ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

サンナシ小屋から考える

2009-08-25 | 日記風
しばらくぶりでサンナシ小屋を訪れた。今朝の地震で(震度3)棚の上のものが二つほど落ちていたが、ペットボトルだったので特に被害は無かった。虫の死骸が小屋の中に散らばっている以外には、とくに変わりはない。床の掃除をして、ストーブの前の椅子に腰をかけて、まずは紅茶を一杯のんびりと飲む。天候は快晴で、しかし風は冷や冷やする。エゾシカがピヤッという警戒音を発して、仲間に変なやつが来たと知らせている。

 こちらは秋の風情がいっぱいだ。エゾシカもそろそろ恋の季節。雄鹿が雌の群れの近くで見られるようになる。沢沿いの道も秋の花が咲き乱れている。海辺の道でみられなかったサワギキョウ、ハンゴンソウ、エゾトリカブト、ハッカ、ホザキシモツケなどの花がきれいだ。サワギキョウの花はとくに私のお気に入り。こんなにすばらしい青紫色で、花びらは下の3枚が大きく、少しアンバランスなところがなんとなく美しい。最初この花を見たときは、しばらく離れられなかったほど。サンナシ小屋の周辺では沢筋の平坦なところに紫の柱を立ち並べたように咲いている。

 コーヒーを飲みながら、アイヌの音楽家アトoイの「俺は魂のデザインをする」という本を読む。アイヌの自然とのつきあい方が、楽しい筆裁きで書かれている。いや自然という言葉はアイヌの言葉にはないらしい。自然とつきあうのではなく、アイヌはカムイとつきあうのだという。カムイは「神」と訳されているが、アトOイによるとカムイは我々が考えているような「神」ではない。木や草や熊や狐や鳥や石や山や川、そのものだという。北海道に住んでいたアイヌを迫害・同化してきた日本人を追い出すのではなく、いっしょにどうやって住むか考えようとアトoイは提案する。

 サンナシ小屋から森や林や草原やエゾシカや狐やオジロワシや花たちを眺めながら、アイヌがこの地に生きてきた何万年という時間を思った。サンナシ小屋はあと何年この形を持つことができるのだろう。そして私の体は? 思いは悠久の昔から悠久の未来へ向かう。サンナシ小屋に今日も癒され、そして考えさせられた。

「金のないやつは結婚するな」

2009-08-24 | 政治
アソウお馬鹿首相がまたまた本音を出した。遊説中に少子化対策を話していたときに、若者から結婚したくても生活が苦しくてできないが・・と問われて、「お金のない人は結婚しない方がいい」といけしゃあしゃあと述べたという。本来なら少子化対策を話しているのだから、お金がなくて生活できず、結婚できないと言われたら、結婚できるような生活を保障すると言うべきなのだが、そこは正直なアソウお馬鹿首相。結婚できるような生活を保障するつもりがないことを隠さずに、お金がない奴は結婚するなと言わんばかり。

 まあ、正直なのだろうね。アソウさんは。国民の生活なんて気にしていないということを、いつも正直に言ってしまうのだ。そんなことより自分の身内のような大企業に税金を振る舞って、景気回復する方が大事なのだ。景気が良くなれば自分と同じ経営者は羽振りが良くなる。そのうち国民にも少しはお金が回るだろうと思っている。だからアソウさんにとっては景気回復が一番大事なのだ。国民の生活や医療や年金など、「何で俺がそんな奴に金を払わなきゃいかんのだ」と思っている。

 日本の総理大臣として毛並みはよいがおつむは悪い、そして心はまさに貧弱だ。

涼しい北の海辺から

2009-08-23 | 日記風

京都の暑さに負けてそろそろ秋風が感じられる頃になって北海道の釧路へ逃げてきた。さすがにこちらは暑さ知らず。半袖では寒い。昼間は日射しがあると快適な気候だ。空気がこれほどきれいだったとあらためて思った。夜は毛布を掛けて眠ったが、朝方は寒くて熟睡ができなかった。今夜は冬の布団を掛けて寝よう。いっさい汗をかかないので、下着がべたべたしないので、快適だ。空はあくまで青く澄んでいる。もう秋の風情だ。

