稀勢の里が4敗になった。もう引退しかない。そもそも稀勢の里に横綱の資格があったかどうか、分からない。外国人ばかりが横綱を張って、日本人力士がいないのは国技の大相撲として恥ずかしいなどというおかしな国粋主義者がいて、十分な力も無い稀勢の里がたまたま2場所優勝したことを奇貨として、それまでの不成績を見て見ぬ振りで彼を横綱にしてしまったのが、そもそもの間違いだった。モンゴル人が横綱であることがなぜ恥ずかしいのか。日本の国技を外国人が支えていることに、なぜありがたいと思わないのか。今国会で論議されている入管難民法改正案も、人材不足を補うのが最大の目的なのだ。日本が外国人によって成り立っていることをおかしいと思わない人が、横綱になるべきじゃなかった稀勢の里が引退することに反対している。おかしいのじゃないか。稀勢の里は、明日にでも引退を発表した方が良い。今夜のニュースでは、親方との協議で結論がでなかったという。5敗になってからでは、恥の上塗りだ。
加藤登紀子さんのトークショーを聞きに行った。京都の小さな町家で、膝をつき合わせるようなトークだった。ご主人である藤本さんのことなど、個人的な話しも知らなかったことが多くて面白かったが、彼女の語ったことで印象に残ったのは、レイチェル・カーソンの沈黙の春が出版された後、ケネディ大統領はそれを読んで、アメリカ国内での農薬の規制を始めたということ、そして、その翌年以降、アメリカが国内で使われなくなった大量の枯れ葉剤をベトナムの大地に降り注いだと言うことだ。そして、それと同じ事が、アメリカが国内での原発の新設を抑制した後に、日本に原子力の平和利用と称して原発の輸出を強力に進めたことだ。危険なものは外国に押しつける。国内の原発運転で処理に困った放射能汚染物質を劣化ウラン弾に加工して、東洋人やアラブ人に向けて使う。これも同じ考え方なのだろう。そして、障害を持った子供たちが苦しみ続ける。
同じ事を日本がやろうとしている。アメリカのまねだろうか。日本の原発が悲惨な事故を起こして、これから日本では原発は抑制的にせざるを得ないという状況を見て、これからは原発を輸出しようとする。危ないものは日本で作れなくなりそうだから、トルコやベトナム、インドなどの国へ輸出して儲けよう。人間とも思えない人間が金儲けのために、そんなことを考える。本多勝一さんが言うように、相手を人間と見ない心がそういうことを推し進める。原発も原爆も、作るものにとって、被害を受ける人は人間のうちに入っていないのだ。だからそういうことができる。人間が被害を受けると思ったら、そんな行為はできないだろう。原爆やナパーム弾や劣化ウラン弾で焼き殺されるものは、人間では無いと思うから、そういうことができる。
このフクシマの現実を見ていて、原発を輸出して儲けようという日本人がいること、私には信じられない。そんな政治家がいることも、私には信じられない。おーーー。信じられないことばかりだ。加藤登紀子さんの歌を聴く機会はなかったが、お話を聞きながら、私は信じられない人たちのことを考えていた。
同じ事を日本がやろうとしている。アメリカのまねだろうか。日本の原発が悲惨な事故を起こして、これから日本では原発は抑制的にせざるを得ないという状況を見て、これからは原発を輸出しようとする。危ないものは日本で作れなくなりそうだから、トルコやベトナム、インドなどの国へ輸出して儲けよう。人間とも思えない人間が金儲けのために、そんなことを考える。本多勝一さんが言うように、相手を人間と見ない心がそういうことを推し進める。原発も原爆も、作るものにとって、被害を受ける人は人間のうちに入っていないのだ。だからそういうことができる。人間が被害を受けると思ったら、そんな行為はできないだろう。原爆やナパーム弾や劣化ウラン弾で焼き殺されるものは、人間では無いと思うから、そういうことができる。
このフクシマの現実を見ていて、原発を輸出して儲けようという日本人がいること、私には信じられない。そんな政治家がいることも、私には信じられない。おーーー。信じられないことばかりだ。加藤登紀子さんの歌を聴く機会はなかったが、お話を聞きながら、私は信じられない人たちのことを考えていた。
山口県柳井市まで新幹線と鈍行を乗り継いで出かけた。柳井市は、舟運の港町で、江戸時代からの蔵造りの家が建ち並ぶ町だ。「白壁の町並み」という名前を付けて、観光客を呼び込もうというのだろう。それにしては、観光客もそれほど多くないし、日帰りの客が多い。ホテルや旅館も少ないし、ホテルも古くて狭くて高い。トイレの水もまともに流れてくれない。サービスも良くない。ただ、人は親切だ。
柳井から上関町室津に出た。室津港から船に乗って、上関原発建設予定地を見て、原発反対で頑張ってきた祝島を見に行こうと思った。何度か行っているのだが、今回は大勢の人たちといっしょで、楽しみだ。中電の工事も中断しており、再開の目処も立っていないから、祝島や長島を見ても、のんびりとした雰囲気がある。そして、ちょうど出かけた日に、日本の全原発が停止した。こどもの日に、子供たちにもっとも良い贈り物ができた。
