ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

イルカの軍事利用を泣く

2010-07-27 | 正義と平等
 暑い夏にさらに日本海は暑くなる。米韓大軍事演習が日本海で始まった。さらに日本の自衛隊も日韓軍事演習という形で参加する。実質的な日米韓の軍事演習が日本海を舞台に繰り広げられている。もちろん北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)を脅すのが直接の目的だ。北朝鮮が自国の領海と主張している37度線付近の海で軍事演習を行う予定だったが、黄海での軍事演習に中国が強く反発。とくにアメリカの原子力航空母艦ジョージ・ワシントンの参加に中国は反発を強め、アメリカも黄海での演習を中止し、日本海に変更せざるを得なかったという事情がある。

 今月の写真月刊誌DAYS JAPANに、映画「ザ・コーヴ」にまつわる記事が出ている。その中で私が衝撃だったのは、太地町でイルカの虐殺が行われているということではなく、アメリカ海軍がイルカを軍事利用しているという事実だった。同誌の表紙には、海上に飛び上がったイルカの写真が載せられている。最初はかわいいイルカの写真としか見ていなかったが、よく見るとイルカの前肢に水中カメラがしっかりと設定されている。どうやらこれはアメリカ海軍がイルカを偵察スパイとして訓練しているところの写真だったのだ。

 さらに驚いたのは、イルカに魚雷や爆雷の信管を操作させる訓練が行われているという。つまりは、イルカに訓練を施し、魚雷や爆雷を爆破させるというわけだ。もちろんイルカは死ぬ。自爆させるわけだ。戦争にイルカを使うという非人間的(!?)な訓練が行われていることに心からショックを受けた。これは太地町のイルカの虐殺など足元にも及ばないイルカへの冒涜ではないだろうか。怒りが湧いてくる。日本の自衛隊ではそのような訓練が行われていないことを祈りたい。

 今日の日本海で、このような軍事訓練がなされていないことを祈る。そして、イルカだけに限らないけど、人間のために動物の命を使うという非人間的な(文字通り人間のためにもならない)考え方が、近い将来なくなることを信じたい。 

暑さを逃れて

2010-07-26 | 日記風
身の危険性まで感じさせたこの夏の暑さ。とてもやりきれないと思い、休みを取って釧路へ逃げてきた。休みを多く取ると収入が減るが、背に腹は代えられないというものだ。クーラーの使用を考えようかとも思ったが、今年の熱中症での救急搬送者や死亡者が、一つにはクーラーを使わない人がいた反面、クーラーの使用で体が暑さに耐えられなくなった人が多いという情報を聞いた。やはりクーラーの使用は、体に決していいこと無いのは明らかだと思う。それにしてもこの異常な暑さ。世界的な異常気象が各地で頻発しているらしい。地球の温暖化をウソだという人もいるが、異常気象の頻発が人間の経済行為によって起こされていることはほぼ間違いない。それだけだと言うつもりはないが、それがもっとも大きい原因であることは言うまでもないだろう。そしてその被害を受けるのは、きまって加害者としてもっとも低いレベルの人たちなのだ。

 釧路について最初思ったのは、「あっ、意外に寒くはないな」と言う感じだった。しかし、車を走らせていくうちに、やはり寒さが堪えるようになった。半袖の上着ではやはり寒い。夕方になるととても半袖では過ごせない。それでも最高気温が20℃くらいはあるらしい。最低はどれくらいだろうか。明日の朝が楽しみ、いや心配だ。でも暑くないと言うことはこれほど素敵なことはない。頭がすっきりする。こんなところで暑さ知らずで過ごしてきたことが本当にすばらしいことだったと、暑さの京都を経験してはじめて分かった。

大台ヶ原 観光客と山

2010-07-19 | 花と自然

一年に350日雨が降るといわれる大台ヶ原。年間降雨量は5000ミリを超えるという。その大台ヶ原に梅雨明けの一日、出かけた。今度も加賀白山登山をあきらめて、大台ヶ原にやってきた。大台ヶ原は、吉野熊野国立公園の中にあり、山伏修行で有名な大峰山系のとなりの山系にある。頂上付近は広大な平原状をなし、雨の多さから苔が岩や木を覆う深い樹林が特徴であった。青木ヶ原の樹林が標高1500m付近の頂上に広がっているようなものだった。ところが、近年、樹林が枯れ始め、下草にミヤコザサが一面に覆うようになり、苔に覆われた樹林帯は姿を消してしまった。いまは頂上のすぐ下に広がる正木ヶ原の枯れたシラビソの幹が立ち並ぶ風景が大台ヶ原の風景になってしまった。