 近くの海岸まで散歩に行った。途中の崖には季節の花が咲き乱れている。真っ赤な花があざやかなハマナスがあちこちに咲いている。チシマフウロ、キンミズヒキ、セイヨウノコギリソウ、エゾノコギリソウ、ヨメナ、クサフジ、ナガボノシロワレモコウ、ツリガネニンジン、ナンテンハギ、ナミキソウなど、赤、紫、黄色、白、青などの色とりどりの花が無数に咲き乱れている。秋が来たなあと思うが、秋の代表ともいうべきエゾトリカブトの花はまだ見えない。

 海岸にはウミネコが集団で砂浜にたたずんでいた。風が強くなり、波が上の方まで駆け上がってくる。砂浜を歩くと潮の匂いが強く鼻をついて、ああ海だなあと思う。コンブがあちこちに打ち上がって、北の海の風情が漂う。ああ、暑さに耐え、ベトべトした汗の感触に耐え、朦朧とする頭で考えるつらさに耐えることがない生活がうれしい。

 地球温暖化によって暑さが徐々に北に上がってきている。この地もいつか暑さを感じるような気候になってしまうのだろうか。それまでにこの文明が崩壊・消滅して、自然が再び戻ってくるのだろうか。

裁判官の国民審査をさせろ

2009-08-20 | 政治
 衆議院選挙が告示されたが、もう選挙は終盤戦だ。今回の選挙ほど結果が気になる選挙も珍しい。替わり映えがしないと思われた過去の選挙だったから。参加しない手はない。今週末から京都の暑さから逃げ出すことに決めた。しばらく行かなかったサンナシ小屋に出かける。あの涼しさ・寒さに久しぶりに出会える。

 そこで期日前投票に出かけた。不在者投票と言っていた頃は、投票するのにずいぶん厳しいチェックがあり、理由が必要だったりプライバシー侵害とも思えるチェックがあった。その点は、期日前投票になってずいぶん緩和された。でも主権者が投票という主権を行使するのに、あれこれ言われる方がおかしかったのだ。これは改善されたと思う。

 しかし、投票の段になって気がついた。小選挙区と比例代表区の投票用紙二枚を渡されたのだが、最高裁判所裁判官の国民審査用紙が渡されない。選挙管理委員会の人に「国民審査用紙」をくださいと言うと、23日以降でないと投票できないという。でもその頃投票できないからこそ、今日期日前投票に来ているのだ。なぜ23日以降でないと投票できないか聞いたら、法律で決まっているという。それなら期日前投票制度を法律で決めたときに、同時に国民審査の法律もそれに合わせて変えておくべきではないか。わざわざ期日前投票に来るということは、参政権を積極的に行使しているのだ。国民審査をするのも主権者としての権利。それを奪うような制度はただちに改正して欲しい。

 今回の最高裁判所裁判官の国民審査ではぜひとも投票したいと思ってきた。司法の検察との癒着、司法の独立を放棄したような政治権力との癒着など、最高裁判所の行為は目に余る。高知県の白バイ事故のえん罪事件も検察といっしょになって市民を罪に陥れている。

 徴兵制度にも匹敵する裁判員制度にも国民審査を通して反対したいと思っていた。えん罪に対する裁判所の態度もまったくおかしい。全員×をつけたかったのに、おかしな制度で積極的に投票権を行使するような人を遠ざけようとする深慮遠謀があったのだろうか。投票できなかったのは、本当に悔しい。

夏が行く

2009-08-19 | 日記風
蒸し風呂のごとき京都を離れ、東京へ行くと、やや涼しく感じる。東京から、一路常磐道を走り、茨城県の神栖市に着くと、さわやかな風が流れていた。こんなにも夏の感じ方が違うんだと、ほとほと感じ入った。ちなみに今日の最高気温は釧路では18℃とか。もう寒いんだ。

