ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

北山小屋と今西錦司

2009-12-28 | 花と自然
昼間がもっとも短い冬至を過ぎ、これからは一日一日が昼の時間が長くなる。生きものの活動も日射しの長さにつれて活発になってくる。とくに植物は、昼の長さが長くなり始めるのに非常に敏感だ。春の訪れを予想して、その準備を始める。近所の庭では早くも蝋梅の花が咲き始めた。ちょっと早すぎるとも思うが、今年の秋がかなり高温であったことと関係しているのかもしれない。

 そんな年末の一日、京都北山を歩いた。ガイドブックを読んで、北山でありながらクマザサの草原が広がり展望がきわめて良いという記述と一面のクマザサの中から遠くの景色を展望している写真を見て、北山にもこんなところがあるんだといたく興味をひかれ、ぜひとも行ってみたいと思ったからだった。

 叡山電車に飛び乗って二の瀬で降りる。駅から歩き始め、ユリ道を登る。最初は北山の典型的な景色、薄暗い杉の人工林の中を歩く。尾根に出てからも杉と檜の人工林が続く。ガイドブックに書かれていた展望はいつまで経っても現れない。そのうち貴船山のピークを過ぎ、滝谷峠への下りにかかってもいっこうに展望の良い場所は現れない。クマザサもほとんど見られない。少しだけクマザサと思われる笹が茎だけを残して枯れてしまっているところを通り過ぎた。

 どうもガイドブックは間違っているのではないかと思い始め、あらためて読み返してみた。そして思い至ったのは、このガイドブックの発行年は1995年だったということ。昔、関西の山を登る予定もなく買っておいたガイドブックを、京都へ引っ越すときにこれこれと思って持ってきたものだった。どうやらガイドブックに書かれていた展望は、その頃植えられた檜の幼木が15年経ってすっかり生長し、まったく展望を無くしてしまったものらしい。しかも、生長した檜の人工林によって下生えになったクマザサもすべて枯れてしまっていたというわけだった。古いガイドブックを信じて山へ行くとときどきこのような事がある。

 今日の山行で楽しみにしていた景色と展望が無くなったので、少々がっかり。あとは予定通り魚谷山(いをたにやま, 816m)を登って帰るだけだと先を急いだ。ところが、ここからの山は私の北山のイメージをすっかり変えるほど素晴らしいものだった。滝谷峠を越えて、どんどん直谷に降りる。そこからは踏み跡もはっきりしない沢沿いの道だ。5万分の1の地図にもない。道標もないので、沢の中を川を何度も徒渉して、なため代わりのテープを探しながら、沢を詰めていく。沢の両側はみごとな落葉樹林が広がっている。

 柳谷に入り少し歩いたところに、川のほとりに小さな広場があった。そこに立っていた看板によると、ここにはかつて小屋が建っていたという。小屋ができたのは1927年。老朽化のために倒壊したのは、1942年という。建てたのは、当時、京都大学の学生だった西堀栄三郎さん。日本山岳会会長や南極観測隊の隊長をした人だ。さらにそのすぐ横には、今西錦司さんの碑が建っていた。今西さんといえばご存じ「棲み分け理論」「サルの社会構造論」「今西進化論」などで有名な学者。生涯2000山を登り、学生時代から内蒙古探検、ポナペ島調査、ヒマラヤ遠征など探検家としても登山家としても有名な人。思いもかけず西堀さんの小屋跡と今西さんの碑を見つけ、このなんとも快い空間で、彼ら京都大学の学生たちが週末などにこの北山の小屋の中で、遠い山への夢を語り合っていたと思うと、彼らが本当に羨ましい。今では手軽に登ってこられるこの場所も、当時は遠くから歩き続けてやってきたのだろう。そんな難儀をものともせずに、彼らは若い夢をこの小屋で膨らませたに違いない。ちなみに、雪山賛歌の歌詞に出てくる「煙い小屋」とは、ここの小屋のことらしい。雪山賛歌の歌もここで育まれたのだ。


今西錦司博士の碑

北山小屋の跡。ここちよい沢と落葉樹林

 この沢を詰めていくと、魚谷山の頂上に届く。この谷は頂上付近にアセビの群落が見られることを除けば、ほぼすべてが落葉広葉樹の林なので、葉を落としたこの時期は、林の中がどこまでも明るい。落ち葉が厚く降り積もっていて、冬の日射しを浴びて歩くのが本当に楽しい。