 その変化の原因に鹿による食害を挙げる人が多い。現地で自然再生の試みを行っている環境省などの事業でも、鹿を追い出す防鹿柵を延々と並べている。たしかに鹿の影響もあるだろうが、それはしかし、結果であって原因ではない。原因はあきらかに人間にある。大台ヶ原ドライブウエイは、この山系を縫って延々と続いている。そこに連休や紅葉の時期には無数の車が列を作る。頂上付近にある駐車場は満員だった。このドライブウエイの建設が、現在の大台ヶ原を作ったといって良いだろう。それを鹿のせいにするのは、自分たちの愚かさを指摘されたくない人たちの言うことだ。そしてそれを真に受ける研究者たち。

 私は麓の駅からバスに乗った。一日たった一便のバス。連休のこの日でもそれが二便に増えるだけだ。なのに乗客はたった5名、帰りのバスは4名だった。大台ヶ原の道に溢れている大勢の人たちはほとんどすべて自家用車で来ている。

 大台ヶ原の西半分は、現在、原則として入山禁止になっている。特別の許可をもらった人が人数を限って西大台ヶ原にはいることを認められる。それも有料である。この制度は始まったばかりなのだが、自然をとりもどし、保全するために試験的に始められた。一方、東大台ヶ原は、観光客のために道路は整備され、木道がかなり設置されている。車で来た観光客がかなりの部分を革靴でも歩ける。Gパンにサンダルの若者たちがウロウロしているかと思うと、本格的な山姿の登山者もいる。標高1500m付近は高原のさわやかな風が吹いている。

まずは、観光客に混じって大台ヶ原の最高峰である日出ヶ岳(1695m)に登る。写真で見ていた木の階段はさすがに息を切らせたが、距離はほんのわずか。あっというまに頂上である。それでもさすがに歩けば汗がしたたり落ちる。頂上でお弁当を頬張り、ゆるゆると大台ヶ原周遊のコースにかかる。近年の大台ヶ原のシンボルであるシラビソの枯木の立ち並ぶ正木ヶ原を通るが、こんな風景は北海道のトドワラでよく見ているので、あまり感動もない。どんどん歩く。

 尾鷲辻からコースを外れて堂倉山を目指す。登山道もなく、大台ヶ原の本来の自然が多少とも見られる。苔に覆われた岩や樹木を見ながら、踏み跡を探しながら歩く。最初はしっかりした踏み跡があったが、そのうちよく分からなくなった。それらしいものを探しながら歩くが、どうもはっきりしない。そのうち誰かが付けたテープを目印にどんどん下っていくと、とうとう沢に降り立ちそれ以上行けない。テープも無くなってしまった。その近くで大きな枯れ木が目に付いた。幹にツキヨタケがびっしりと付いている。そしてその幹の下の方を見てびっくり。あきらかに熊が木の幹を削って穴を開けた跡が見える。大台ヶ原にはツキノワグマがよく出現しているというのをネイチャーセンターで見てきたところだ。木くずは真新しい。きっと昨日か今朝の仕業だろう。ちょっと警戒を強めて、どうするか考えた。どうやら堂倉山への道には迷ったらしいし、このまま沢を越えることもできそうもない。そう決まればすぐにコースに戻ることにした。

 コースまで戻る途中、灌木のミヤマシキミが美しい葉を拡げているのを見、美しいきのこのオオダイアシベニイグチを見つけた。コースを外れて歩いた成果だ。コースだけではやはり得るところは少なかっただろう。だが、時期が遅くてツクシシャクナゲの美しい赤色は見られなかった。バイケイソウの花はいまが盛りだ。



 コースに戻って大蛇ヶに向かう。なかなか高度感があり、今日の中では唯一高山の雰囲気を味わえるところだった。大峰山系はこのような峨々たる峰が続くらしい。とすると、大台ヶ原は、奇跡のような場所なのかもしれない。コースを全部回ってバス停に帰り着いた。合計4時間。コースを外れて歩いた時間が約50分だから、コースタイムよりは早く歩けたようだ。一月に35日雨が降るとか、年間350日雨といわれる大台ヶ原だったが、梅雨明けから2日目、無事に雨にも遭わず歩くことができた。奇跡的かも。日本百名山56座目だった。