 茨城県での会議に出たのだが、難しい話でほとほと困惑した。なんとか切り抜けて夜の新幹線では、死んだように眠った。気がつくと京都。京都はまだまだ蒸し暑いが、夜中になるとそれでもひんやりとした風が流れる。

秋来ぬと 目にはさやかに みえねども 風の音にぞ 驚かれぬる

京都五山の送り火も、自宅からほんの十数歩だけ歩いて、二つの山の送り火をのぞき見、残りは来年の楽しみにとっておこうと、横着をきめこんだ。もう少し歩いて鴨川の橋に出れば、五山が 大文字、舟形、妙法、左大文字、鳥居 と一望に見えるらしいが・・・。

 来年には 阿波踊りでも見に行こうか 

干潟創生のウソ

2009-08-13 | 環境
瀬戸内海の西の方、山口県下松市の沖、笠戸湾に飛び出した隣の周南市の半島に人工干潟が造られているというので、見に行った。この半島は昔は島であったのだが、本土と島の間を埋め立てて、狭い水路だけを残しているので、島とは思えないようになっている。なので、現在では島という名前はついていない。半島の埋め立て部分に競艇場が造られて、埋め立て地の一部が巨大な競艇場のための駐車場になっている。

 この半島のもっとも標高の高いところが太華山と言い、公園になっている。この半島の半ばのところに入り込んだ湾があり、漁港を除くそのほぼ全体が人工干潟になる予定だという。現在は半分くらいが土嚢の堤によって仕切られて、人工干潟がほぼ完成している。これから残りの半分に土砂をいれて人工干潟を造る予定で、2年後にはすべて完成予定だという。


 人工干潟には白い砂が敷き詰められて、遠くまで浅場になって海水浴にはいい海岸ができているように見える。その横のまだ自然のままになっている浜は、石がごろごろしたり、泥場があったりして、見た目は悪い。しかし、中に入ってみて驚いた。人工干潟の水は濁って潜ってみても底が見えない。顔を底まで近づけないと見えない。一方、100mも離れていない隣の自然海岸では、海水は比較的きれいだ。瀬戸内海の夏場の海としてはまあきれいな方だろう。

 海水なんかはつながっているから、隣り合っている人工干潟と自然海岸でなぜこんなに水の透明度が違うのだろう。少し人工干潟の砂浜を歩いてみて、すぐにその理由に思い当たった。ここには生き物がいないのだ。自然海岸の方は、カキが岩や石にくっついて、ごろごろしているし、砂を掘るとアサリやオニアサリ、ソトオリガイなどの二枚貝がいる。穴からは瀬戸内海でも少なくなってきたと言われているマテガイが目を出している。昔、子供の頃にマテガイの目に塩を入れて、マテガイが勢いよく飛び出してくるのをおもしろがって取ったものだった。

 二枚貝だけではない。砂にたくさん開いた小さな穴はアナジャコの巣穴だ。びっしりと棲んでいる。ゴカイの仲間もいろいろ見つかる。いかにも生き物のにぎわいのあるいわゆる多様性の高い海岸だ。しかし、人工干潟は砂はきれいだが、およそ死の世界に近い。砂浜の高いところにはスナガニ類がたくさん棲んでいる。これは自然海岸の方ではそれほど見られない。新しい砂を入れたことによって、スナガニ類には良い生活場所ができたのかもしれない。

 アサリやカキやアナジャコのような生き物は海水を濾して水中の餌を食べているという。そのような動物がいないということは、人工干潟の上の海水のプランクトンは誰にも食べられていないことになる。だからここの海水は濁っている。一方、自然海岸の海水はプランクトンがどんどん動物に食べられて、水はきれいになっているというわけだ。しかし、本の数十メートルの違いでもこんなに水のきれいさが違うとは、本当に驚かされる。