柳谷峠

 魚谷山を過ぎるとすぐに魚谷峠に着く。そこからは長い林道歩きになる。林道は半分くらいが舗装されており、舗装道路の周辺は人工林で、単調でつまらない。しかし、舗装されていない部分の林道周辺は、まだ広葉樹も多く残っていて、舗装した林道部分はさっさと脇目もふらず歩き、そうでないところは、のんびりと景色を眺めながら歩いた。降りたところは雲ヶ畑の山里。おりよく午後2:30のバスがあったから良かった。このバスに乗り遅れると、次のバスは午後6:30までない。

 期待したところは期待はずれで、期待もしなかったところでは、京都北山の本当に良いところを見ることになった今日の山行だった。北山の本当の良さが少し分かりかけてきた。春にはこの谷を歩きたい。

評価したい民主党予算

2009-12-26 | 政治
来年度の予算案が閣議決定された。相変わらず、大手の新聞は「経済成長の道筋が見えない」とか、暫定税率の水準維持がマニフェスト違反だとか、自民党の批判と同列のような批判ばかりやっている。自民党の谷垣総裁が、「暫定税率の水準維持はマニフェスト詐欺だ」と言っていたのには、本当に驚いた。「暫定」だとして税金をかけたのに、いつまでも暫定をそのままにしたのは自民党政権ではないか。それを公約違反ではないと言えるのだろうか。少なくとも民主党は暫定税率を廃止するが、その代わりに別の税金をとるということなのだ。それは、国民がガソリン料金の値下げは、CO2排出削減の目標を外すことになるとして反対したもので、民主党の落ち度とは言えない。

 たばこの増税もマスコミの批判はおかしい。1本5円の値上げは、売り上げの減少を招き、結局税収は減ってしまうから、この増税はおかしいと批判している。しかし、このたばこの増税は、税収確保のためではないと鳩山首相は言っている。国民の健康のために、たばこを増税するというのが目的であり、むしろたばこの喫煙を減らして、健康保険の収支改善をするのが目的なのだ。これは国際的な取り組みの方向にも合致しており、これまでの自民党政権がWHOから何度も勧告を受けていながら、税金の減少につながる国民の健康への配慮を避けてきたことと、民主党政権の対応は大きく異なっている。

 全体の予算編成をよく見れば、これまでの自民党政権がやってきたことは、基本から大きく変えられていることが分かる。もちろん完全なものではないし、細かく見れば間違っているものも目に付くが、基本は「コンクリートから人へ」を推し進め、利権を排除し、ただただ公共事業で景気の押し上げを続けてきた政策からは、はっきりと決別しようとしていることがよく分かる。公共事業の19%削減、社会福祉への10%増など、これまでの自民党政権では絶対できなかった弱者への配慮が見える形で組み込まれてきた。

 マスコミが批判する「経済の成長戦略がない」という批判は、これまでの自民党政権のような政策しか経済対策は無いと思いこんでいる一部の政治家や経済専門家という連中の言葉をそのまま垂れ流しているだけなのだ。どれだけ政権内部での議論が、新しい経済政策を自民党時代とは違ったものを打ち立てようとしているか、まったく勉強していない。

 鳩山首相の公設第一秘書が起訴されたが、この政治資金規正法違反(虚偽記載)も、単なる形式犯で、自民党政治の時代に国策捜査として小沢・鳩山民主党代表を狙ったきわめて政治的な検察のやり方だった。民主党が政権を取ったいま、いかにして検察のメンツを保ち、しかも政権政党を怒らせないかという検察の苦しい対応が目に見えるようだ。鳩山首相の秘書のやったことは、鳩山個人のお金や母親から貰ったお金をほかの個人から貰ったように小分けして書いていたと言うだけのこと。企業から便宜を図った見返りに政治献金を受けたとか言う自民党政治で飽きるほど見てきた違反とは全然違う。普通なら蓑がしても良いくらいの微罪だ。

 マスコミは、鳩山首相の秘書の起訴を鬼を取ったように書きまくっているが、検察のやり方がよかったかどうかを検証したマスコミはない。彼らはいまだに精神的に自民党政権との癒着が続いているのだろう。鳩山政権への支持率が下がったとうれしそうに書き立てている。アソウ元首相といっしょになって。でも民主党の支持率はけっして下がっていない。自民党の支持率もまったく上がっていない。国民は民主党の改革(コイズミ改革とはまったく逆方向の)を支持し続けているし、自民党は瓦解し始めている。二度と国民いじめのネオリベ改革へは後戻りさせてはならないからだ。

