「2014年 燕の旅 PART3 ノンジャンル観光案内 ~大いに進め、大いに学べ~」
燕市の地図を見ると、
市の南側、信濃川が大きく分かれ、一方の川は、日本海に抜けていきます。
この一方の川を「大河津分水路」といい、なんと人工の水路なんです。
遠くに光る水面が、大河津分水路。
スケールが大きすぎて、キャメラに納まりきらないほどです。
ふむ。
いったいぜんたい、なじぇ、こげに大きな水路を造ったんじゃろか。
「信濃川大河津資料館」さん、
教えてく~ださ~いな~。
ふむふむ。
信濃川は、舟運による交通路として利用されていました。
シカァシ。いいことばかりではありません。
越後平野は、低湿地。
海岸線は砂丘にさえぎられているため、水はけが悪く、
大雨のたびに、氾濫を繰り返していたのです。
3~4年に1度は、大洪水に見舞われたとのこと。
どげんかせんといかん!と、
江戸時代には、地元の有志が幕府に、分水路建設を願い出たが却下され、
1870年(明治3年)、ついに工事が始まったが、のちに中止。
そして、1896年(明治29年)7月22日に「横田切れ」と呼ばれる水害が起きました。
被害面積18,000ヘクタール。
床下床上浸水が4万3600戸。うち半分以上が家屋流失。
さらに、田んぼの被害を考えると、
筆舌につくしがたい大災害です。
時代は遡って、江戸時代。
信濃川に近い国上山に暮らしていた良寛さまも、
度重なる水害に、心を痛めておられました。
資料館に、漢詩「寛政甲子(かっし)夏」(作家・水上勉が口語訳)が展示されています。
漢詩は難解ですが、口語訳は、ひらがなもあるので読みやすいです。
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
う、ううう・・・。
いかん、視界がぼやけてきます。
良寛さま、水上勉も、泣かせるじゃないか・・・。
みなさんも、ぜひ、お読みください。
資料館に行けない方は、「良寛を歩く」(集英社)に載っています。ぜひご一読を。
苦難の歴史を乗り越え、
1922年(大正11年)大河津分水路が通水。
その後も、可動堰、新洗堰の補修工事が行われ、
2014年(平成26年)には、大河津可動堰改築事業が竣工しました。
真新しいプレート。
防災の心構えを、いま一度、見直すことができました。
自然の猛威は、人間の想像をはるかに超えています。
いかに共生していくか。
我々が考えて、行動していくべきことは、たくさんあります。
「信濃川大河津資料館」
入場無料。
次回は、「国上山遊歩道」で~っす。
くづつ。