昼間がもっとも短い冬至を過ぎ、これからは一日一日が昼の時間が長くなる。生きものの活動も日射しの長さにつれて活発になってくる。とくに植物は、昼の長さが長くなり始めるのに非常に敏感だ。春の訪れを予想して、その準備を始める。近所の庭では早くも蝋梅の花が咲き始めた。ちょっと早すぎるとも思うが、今年の秋がかなり高温であったことと関係しているのかもしれない。
そんな年末の一日、京都北山を歩いた。ガイドブックを読んで、北山でありながらクマザサの草原が広がり展望がきわめて良いという記述と一面のクマザサの中から遠くの景色を展望している写真を見て、北山にもこんなところがあるんだといたく興味をひかれ、ぜひとも行ってみたいと思ったからだった。
叡山電車に飛び乗って二の瀬で降りる。駅から歩き始め、ユリ道を登る。最初は北山の典型的な景色、薄暗い杉の人工林の中を歩く。尾根に出てからも杉と檜の人工林が続く。ガイドブックに書かれていた展望はいつまで経っても現れない。そのうち貴船山のピークを過ぎ、滝谷峠への下りにかかってもいっこうに展望の良い場所は現れない。クマザサもほとんど見られない。少しだけクマザサと思われる笹が茎だけを残して枯れてしまっているところを通り過ぎた。
どうもガイドブックは間違っているのではないかと思い始め、あらためて読み返してみた。そして思い至ったのは、このガイドブックの発行年は1995年だったということ。昔、関西の山を登る予定もなく買っておいたガイドブックを、京都へ引っ越すときにこれこれと思って持ってきたものだった。どうやらガイドブックに書かれていた展望は、その頃植えられた檜の幼木が15年経ってすっかり生長し、まったく展望を無くしてしまったものらしい。しかも、生長した檜の人工林によって下生えになったクマザサもすべて枯れてしまっていたというわけだった。古いガイドブックを信じて山へ行くとときどきこのような事がある。
今日の山行で楽しみにしていた景色と展望が無くなったので、少々がっかり。あとは予定通り魚谷山(いをたにやま, 816m)を登って帰るだけだと先を急いだ。ところが、ここからの山は私の北山のイメージをすっかり変えるほど素晴らしいものだった。滝谷峠を越えて、どんどん直谷に降りる。そこからは踏み跡もはっきりしない沢沿いの道だ。5万分の1の地図にもない。道標もないので、沢の中を川を何度も徒渉して、なため代わりのテープを探しながら、沢を詰めていく。沢の両側はみごとな落葉樹林が広がっている。
柳谷に入り少し歩いたところに、川のほとりに小さな広場があった。そこに立っていた看板によると、ここにはかつて小屋が建っていたという。小屋ができたのは1927年。老朽化のために倒壊したのは、1942年という。建てたのは、当時、京都大学の学生だった西堀栄三郎さん。日本山岳会会長や南極観測隊の隊長をした人だ。さらにそのすぐ横には、今西錦司さんの碑が建っていた。今西さんといえばご存じ「棲み分け理論」「サルの社会構造論」「今西進化論」などで有名な学者。生涯2000山を登り、学生時代から内蒙古探検、ポナペ島調査、ヒマラヤ遠征など探検家としても登山家としても有名な人。思いもかけず西堀さんの小屋跡と今西さんの碑を見つけ、このなんとも快い空間で、彼ら京都大学の学生たちが週末などにこの北山の小屋の中で、遠い山への夢を語り合っていたと思うと、彼らが本当に羨ましい。今では手軽に登ってこられるこの場所も、当時は遠くから歩き続けてやってきたのだろう。そんな難儀をものともせずに、彼らは若い夢をこの小屋で膨らませたに違いない。ちなみに、雪山賛歌の歌詞に出てくる「煙い小屋」とは、ここの小屋のことらしい。雪山賛歌の歌もここで育まれたのだ。
今西錦司博士の碑
北山小屋の跡。ここちよい沢と落葉樹林
この沢を詰めていくと、魚谷山の頂上に届く。この谷は頂上付近にアセビの群落が見られることを除けば、ほぼすべてが落葉広葉樹の林なので、葉を落としたこの時期は、林の中がどこまでも明るい。落ち葉が厚く降り積もっていて、冬の日射しを浴びて歩くのが本当に楽しい。
柳谷峠
魚谷山を過ぎるとすぐに魚谷峠に着く。そこからは長い林道歩きになる。林道は半分くらいが舗装されており、舗装道路の周辺は人工林で、単調でつまらない。しかし、舗装されていない部分の林道周辺は、まだ広葉樹も多く残っていて、舗装した林道部分はさっさと脇目もふらず歩き、そうでないところは、のんびりと景色を眺めながら歩いた。降りたところは雲ヶ畑の山里。おりよく午後2:30のバスがあったから良かった。このバスに乗り遅れると、次のバスは午後6:30までない。
