ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

ミンダナオの海から(8)ジュゴンが現れた

2006-01-31 | 南の海
再びパラワン島へ行く前に、ちょっと寄ってみようと思ってミンダナオ島に出かけた。ミンダナオ島の首府ダバオから車で未舗装道路を5時間、途中で昼ご飯を食べて、マリタに着いた頃は疲れてふらふらだった。泊まるところもないマリタでは、現地の大学(専門学校?)のゲストハウスに泊めてもらうことになった。さっそく大型のゴキブリが歓迎に現れた。

 大学の若い先生に話を聞くと、ジュゴンは良く現れるという。期待がふくらんでくる。翌日、トリスクルというバイクにサイドカーをつけたような、人力車にバイクをつけたような乗り物に乗って、大学から約10分南の海岸沿いの集落に出かけた。現地についてそこに座っていた若者に聞くと、このすぐ前の海にジュゴンがしばしば現れるという。いよいよジュゴンに会えるかもしれないと期待は高まる。しばらく海を眺めていたが、ジュゴンは現れない。

 海岸に木で作った塔のようなものが倒れている。聞くと、海の中に立っていた飛び込み台のようなものらしいが、嵐が来て高波で倒されて打ちあがっているという。この塔を海岸に建てれば、ジュゴンを観察するのに都合が良いのではないかと思い立ち、ちょうど物珍しそうにわれわれを見に来ていた集落のチーフに、この塔を立て直す気はないかと問うと、立て直したいがお金がないとのこと。いったいいくらお金があれば立て直すことができるのか問うと、5000ペソほどかかるとのこと。日本円なら当時1万円くらい。それなら私が出すからといって、チーフに立て替えを頼むと、それから30分くらいでいきなり工事が始まった。あっという間に屈強な工事人夫が10人近く集まる。それだけ仕事が無くてぶらぶらしている若者が多いと言うことなのだろう。

 塔を立て直すのに二日ほどかかった。塔ができあがった翌日、われわれは日の出とともに起き出して、塔に上った。高さ7-8mくらいで、海岸に生えている椰子の葉の間に座って海を見下ろすことができる。快適だ。しばらく海を眺めていたら、突然50mほど沖合いに濃い茶色の背中が見えた。ジュゴンだ!とうとう本物のジュゴンに出会えた。最初はなかなか見にくく、ジュゴンを確認するのに手間取ったが、そのうちジュゴンを見つけるのは容易になった。目が慣れてきたのだろう。

 このときは、3日間毎日日の出から日没まで観察して、結局十数回ジュゴンを観察できた。ジュゴンはこの海岸のすぐ沖にある海草(ウミヒルモ)を食べにやってきている。餌の海草は4-7mくらいのやや深い海底に生えており、ジュゴンは餌を食べるためには、思い切って潜っていかねばならないらしく、餌を食べに潜る時は身体を思い切り曲げて、しっぽを持ち上げて潜っていく。写真を撮ろうと試みたが、海のどのあたりに現れるかなかなか見当がつかないため、見つけた時は写真を撮る余裕もなく、撮れてもできあがりはどこにジュゴンがいるかわからないような写真でしかなかった。

 ジュゴンの観察を十分楽しんで、日本へ帰ってきた。またジュゴンを見に行きたい。

コイズミの民主主義

2006-01-29 | 政治
パレスチナの選挙で、武装闘争を捨てていないハマスが圧勝して第1党になった。パレスチナの人々の気持ちがそのように激しく憎しみに燃えていることを示しているのだろう。アラファトに長い間期待をかけてきた結果を、彼らが満足しなかったことかもしれない。

 イスラエルが反発し、ブッシュが脅しをかけるのはわかっていたが、驚いたのは小泉が間をおかずにブッシュと同じ事を言ったことだ。いや、ブッシュの忠犬コイズミが同じ事を言うのは決して驚くことではないのかもしれないが。「ハマスが政権を取ったら、経済援助をやめる」とブッシュとまったく同じ事を言ったのだ。しかし、この言説は「内政干渉」ではないのか。アメリカが望んだ選挙で、アメリカが好まない政権ができたからと言って、脅しをかける。これがアメリカの民主主義なのだ。コイズミの好きな「自由と民主主義」なのだ。

