心に残るシーン

2014-09-27 | 日記

最近、このブログで紹介した直木賞受賞作品の葉室麟著 『 蜩ノ記 』 には、心に残るシーンが何ヵ所かあって、ここに一ヵ所、備忘録として書いておいてもいいと思う。そのシーンを下記、引用する。

庄三郎が井戸端で顔を洗っていると、薫がそっと近づいてきた。勇気づけるようなことを言ってやりたいが、お美代の方の出自がわかっただけでは、秋谷の命を救う助けになるとも言えない。しかし、何も伝えないのも気が咎める。庄三郎はたまらなくなって、 「 必ず、戸田様をお救いできる道を探し当てます 」 と口にした。薫は驚いたように顔を上げて庄三郎を見つめた。庄三郎はごほん、と咳払いをして話を続けた。

「 それがしがこの家に参って二年になります。何をなさねばならないのか。いや、何をいたしたいのかがようやくわかってまいりました 」 「 父上を守ると言ってくださるのですか 」 薫は真剣な眼差しをして、庄三郎に詰め寄らんばかりだ。 「 さようです。しかし、それがしがお守りいたしたいのは、戸田様だけではござらん。奥方様も郁太郎殿も、そして薫殿もです 」 「 わたくしまで … 」 薫は戸惑ったように目をしばたいた。落ち着かない素振りで庄三郎は薫に向き直った。 「 それがしは、薫殿を生涯、お守りいたしたい、と思っております 」 薫は見る見るうなじまで赤く染めてうつむいた。そして、うろたえた様子で黙ったまま背を向け、あわてて駆け去った。庄三郎は唖然とした。 ( なんということを言ってしまったのだろう ) 薫のいじらしいほどの健気な面差しに、思わず秘めていた胸の内を告げてしまった。薫の心中を考えもせずに口にしてしまい、嫌われただろうと思って後悔した。

肩を落として、庄三郎は顔を洗い終えると台所から板の間に上がった。朝餉の膳が並んでいる。庄三郎の膳には、生卵がひとつのっていた。隣に座った郁太郎が不思議そうに、 「 今朝は、鶏は卵ひとつしか産んでおりませんでした。母上か、父上が召し上がるとばかり思っておりましたが 」 とつぶやいた。秋谷が箸を取りながら、 「 郁太郎、男子は食べ物のことをあれこれ言うものではない。出されたものをありがたく食せ 」 と淡々と言った。織江が微笑して、 「 そうですよ。檀野様は調べ物でお疲れですから、薫の心づくしです 」 と告げた。

薫は頬を染めてうつむいた。その様子を見た郁太郎が、 「 さようなものですか 」 と首をかしげて少し口を尖らせた。庄三郎は白く輝く卵を見つめた。 ( 薫殿は、わたしを嫌ってはいないようだ ) ほっとすると同時に、いやむしろ、と様々に思いをめぐらせて、庄三郎は嬉しげに口もとを緩めた。 ( 以下略 )

たった一個の生卵が輝くシーンである。読書の楽しみは、僕らの何気ない日常生活を返り見させてくれるところにもあるように思う。普段の食卓にあって気付きもしないような生卵が、こんなにも美しく見えるのである。小説の中での理由はあるにしろ、それはそうに違いないだろうけれども、ひとつの読書によって、ものの見方が鮮明になる、ということはあるのである。形而上か形而下などと言った精神的または物理的な読み方とは離れても、全体のストーリー ( 文脈 ) からワン・シーン ( 断片 ) を切り取ったにしても、読書の楽しみと喜びは自分の日常にちょっとした驚きとささやかな輝きを与えてくれることにあるのではないだろうか。これを読んだ前と後とでは、象徴的に言えば、僕の “ 生卵への ” 感じ方に変化が出てきたのである。なので、今朝は久し振りに、卵かけごはんを食べたのだった。炊きたての新米と生卵、とても美味しい朝餉であった。そうしてまた一日が始まる。

 


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