期待したところは期待はずれで、期待もしなかったところでは、京都北山の本当に良いところを見ることになった今日の山行だった。北山の本当の良さが少し分かりかけてきた。春にはこの谷を歩きたい。
そんな年末の一日、京都北山を歩いた。ガイドブックを読んで、北山でありながらクマザサの草原が広がり展望がきわめて良いという記述と一面のクマザサの中から遠くの景色を展望している写真を見て、北山にもこんなところがあるんだといたく興味をひかれ、ぜひとも行ってみたいと思ったからだった。
叡山電車に飛び乗って二の瀬で降りる。駅から歩き始め、ユリ道を登る。最初は北山の典型的な景色、薄暗い杉の人工林の中を歩く。尾根に出てからも杉と檜の人工林が続く。ガイドブックに書かれていた展望はいつまで経っても現れない。そのうち貴船山のピークを過ぎ、滝谷峠への下りにかかってもいっこうに展望の良い場所は現れない。クマザサもほとんど見られない。少しだけクマザサと思われる笹が茎だけを残して枯れてしまっているところを通り過ぎた。
どうもガイドブックは間違っているのではないかと思い始め、あらためて読み返してみた。そして思い至ったのは、このガイドブックの発行年は1995年だったということ。昔、関西の山を登る予定もなく買っておいたガイドブックを、京都へ引っ越すときにこれこれと思って持ってきたものだった。どうやらガイドブックに書かれていた展望は、その頃植えられた檜の幼木が15年経ってすっかり生長し、まったく展望を無くしてしまったものらしい。しかも、生長した檜の人工林によって下生えになったクマザサもすべて枯れてしまっていたというわけだった。古いガイドブックを信じて山へ行くとときどきこのような事がある。
今日の山行で楽しみにしていた景色と展望が無くなったので、少々がっかり。あとは予定通り魚谷山(いをたにやま, 816m)を登って帰るだけだと先を急いだ。ところが、ここからの山は私の北山のイメージをすっかり変えるほど素晴らしいものだった。滝谷峠を越えて、どんどん直谷に降りる。そこからは踏み跡もはっきりしない沢沿いの道だ。5万分の1の地図にもない。道標もないので、沢の中を川を何度も徒渉して、なため代わりのテープを探しながら、沢を詰めていく。沢の両側はみごとな落葉樹林が広がっている。
柳谷に入り少し歩いたところに、川のほとりに小さな広場があった。そこに立っていた看板によると、ここにはかつて小屋が建っていたという。小屋ができたのは1927年。老朽化のために倒壊したのは、1942年という。建てたのは、当時、京都大学の学生だった西堀栄三郎さん。日本山岳会会長や南極観測隊の隊長をした人だ。さらにそのすぐ横には、今西錦司さんの碑が建っていた。今西さんといえばご存じ「棲み分け理論」「サルの社会構造論」「今西進化論」などで有名な学者。生涯2000山を登り、学生時代から内蒙古探検、ポナペ島調査、ヒマラヤ遠征など探検家としても登山家としても有名な人。思いもかけず西堀さんの小屋跡と今西さんの碑を見つけ、このなんとも快い空間で、彼ら京都大学の学生たちが週末などにこの北山の小屋の中で、遠い山への夢を語り合っていたと思うと、彼らが本当に羨ましい。今では手軽に登ってこられるこの場所も、当時は遠くから歩き続けてやってきたのだろう。そんな難儀をものともせずに、彼らは若い夢をこの小屋で膨らませたに違いない。ちなみに、雪山賛歌の歌詞に出てくる「煙い小屋」とは、ここの小屋のことらしい。雪山賛歌の歌もここで育まれたのだ。
今西錦司博士の碑
北山小屋の跡。ここちよい沢と落葉樹林
この沢を詰めていくと、魚谷山の頂上に届く。この谷は頂上付近にアセビの群落が見られることを除けば、ほぼすべてが落葉広葉樹の林なので、葉を落としたこの時期は、林の中がどこまでも明るい。落ち葉が厚く降り積もっていて、冬の日射しを浴びて歩くのが本当に楽しい。
柳谷峠
魚谷山を過ぎるとすぐに魚谷峠に着く。そこからは長い林道歩きになる。林道は半分くらいが舗装されており、舗装道路の周辺は人工林で、単調でつまらない。しかし、舗装されていない部分の林道周辺は、まだ広葉樹も多く残っていて、舗装した林道部分はさっさと脇目もふらず歩き、そうでないところは、のんびりと景色を眺めながら歩いた。降りたところは雲ヶ畑の山里。おりよく午後2:30のバスがあったから良かった。このバスに乗り遅れると、次のバスは午後6:30までない。
期待したところは期待はずれで、期待もしなかったところでは、京都北山の本当に良いところを見ることになった今日の山行だった。北山の本当の良さが少し分かりかけてきた。春にはこの谷を歩きたい。