原発はCO2を出さないというウソとメディアの社会的責任

2009-12-20 | 環境
新聞が真実を書かなくなって戦争が始まった。戦争を起こす勢力が新聞を抑圧して戦争が始まったのではなかった。逆だったのだ。そして軍部は言論を抑圧していく。言論が招いた戦争が軍部の言論抑圧も招いたのだった。

 今の社会がいつのまにかその通りになってきている。上関で原発に反対して漁民たちが命がけの闘いを続けているけど、全国紙大新聞はたったの一行もそのことを伝えない。中国電力の社員たちに反対派の若者が羽交い締めにされ、後ろ手にされて首を絞められ失神して1週間も入院せざるを得なかった暴行傷害事件があっても、大新聞は一言も事実を報道しようとしなかった。祝島のおじいちゃんやおばあちゃんが、体を張って座り込みやピケを張って「命の海を売らない」と埋め立て工事の阻止行動に立ち上がったことも、無視し続けてきた。
 その代わりに新聞紙面を全面使って書かれているのは、原発を作っている電力会社の連合体、電気事業連合会の原発推進のキャンペーンである。「CO2を排出しない原子力発電がエコだ」というウソの宣伝だ。原発は原子炉を冷やすために莫大な量の海水を取り込み、沸騰水にして海に温かい水を返している。上関に建設予定の原発では、毎秒190トンの水量だ。その量は、一級河川の水量に匹敵する(広島のデルタに流れる6本の太田川全体の1.5倍くらいの)量だ。これだけの海水が高温に温められる。

 CO2の水への溶解度は温度が低いほど高くなるのは中学校で習ったはず。すなわち、暖められたら水に溶けていたCO2は空気中に排出される。これだけ莫大な水が暖められたら、空気中に出てくるCO2の量はバカにならない。先日、友人の研究者に聞いたところ、日本にある約50基の原発すべてが出している温排水によって排出されるCO2の量は、日本で自動車から排出しているCO2に匹敵するほどだということだった。

 CO2を出さない原発という電気事業連合会の宣伝は大嘘なのだ。でもどの新聞もばかでかい紙面を割いて、原発はCO2をいっさい出さないとウソを書き続けている。たとえ広告・宣伝であってもウソを書いた広告を大新聞が載せても良いものだろうか。サンケイなどという右翼自民党・財界の番犬のゴロツキ新聞なら知らず、朝日や毎日などという日本を代表するという新聞社の広告がこんなにウソを書き続けていて、新聞社の社会的責任はどうなるのか。恥ずかしいと思わないのか。

 ウソを書いて権力にすり寄ることで戦争を引き起こした歴史は、今また繰り返されている。「今からでも遅くはないから、新聞・メディアはジャーナリズムの原点に帰れ。故郷の自然・親兄弟が泣いているぞ」。

地に落ちたオバマと平和賞

2009-12-17 | ちょっと一言
オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した。核廃絶への道を目指すと演説したことが、彼を期待の星にしたらしい。しかし、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説を聴いて、ノーベル平和賞のレベルの低さを思い知った。核兵器の有事持ち込みを国民に秘密にしておいて、核兵器を「作らず持たず持ち込ませず」という非核三原則を唱えたという理由で、日本の佐藤栄作元首相がノーベル平和賞を受賞したときから、ノーベル平和賞の欺瞞性を痛切に感じていたから、オバマもきっとその口だろうと思っていた。

 佐藤栄作首相の核密約がようやく明らかになってきたが、非核三原則でノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作の遺族が、ノーベル賞を返還するという話は聞かない。恥知らずというなかれ。ノーベル平和賞というのは、その程度のものだというのが、本当だろう。

 オバマ大統領の受賞講演を聴いて、本当に情けなく思った。彼は受賞の数日前に、アフガンに3万人の米兵増派を決めた。イラク戦争に反対したオバマは、大量破壊兵器が存在するというウソで固めたイラク戦争を始めたブッシュ政権からのチェンジをするためにイラクからの撤退を決めた。しかし、9.11事件を理由にしたアフガン侵略は、オバマも支持してきた。アフガンからの撤退を公約にして大統領選挙を戦ったわけではなかったから、アフガンから撤退するという選択肢を彼は持っていなかったのだ。でも、膨張する戦費がアメリカ経済にいまや決定的に暗い影を投げかけ始めた以上、出口を決めることもやむを得ない戦略だったのだろう。