瀬戸内海と言うことで高をくくっていたら、風に吹かれてたいへんだった。小型のクルーザーは、波に翻弄された。船酔いする人も出た。私はなんともなかったが、船に乗り付けない人にとっては、内海の海も風が吹けばこんなに荒れるんだと勉強になっただろう。
それでも、祝島の周辺の海は美しい。水は澄んできれいだ。15mくらいの深さでも底が見える。青い海がきらきらと輝いている。こんな美しい海を壊して原発を作ろうと考える人は、いったいどういう神経をしているのだろう。第一次産業で生きてはいけないと、祝島の人たちに言い放った中国電力の社員。彼らは第一次産業は、自分たちのようなサラリーマンより劣っていると心から思っていたのだろうか。そうでなければあのような暴言は出てこないだろう。今でも彼らはそう思っているのだろうか。社員の資格を失いたくないためだけで、あのような言葉が出てくるものだろうか。「社畜」という言葉が浮かんでくる。
祝島で道路脇に座り込んで暇そうにしていた男たちは、都会からやってきた者どもを睥睨しているようだ。どうだ、俺たちが原発を止めたんだぞと言わんばかりに。福島の事故で反省して祝島を見学に来る都会の人間たちは、馬鹿ばかりとでもいいたいような態度が、気に掛かった。映画「ミツバチの羽音と地球の回転」や「祝の島」で、もてはやされた島の人間のおごりではないかとも思えた。「お邪魔します」と言った人に、島の男は「邪魔だと思うなら来るな」と言い放った。このような態度を取る男たちは、ひょっとしたら、島の原発容認派の人だったのだろうか。腑に落ちない思いを抱いて、祝島を後にした。
京都では、最近2件ほど車の暴走による多数死亡事故が発生した。一つは祇園の繁華街交差点で。もう一つは亀岡市の道路で。そして、先日は関越自動車道で、大型バスが居眠り運転で多くの人が犠牲になった。交通事故による死者が出るのは、なにも珍しいことではなく、日常的なことになってしまっているが、これら最近の事故の原因を考えると、なにかが壊れたのではないかと思う。風評だといえばそうかもしれないが、原発の事故が人々をおかしくしているのではないだろうか。なにしろ放射線は目に見えないのだから、まったく影響していないとも言えない。
亀岡市の事故のあった道路は、通学路でありながら、国道からの抜け道として最近道路を広げて整備したために、交通量が増え、車のスピードも上がり、危険が増えていたという。私は昔から、狭い道を整備して広げることに反対だった。車に便利な道にするということは、結局のところ、歩行者にとって危険な道になるということなのだが、人々は広くすること、大きくすること、便利にすることに、無批判だ。車の離合がやっとという狭い道は、狭いままにしておく方が良い。そこでは車は、けっしてスピードを出して走れないから、人間にやさしい。
車優先の社会を作って来たのは、いったい何のためか。それは、要するに、車を作る大企業の為だった。トヨタやニッサンのために、国中に高速道路を作り、道路の幅を広げた。それによって、自動車会社は世界に輸出する大会社になった。道路を作るために、土木会社も大もうけした。その結果の日本の経済成長だった。東南アジアの多くの国に、日本は鉄道建設の援助を抑えてきた。それは日本の自動車をそれらの国に売るためであった。今でも、マニラ、バンコク、ソウル、ジャワなどに行けば、交通渋滞が日常化している様子がよくわかる。車社会文化を日本がこれらの国に押しつけてきたからだ。
日本の高度成長の時代、その間、どれだけ多くの人が交通事故で死に、障害を負い、人生を棒に振ってきたか。交通戦争という言葉さえ生まれた。命を犠牲にして、経済発展を遂げたのが、今の日本である。車社会はいまだに人々の命を奪い続けている。
さらに、亀岡市の事故で驚いたのは、児童の名前と保護者の連絡先を加害者の親に知らせた警察と小学校の教頭がマスメディアによって、袋だたきにされていたことだった。加害者の親が、子供の犯した過ちを謝罪するために、被害者の葬儀に行って謝罪したいと思うのは、至極当たり前の感情だし、だから葬儀の場所と日時を知りたいと思うのも、保護者にそれを許可して欲しいと願うのも、当然のことだ。そして、その心情を良しとして、被害者の保護者の連絡先を教えたことも、普通の人の感情からすれば当たり前のことだと思う。実際、加害者の親は、知り得た電話番号に電話して、葬儀に出て謝罪したいと申し出ている。警察のや
り方には腹の立つことが多い中で、今回の警察の担当官のやったことは、人間味あふれる行為だと思う。いや、普通の人の感情だ。
それをメディアは、個人情報の漏洩だと騒ぎ立て、警察署長や小学校長らが勢揃いして平身低頭謝罪させている。おかしくないだろうか。まともの人間の感情を失っているのは、メディアの方ではないか。そしてそれを当たり前のように受け取っている人々がいる。いつから日本人はそのような情を失った人間になったのか。個人情報を漏らして困るのは、権力に対してなのだ。権力が個人情報を集めて、人権を踏みにじる行為をすることこそ、メディアが批判すべきことなのだ。個人が個人の情報を得ることに何の問題もない。近頃では、小中学校や高校、大学などでもクラスの名簿を作ることさえ、個人情報保護と言って作られない。職