 パレスチナの民衆が「民主主義的な方法」で選んだ政権に、コイズミがいやと何故言えるのか。いや、日本の国がいやと言えるわけがない。日本(アメリカ)の民主主義なんて、この程度のまやかしなのだ。パレスチナの平和と独立が、民衆の選んだ政権で一日も早く訪れることを、彼らのために祈りたい。

 明日は晴れ。サンナシ小屋でゆっくりひなたぼっこをしたい。

海氷の花が咲く

2006-01-28 | 日記風
今朝はマイナス15度くらい。冷え込むが、空は抜けるような青空。気持ちの良い寒中の天候が続く。今日も海岸から沖合に数百㍍の範囲が海氷に覆われていた。先日は海氷の上で昼寝をするゴマフアザラシの姿が眺められたらしい。ちょうど私はいなかったので、残念ながら見落としてしまったが。

 今日の海氷は、まるで薔薇の花びらを重ねたような美しくも不思議な形をしていた。蓮の葉氷がもっと寄り集まって、花びらに変わったようだ。雪の結晶が素晴らしく美しいように、氷もいろんな美しい形を見せる。しかも太陽に輝いて虹色に光る。夜の氷はまるでクリスタルをばらまいたようだ。北海道は今が一番美しい。

ホリエモン逮捕に

2006-01-25 | 政治
しばらくブログから離れている間に、いろんな事が起こっているようだ。もっとも印象的なことは、ライブドアの堀江社長らの逮捕。これはやはり政治的に非常に大きい事件だ。

 しかし、相変わらずテレビなどのメディアは、東京拘置所に入る4台の車をヘリコプターまで出して追跡するという、馬鹿丸出しのような番組を流し続けていた。事の軽重がどうしてこうまでわからない人たちなのだろう。唯一、TBSの筑紫哲哉が、規制緩和でマネーゲームをあおった自民党小泉改革の問題を問う姿勢を見せていたのが救いだったが。

 小泉さんの「改革」の方向が間違っていたことが今次々に明るみに出てきている。続くJRの事故。航空機のトラブル。民営化が招いた設備疲労と安全軽視が次々と現実のものとなりつつある。強度偽装問題でも規制緩和と民営化された検査機関のありようが根本的な問題だ。ライブドアの暴走も小泉改革の落とし子、いや申し子と言っても良い。実際、自民党は彼を担いで郵政民営化選挙に走ったのだ。いまさら、あれは別、などとどの口で言えるのか。恥を知れ、小泉首相。
 
 悪いことはしたかもしれないが、ホリエモンは若者に夢を与えた、と言う人がいる。しかし、彼がどんな夢を若者に与えたか、よく考えてみて欲しい。彼が若者に与えた夢とは、金さえあれば何でもできる(金がないと何にもできない)とか、働かなくても金が儲かるというものであった。そんな彼に夢を与えてもらったと思う若者は、おそらくろくな生き方ができない人たちだろう。

 小学校で株取引を教えているところがあるという。言語道断だ。株取引とは、資本家が働かずに自分の金を元手に汗水垂らして働く労働者の上前をはねる事である。そんな賭博のようなことを学校で教えるべきではない。もし教えるならば、このようなことはすべきでない、人は働いてこそ立派な人になれる、と教えるべきなのだ。いまどきのニートには、いろんな人がいるので一概には言えないが、働くことをくだらないことと思う風潮がニートを育てているのは間違いない。小金を貯めて資本家のまねをする若者が増えたら、お先真っ暗だ。

 私はぜったいに株を買ったりはしない。いくらお金が儲かることがわかっていても、それは自らを人を搾取する人間にすることであるから。他人を搾取しない、搾取されたくない。みんなもっと人間らしく生きよう。