帰りのバスもがらがらだ。テープの観光案内を聞きながらつい眠り込んでしまった。窓の外は大台ヶ原から西に向かう吉野川の流れだが、川砂利を採取している事業所があちこちに見られる。川を管理するという名目の事業もいろいろなされているようだ。川をもういじらないで欲しい。川が死にかかっている。吉野川、熊野川などの大きい川の水源である大台ヶ原の自然をこれ以上壊さないようにしたいものだ。

映画「ザ・コーヴ」を見なければ

2010-07-13 | 日記風
映画「ザ・コーヴ」を見に行った。右翼の抗議で騒然としているというテレビの報道を見て、多少緊張していったが、とくに何もなかった。土曜日だったからか会場は8割くらいの入りで、まあまあといったところ。平日はやはり少ないのかもしれないが、それはこの映画に限らない。人気映画以外はこんなものなのだろう。

 映画の方は、テレビなどのマスメディアがさかんに報道してくれていたので、主なところはすでに見覚えがある場面が多い。ただ、テレビなどはセンセーショナルに一部だけを取り上げるので、なぜそのような場面が出てくるのか判らないが、映画をはじめからちゃんと見ればそれぞれの場面はきちんと筋が通っている。昔「わんぱくフリッパー」という映画の主人公だった少年が、彼の腕の中で息を引き取ったイルカが、実は飼育によるストレスから「自殺」したと彼が感じたことから、自分の映画がイルカの飼育やイルカショーを流行させてしまったことを反省して、イルカの飼育に反対することになった。その人が、イルカの捕獲をして、世界の水族館へイルカを売りさばいている和歌山県太地町にきて、ここでイルカが毎年2万3千頭も大量殺戮されていることを知り、それを映像で世界に知らしめたいと思ったことから、この映画の撮影が始まったということらしい。

 映画「オーシャンズ」でも少しだけ出てきていたイルカの殺戮シーンだが、あの映画ではそれがどこで行われているものかははっきりさせていなかった。知る人ぞ知るということだったのだろう。しかし、映画「ザ・コーヴ」では、その場所が太地町のある小さな湾の中で行われていることがはっきりと示されている。そこで毎年、大量のイルカが海を真っ赤に染めて殺されるのだ。事実は知っていたが、やはり映像でその場面を見せられるとかなり衝撃的だ。

 この映画を見て、私はどう思ったか。映画を撮った人を悪く言うマスコミは多いが、私の感想はまったく違った。イルカ猟がここまで追い詰められていることがはっきりしたと感じた。もはや世界中が太地町を取り囲んでいる。数人の漁師が撮影をする人たちを追いかけ回し、カメラの前に立ちふさがり、撮影者を追い出す。それに警察までが加担してカメラマンを尾行し、事情聴取をする。映画の撮影者は立入禁止のフェンスを越えて、夜陰に乗じて海辺や海底にカメラを設置し、撮影する。それを漁師たちは厳しい監視で追い出そうとする。いったいそれは何故なのだろうか。私にはそれが非常に不思議だった。漁師たちはそこまで追い詰められていることを肌で感じているのだろう。イルカを食べるのは日本人の食文化だから、文句を言わせないと彼らや彼らを養護する右翼は言う。でも、イルカを食べる食文化なんて、日本にあるとは思えない。太地町にはイルカをしょっちゅう食べる人もいたかもしれないが、だからいつまでもイルカを殺して食べても良いという理屈は成り立たない。どうして彼らは撮影されることをそんなにしてまで嫌うのだろうか。やはり彼らも後ろ暗いのだ。

 壱岐のイルカ猟も中止になった。彼らもそれを彼らの食文化と言いつのるほど嘘つきではなかったということだろう。太地町でも、イルカ猟に固執する人はそう多くない。そしてこの映画は、ついにその現場をはっきりと映し出した。アカデミー賞受賞までやってのけた。世界中の人が太地町で行われる非人道的(イルカは人間と同じような感覚を持っていると彼らは考えている。私はイルカにそんなに接したことはないから、わからないが。きっと漁師の方がイルカが人間に近いことをよく知っているだろう)な漁を知り、きっとこれまで以上に太地町を追い込むことだろう。太地町の漁師たちはそれをよく知っているから、撮影を拒み続けてきた。いつかはイルカを殺すなと言う声が起こることを、殺戮している本人たちがきっと一番知っているのだろう。こんなことはいつまでも続けられないと。