員名簿も作られなくなっている。そんなことは何の問題もない。問題なのは、個人情報を政府、警察や大企業が握って漏らさないことなのだ。権力が個人情報を握れば、それは莫大な人権侵害を引き起こす可能性が大きい。自衛隊が市民の活動情報を収集していたり、大学が警察に学生の情報を流していたりしたことが発覚したが、これこそ徹底的に批判されるべき個人情報の漏洩ではないか。政府が計画している秘密保全法や、国民総背番号法にメディアはどれだけ反対してきたのか。大きな権力にはしっぽを振って、一人の交通事故の加害者に巨大な批判の矢を降り注ぐ、メディアは猛反省して欲しい。
亀岡市の事故のあった道路は、通学路でありながら、国道からの抜け道として最近道路を広げて整備したために、交通量が増え、車のスピードも上がり、危険が増えていたという。私は昔から、狭い道を整備して広げることに反対だった。車に便利な道にするということは、結局のところ、歩行者にとって危険な道になるということなのだが、人々は広くすること、大きくすること、便利にすることに、無批判だ。車の離合がやっとという狭い道は、狭いままにしておく方が良い。そこでは車は、けっしてスピードを出して走れないから、人間にやさしい。
車優先の社会を作って来たのは、いったい何のためか。それは、要するに、車を作る大企業の為だった。トヨタやニッサンのために、国中に高速道路を作り、道路の幅を広げた。それによって、自動車会社は世界に輸出する大会社になった。道路を作るために、土木会社も大もうけした。その結果の日本の経済成長だった。東南アジアの多くの国に、日本は鉄道建設の援助を抑えてきた。それは日本の自動車をそれらの国に売るためであった。今でも、マニラ、バンコク、ソウル、ジャワなどに行けば、交通渋滞が日常化している様子がよくわかる。車社会文化を日本がこれらの国に押しつけてきたからだ。
日本の高度成長の時代、その間、どれだけ多くの人が交通事故で死に、障害を負い、人生を棒に振ってきたか。交通戦争という言葉さえ生まれた。命を犠牲にして、経済発展を遂げたのが、今の日本である。車社会はいまだに人々の命を奪い続けている。
さらに、亀岡市の事故で驚いたのは、児童の名前と保護者の連絡先を加害者の親に知らせた警察と小学校の教頭がマスメディアによって、袋だたきにされていたことだった。加害者の親が、子供の犯した過ちを謝罪するために、被害者の葬儀に行って謝罪したいと思うのは、至極当たり前の感情だし、だから葬儀の場所と日時を知りたいと思うのも、保護者にそれを許可して欲しいと願うのも、当然のことだ。そして、その心情を良しとして、被害者の保護者の連絡先を教えたことも、普通の人の感情からすれば当たり前のことだと思う。実際、加害者の親は、知り得た電話番号に電話して、葬儀に出て謝罪したいと申し出ている。警察のや
り方には腹の立つことが多い中で、今回の警察の担当官のやったことは、人間味あふれる行為だと思う。いや、普通の人の感情だ。
それをメディアは、個人情報の漏洩だと騒ぎ立て、警察署長や小学校長らが勢揃いして平身低頭謝罪させている。おかしくないだろうか。まともの人間の感情を失っているのは、メディアの方ではないか。そしてそれを当たり前のように受け取っている人々がいる。いつから日本人はそのような情を失った人間になったのか。個人情報を漏らして困るのは、権力に対してなのだ。権力が個人情報を集めて、人権を踏みにじる行為をすることこそ、メディアが批判すべきことなのだ。個人が個人の情報を得ることに何の問題もない。近頃では、小中学校や高校、大学などでもクラスの名簿を作ることさえ、個人情報保護と言って作られない。職
員名簿も作られなくなっている。そんなことは何の問題もない。問題なのは、個人情報を政府、警察や大企業が握って漏らさないことなのだ。権力が個人情報を握れば、それは莫大な人権侵害を引き起こす可能性が大きい。自衛隊が市民の活動情報を収集していたり、大学が警察に学生の情報を流していたりしたことが発覚したが、これこそ徹底的に批判されるべき個人情報の漏洩ではないか。政府が計画している秘密保全法や、国民総背番号法にメディアはどれだけ反対してきたのか。大きな権力にはしっぽを振って、一人の交通事故の加害者に巨大な批判の矢を降り注ぐ、メディアは猛反省して欲しい。
昨年末にめまいがして倒れてから、パソコンの画面を見るのがつらくて、毎日パソコンを覗く時間を減らすように努力してきた。その代わりテレビを見る時間が増えたので、目に与える負荷はあまり変わらないかもしれないが、睡眠時間が増えたのはたしかに体には良かったように思う。めまいもなく、回復したつもりだった。ところが、仕事ではどうしてもパソコンの画面を眺めることが多い。むしろパソコンの前に座って一日過ごす。ときどき休憩を取って散歩に出たりもするが、仕事に熱中するとどうしても長時間をパソコンに向かっていることが多い。
年が明けてしばらくしてから、ちょっと仕事を長く続けた明くる日、ふたたびめまいに襲われた。ちょうど休みの日だったので、ゆっくり睡眠をとって回復したが、やはりもう無理は利かない体になったようだ。