鉄腕アトム

2006-01-18 | 環境
私は漫画の鉄腕アトムのファンである。手塚治虫のファンでもある。私のバンドルネームもそこから来ている。最近、DVDで昔のテレビで放映された鉄腕アトムを見ている。なにしろ第60話まであるので、いっぺんには見られない。できるだけ毎日1話ずつ見るようにしている。

 昨日は第6話の「赤い猫」を見た。懐かしい。昔を想い出してしまった。またまた自分の子供の頃に還ってしまった。私は子供の頃、鉄腕アトムは少年雑誌にのっていた漫画として読んだ。鉄腕アトムはもっとも面白い漫画だったのだが、その中のほとんどのストーリーは覚えていない。しかし、おぼろげにではあっても、この「赤い猫」だけは、その印象がはっきりと残っている。

 知らない人のために簡単に内容を書いておくと、時代は2030年、最後に残った武蔵野の林を開発して巨大ビル群を建てようとする資本や役人と、それを死んでも守ろうとする生物学者との闘いを書いたものである。私の脳裏にはっきりと残っている漫画の一齣は、チェーンソーを入れられそうになっている樹木を抱きかかえて涙を流している博士の姿だった。博士は一本一本の木に名前を付けてほおずりするようにそれらを可愛がっていた。手塚治虫の心は、その博士の心根に寄り添ったものであったと思う。そのようにその漫画は書かれていた。

 私がその漫画にどのように心を打たれたか。おそらく今の自然保護を言う人たちにもわかってもらえないだろう。あの当時、自然保護を口にする人はほとんどいなかった。開発こそ人を幸福にするという人たちばかりだった。それまで自然保護を主張するようなどんな文章にも演説にも私はお目にかかったことはなかった。もちろん私はまだ小学校の低学年だったせいもあるだろうが、学校でも開発や産業の発展を無批判に賛美する以外、どんな自然保護の話も聞いたことはなかった。炭坑節で煙突からけむりがもくもくとでているのを誇らしげに歌っていた時代だった。

 そんな時代に、私は幼い心で自然を恋い慕っていた。学校が休みになると、近くの丘(当時は大きい山と思っていたが)に出かけて草や虫を一人じっと眺めていた。命が消えたような冬の寒さから、3月になって田んぼの畦に芽を出した草や、葉のうえに現れたテントウムシの姿に思わず涙をにじませるほど、自然を愛した子供であった。しかし、世の大人たちはそうではなかった。私は自分を世の中の人たちとは違った人間だと考えて、孤独に陥っていた。そんなときに、この漫画を読んだのだ。なんと感動的だっただろう。この世の中に自然を開発から守ろうという人がいたんだ。しかも手塚治虫という有名な漫画家が。それから私は鉄腕アトムと手塚治虫の大ファンになった。

 あとになって手塚治虫も私と同じように、虫の好きな少年だったことを知った。1980年代に起こった林野庁による知床国有林の巨木伐採計画に反対派の人たちが木に身体をくくりつけて阻止しようとしたことなど、チプコ運動という身体を張って木(自然)を守る運動が20世紀の終わりに各国・各地で広がっていった。そのような報道に接するたびに、私はこの「赤い猫」の一齣を想い出す。時代を先取りした手塚治虫の心を。

ミンダナオの海から(7)パラワンからミンダナオへ

2006-01-17 | 南の海
沖縄でジュゴンを見られなかった私は、何とかジュゴンを見たいとフィリピンにやってきました。最初、鳥羽水族館のジュゴンの故郷であるパラワン島に行きました。パラワン島には、二度目。きれいな海と白い砂浜、絵に描いたような南国の海です。けれども私が最初に行った数ヶ月前、首府のプエルト・プリンセッサのすぐ近くの海(ホンダ湾)の小島にあるリゾートホテルが襲撃され泊まっていた外国人観光客らが拉致されて1ヶ月以上監禁されるという事件もありました。住民が住んでいることを忘れて、傍若無人に景色だけを楽しんでいる観光客には、良い薬になったのかもしれません。