 漁師の銛で傷ついたイルカが何度も水面に現れては崩れ落ちていくシーンがいつまでも脳裏に残る。一度この映画を見なければ、なにも議論はできないだろう。

CO2は減らさねばならない

2010-07-08 | 環境
ずいぶん暑くなってきた。京都の暑さはひとしおだ。今年も暑さに苦しめられそうだ。と思っていたら、ニューヨークやヨーロッパの都市で気温が40℃近くまで上がる熱波に襲われているという。世界的な傾向のようで、やはり気象がおかしくなっている。毎年のように、今年の気候は変だと言ってきた。変な気候が毎年続くようになっただけでなく、そのおかしさが毎年増幅していくような気がする。気候が大きく変わり始めたのだろう。その理由はよく分からないが、やはり人間の所業が原因であることは間違いない。

 地球温暖化による危機が迫っているというIPCCの報告を作る上で、不正なデータの歪曲使用があったと一部の人たちから問題にされている。たしかにそう言う面もあったのかもしれないし、CO2の排出だけが問題なのではないだろう。でも、しかし、だからといって、CO2の濃度がどんどん高くなっている現実をそのままにして置いて良いはずはない。CO2の濃度上昇がどのように地球の環境に影響するかは、まだ人類が経験したことのないことなのだから、科学といえども予測に万能な訳はない。科学は科学に論争はまかせておいて、政策としてCO2を減らすような努力をしていかねば、ひょっとしたら人類が(その一部かもしれないが)滅亡することもあり得るのである。環境問題で大事なのは予防原則。予測が不確かな場合は、最悪のシナリオを想定して対策を講じるというのが、予防原則だ。

 でも、しかし、今の政府がやっているのは、本当に必要で効果的な対策なのであろうか。エコ商品と称して、ハイブリッド車を売り込み、大型で薄型のテレビを買わせるのは、本当にCO2の排出抑制になるのだろうか。これはどうみてもCO2排出を増やすことにしかなっていない。今の車とテレビをもっと大事にいつまでも使う方が絶対にCO2を減らすことになるはずだ。それなのに政府は一生懸命エコポイントや還元金などを出して、商品を買わせようとしている。結局、これは環境税さえにも反対を続ける企業側とその意向で動く経済産業省の景気浮揚策でしかない。実際にCO2は減ってはいない。こんな詐欺同然のやり方に、民衆は簡単にだまされるのだなあ。

 しかも、CO2削減に原子力発電が有効だからといって、民主党政府は原発建設に拍車をかけ、さらに外国にまで原発を売り込みに総理大臣が率先して行っている。原発建設はけっしてCO2の削減にならないし、温暖化防止にも役に立たない。原発は作り出した核熱エネルギーのわずか30%程度しか電気に変えられず、残りの70%は廃熱として海に捨てられる。海水は温められて、温暖化を進める。本来、温暖化が起こったら気温が上昇し、それから海水温が上昇するのが当たり前の順序なのだが、日本の周辺の海水は気温の上昇以上に上がっている。気温はそれでも上がったり下がったりの変動が大きくて、本当に気温が上昇しているかどうかは、専門家でも論争が続いているのだが、海水温の上昇はもはや誰の目にも明らかだ。それが原発の温排水の影響でないとどうして言えるだろうか。

 最近、IPCCのスキャンダルなどから、温暖化はウソだというキャンペーンが騒がしくなっている。養老孟司などの有名人までがそれに同調している。さらにサンケイ系の週刊誌など右系からも、そういう動きがある。環境税や企業圧迫の政策をとらせないという経済界の意向を踏んだ動きなのだろうが、CO2の濃度が確実に高まっているのは事実である。これは誰も反対できない。それが温暖化につながるかどうかが議論されているはずなのに、温暖化はウソだという人たちはいつの間にかCO2の上昇もウソだと取られるような言い方で言いつのっている。CO2の濃度を下げなければならないことは自明の理だが、味噌もくそもいっしょに批判してしまっているのは、一体何のためなのだろうか。