 彼の受賞演説は、アフガン増派に対する言い訳ばかりだった。テロに対して戦う戦争は必要だというのは、ブッシュ政権とまったく同じ言葉だ。オバマといえどもアメリカ帝国の大統領であることは変わりない。侵略を繰り返し、世界を自分の支配下に置くことが、彼らの「民主主義」であり、「自由」である。ましてや、アメリカ政府が作り上げた9.11事件とは、口が裂けても言えないのだろう。

 オバマは大統領でいる限り広島にも長崎にも来ることはないだろう。彼が広島に来るとすれば、大統領を辞めた後になるだろう。アメリカはいまでも核兵器の使用を人類に対する犯罪だと思っていない。そしてアメリカは口先以外では、核廃絶の意志などないことも明らかになった。そんなオバマにはノーベル平和賞を返還して貰いたいと思ったが、やはりノーベル平和賞こそ地に落ちた汚れたメダルでしかないと思う。ノーベル平和賞を廃止してはどうだろうか。

瓢箪崩山の広葉樹林

2009-12-13 | 花と自然

暖かな小春日和が続いていたが、ようやく冬の訪れだ。今日は天気予報では一日晴れだったが、残念なことに一日中曇り空だった。午後は寒さが増して、いよいよ冬が来たと思わせる。今日は、地図を開いて近くで適度に歩ける山を選んで登ってみた。大原へ行く途中にある標高532mの「瓢箪崩山」という低い山があった。低いけれども頂上までの道はそれなりに距離があり、のんびり歩くにはちょうど良いと思って、登ってみることにした。名前も面白そうだ。

 叡山電車で八瀬まで行き、そこから地図に載っているやや広い道で峠を越えて岩倉の登山口に出るつもりで歩き始めた。2週間前は紅葉がきれいだった八瀬の周辺もすでに葉が落ち、冬支度を始めている。地図で見当を付けた甲ヶ淵あたりから入る道は、入り口に金属の格子戸が入って、立入禁止の大きな看板が立っていた。地図に出ているこの道は、どうやら私有地だったのだろうか。ここからは登れそうもない。あわてて大原行きのバスに乗って、戸寺で降り、瓢箪崩山を反対側の北から登ることにした。

 戸寺の地元物産店で、お昼の弁当にキノコの炊き込みご飯とおはぎを買ってザックに入れ、登り口を目指す。高野川を渡る道がわからずウロウロしていたら、近くのテニスコートでテニスをしていた女性が、わざわざ道を教えに来てくれた。京都はたしかに人が親切にいろいろ教えてくれる。観光客が多いから、遠来の人には親切にするようになったのだろうか。東京ではみんな知らん振りをする。

 登山道はいきなり暗い杉の林だった。低山で京都の北山なので、きっと頂上まで人工林が続く味気ない山に違いないと歩き始めてすぐに確信した。湿った山道を杉の葉を踏みながら歩く。途中で2ヶ所ほど少し開けたところがあって、杉や檜ではない広葉樹が見られたが、結局頂上まで杉と檜の人工林の道だった。予想通り味気ない。わずか50分で頂上に到着したが、しかし勾配はかなりきつかった。とくに頂上手前の登りは手強い。

 頂上についたときは、ぱらぱらと小雨が落ちてきていた。いよいよ雨になるかと心配しながら、キノコの炊き込みご飯の弁当を食べた。まだ温かく、美味しかった。おはぎは大きすぎて食べる気にならない。降りてからゆっくり美味しい緑茶を飲みながら食べる楽しみにとっておいた。帰りは岩倉に向けてほぼ真南に尾根上を歩く。登りの人工林の様子から、帰りもまったく期待はしていなかった。ところがどっこい。帰りに尾根沿いの道は京都に来てからもっとも楽しい道になった。檜が少し生えてはいたけれど、ほとんどが広葉樹林だったし、しかも長い尾根をわずかの標高差で降りていくので、勾配はきわめてゆっくりとしている。足元の登山道はふかふかの布団のように落ち葉が溜まっている。周りにはいろんな樹種があり、初冬なので花はなかったが、十分楽しめた。この道なら低山だが、ハイキングに最適だ。奥多摩の冬の尾根道を思い出した。

 

