村野四郎 ( 1901-1975 ) 著 『 今日の詩論 』 ( 昭和61年 宝文館出版刊 ) 。表紙デザイン・装丁は北園克衛 ( 1902-1978 ) 。この本の中で 「 抒情詩の進化 」 という短文があって、中野重治 ( 1902-1979 ) の 「 あかるい娘ら 」 という詩が紹介されている。
わたしの心はかなしいのに
ひろい運動場には白い線がひかれ
あかるい娘たちがとびはねてゐる
わたしの心はかなしいのに
娘たちはみなふつくらと肥えてゐる
手足の色は
白くあるひはあわあわしい栗色をしてゐる
そのきやしやな踵などは
ちやうど鹿のようだ。
著者は解説して、 「 解説するまでもないが、ここでは、 「 わたしの心 」 は無意味にかなしいのではない。作者はこれを二度もくりかえして強めているが、この詩人は、矛盾に充ち、荒れた現実の中で、無心に生長する娘たちのみずみずしい美しさを、胸をしめられるような思いで見つめている。たちまちに荒され、奪われてしまうであろうその美しさに、かぎりない悲哀を感じているのである。 」 と書く。そして 「 これも立派な抒情詩であ 」 り、 「 しかもその感情は、目立たない知性に束ねられて、明確な方向をさし示している。失恋の悲しみなどとは性質のちがった悲しみの中で、ある知的な抵抗を示している。 」 とも書く。 「 知的な抵抗 」 とは、新しい抒情詩の発見への、思考のことであろう。
生命は必然的に死への階梯を孕むのであるから、いつか 「 たちまちに荒され、みずみずしさを奪われてしまう 」 と言う、いのちの悲しみにまで、われわれの知性が到達しなければ、それは知性とは言わないのである。
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