 エコポイントやハイブリッド車や原発がCO2の削減につながらないことははっきり言っておかねばならないが、それでも鳩山さんが言った2020年までに25%のCO2を減らさなければいけないことは明らかなのだ。それにはどうすればいいかを議論すべきで、温暖化はウソだと言うだけでは、結局のところ2020年までに人間は異常気象現象による災害で、多くの人が犠牲になるだろう。それは明日の私かも、あなたかもしれないのだ。

自然と共に生きること

2010-07-04 | 環境
日常の些事にかまけていると、いつのまにか文月になってしまった。今年も半分が過ぎ去ったことになる。光陰矢のごとし。梅雨も盛りで、毎日のように雨が降る。長らく北海道に住んでいたので、この梅雨の気分にはまだ慣れてこない。特に最近はかなり強い雨が降るようになったように感じる。昔もそのような集中豪雨が時々観察されたが、梅雨明け前の一時的なものだった。豪雨と雷があるとまもなく梅雨が明けると予想できた。いまや集中豪雨は梅雨の間ずっとだし、ひょっとすると季節さえも問わなくなったような気がする。

 鹿児島県と宮崎県は今日、集中豪雨下にあるようだ。口蹄疫で25万頭以上の牛や豚を殺処分したあと、豪雨が襲ってきた。両県の人たちにはご愁傷様としか言いようがない。日本で畜産を奨励し、農業の構造を変えたのは戦後のアメリカ文化の導入以来であり、それまで日本人はよほどのお祝いでもなければ肉は食べなかった。その食文化が日本人を育ててきたのだ。口蹄疫のこの不幸な流行は日本での農業のあり方を再考する礎にして欲しいものだ。大量に家畜を飼育することの不自然さと不健康さ。いずれ殺されて肉にされる家畜といえども、生きて生活をしている動物なのだから、過密に飼われての不自然な生活にはストレスもかかるし、病気にもなる。

 上関原発の建設に反対している祝島の人たちは、原発に頼らずに自然と共に生きる一次産業で生活をしていこうと決意している。漁業でも魚を獲りすぎないように、一本釣りを主な手段として鯛などを釣ってきた。無農薬のびわとびわ茶の栽培、島で出てきた野菜屑などの有機廃棄物を餌として家畜小屋に囲わないで養豚を行うなど、自然を壊さず、自然と生きる道を探してきた。中国電力の社員は、そんな彼らに「一次産業だけで食っていけると思うのか」と侮蔑の言葉を投げかけた。そんな社員が住む社会は、経済効率だけを推し進め、牛や豚を生き物ではなく肉を生産する機械としか考えていない社会だろう。口蹄疫はそんな社会への自然の報復である。

 そんな上関の原発建設現場では、先週から緊迫した空気が流れている。島根原発での1000カ所を超える点検修理漏れへの対応で忙しく、上関原発建設予定地の長島田ノ浦の埋め立て工事も、しばらく様子見だったが、大型台船を工事現場に動かし昨年の台風で壊れたブイを新しいものに交換している。祝島の漁師は船をだして台船を取り囲み、応援のシーカヤックの若者たちもその列に加わっている。中国電力も今のところ口で妨害行為を止めろと言うばかりで無理に工事を始めようとはしていないが、工事を阻止しようとする住民を裁判所に訴えて、妨害行為一日あたり一人950万円を支払えという地裁のまったく不当な決定を背景に、妨害行為をやらせて損害賠償額をふくらませ、住民たちに工事の阻止をあきらめさせようという作戦と考えられる。

 まだ原子炉の設置許可さえ出ていないのに、埋め立てを強行しようとしている背景には、経済産業省はかならず許可を出すだろうという予測があるのだろう。民主党政権は、自民党時代とまったく変わらず、いやさらに原発推進を掲げている。その大きな理由は、東芝・日立というような原発利権と結びついた経団連の意向があり、経済成長を原発に頼ろうという菅政権の思惑もある。さらに、民主党の大きな支持団体の連合の重鎮である電力労組が、経営者側とまったく一体となった原発推進を強く望んでいるという事情もある。民主党は祝島の人たちから、もっと日本人の生き様を学んで、これからの日本の道を見つけて欲しいものだ。