人の出現とは、同じ事象の裏表に過ぎないように思える。死刑になりたいために誰でも良いから殺すという、死刑があるから起こる犯罪も起き始めている。

 ただ一つ、私が時効を撤廃しても良いと思うのは、ドイツがナチスの人道に背く犯罪に適応したような「人道に反する犯罪」だ。「数人の人を殺せば殺人犯だが、たくさん殺せば英雄だ」といわれるような戦争犯罪は本来許してはいけない。近くは、アフガンとイラクで数十万人を殺したブッシュ米大統領。そして米軍のイラク侵攻を即座に支持したコイズミ元首相。この二人の罪は永久に時効は来ない。


京都のはんなり

2010-02-16 | 日記風
先週と今週、毎週2度ずつ東京へ出かける羽目になった。日帰りだったり、一泊二日だったりで、用事を済ませたらとんぼ返りなので、落ち着いて小江戸の風情を楽しむ暇もない。東京の地下鉄や山手線を乗り継いで移動しているときに感じるのは、なぜこんなにみんな忙しそうに歩いているのだろうか、という思いだ。でも自分も結構急いで歩いていたりして(笑)。

 京都に移ってきたときに感じたのは、京都の人はのんびりしているなあ、という思いだった。まず市内バスがのんびり走る。バス停で降りる人たちものんびりしている。東京から来たときは本当にいらいらした。体の不自由なお年寄りがのんびりと降りるのは、仕方ないと思うが、若い人もけっして急がない。ゆっくりと両替をし、落ち着いて料金を払う。関東のようなICカードを使った便利な料金支払いができない。しかもバスカードの読み取り機械の反応が非常に遅い。関東のバスなら、カードを入れたら瞬時に排出される。ところが、京都のバスカードの読み取り機は、カードを入れてから出てくるまでに数秒かかる。歩きながらカードを入れるから、すぐに出てきたカードを取って行こうとするが、カードが出てこないから、結局のところ、そこでしばらく足を止めて待たなければならない。いらいらした。

 でも、みんながのんびり降車している理由が分かってきた。のんびり降車しようが、急いで降車しようが、バスは定時運行しかしないのだ。時刻表を厳格に守ろうとし、少し早めに着いたら、バス停でバスは停車して時間調整をすることが多い。関東のバスでは考えられない。なぜかと考えた。どうやら京都のバスの時刻表は、遅れることを見込んで遅めに設定してあるらしい。一方、関東のバスは、順調に走ったときの所要時間で時刻表を作っているから、遅れることはあっても早くなることはないようにできているのだろう。市内バスで時間調整をしているバスを見たことはない。

 というわけで、京都のバスは「今日は道路が空いているから早めに到着するだろう」と考えてもけっしてそうはならない。自宅から京都駅まで約40~50分かかるが、どんなに朝早い時間でもそれだけの所要時間は覚悟していかねばならない。早朝なんてもっと早く着けるんじゃないかと思うんだけど、けっしてバスは時刻表よりも早くは着かないのだ。

 その他にも、京都のスーパーのレジ係はのんびりしている。一つ一つの商品をゆっくりと読み取り機にかける。見ていると、価格読み取り機の速さは関東のものと変わりなく、ピッと言う音がすれば瞬時に価格は記録されている。しかし、一つ一つの商品を機械にかけるのがやはりゆっくりとしている。関東のレジ係の速さは、新人のレジ係以外は、まるで人間業とは思えないほど早い。あれは疲れるだろうなあと、同情するほどであるが、やはりレジ係が早いところに人は列を作るから、ますますレジ係は圧力を感じてスピードを上げざるを得ない。そう言う意味では、京都のゆっくりとしたレジのやり方は、いらいらさせられるが、慣れてくれば人間的なのだろう。どちらが良いか。やはり人間的な感覚がある方がいいに決まっている。京都の「はんなり」という精神は、そういうものなのかもしれない。

 それでも東京へ行くと、バスが着くや素早く降り、どんどん列が進んでいくレジを選ぶ。体が動けるときはその方が快適に感じるが、自分の体が思うように動かなくなったときは、関東の素早さはきっとお年寄りや障害者には生きづらいと感じるのでは無かろうか。私がそのように思うようになったとき、私はどちらを住み場所に選ぶだろうか。