先日の日曜日、東京へ行く新幹線に乗ったら、京都と名古屋の間、ちょうど米原から岐阜羽島の周辺で、激しい吹雪に逢った。景色がほとんど見えないほどの雪で、いわゆるホワイトアウトの状態だ。新幹線もいつ止まるかと気をもむほどの徐行運転を続け、約90分遅れで名古屋駅に着いた。このまま雪の中に閉じ込められるのではないかと心配したくらいの雪だった。この日の新幹線は軒並み遅れたようだ。東京まで新幹線で5時間近くかかったことになる。でも特急代は払い戻しはない。せめて普通の特急代程度に割り引いて欲しいものだ。もっとも自然災害なので、JRに責任があるわけではないので、しょうがないか。
JRの切符代といえば、前々からおかしいと思うことがある。JRに限らないのだけど、鉄道は切符が運賃に足りない場合は精算器で不足分を払わなければ、出られない。ところが、切符を余分に買っていた場合は、精算してもお金は返ってこない。これって、おかしくない?精算という以上、足りない分を払うけれども、払いすぎている分は返してもらうのが精算じゃないの。払いすぎの場合は旅行を途中で打ち切ったとみなすのだろうが、それは精算が面倒くさかった昔のこと。いまなら、精算器で簡単に精算ができる。ICカードを使えば精算もさらに簡単になる。払いすぎの切符代を精算して返金することをJRも私鉄各社も考えて欲しいと思う。
年が明けてしばらくしてから、ちょっと仕事を長く続けた明くる日、ふたたびめまいに襲われた。ちょうど休みの日だったので、ゆっくり睡眠をとって回復したが、やはりもう無理は利かない体になったようだ。
先日の日曜日、東京へ行く新幹線に乗ったら、京都と名古屋の間、ちょうど米原から岐阜羽島の周辺で、激しい吹雪に逢った。景色がほとんど見えないほどの雪で、いわゆるホワイトアウトの状態だ。新幹線もいつ止まるかと気をもむほどの徐行運転を続け、約90分遅れで名古屋駅に着いた。このまま雪の中に閉じ込められるのではないかと心配したくらいの雪だった。この日の新幹線は軒並み遅れたようだ。東京まで新幹線で5時間近くかかったことになる。でも特急代は払い戻しはない。せめて普通の特急代程度に割り引いて欲しいものだ。もっとも自然災害なので、JRに責任があるわけではないので、しょうがないか。
JRの切符代といえば、前々からおかしいと思うことがある。JRに限らないのだけど、鉄道は切符が運賃に足りない場合は精算器で不足分を払わなければ、出られない。ところが、切符を余分に買っていた場合は、精算してもお金は返ってこない。これって、おかしくない?精算という以上、足りない分を払うけれども、払いすぎている分は返してもらうのが精算じゃないの。払いすぎの場合は旅行を途中で打ち切ったとみなすのだろうが、それは精算が面倒くさかった昔のこと。いまなら、精算器で簡単に精算ができる。ICカードを使えば精算もさらに簡単になる。払いすぎの切符代を精算して返金することをJRも私鉄各社も考えて欲しいと思う。
オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した。核廃絶への道を目指すと演説したことが、彼を期待の星にしたらしい。しかし、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞演説を聴いて、ノーベル平和賞のレベルの低さを思い知った。核兵器の有事持ち込みを国民に秘密にしておいて、核兵器を「作らず持たず持ち込ませず」という非核三原則を唱えたという理由で、日本の佐藤栄作元首相がノーベル平和賞を受賞したときから、ノーベル平和賞の欺瞞性を痛切に感じていたから、オバマもきっとその口だろうと思っていた。
佐藤栄作首相の核密約がようやく明らかになってきたが、非核三原則でノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作の遺族が、ノーベル賞を返還するという話は聞かない。恥知らずというなかれ。ノーベル平和賞というのは、その程度のものだというのが、本当だろう。
オバマ大統領の受賞講演を聴いて、本当に情けなく思った。彼は受賞の数日前に、アフガンに3万人の米兵増派を決めた。イラク戦争に反対したオバマは、大量破壊兵器が存在するというウソで固めたイラク戦争を始めたブッシュ政権からのチェンジをするためにイラクからの撤退を決めた。しかし、9.11事件を理由にしたアフガン侵略は、オバマも支持してきた。アフガンからの撤退を公約にして大統領選挙を戦ったわけではなかったから、アフガンから撤退するという選択肢を彼は持っていなかったのだ。でも、膨張する戦費がアメリカ経済にいまや決定的に暗い影を投げかけ始めた以上、出口を決めることもやむを得ない戦略だったのだろう。
彼の受賞演説は、アフガン増派に対する言い訳ばかりだった。テロに対して戦う戦争は必要だというのは、ブッシュ政権とまったく同じ言葉だ。オバマといえどもアメリカ帝国の大統領であることは変わりない。侵略を繰り返し、世界を自分の支配下に置くことが、彼らの「民主主義」であり、「自由」である。ましてや、アメリカ政府が作り上げた9.11事件とは、口が裂けても言えないのだろう。