 さらに驚いたのは、人工干潟を歩いていて、いきなり太ももの上まで体が砂に埋まってしまったことだ。ところどころで砂を踏み抜いて体が埋まってしまう。これはかなり危険だ。子供だったら、体が埋まってしまい抜け出せないこともあるかもしれない。いったいどうしてこんなことが起こるのだろうか。人工干潟を造った国交省港湾事務所の人に話を聞いてみた。

 どうもこの人工干潟に使われた土砂は、近くの徳山港の航路浚渫した海底のヘドロらしい。海岸に浚渫したヘドロを入れて、人工干潟を造ったと言うことらしい。しかし、ヘドロをそのまま海岸に入れたのでは、地元の人の了解は得られない。そこでヘドロの上に九州玄界灘の海底から取ったきれいな砂を薄くかぶせて人工干潟と言っているらしい。かぶせた砂の層が薄すぎたところでは、人間が乗っただけでヘドロの層まで突き抜けてしまうということのようだ。こんな人工干潟を造成して、「自然環境を保全し、再生・創出する」(事業の宣伝パンフレットから)とよく言えたものだ。

 最近、自然再生法ができてから、干潟創成、藻場造成などと自然再生を行うかのような言いようで、このような自然破壊が横行している。この人工干潟も地元漁協がお願いして作ってもらったことになっているが、国交省はきっと泣いて喜んだのだろう。航路浚渫の土砂をどうするか困っていたのだから。浚渫土砂は産業廃棄物扱いなので、昔のように沖合の海に捨てることも許されていない。陸に揚げれば土地が必要だし、お金もかかる。漁協が人工干潟を造って欲しいといったのは、まさに渡りに船だ。何年かたって、漁協が騙されたと知ったときには、役人たちはみんな交代しているので、誰も責任はとらない。そういうことがこの国には多すぎる。選挙の結果で民主党が政権を取ろうとも、自民党出身者の多い民主党では、官僚の築いた世界を壊すことは難しいのではないか。どれだけできるか期待半分楽しみでもある。

議員定数の削減は民主主義の自殺

2009-08-12 | 政治
タクシーに乗ったら、運転手が景気の悪さを呪ったあと、選挙の話に言及した。彼が言ったことは、もっと議員の数を減らして欲しい、ということだった。同意を求められて、私は言いよどんだ。そして「なぜ?」と聞いた。「議員に支払う税金が無駄だからだ」と、予想した答えが返ってきた。

 世間一般には、そのような言い方が多い。週刊誌や新聞にも、そのような言い方で議員定数の削減を言いつのる言説が多い。自民党も民主党もマニュフェストに衆議院の定数削減を書き込んだ。民主党などは80人削減を約束している。

 でも、待って欲しい。公務員には無駄な公務員もいるかもしれない。議員も税金の無駄だと思う議員もいる。しかし、議員は本来住民の意見を代弁する人なのだ。その代弁者を減らして、わずかの歳費をけちることにどれだけの意味があるのだろうか。むしろ住民の声を聞く人を無くすだけではないか。国会議員は民主主義を体現する存在なのだ。怠惰な議員がいたら、叱咤激励して住民のために働かせることこそ、必要なことであり、議員を減らすことは民主主義を崩壊させることでしかない。

 そんな簡単な民主主義の原則を理解できない低劣な議論が自民党と民主党という大政党で平気で行われていることには、驚くばかりである。民主党よ。政権交代したあと、議員定数を削減するというマニュフェストを変えて欲しい。このままでは、私は民主党を支持できない。ことは民主主義を守るかどうかなのだ。

 この民主主義の危機に、市民団体「平和への結集をめざす市民の風」が声明を出した。議員定数を減らして欲しいと思っている、浅はかな考えを持っている人はよく読んで、考え直して欲しい。

共同声明「国会議員の定数削減に抗議する」
                                        
 民主党は、7月27日に発表した衆選マニフェスト(政権公約)のなかで、「ムダづかい」削減のために衆議院比例区議員の定数80削減を提案した。
 自民党でも、定数削減を政権公約にしている。