 パラワン島もミンダナオ島とほぼ同じくらいの緯度に位置する、こちらは細長い島である。この島にはジュゴンがたくさん見られるという。特に北部には多いというので、車で数時間揺られて北部のローハという小さな町に行った。ここには、ジュゴンがしばしば定置の漁網にかかるらしい。その小型の定置網をもっている漁師の一人に会いに行った。彼は、網にかかったジュゴンを救って逃がしてやっているので、州の政府から表彰されたことを自慢にしている。その漁師に話を聞くと、この5年間で40頭くらいのジュゴンが自分の定置網にかかり、それらをすべて大きさを測って逃がしてやったという。彼によると、昔は彼も網にかかったジュゴンを殺して食べていたらしい。いまでも他の漁師たちは食べているかもしれないとも言っていた。

 結局、パラワン島ではジュゴンを見ることができなかった。ローハの海岸はマングローブが生育しており、海岸まででるのが大変な作業だ。しかもマングローブ沼地なので海水は濁っており、ジュゴンの餌になる海草がほとんど生えていない。この海岸ではもっと沖にある島の周りに行かないと普段はジュゴンには会えそうもない。網にかかるジュゴンはふだんあまりやって来ないところに迷ってきたあげくに、網にかかるらしい。4年で40頭というのはこのあたりにジュゴンがたくさんいるという意味では、決して多い数字ではないのだろう。

 ジュゴンを見ることはできなかったが、パラワン島に行けばいずれジュゴンが見られるという確信を抱いて、帰ってきた。そこで、2年後、いよいよジュゴンを見るために再びフィリピンに向かった。向かうはパラワン島。案内してくれるのは、日本に留学しているフィリピンの女子大学院学生。彼女はミンダナオ島出身だったので、パラワンへ行く前にミンダナオによってみようと誘われて、ミンダナオ島のダバオに向かった。これがマリタのジュゴンと出会うきっかけだったのだ。(続)

挑発に乗らないで

2006-01-14 | 政治
イランがきな臭くなってきた。アメリカのネオコンが標的にしようとしていたのは、当初からイランであったらしい。アフガニスタン、イラクに侵攻し、自分のところにはなくなった「民主主義」を植え付けると称して、自分たちの権益を得ることは、イラクからの撤兵が少し遅れている以外、ほぼ目的を達した。今度はイランの番だと考えていたらしい。ここに来てイスラム原理主義のイランの大統領(未だに私はこの大統領の名前がちゃんと覚えられない)が、挑発的な言動をしている。
あぶない、あぶない。

この大統領は、イラン革命の時に学生だった人だが、当時のアメリカ大使館占拠に参加している。あの時の革命の高揚感が根底にあるのだろうが、大統領になっても正直に自分の考えを出しているのが、アメリカなどの思う壺にはまってしまいそうだ。

 アメリカのネオコンは、イスラエルのシャロンとの戦略で、イラクのあとにイランに侵攻し、イスラエルに刃向かわない国を創ることだったようだ(詳しくは、http://janjan.jp/column/0512/0512260921/1.php)。イランの大統領は、その戦略にうまく乗せられて過激な発言(シオニストはナチスと同じ、など)を繰り返し、イスラエルの憤激を買ってしまっている。核開発問題で仲を取り持とうとしていた西欧諸国さえもあきれさせてしまった。アメリカの思う壺だ。

 ところが、アメリカにとって思わぬ事が起こってしまった。シャロンが脳梗塞で倒れてしまった。予定が狂ってしまったが、この機会を逃さぬようにしようと思っているらしい。まもなくイランの核開発問題が国連安保理にかけられるだろう。そうすると経済制裁などが決まる可能性がある。今度はアメリカ側の挑発が始まる。