オバマは大統領でいる限り広島にも長崎にも来ることはないだろう。彼が広島に来るとすれば、大統領を辞めた後になるだろう。アメリカはいまでも核兵器の使用を人類に対する犯罪だと思っていない。そしてアメリカは口先以外では、核廃絶の意志などないことも明らかになった。そんなオバマにはノーベル平和賞を返還して貰いたいと思ったが、やはりノーベル平和賞こそ地に落ちた汚れたメダルでしかないと思う。ノーベル平和賞を廃止してはどうだろうか。
佐藤栄作首相の核密約がようやく明らかになってきたが、非核三原則でノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作の遺族が、ノーベル賞を返還するという話は聞かない。恥知らずというなかれ。ノーベル平和賞というのは、その程度のものだというのが、本当だろう。
オバマ大統領の受賞講演を聴いて、本当に情けなく思った。彼は受賞の数日前に、アフガンに3万人の米兵増派を決めた。イラク戦争に反対したオバマは、大量破壊兵器が存在するというウソで固めたイラク戦争を始めたブッシュ政権からのチェンジをするためにイラクからの撤退を決めた。しかし、9.11事件を理由にしたアフガン侵略は、オバマも支持してきた。アフガンからの撤退を公約にして大統領選挙を戦ったわけではなかったから、アフガンから撤退するという選択肢を彼は持っていなかったのだ。でも、膨張する戦費がアメリカ経済にいまや決定的に暗い影を投げかけ始めた以上、出口を決めることもやむを得ない戦略だったのだろう。
彼の受賞演説は、アフガン増派に対する言い訳ばかりだった。テロに対して戦う戦争は必要だというのは、ブッシュ政権とまったく同じ言葉だ。オバマといえどもアメリカ帝国の大統領であることは変わりない。侵略を繰り返し、世界を自分の支配下に置くことが、彼らの「民主主義」であり、「自由」である。ましてや、アメリカ政府が作り上げた9.11事件とは、口が裂けても言えないのだろう。
オバマは大統領でいる限り広島にも長崎にも来ることはないだろう。彼が広島に来るとすれば、大統領を辞めた後になるだろう。アメリカはいまでも核兵器の使用を人類に対する犯罪だと思っていない。そしてアメリカは口先以外では、核廃絶の意志などないことも明らかになった。そんなオバマにはノーベル平和賞を返還して貰いたいと思ったが、やはりノーベル平和賞こそ地に落ちた汚れたメダルでしかないと思う。ノーベル平和賞を廃止してはどうだろうか。
「冷静に対応していただきたい」って、冷静さを失った人たちが叫んでいる。そんな姿をテレビで見ている私たちは、至極冷静。豚インフルエンザの国内感染が一人見つかったと言って、神戸市内の幼稚園、保育園、小中高校は一週間の休校だって。呆れてものが言えない。「もっと冷静になって欲しい!」
マスクをあわてて買いに走る人びと。マスクは売り切れ品薄だとか。呆れてものが言えない。危機を煽りながら、「冷静に対応していただきたい」というマスコミ。呆れてしまう。「お前の方が冷静になれよ!」って、テレビに怒鳴りたい。
毒性は普通のインフルエンザと同じくらいだという。なんでそれでこんなに大騒ぎするのか。毎年インフルエンザは感染者がいっぱい出ている。死者も出ている。「もっと冷静になれよ」。国民の税金をそんなことに無駄に使うなよ。
マスクをあわてて買いに走る人びと。マスクは売り切れ品薄だとか。呆れてものが言えない。危機を煽りながら、「冷静に対応していただきたい」というマスコミ。呆れてしまう。「お前の方が冷静になれよ!」って、テレビに怒鳴りたい。
毒性は普通のインフルエンザと同じくらいだという。なんでそれでこんなに大騒ぎするのか。毎年インフルエンザは感染者がいっぱい出ている。死者も出ている。「もっと冷静になれよ」。国民の税金をそんなことに無駄に使うなよ。
京の都に初雪が降った。湿った雪が午前中ときどき激しく降って地面をうっすらと白く覆ったが、午後には溶けて流れてしまった。それでも東山は白妙の衣を被り、大文字が浮きだって見える。北の国とは異なったそれぞれの冬の景色があって、好ましい。
鹿児島県警が言語道断のフレームアップ捜査をして、無実の人たちを罪に陥れようとした志布志事件の後、捜査が適正に行われているかを監視する「取り調べ監督官」制度が始まっている。しかし、警察が警察を監督するというこの制度では、警察の不正は無くなるはずがない。もっとも身内に甘いと言われる警察であることは、高知県の白バイ事故事件のやり方を見れば一目瞭然だ。仲間の罪を他人になすりつけるためなら、証拠のねつ造まで警察官はやってのける。