 しかし、国会議員の定数削減は、議会制民主主義のもとにおける有権者の多様な意思の表明を困難にし、民主主義の精神を踏みにじるものであり、我々はこの提案に強く抗議する。

1. 議会制民主主義のもとでは、広範な市民の多様な意思をできるだけ的確に議会に反映させること、従ってまたこのための仕組みが極めて重要である。

2. このためには、然るべき人数の議員が必要である。
 現在の衆議院の定数、480人は決して多すぎるものではない。
 現在の選挙制度が発足した時には500人であったが、その後削減されている。

3. ヨーロッパの主要国(独、英、仏、伊)では、人口は日本の2分の1から3分の2であるが、下院議員の定数は600人前後である。
 人口10万人当たりの定数は、独で0.74人、その他では1.0人前後である。
 これに対し、日本では0.38人と極めて少ない。

4. 米国の連邦下院議員定数は、435人と少ないが、独特の大統領制である、州の権限が強い連邦国家であるなど、政治制度が日本と 著しく異なっており、比較の対象にするのは適切ではない。
 それでも、米国の議会予算は日本より大幅に多い。

5. 定数削減の目的は、これまで、民間のリストラ、国の行政改革に対応して、国会も人員、予算の節約を図る必要があるため、といわれてきたが、今回「ムダづかい」削減による財源確保が目的、とされている。
 しかし、国権の最高機関である国会の議員の在り方を、民間や一般公務員と同じように論ずることは基本的に間違っており、特に議員定数の一部を「ムダ」とみなしてその削減を財源確保の手段としていることは、到底容認できない。
 定数削減の結果、国会がまともに機能しなくなったら、民主主義が衰退してしまうことを無視している。

6. このような危険を冒してまで議員定数を削減しても、それによる予算節約はそれほど大きいものではない。
 国会の予算は、国会図書館を除くと約1,100億円である。(この他、政党助成費が321億円ある。)
 これは、一般会計予算の0.12%であり、この一部を削減しても予算の1万分の1から2程度である。       
 因みに、米軍へのいわゆる「思いやり予算」は2千数百億円に上る。また、F-15戦闘機は一機100億円、F-2は120億円である。
 もちろん予算節約の努力は必要であるが、他方、国会の基本的な任務遂行に必要な予算は、民主主義のコストとして負担すべきである。

7. 定数削減は、比例区の定数削減として提案されているが、この提案には、民意をより正確に反映する比例区の定数を削減し、最終的にはこれを無くして、完全な小選挙区制に変えてしまおうという意図が窺われる。マニフェストには「政権交代が実現しやすい選挙制度とする」と記されているからである。
 ただし、専門家によると、小選挙区制では政権交代が起きる可能性が高い、ということは明瞭とはいえない。

8.小選挙区制には問題があることは広く知られているにも拘わらず、選挙制度の在り方について公に議論しないまま、定数削減によって完全な小選挙区制へと実体を変えようということは、極めて不公正、不当な政策であるといわざるをえない。

9. 小選挙区、2大政党制は、統治する立場からは好都合といわれているが、市民の立場からは、多様な民意を的確に反映させることにはならず、不公正である。
 有権者の意思を的確に反映させるためには、少数政党への投票をも尊重する比例代表制を基礎とした制度が絶対に必要である。

10. このように大きな問題があるにも拘わらず、定数削減という方針が尤もらしく聞こえ、一定の支持を得ているのは、ろくに仕事をしない議員が多すぎる、世襲議員が余りにも多い、などのためであろう。
 この状況を改めるのは、定数削減ではなく、望ましくない議員を落選させ、真っ当な人物を選ぶことである。

11. 参議院議員の定数については、今回は触れない。参議院の在り方を議論する過程で慎重に検討すべきである。
 衆参合わせて何割削減などという粗雑な議論は、問題外である。