 北朝鮮の場合もそうだが、核開発問題はなるべくやって欲しくないが、いっぱい核兵器を持っている国が、核開発をやめろと恫喝する今の国際関係は、どこかおかしい。イランには核開発(核燃料の再処理)をやらさないと言いながら、すでに核兵器を100発以上持っているというイスラエルには、何の言及もない国連は、いったいどこに顔を向けているのだろうか。国連といえども、大国の都合で作られたものである以上、正義の見方と思うのは幻想でしかないだろうが、それにしてもアメリカの好きな「民主主義」的な運営を建前にしているのである。

 イランの大統領には、挑発しないこと、挑発に乗らないことを、是非お願いしたい。なんとなく靖国に固執するどこそかの首相とよく似ているんだな。彼は。強い国に楯突くのと、強い国にしっぽを振り弱い国には「内政干渉」などと威張るのとは、大きな違いだが。

ミンダナオの海から(6)ジュゴンの涙

2006-01-13 | 南の海
今日は、ミンダナオのマリタで見られるジュゴンのことを書こうと思っていたら、マリタから緊急のメールが届いた。昨日か今日、マリタの海岸にジュゴンが一頭、死んで打ち上げられたとのこと。大きな雄のジュゴンらしい。見つけた住民の話によると、瀕死のジュゴンが海岸に打ち寄せられて来たが、そのときに、そのジュゴンを見守るように10頭ものジュゴンが周りを泳いでいたらしい。きっと死んだジュゴンの家族ではないかという。

 この海域にはジュゴンが多いが、われわれも10頭ものジュゴンを同時に見たことはない。しかも死にそうになったジュゴンを見守るように10頭が現れたというのは、本当にビックリだ。死んでいく仲間のジュゴンの周りで彼らは涙を流していたのかもしれない。もっともジュゴンが家族で行動するかどうかはわからない。母親と子供はかなり長い間一緒に行動することが知られているが、父親が一緒と言うことはない。けれども10頭のジュゴンが本当に死んだ雄のジュゴンを慕って(または気遣って)集まっていたとすると、家族以上の仲間意識を彼らは持っていると言うことなのだろう。

 イルカやクジラが傷ついた仲間を助けながら泳ぐという話は時々聞く。イルカやクジラと同じようにジュゴンも高等な海産哺乳類なので、そのような習性を持っているのかもしれない。利口で平和な動物であることは間違いない。

 死んだジュゴンは現地の大学に運び込まれて、体長や体重を計測されて、標本にされる予定のようである。今度ミンダナオへ行った時には、このジュゴンに会えるのを楽しみにしたい。

ミンダナオの海から(5)沖縄のジュゴン

2006-01-12 | 南の海
ジュゴンが沖縄に生息するというニュースは、一時日本を駆けめぐりました。絶滅していたと思っていたジュゴンが日本の海にもまだ生き残っていたのは、感激です。名護市の東海岸にはときどきジュゴンが現れるという話で、多くの人がそのあたりの海にでかけました。しかし、地元の人がたまに見る以外、ほとんど見ることができた人はいません。

 北部海岸の嘉陽という集落の前の海岸は、ジュゴンが餌の海草を食べに来るので有名です。私も嘉陽の海に潜って海草の群落の中に多くのジュゴンの食べ跡を観察することができました。すぐ近くの山の上からジュゴンが見られるということで、多くの自然愛好家が集まり、山の上(「ジュゴンの見える丘」という名前が付きました)から観察をしました。しかし、ジュゴンを見たという人はほとんどいません。

 けれども確実に海中の海草を食べた跡ははっきりあるので、ジュゴンが来ていることは明らかです。それでもジュゴンを観察することはそれほど難しいことのようです。というのは、ジュゴンは本来海岸近くの浅い海に生えている海草を食べているので、人の目につきやすい動物なのですが、沖縄ではジュゴンを観察していた自然愛好家やジュゴン保護運動家たちの話によると、昼間海岸近くで餌を食べているジュゴンを見ることはほとんど無いようです。