「取り調べ監察官制度」が始まって半年、いったいどの程度取り調べをきちんと監督しているのかを調べようとした南日本新聞社の公開請求にたいして、鹿児島県警は「全面不開示」を通告した。その理由は、監察の回数を公開しただけでも捜査に障害になる、という不思議な論理だ。警察というところは、捜査に障害になると考えるだけで、あらゆる人権や正義を無視しても良いと思っているらしい。そうではないだろう。捜査に障害があっても、刑事たちはがんばって捜査に励むべきなのだ。なぜなら、人権や正義を実現するための捜査なのだから、その捜査のために人権や正義を無視したら、警察の存在意義など無くなってしまう。その自己矛盾に彼らは気づいていない。いや、そもそも彼らは人権や正義を実現するために捜査をやっているという自覚がないのだろう。自分たちの給料を確保すること、組織を守ること、住民に威張ること、そんなことが目的なのだろう。
鹿児島県警によると監察官制度の試行以来、問題行為は1件も認知していないとしている。しかし、監察官は本当に取り調べをきちんと監察しているのだろうか。県警によると監察官が取り調べを直接目視しなくても捜査関係書類を確認するだけでも監督行為と認められているという。それで警察官の不正が果たして見破られるのだろうか。この不開示の本当の理由は、捜査に支障を来すということではなく、監察なんてやっていないことがばれることが怖くて開示できないのだろう。志布志事件の本当の原因を解明しなかったし、ましてやその再発を防止することなどできるはずもない。「懲りない警察」を根本から一度壊さなければ、民主警察は帰ってこない。北海道警察に始まる裏金問題にもついに一人も責任を取らない警察の体質。ばれたら全員で隠す。証拠をねつ造してまで隠そうとする。このような警察では、たとえ開示されてもその文書がねつ造でないと信じることさえできない。そのような警察が捜査を行い、逮捕し、検察も裁判所もそれを追認する。99.9%という世界でも信じられない高率の有罪率がそれを如実に物語っている。そんな警察、検察、司法の闇の結びつきに改革の刃を入れさせないためにこそ、裁判員制度という目くらましを始めるのだ。
第三者による警察の監視制度を作らない限り、警察はけっして市民を守らない。市民を敵視する。
鹿児島県警が言語道断のフレームアップ捜査をして、無実の人たちを罪に陥れようとした志布志事件の後、捜査が適正に行われているかを監視する「取り調べ監督官」制度が始まっている。しかし、警察が警察を監督するというこの制度では、警察の不正は無くなるはずがない。もっとも身内に甘いと言われる警察であることは、高知県の白バイ事故事件のやり方を見れば一目瞭然だ。仲間の罪を他人になすりつけるためなら、証拠のねつ造まで警察官はやってのける。
「取り調べ監察官制度」が始まって半年、いったいどの程度取り調べをきちんと監督しているのかを調べようとした南日本新聞社の公開請求にたいして、鹿児島県警は「全面不開示」を通告した。その理由は、監察の回数を公開しただけでも捜査に障害になる、という不思議な論理だ。警察というところは、捜査に障害になると考えるだけで、あらゆる人権や正義を無視しても良いと思っているらしい。そうではないだろう。捜査に障害があっても、刑事たちはがんばって捜査に励むべきなのだ。なぜなら、人権や正義を実現するための捜査なのだから、その捜査のために人権や正義を無視したら、警察の存在意義など無くなってしまう。その自己矛盾に彼らは気づいていない。いや、そもそも彼らは人権や正義を実現するために捜査をやっているという自覚がないのだろう。自分たちの給料を確保すること、組織を守ること、住民に威張ること、そんなことが目的なのだろう。
鹿児島県警によると監察官制度の試行以来、問題行為は1件も認知していないとしている。しかし、監察官は本当に取り調べをきちんと監察しているのだろうか。県警によると監察官が取り調べを直接目視しなくても捜査関係書類を確認するだけでも監督行為と認められているという。それで警察官の不正が果たして見破られるのだろうか。この不開示の本当の理由は、捜査に支障を来すということではなく、監察なんてやっていないことがばれることが怖くて開示できないのだろう。志布志事件の本当の原因を解明しなかったし、ましてやその再発を防止することなどできるはずもない。「懲りない警察」を根本から一度壊さなければ、民主警察は帰ってこない。北海道警察に始まる裏金問題にもついに一人も責任を取らない警察の体質。ばれたら全員で隠す。証拠をねつ造してまで隠そうとする。このような警察では、たとえ開示されてもその文書がねつ造でないと信じることさえできない。そのような警察が捜査を行い、逮捕し、検察も裁判所もそれを追認する。99.9%という世界でも信じられない高率の有罪率がそれを如実に物語っている。そんな警察、検察、司法の闇の結びつきに改革の刃を入れさせないためにこそ、裁判員制度という目くらましを始めるのだ。
第三者による警察の監視制度を作らない限り、警察はけっして市民を守らない。市民を敵視する。

今週は梅雨空が続いたが、そのちょっとした休みの間に滋賀県の琵琶湖のほとりに出かけた。海になじんでいるせいか琵琶湖の波のない静けさと穏やかさに心が弛緩するのを覚えた。晴れた空ではなかったが、かすんだ湖面が風情をかもして、ああ、こんな景色も日本にはあったなあ、と懐かしく思い出した。