 以上の理由により、我々は国会議員の定数削減という政策の撤回を強く求める。


厳罰化に向かう裁判員

2009-08-08 | 政治
やっぱり怖れていた事態が起こった。最初の裁判員裁判では、被告も事実関係では争わないという比較的簡単な事件を大々的にマスコミを入れて裁判員裁判がきわめてうまくいったという大宣伝を行った。しかし、その裁判員裁判で、市民が裁判に感情を入れることによる厳罰化が現実化した。量刑を市民が感情に基づいて決めるというやり方は、常に厳罰化の方向に向かう。なぜなら裁判員は加害者ではなく、被害者に感情を移入する傾向にあるからだ。法律の定めにある量刑の範囲でより厳罰に近い量刑に決まるという傾向がこれからの裁判に顕著に現れるであろう。

 裁判員は法を学んではいない。いわば素人である。刑罰には長い時代を通してその意味が研究者や司法の論争によって決まってきた意義がある。刑罰は犯罪に対する復讐ではない。あくまでも罪を犯した人を反省させ、罪を補い、社会に復帰させるという目的がある。そのような目的に沿って裁判員は果たして量刑を決めたであろうか。おそらくそんなことを考えた裁判員はいないのではないか。裁判員には法と司法制度を学ぶ必要を与えていない以上、彼らは量刑を結局は罪への復讐として刑罰を加えるという発想でしか裁判に参加していない。

 裁判での量刑は裁判官が専門家としての立場から、罪と罰の比較考量と受刑者の社会復帰を考えて決めるものである。裁判員が量刑を決めるのはやはりおかしいとしか思えない。とくに重大な刑事犯罪に裁判員を加えるという今回の裁判員制度は、即刻止めるべきである。民主党のマニュフェストには、裁判員制度への言及がない。自分も賛成した制度だったからかもしれないが、裁判員裁判にはマスコミをフル動員したおべんちゃら記事にもかかわらず、やめて欲しいという意見は圧倒的に多い。

 裁判員制度を実施するなら、ぜひとも民事裁判や行政裁判だろう。それならきっと多くの国民がぜひとも参加したいと思うに違いない。政府や自治体が無茶苦茶な論理で推し進める道路、空港、ダムの建設に反対する住民の訴訟にこそ、住民の代表が参加する意義がある。官僚制度を突き崩すもっとも大きな一歩になるだろう。だからこそ、官僚が支配する裁判所はそれを認めないだろう。民主党政権になっても、官僚(制度)はけっして死なない。それを変える強い意志は民主党には見られないように思うのは思い過ごしだろうか。

たばこの臭いに嫌

2009-08-07 | 日記風
北海道、川越、京都と移り住んでみて、排気ガスのにおいがどんどん強くなるのを感じる。さらにタバコのにおいもどんどん強くなっている。もちろん北海道にも川越にも京都と同じくらいかもっと高率でタバコを吸う人はいるにちがいない。しかし、京都では道路を歩いていてしばしばタバコのにおいをかがされる。これは北海道では広大なので道路を歩きながらタバコを吸っていても、道路を歩いている自分が感じることは少ないせいだ。川越では郊外の団地に住んでいたので、そのような人混みの市街地に出かけることも少なかったせいだろう。京都は町中に住んでいるので、道路を歩いていてもどこかから臭ってくるタバコの臭いに辟易する。部屋の中でタバコを禁止している建物が多くなったことも影響しているのかもしれない。タバコを吸おうと思うと道路で吸うしかない。だからあちこちの道路でタバコの臭いがするのだろう。

 もっともかなわないのが、アパートのタバコの臭いだ。川越の団地住宅では、隣近所のタバコの臭いはほとんど気にならなかった。しかし、京都の町中のアパートでは、隣近所のタバコの臭いが遠慮なく襲ってくる。私のアパートの下の部屋では、家族みんながタバコ飲みだから、一日中タバコの臭いが漂ってくる。自分の部屋にいても近所のタバコの煙の臭いを吸わされるというのは、耐え難い。なんとかならないものか。煙が流れてくるわけではないので(少しはあるのかもしれないが)、副流煙を吸わされて健康に被害があるとまでは言えないけれど、毎日朝から晩まで嫌いなタバコの臭いを吸わされる身になって欲しい。かといって、タバコを吸うなと言いに行くわけにもいかない。最近キレる人が多いので、何をされるかわかったものではないからだ。