 私達は十年近く前に、タイでジュゴンを見たことがあります。そこは小さな入り江になっていて、浅い海が広がっていました。そこの大部分は干潮になると干上がり、小さな海草(ウミヒルモ)が生えています。そのすぐ横に垂直な崖があって、そこに崖を上る垂直なはしごがかけられてありました。かなり怖い思いをしてそのはしごを登り、崖の上で落ちないように身をロープで近くの木に縛って、ジュゴンが来るのを待ちました。なかなかジュゴンはやってきません。もっともやってきていたのかもしれないのですが、ジュゴンを見たことがなかったわれわれには、よく見えていなかったのかもしれません。何日かそんなことをしていたら、ある日、仲間がジュゴンを見つけたのです。それからは、ジュゴンがその浅い海にやってきて、餌を食べて帰っていくまでをずっと見ることができました。それはもちろん昼間のことです。

 しかし、沖縄では昼間は現れないらしい。それはおそらく人間の影響でしょう。タイでジュゴンを見たところは、あまり人が多くない場所でした。夜もジュゴンはやってきて餌を食べているらしいのですが、夜は足場が悪いし、よく見えないので見ることをしませんでした。沖縄のジュゴンはその数が極端に減っているのをみてもわかるように、人間の悪影響を強く受けていると思われます。そのために、昼間は餌場にも近づかないようにしているのでしょう。夜、ひっそりと海岸近くに現れて、ひっそりと餌を食べて帰っていくのでしょう。そんなにして餌を食べないといけないのは、餌にする海草が深いところには無いからです。

 沖縄でジュゴンを見ることができるようにするには、おそらくもっともっとジュゴンの数が増えてくれないといけないのでしょう。しかし、今のジュゴンが増えてそうなるのはほとんど無理かもしれません。ジュゴンは人間と同じくらいの長い寿命を持っているが、子供を産むのは数年に一回くらいで、しかも一度に一頭しか産みません。全体が10頭くらいとして、その半分が雌で、5年に一回子供を産むと仮定すると、沖縄では一年に一頭しか生まれません。しかも、漁網に混獲されて死ぬジュゴンや嵐で打ち上げられて死ぬジュゴンが結構知られています。それでは、沖縄のジュゴンが増えることは、かなり難しいでしょう。さらに良い餌場である辺野古沖の藻場が埋め立てられることになったら、沖縄のジュゴンの行方は、トキと同じ運命になるでしょう。(続)
今日は

薪ストーブのご馳走

2006-01-09 | 日記風
薪ストーブに火が入り、パチパチという木がはぜる音がして、ストーブに乗せた鍋の中の雪が溶け始めると、なんだかすごく眠たくなる。身体のストーブに面した側がぼあーっと暖かくなり、顔が赤くなってくる。いいなあ。薪ストーブで燃える炎を見ていると、つくづく幸せになってくる。いろんな世の中の嫌なこともすべて忘れて、今のこの幸せな気分に包まれることができる。

 小屋の外は一面の銀世界というよりも白一色。天気は快晴。まばゆい雪の照り返しで部屋の中もすばらしく明るい。外はマイナス5-6度くらいだが、ベランダには日だまりができ、暖かな空気がよどんでいる。

 サンナシ小屋までは、雪が積もるとクロカンスキーを履いてくる。30分程度の楽しいスキー散歩だ。鹿の足跡、ウサギの足跡、狐の足跡があちこち縦横に記されている。ウサギは狐の追跡から命がかかった逃避行を行っているのかもしれないが、足跡だけを見ていると、ウサギが楽しそうにあちこち飛び跳ねているように見える。

 ゆっくりと薪ストーブの暖かさに包まれて世間話をしたら、今日使った薪の更新をしなければならない。スキーを履いて裏山に登り、風倒木や雪の重さに耐えかねて倒れた木を見つけて、のこで切って小屋に持ち帰り、乾燥させておく。次回の薪ストーブのごちそうをいただくために、最低限やっておかねばならない。この作業も毎日でなければなかなか楽しいものだ。