映画「おとうと」を見る

2010-02-12 | 日記風
昨日は一日中強い雨だった。どこへ行くこともならず、それではと、松竹映画「おとうと」を見に映画館に出かけた。雨の日のせいか、それとも単に休みのせいか、映画館はごった返していた。どうやら3D映画の「アバター」とやらを見に来ている人が多いらしい。私はそれにはまったく関心がないので、混雑に辟易しながら切符を買うために並んだ。「オーシャンズ」のような素晴らしい映画がまだ公開されているが、そちらのシアターではなく、「おとうと」の方でもなく、多くの人の目当ては「アバター」らしい。もうすでに、2回先の上映の席が満席になっている。

 「おとうと」は、山田洋次監督、吉永小百合主演という、おなじみの顔ぶれだ。おとうと役を演じるのは笑福亭鶴瓶で、まあ無難に役柄をこなしていた。筋書きは単純で、山田洋次監督の映画「男は辛いよ」シリーズとよく似ている。フーテンの兄貴と堅実な妹という関係が、フーテンの弟と堅実な姉という関係になっているだけだ。鶴瓶の代わりに渥美清を配したら、きっと「男は辛いよ」シリーズそっくりになったのかもしれない。そう思ってみると、鶴瓶の演技はそれなりに上手いが、やはりこんな役は渥美清が一番ぴったりだなあと思う。山田洋次監督にとって、渥美清が死んだ影響は本当に大きいのだろうと思う。

 末期ガンの患者を看取るボランティア施設を取り上げて、死んでいくものをどうやって周りのものが介護し、送るべきか、少し考えさせる場面もあるが、全体として山田洋次監督の初期の作品「家族」などの重いテーマや描き方からすると、「おとうと」は安易な描き方になってしまっているような気がした。「男は辛いよ」のイメージが「おとうと」には、濃厚だったからだ。あまりにシチュエーションが似すぎているので、監督もついついそのノリで作ってしまったのかもしれない。吉永小百合の演じる人物の堅すぎる印象がさらにその違和感を増幅しているような気がする。

 夜になって、船戸与一の「新宿・夏の死」を読み終わった。短編集なのでときどき一話ずつ読んでいたのがようやく終わった。彼流のハードボイルド小説の短編を集めたもので、どうも手抜きして書いたような小説が並んでいる。読み終わった後の空虚感は、彼の書いた「蝦夷地別件」のような重厚で素晴らしい小説とはまったく違ったものを感じる。時間つぶしには面白いが、残るものは何もない。昼間の映画「おとうと」は、そこまで悪く言うつもりはないが、やや通底するものがあるような気がする。本にしても、映画にしても、ただ面白ければいいというような、ぶちこわしてばかりのハリウッド映画のようなものが多すぎる。物事を深く考えない世人の風潮の反映なのだろう。もっと頭で考える本や映画が欲しいと思った。

温暖化をウソという人

2010-02-10 | 環境
ここ一週間の内に二度も東京へ出かけた。底冷えのする京都から出かけると東京は温かい。ヒートアイランド現象のせいだろうけど、ホッとする。しかし、関東の方が風は強い。京都は盆地のせいか、風はあまり吹かない。静かに、そして、冷え込む。けれども東京へ来て何よりうれしいのは、天気が良いことだ。京都は日本海側に近いせいもあって、冬の天候はやはり曇り気味だ。瀬戸内海に面した香川県や広島県、北海道の釧路周辺といい、関東といい、これまで長く住んできたところはどこも冬の天候は良いところばかりだったから、日本海に面しているわけではないが、冬の京都の天候はやはり気持ちも晴れない。