帰りに手ぶらで京都の町を歩いてみようと京都駅のコインロッカーを探したが、見つからない。案内嬢に聞いてみると今、すべてのロッカーは封鎖されて使えないという。洞爺湖サミットをにらんだテロ対策だという。道理で駅の周辺におかしな警官がいっぱいウロウロしている。代わりの措置はなんか無いかと聞いたが、何ともならないらしい。この重たい荷物を提げて蒸し暑い京都の町を歩くのかと思うと怒りがこみ上げてきた。
そもそもサミットとコインロッカーにいったいどんな関係があるというんだろう。サミットの警備にコインロッカーをすべて閉鎖したらテロが防げるというのだろうか?だったらなぜ常日頃からロッカーを禁止しないのだろう。市民の生活の必要からコインロッカーというものがあるのだ。コインロッカーやゴミ箱を閉鎖してテロが防げるなら、たいしたものだ。そう言うやり方でテロが防げるなら、なぜ土浦や秋葉原で無差別テロを防がなかったのか。
「誰でも良い、殺したかった」という犯人の動機は、まさに無差別テロである。この世の差別・貧困・失望などで無差別テロに走る人がいるというのは、本当は政治の中枢にいる人を狙うべきテロが、物理的に困難なので一般人に向かった場合と(イラクではこれが多い)、自分が誰に意趣返しをしたいのか、自分をここまで追い込んだのが誰なのかハッキリしない場合に、無差別テロに走る。土浦や秋葉原の犯人はこの後者である。言い換えれば、本当は政治の中枢にいる人が狙われるべきだったということだ。そしてその無差別テロの実行を許したのは警察の責任のはずだ。しかし、無差別テロを許してしまったといって警察の幹部が辞表を出したというのを聞いたことがない。もし、テロの刃先が首相や自民党の幹部だったら、警察幹部は辞表を出すに違いない。ここでも誰が被害者かで明らかな差別がある。
ようするに、サミットをにらんだテロ対策とは、市民の自由を少々奪っても、政治の中枢にいる人を守るのが最大の目的なのだ。庶民がコインロッカーを使えず、蒸し暑い中を重たい荷物を担いで汗を流そうが、そんなことは知ったことではないのだ。唯でさえ渋滞の激しい京都の町中では、テロ対策の検問とかで道路の半分は封鎖されている。洞爺湖サミットのテロ対策でなぜ京都の町で検問などをしているのだろう。庶民の犠牲などかれらには何の関心事でもないということか。
洞爺湖サミットで地球温暖化対策を話し合い、成功させなければいけないというのは先進国の思い上がりでしかない。国連などでアメリカや中国に逃げ場を許さない対策を話し合うべきであり、大国だけで偉そうに決めることではない。またアメリカは何のかんのと逃げ口上を探すだけだろう。アメリカの役に立たないとなったらG8なんか簡単に捨て去るのがアメリカのやり口だ。実際国連がアメリカの言うことを聞かなくなったのが、サミットをやって世界のリーダーシップを取ろうというアメリカの思惑でしかないのだから。そろそろ日本はG8から抜け出して、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの国々といっしょに世界をアメリカの支配から抜け出させる努力をして欲しい。民主党にそれだけの覚悟のある政治家はいるのだろうか。
帰りに手ぶらで京都の町を歩いてみようと京都駅のコインロッカーを探したが、見つからない。案内嬢に聞いてみると今、すべてのロッカーは封鎖されて使えないという。洞爺湖サミットをにらんだテロ対策だという。道理で駅の周辺におかしな警官がいっぱいウロウロしている。代わりの措置はなんか無いかと聞いたが、何ともならないらしい。この重たい荷物を提げて蒸し暑い京都の町を歩くのかと思うと怒りがこみ上げてきた。
そもそもサミットとコインロッカーにいったいどんな関係があるというんだろう。サミットの警備にコインロッカーをすべて閉鎖したらテロが防げるというのだろうか?だったらなぜ常日頃からロッカーを禁止しないのだろう。市民の生活の必要からコインロッカーというものがあるのだ。コインロッカーやゴミ箱を閉鎖してテロが防げるなら、たいしたものだ。そう言うやり方でテロが防げるなら、なぜ土浦や秋葉原で無差別テロを防がなかったのか。
「誰でも良い、殺したかった」という犯人の動機は、まさに無差別テロである。この世の差別・貧困・失望などで無差別テロに走る人がいるというのは、本当は政治の中枢にいる人を狙うべきテロが、物理的に困難なので一般人に向かった場合と(イラクではこれが多い)、自分が誰に意趣返しをしたいのか、自分をここまで追い込んだのが誰なのかハッキリしない場合に、無差別テロに走る。土浦や秋葉原の犯人はこの後者である。言い換えれば、本当は政治の中枢にいる人が狙われるべきだったということだ。そしてその無差別テロの実行を許したのは警察の責任のはずだ。しかし、無差別テロを許してしまったといって警察の幹部が辞表を出したというのを聞いたことがない。もし、テロの刃先が首相や自民党の幹部だったら、警察幹部は辞表を出すに違いない。ここでも誰が被害者かで明らかな差別がある。
ようするに、サミットをにらんだテロ対策とは、市民の自由を少々奪っても、政治の中枢にいる人を守るのが最大の目的なのだ。庶民がコインロッカーを使えず、蒸し暑い中を重たい荷物を担いで汗を流そうが、そんなことは知ったことではないのだ。唯でさえ渋滞の激しい京都の町中では、テロ対策の検問とかで道路の半分は封鎖されている。洞爺湖サミットのテロ対策でなぜ京都の町で検問などをしているのだろう。庶民の犠牲などかれらには何の関心事でもないということか。