 タバコの害は明らかで、吸う本人はいいけれど、副流煙の被害は大きいし、臭いだけでも非常に不快になる。WHOの勧告にもかかわらず日本政府はタバコを吸わないように国民に呼びかける義務を果たそうとしない。21世紀の早い時期にタバコの全面禁止を目指しているWHOの目標を無視し続けているのは、タバコ産業への媚びと税収が欲しいからだろう。しかし、国民の健康を害して健康保険が大幅に赤字になるのと、国民の健康を守ることのどちらを取るのかという問題だ。全面禁煙という強権的な政策はあまり感心しないが、道路を含む公共施設からタバコの煙を追放すること、自分と周りの人の健康のために止めるように教育をすること、まずはこの二つから真剣に取り組んでもらいたいものだ。

都会で犬を飼うな

2009-08-01 | 日記風
蒸し暑い夜が続いている。熱帯夜とかで、夜になっても25℃から下がらない。じめーっとした湿度の高さは、北海道では経験したことのない感覚だ。じっとしていても体から汗が流れて、下着がべたべたとしてくる。ああ、いやだ。

 その暑苦しい夜をいっそういらいらする気分にしてくれるのは、窓の外でワンワン吠えまくっている近所の犬だ。この犬は毎日毎日夜になって表の通りに人が通ったと言っては吠え、車が止まったと言っては吠える。うるさいことこの上もない。冬は窓を閉め切っていたので、それほど気にならなかったけれども、それでもうるさい犬だなあと思っていた。夏になると風を入れようと窓は開けっ放しにしているから、犬の吠え声は耳元で吠えていると思うほどうるさい。

 いったい飼い主はどう思っているのだろうか。近所の迷惑なんか何とも思っていないのだろうか。かわいい犬だったら、「あばたもえくぼ」で、何にも気にならないのだろうか。しかし、汗を流しながら不快な夏の暑さに耐えている身にとって、ワンワンとひっきりなしに吠えあげる犬の声は、耐え難い。だいたいこんな町中で番犬みたいに吠え続ける犬を飼うこと自体、少々非常識なのではないか。北海道のように隣の家まで車で数分もかかるようなところならいくら吠える犬でも飼ってもいいだろう。しかし、軒先を並べて生活している都会では、このような犬を飼うのはやめて欲しい。

 今日もテレビで市営団地の犬猫を飼うのを禁止する条例を大阪のある市が制定しようとしていることに対して、市営住宅の住民から反対の声が出ているという。だいたい団地や市営住宅では犬猫の飼育は禁止されているのが普通だ。それなのにそんなことを無視してペットを飼い、もう飼っているから禁止になったら困る、ワンちゃんの人権(犬権)はどうしてくれるんだ、なんていう人たちが多い。これは本当におかしい。まるで軍隊は憲法でもてないことになっているのに、いつのまにか世界で2-3位を争うような規模の大きい自衛隊を持ってしまったから、いまさら自衛隊を憲法違反だなんて言っても困るというようなものだ。違反を承知で飼ったペット(自衛隊)は、やはり違反なのだ。

 いまや日本はペットブームだとか。狭い日本のウサギ小屋住宅で、犬や猫が飼われている。ウサギを飼うなら合っているのかも。犬も吠えるのが本能だから、吠えるなという方が無理だ。吠える犬を飼うなと言いたい。吠えないようにしつけたり、吠えないように性格を変えたりしてまでお座敷犬にして飼うなどというのは、やはりどうみても動物虐待でしかない。犬は都会では飼うべきでないと私は思う。犬が飼えるような環境をまず作るべきだろう。でも田舎に住んでも私は犬を飼いたいとは思わない。動物を飼うのは人間の勝手な行為。動物は生まれたときに人間に育てられるように生まれたと無理矢理刷り込まれているだけだ。上目遣いの犬は犬だ。狼ではない。