 ところで今日の東京は暑いほどの気候だった。京都もそうだったようだ。立春を過ぎたばかりの今頃は、一年でももっとも寒い時期なのに、この暖かさはやはり異常としか言いようがない。東京の最高気温は19℃とか。サンナシ小屋なら真夏の気温だ。ワシントンでは、記録的な豪雪で交通機関は大幅に乱れ、10万世帯では停電したという。日本も今年は日本海側を中心に大雪だ。それは、冬型の気圧配置が安定せず、まるで冬の終わり頃のように、次々と日本海を低気圧が東進するためだ。つまり、雪の多さもこの暖かさも、同じように温暖化の影響と言えるかもしれない。

 温暖化はウソだ、地球はむしろ冷えつつあるという説を唱えている学者もあるし、養老孟司や武田某のように、温暖化は政治的な謀略だと言いつのるものもいる。彼らの言うことにも少しは理があるかもしれないが、重要なのは自然科学の真実ではなく、環境の悪化がどれくらい確実に予測できるかと言うことなのだ。学者の論争は論争でやってほしいが、一般の人たちが心配しているのは、温暖化がもうすでに実感できるほどの身近に感じられるようになっていることなのだ。だからこそ温暖化による被害が予想されるなら、それが誤りかどうかを議論してばかりいても仕方ない。もしそのような被害が予想されるなら、防止するための政策をとるのが政治をするもののやるべき事なのだ。予想が間違いだったからといって、対策をとったことを責められたりはしない。むしろ、温暖化が真実かどうか疑わしいなどと人々を迷わせるようなことを今言うことこそ、犯罪的なのだ。環境の危機には、「予防原則」が重要だ。

検察は勝ったのか

2010-02-07 | 政治
「大山鳴動してネズミ一匹」だったのだろうか。小沢一郎民主党幹事長をめぐる不法献金事件という東京地検特捜部の作りだした筋書きは、結局のところ小沢一郎氏の「事件」への関与を証明できず、不起訴になった。検察の思惑は外れ、あれだけ力を入れた小沢氏への捜査でも、犯罪となる証拠は何も見つからなかったということだ。マスコミに漏らした検察官の言葉は「小沢は限りなく黒だが、立件できる十分な証拠がなかった」としている。しかし、「限りなく黒」ということは、あくまで検察の思いこみであり、検察の筋書きであった。立件できる十分な証拠がなかったということは、結局のところ検察の考えた筋書きが真実ではなかったと言うことではないのか。

 そう言う意味では、あきらかに検察は小沢を狙って三度目の敗北をしたと言えるだろう。検察批判を田中ロッキード事件以来繰り広げてきた小沢憎しの検察が、小沢を立件したがっていたことは明らかだったからだ。今回の「小沢事件」は、あきらかに検察の報復であり、自民党政権と長い間蜜月関係を作り、自民党政権の思いを事前に察知し、先駆けて国策捜査を行ってきた検察が、野に下った自民党といっしょになって民主党政権に打撃を与えるために仕組んだ「国策捜査」であったのだろう。

 民主党にもいろんな人がいるが、検察を批判している議員は自民党とは桁違いに多いことを検察はもちろんよく知っている。捜査の可視化を民主党政権は推進している。検察は冤罪を生む温床でもある今の捜査方法をなんとか維持したいと必死に自民党や国民新党に働きかけている。なんとか民主党政権に可視化法案を出させないためにできることは何でもやろうとしているし、できれば民主党政権をもとの自民党政権に戻したいと考えている。「検察は正義」という仮面をはぎ取られないために、彼らはなんでもやるだろう。

 小沢不起訴で検察は負けたが、その代償に石川議員や秘書らを起訴した。しかし、彼らの起訴内容は、政治資金規正法の「不実記載」という微罪なのだ。収支報告書に4億円の収入を記載しなかったと言うだけの形式犯にすぎない。多くの国会議員がしばしば記載もれを指摘されて、あわてて「ミスでした」として訂正報告を行っていることは周知の事実である。石川議員の容疑もその程度のことでしかない。ところが、国民の投票で衆議院議員に当選した石川議員を、国会開会直前に形式犯で逮捕するという選挙民を無視したような強引なやり方を検察は行った。おそらくこれは、形式犯で逮捕して強制捜査で不法献金や脱税の証拠を固めて、小沢逮捕に結びつけようとした検察の別件逮捕であったのだろう。それが検察の筋書きは崩れてしまった。しかし、検察としては別件逮捕で国会議員を逮捕したとはとても言えない。言えば、検察官の首が飛ぶだろう。そこで無理を承知で石川議員や秘書らを形式犯で起訴せざるを得なかったのだ。元特捜部検事だった郷原弁護士は、こんなことで国会議員を逮捕することは検察として許されないと語っている。