 下りの道はあちこちで落ち葉をかき回してみたり、真っ赤な木の実を眺めたり、木の幹にくっついて成長している大きなキノコを触ってみたり、楽しんで歩いた。まもなく岩倉の街にはいるという直前に、携帯電話が鳴って、北海道でいっしょに仕事をしていた人の訃報を聞いた。あの人は昨年会議で会ったとき、急激に痩せていたっけ。きっと辛い病気なのだろうと想像はしていたが、こんなに早く亡くなるとは予想していなかった。下りの脚が早くなった。合掌

海兵隊はアメリカへ帰ってほしい

2009-12-10 | 政治
沖縄の普天間基地返還に伴う代替施設の問題では、鳩山首相はぶれにぶれ、悩みに悩んだ末に、社民党の連立解消という脅しで、ようやくマニフェストに掲げた県外・国外移設を目指す姿勢を取り始めたようだ。鳩山首相の胸中の意図は、グアム移転らしいという。アメリカという相手があるだけに、難しいこともあるだろうが、だいたいアメリカ海兵隊がなぜ日本の基地にいないといけないかという根本的な疑問をぶつけていけば、アメリカもいつまでもつれない態度はとれないだろう。これまで自民党政権では、アメリカの世界戦略への日本の協力は当たり前、自明の理とされてきた。しかし、アメリカ軍が日本に駐留することをもっと限定的にとらえる見方を民主党政権がしているというメッセージをアメリカに届ければ、アメリカもあらためて民主党政権と日米関係の再構築に取りかかろうとするだろう。それをやらないで今までの路線をいつのまにか引き継いでいけば、アメリカは民主党政権といえどもアメリカに従う日本という路線を支持していると思い込んでしまう。いまがもっとも肝心なときだろう。

 北沢防衛相は、グアム基地を視察して、海兵隊のすべてをグアムに移転させることは無理だと述べた。これは出来レース。防衛省は普天間を辺野古に移す現在の日米合意ではやく決着をつけさせたい。彼らはアメリカの世界戦略に日本がただ黙って付き従うという今までの自民党政権のやり方でしか物事を考えたことがないのだ。北沢防衛相はその防衛官僚と制服組の意見に取り込まれてしまっている。もっとも彼はもともと自民党の人だから、そう言う考え方から抜けることができなかったのかもしれない。

 しかもブッシュ政権にいたネオコンたちが、アメリカ政府は怒っているとか、日米合意を反故にするなとか、いろいろ言っており、それを日本のマスコミがいかにもアメリカ政府が鳩山政権に対して怒りくるっているような報道をしている。しかし、オバマ政権はけっして鳩山政権に反発しているわけではない。同じ政権交代を果たしたオバマ大統領は鳩山政権と日米関係の再構築について話し合いたいと思っている。鳩山首相は正直に日本の要求を出す方がよい。オバマ政権は日米は同じレベルの関係だと言っているのだから。

 沖縄の海兵隊はアメリカに帰ってもらおう。海兵隊はけっして日本の防衛のためにいるわけではないのだから。それはアメリカの多くの識者が言明していることだ。アメリカは何のかんのと言って、日本の財政援助を続けさせたいだけなのだ。辺野古に基地を作りたいのは日本政府の金で新たに基地を作ることができるからだけに過ぎない。戦後すぐに銃を持って米軍に土地を奪われて基地ができたが、それ以降、新しい米軍基地ができた試しはない。新たに米軍基地を作ることが沖縄県民の怒りをどれだけ買うか、アメリカはよく知っている。辺野古が今のところもっとも新しい基地を作りやすいし、日本政府が金を出して作ってくれる唯一の候補でもある。日本は彼らの利権の生殺与奪の権利を持っているのだ。日本で辺野古基地を作りたがっているのは、それによって濡れ手に粟の利権を持っている奴ら(政治家と土建屋)なのだ。私たちはもうアメリカの勝手にさせたくない。戦争はいやだ。戦争するものもいらない。海兵隊はアメリカに帰って欲しい。

比叡山再び

2009-12-06 | 花と自然
時間的にも精神的にも山へ行けない状態が続いていた。そのためにストレスを溜め込んでもいた。でもどうやら少しずつでも山歩きをしたいと痛切に思いだした。でも私の体が山歩きに耐えられるかどうかも心配だった。体重は生まれてこのかた経験したことのない重量ゾーンに突入せんとしている。脚が私の体重を支えきれるだろうかという心配も冗談ではなくしなければならなくなった。