洞爺湖サミットで地球温暖化対策を話し合い、成功させなければいけないというのは先進国の思い上がりでしかない。国連などでアメリカや中国に逃げ場を許さない対策を話し合うべきであり、大国だけで偉そうに決めることではない。またアメリカは何のかんのと逃げ口上を探すだけだろう。アメリカの役に立たないとなったらG8なんか簡単に捨て去るのがアメリカのやり口だ。実際国連がアメリカの言うことを聞かなくなったのが、サミットをやって世界のリーダーシップを取ろうというアメリカの思惑でしかないのだから。そろそろ日本はG8から抜け出して、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの国々といっしょに世界をアメリカの支配から抜け出させる努力をして欲しい。民主党にそれだけの覚悟のある政治家はいるのだろうか。

大きい地震が各国で続く。地球は激動期に入ったのだろうか。それとも人間の地球破壊に憤って、身震いをしているのかもしれない。中国の四川省大地震は被災者が数百万人にもなるという。しかし、日本で起こった岩手・宮城内陸地震は、大きさでは四川地震にも匹敵するほどだ。どちらも山間部での地震だったが、日本の人口が少ない場所だったから、人的な被害は比較的少なかったのだろう。四川省の地震の被害の大きさにはただただ驚くほかない。オリンピックを直前に控えて、中国国民の被災をお悔やみ申したい。
栗駒山への登山口にあった駒ノ湯温泉は土砂に押し流されてしまい、2名の宿泊客と宿の従業員が犠牲になった。心からご冥福を祈る。栗駒山には二度ほど登ったが、紅葉のきれいな、登山道も緩やかで、楽しみながら登れる名山だった。ススキの原が山腹を覆って、懐かしい秋の風景を見せてくれる山だった。あの登山道もこの地震で壊れてしまったのだろうか。麓の温泉も、駒ノ湯や温湯などいくつもあって楽しめた。これらすべての温泉が地震の影響で営業をやめるとか。誠に残念です。
阪神大震災の直前に釧路大地震と東方大地震、日本海大地震の三つの地震を経験した私は、その後も震度5以上の地震をなんども経験してきた。もう日本では安心できるところはほとんど無いのではないか。いたるところに活断層がある日本列島だと言うことがよくわかる。その上に、原発が50基もある。福島第2原発で放射能で汚染された水がこぼれ出たらしいが、原発に支障はなかったと言って運転も止めなかった。
しかし、新潟刈羽原発が地震であぶなくメルトダウン寸前だったことがわかり、運転再開の目処も立たないときに、あれだけの地震があっても運転を止めもしないで安全安全と言っている電力会社や政府の態度は、驚くべきことといわざるを得ない。屋上の天窓から子供が落ちたというような事故ではないのだ。ひとたびメルトダウンが起こったら、人類の生存さえ危うくなるほどの危険な原発なのだから、とにかく一度停止して、点検整備してから再開しても決して遅くはないだろう。安全安心といいながら、自分たちの都合を最優先する政府や政治家たちには、ホトホト嫌になる。
地震国の日本に原発はいらない。すぐに原発から脱却するエネルギー戦略を立てるべきだ。子供たちの笑顔を失わせないために。
栗駒山への登山口にあった駒ノ湯温泉は土砂に押し流されてしまい、2名の宿泊客と宿の従業員が犠牲になった。心からご冥福を祈る。栗駒山には二度ほど登ったが、紅葉のきれいな、登山道も緩やかで、楽しみながら登れる名山だった。ススキの原が山腹を覆って、懐かしい秋の風景を見せてくれる山だった。あの登山道もこの地震で壊れてしまったのだろうか。麓の温泉も、駒ノ湯や温湯などいくつもあって楽しめた。これらすべての温泉が地震の影響で営業をやめるとか。誠に残念です。
阪神大震災の直前に釧路大地震と東方大地震、日本海大地震の三つの地震を経験した私は、その後も震度5以上の地震をなんども経験してきた。もう日本では安心できるところはほとんど無いのではないか。いたるところに活断層がある日本列島だと言うことがよくわかる。その上に、原発が50基もある。福島第2原発で放射能で汚染された水がこぼれ出たらしいが、原発に支障はなかったと言って運転も止めなかった。
しかし、新潟刈羽原発が地震であぶなくメルトダウン寸前だったことがわかり、運転再開の目処も立たないときに、あれだけの地震があっても運転を止めもしないで安全安全と言っている電力会社や政府の態度は、驚くべきことといわざるを得ない。屋上の天窓から子供が落ちたというような事故ではないのだ。ひとたびメルトダウンが起こったら、人類の生存さえ危うくなるほどの危険な原発なのだから、とにかく一度停止して、点検整備してから再開しても決して遅くはないだろう。安全安心といいながら、自分たちの都合を最優先する政府や政治家たちには、ホトホト嫌になる。
地震国の日本に原発はいらない。すぐに原発から脱却するエネルギー戦略を立てるべきだ。子供たちの笑顔を失わせないために。
