夜の村…

2013-09-22 | 日記

僕の村には刈谷田川という大きな川が流れている。夜、僕はこの川べりをウォーキングする。僕の家は村の下手 ( 下流方 ) にあって、歩くコースは家から村外れの上流に架かるコンクリート橋まで行って、そこで数分ばかり我流の柔軟体操をして、また元来た道を戻って家までには約一時間ほどである。特に上流に行けば行くほど道が暗くなるから、少し肝も試されるのだ。小さな野生動物に遭遇することもあるが、天気がいい時には月明かりや、星明りが気分を開放してくれて一日の終わりに感謝するのである。

月が大きくなると星の光が薄くなって星が見え難いが、月のない夜には本当に星が輝くのである。キラキラ星変奏曲の旋律が川の流れと一緒に流れて行く。また、つい先日の満月の夜のように月が満ちてくると、刈谷田川の急流は石と石にぶつかりしながら、月光を砕いて流れて行くのである。暗闇になった田んぼやススキの穂が揺れる草藪には、どうしようもなく鳴いている秋の虫が喧しくもあるが、これもウォーキングの伴走 (?) である。そして今の季節、川風がとても涼しくて、もう今年も、濃い緑色の夏がとっくの昔に過ぎたのだと思わざるを得ないのだった。ポツンと立つ街灯に照らされた、道端に咲く薄紅色の秋桜 ( こすもす ) が数輪、ふるえているように揺れている。夜の秋桜は深い影を映している。僕は闇に沈んだ夜の村が好きだ。明け透けな村はあまり好まないのである。

私は、私たちが共にした最初の日々、私が節子の枕もとに殆んど附ききりで過ごしたそれらの日々のことを思い浮かべようとすると、それらの日々が互に似ているために、その魅力はなくはない単一さのために、殆んどどれが後だか先きだか見分けがつかなくなるような気がする。と言うよりも、私たちはそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私たちの日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身近にあるこの微温 ( なまぬる ) い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、 ― そういったものをもし取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、 ― 我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私たちがこれほど満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、ということを私は確信していられた。 ( 岩波文庫版  堀辰雄著 『 風立ちぬ ・美しい村 』 より引用 )

ここ最近は堀辰雄の本を中心に読んでいるが、昭和52年に筑摩書房から刊行された岡鹿之助が装丁した薄紫色の表紙の 『 堀辰雄全集 』 が美しいからである。全十一巻本なんだけど、どうも 「 第一巻・小説 」 が見つからないのである ( 何処に紛れ込んだのだろう ) 。それで上記の引用は岩波文庫版になった。また、 「 第七巻(上) ノート上 」 にはプルーストやリルケの研究ノートが収録されているので、とても興味深い。ところで、上記引用した文は小説 『 風立ちぬ 』 の中の一節である。 「 単一な日々 」 が充足していたのは、それは 「 節子 」 がいたからだった。ささやかで単純な人生の時間を共有できるたった一人のひとが居さえすれば、それは充たされる日々なのだった。またそれは彼女が死んだ後も、彼女との追憶が、残された人の人生をも充たすのである。

 


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