通草と薔薇

2015-10-12 | 日記

     

秋の山野の味覚、通草 ( あけび ) 。近くに農家レストランという、食事を提供する自家製野菜直売所がある。ここで牛蒡と葱を買って、それでこの通草を三つもらってきた。まだ小学生の頃、山野の藪に入って行って紫色の通草の実を見つけると、おやつにありついたようで、とても嬉しかったのを思い出す。今ではあんまり好まれないのかな … 。僕はこの紫色の形がとても気に入っていて、郷愁の果実は実に、あけびである。 “ 郷愁の霊魂 ” と言ってもいいが、でも、明日の夕食のデザートに少し冷やしていただこう、と思う。

     

      雨の降り出しそうな夕方、近所の奥さんからもらった赤いバラを飾った。

 


僕の “ 夢 ”

2015-10-11 | 日記

       

パソコンの具合にどうも手こずって、肌寒い雨降りの今夜が一段と鬱陶しいものになったから、昨日の続きでピカソの絵を見ているのである。今日は、家から車で一時間かかって弥彦総合文化会館までをドライヴした。今日から開催のビエンナーレ ( 隔年 ) で行われる 「 2015 弥彦・野外アート展 」 を、今回初めて見てきた。この近辺は弥彦山を中心にして有名な温泉地もあって、海も近くて風光が楽しめる。ここにアートの出る幕があったかどうか … 、でも、それなりに “ 芸術の秋 ” ではあった。そして僕も、夜はそれなりに冷たい雨にもメゲズ、 “ 芸術の時間 ” だった。掲載した写真はピカソの 「 夢 」 を模したパステルで描いた絵で、これからは、実験的にもいろいろな画材を使って描いて見るのもいいような … 、さて、どんなミューズになるか … 。

 


『 夢 』

2015-10-10 | 日記

       

        

パブロ・ピカソが1932年に描いた油彩画 『 夢 』 ( 130×97cm ) 。思ったより大きな作品である。こういう絵が部屋にあったら嬉しいな … 、といつも思うのである。部屋の隅々までが夢で充満するのである。落ち込むことがあっても、こんな絵が部屋に掛かっていたら勇気百倍はもとより、日々の生活がきっとゆたかに、何があってもへこたれないでいることができるだろうナ … 。こういう絵を描いた、または描けたピカソを羨ましく思う。ピカソには、愛する女性が変わるたびに絵が変わって新しい飛躍を遂げる、という伝説がある。この作品もまた伝説を裏切らなかった。1927年、スイス生れのマリー・テレーズという17歳の “ ミューズ ” と出会い、愛したのだった。ピカソはこの時46歳。以来、また別な “ ミューズ ” と出会うまでの数年、テレーズはピカソに霊感を与え続けたのである。 『 夢 』 は僕の最も好きな絵の一つである。いつか同じ大きさのキャンバスで模写をする、というのが僕の一つの夢である。だけど、テレーズの指を六本にしようかどうかは、ずっと迷い続けている。十数年後、ピカソが彼女に送った手紙にはこんな言葉が残されている、という。

        この世で僕は、君と出会ってから生き始めたんだ ……

 


“Cacao70”

2015-10-09 | 日記

        

森永製菓株式会社製の “ Cacao72 ” というチョコレイトの金の包み紙を貼り付けて、パステルで仕上げた小さな絵である。小さな絵だけに色が零れ落ちているようだ。静かな秋の夜に、金色の紙が一層鈍く光っているのは、澄んだ夜の空気が一層透明度をプラスしているからである。

 


『 ピカソ講義 』と夕空

2015-10-04 | 日記

      

これは昨夕の空の色。割と空気も澄んでいて風呂上りの半袖のシャツが気持ちいいのだった。街灯に蛍光灯が灯っている。家の前から撮る代わり映えのないいつもの同じ空中線であるが、しかし変化する空の色でこの空中線のドローイングが違う風景なのである。空という環境が形を変え印象を変えるのである。空の色によって、空気の透明度や風景の明暗によって、僕のこころも明暗するのである。そしてこの明暗も時間と共に移り行き、いつか知らず知らず僕の精神と肉体も変転して行く、のだろう … 。ここで、僕は時間という海を漂流する一個のヴァガボンドである。

         

一個のヴァガボンドにも一つの楽しみがある。紙の上に絵を描くのである。自由気ままに描くのである、紙の上にタブーはない。そして勝手にその絵にタイトルを付ける。そこで、この絵に付けたタイトルは 『 ピカソ講義 』 だった。ピカソ (1881-1973) の言葉として岡本太郎が紹介しているのがある。

絵を描きはじめると、よく美しいものを発見する。人はそれを警戒すべきである。絵を打ち壊し、何度でもやり直すのだ。…… 成功は発見を否定した結果である。そうしなかったら、人は己自身のファンになってしまう。私は私自身を売らない。