 敗北した検察が頼みにしたのが、マスコミであった。政治資金規正法の不実記載などという近所のガキが柿の実を盗んだ程度のことを起訴した検察の悪あがきを、テレビや新聞は大きく扱って、助けた。マスコミは、起訴内容が適当かどうかを無視し、検察が起訴したからには、頭から石川議員や秘書たちは悪者で、それを知ってか知らずか管理する立場にいた小沢は悪人だという構図を振りまいた。検察の悪あがきをマスコミが助けたことによって、マスコミを疑うことを知らない馬鹿な国民が民主党政権の不支持率を支持率よりも上にしてしまった。喜んだのは検察だろう。これで夏の参議院で民主党が勝てない可能性が出てきたからだ。ひょっとしたら、自民党が勝って、捜査の可視化法案をぶっつぶすこともできるかもしれないと。

 どうせ、石川議員や秘書たちの判決は夏前にはない。参議院選挙の前に裁判を始め、検察の冒頭陳述で小沢の悪口を言いつのっておけば、マスコミは喜んで小沢批判、民主党批判を書いてくれるだろうと踏んでいるのだ。捜査には敗北したが、民主党批判に火を付けて、昔から権力を分け合ってきた自民党といっしょになって、再び自民党政権を取り戻し、「検察は正義」という認識を国民に植え付けて、やりたいようにやる検察、検察の言うことは裁判所は99%信じるという検察の天国を再び取り戻したいと思っているのだろう。踊らされていることも知らない、いや知らない振りをするマスコミの罪は大きい。

検察の横暴とマスコミの使命

2010-02-03 | 政治
東京地検特捜部が週刊朝日の記事について抗議したという。それはまあいいだろう。しかし、事情を聞きたいので出頭せよと著者の上杉隆さんに要請したという。それはまさに脅しではないのか。抗議するときは、出かけていって抗議し、抗議に対して弁明があればそれを聞くというのが普通の常識だ。抗議するから出頭せよとは、検察はなにを勘違いしているのだ。まるで容疑者扱いではないか。誰彼となく出頭要請をすれば、善良な市民はびっくりしてあわてて飛んでくると、検察は思い上がっていないか。

 まして、相手はジャーナリストである。報道内容に疑問を持ったと言っても、検察がマスコミにそのような形で報復とも言える行動を取るのは、マスコミへの脅迫=言論への威圧となることが分からないほど検察は権力そのものになりはてたのだろうか。週刊朝日の記事に書かれているとおり、「検察の狂気」が証明されたとも言える。

民主党は、司法の民主化を進めるべきだ。検察や警察が司法の独立の名前の元に権力をふるうことを許してはならない。まず検察庁の幹部を更迭すべきだ。長い間自民党支配のもとで権力と一体化していた検察の現官僚たちを一掃して、検察や警察が市民の「生活第一」で行動することに制度を改める必要がある。国策捜査など許してはならない。そして、裁判所との癒着を止めさせることが必要だ。検察が起訴したら99%が有罪になるというのは、とりもなおさず裁判所と検察との癒着を意味する。自動販売機と揶揄されているような検察の逮捕状請求への裁判所の盲従は、あきらかに裁判所の怠慢だ。このようなでたらめを許してはならない。

 そして、今度の検察の抗議という名の脅しに対して、心配なのが他のマスコミの対応である。この検察のやり方にあらゆるマスコミが抗議の声を上げなければならない。上杉隆さんの主張に賛成か反対かにかかわらず、ことは権力と言論の自由との関係に関わる問題だ。知らぬ顔は許されない。マスコミは自らの問題として検察の権力行使に批判の声をだそう。それをやらなければ、マスゴミと言われることに文句は言えなくなるよ。