 京都の東山は遅い紅葉できれいに山裾を染め上げている。どこの山へ行こうかと思案していたが、体力にぜんぜん自信が無くなっていることもあり、まずは手近な東山を歩いてみようと思った。そして朝もゆっくりと比叡山目指して登った。ちょうど一年前のブログにも比叡山に登ったことを書いている(2009-12-20)。その時は、頂上まで人に出会わなかった。今日もそのつもりで登り始めたが、いきなり登山者といっしょになった。やがて次々と登山者の群れが現れ、びっくり。昨年の今頃と何が違うのだろうか?今年の方が少し早いから、まだ紅葉を見るために訪れる登山者がいるのだろうか?12月1日からケーブルカーは冬の運休に入っている。



 中腹から京の街を見下ろすと、最後の紅葉が山裾を彩る。老人がひとり、そこに座り込んで「最高の眺めだよ」と教えてくれた。体重が重くなり脚に負担がかかっていると普段感じていたので、登りの途中で脚が痛くなるかもしれないと覚悟をしていたが、うれしいことに脚は快調。とうとう頂上まで標高差750mほとんど休み無くちょうど2時間で到達した。ひとまず安心。頂上の茶店でお昼ご飯でも食べようと思っていたら、二軒あった茶店がどちらも重機で壊されて跡形もなくなっている。冬の休みに入ってその間に建て替えようというのだろうか。それとも営業不振でとうとう店をたたんでしまったのだろうか。自販機だけが建ち並んでいた。頂上付近はさすがにもう広葉樹は葉を落としてしまって、冬に向けて寒さに耐える準備を始めている。小春日和の今日は、葉を落としてしまった木々がややとまどったように見えた。

 今日はどのくらい歩けるかを試してみるつもりで登ってきたので、縦走をするのも、延暦寺のお堂をめぐるのも止めて、今日来た道を戻った。麓ではまだまだ遅い京都の紅葉が迫り来る冬に向けて真っ赤に染まった小さな八つ手のような葉を地面に落としていた。まもなく冬。これから少しずつ山歩きを再開したい。京都にいるのもそう長くはないから、いまのうちに近畿地方からいける山を歩いてみたい。


三浦半島の海辺

2009-12-03 | 日記風
師走に入って、「ごまめのはぎしり・まぐろのおなら」のブログ閲覧者数が累計20000人を超えた。カウントを始めたのは、たしか1年ほど前だったから、平均すると一日60人っくらいが見てくれるという勘定になる。独りよがりの文章も多いのだが、まずは読みに来てくれた皆さんにお礼を言いたい。

 ところで、さすが師走。ばたばたと忙しい。と思っていたが、実は11月の方がよっぽど忙しかった。個人旅行も含めてなので、それほど忙しいわけでもないのかもしれないが、山に登る時間的余裕がまったくないのが、辛い。しばらく山に行かないと、精神的にも山へ出かけようというモチベーションがなくなってくる。それではならぬと思うのだが、それがまたストレスになる。時間を取ってゆっくり山登りなどしたいなあ。海にも行きたいが。

 と言っていながら、先週神奈川県三浦半島の海に出かけた。夜半に雨が降った後の、実に気持ちの良い快晴だった。海岸に出てみんなでお弁当を食べながらお話ししていると、なんだか楽しくなった。前日の夕方も浜に出てみたが、雨の前のどんよりと曇った天気で、釣りをしている人たちの様子もなんとなく楽しくなさそうに思えた。天候でこんなにも気分が違うんだと思う。

 浜を歩いて海藻や貝殻を拾った。タカラガイも少しはこのあたりでも見られるが、さすがに和歌山や高知などと比べると種類が少ない。あまり珍しい貝は見つからなかったが、小春日和の浜辺を歩いているだけで、十分気分が晴れ晴れとした。やはり海は気分が広々としてくる。日頃、狭苦しい町並みで生活しているからだろうか。ストレスの解消になった。一日だけのストレス解消を終えて、またまた世間の風に当たりながら、ばたばたと過ごす師走がやってきた。お正月がもう間近に迫っているなんて、一年は過ぎるのが早い。21世紀になって加速度が付いてきたように思うのは私だけか。

 政権交代があって、時代が流動的になった。閉塞感がなくなったと思うが、不安定感はまだまだ漂う。まさに時代の流れに似合った政権交代なのかもしれない。海を見ていると、一つ一つの出来事に一喜一憂するのが、なんとなくばからしくなる。これはいいことなのかどうか。でも世の中は放っておくわけにいかないことがいっぱいだ。あと一ヶ月、今年の終わりに悔いのない思いを持ちたいものだ。