『 つゆのあとさき 』 ハイライト

2014-03-24 | 日記

昨日のブログの続きで、昭和5年 ( 1931年 ) に脱稿されたという 『 つゆのあとさき 』 の二人の女の、僕なりのハイライト部分を抜書きしてみる。まず、モダン・ガール君江の生き方についての部分である。

十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れないほどであるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉妬 ( しっと ) という感情をもまだ経験した事がないのである。君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤 ( かっとう ) を生じたり、または金を貰 ( もら ) ったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣 ( ほしいまま ) にした方が後くされがなくて好 ( い ) いと思っている。

十七の暮れから二十 ( はたち ) になる今日が日まで、いつもいつも君江はこの戯れのいそがしさにのみ追われて、深刻な恋愛の真情がどんなものかしみじみ考えて見る暇がない。時たま一人孑然 ( ぼつねん ) と貸間の二階に寝ることがないでもないが、そういう時には何より先に平素の寝不足を補って置こうという気になる。それと同時に、やがて疲労の回復した後おのずから来るべき新しい戯れを予想し始めるので、いかなる深刻な事実も、一旦睡 ( ねむり ) に陥 ( おち ) るや否や、その印象は睡眠中に見た夢と同じように影薄く模糊 ( もこ ) としてしまうのである。君江は睡からふと覚めて、いずれが現実、いずれが夢であったかを区別しようとする、その時の情緒の感覚との混淆 ( こんこう ) ほど快いものはないとしている。  ( 以下、略 )

君江は、生きるに冷静な女であった。また冷静でなくては、女一人自分を見失わずに生きられないのである。 「 気ままな戯れを恣に 」 生きる君江に、僕は、ある種の理性と逞しさとを感じずにはいられないのである。 「 恋愛 」 を要求しない孤独な世界を 「 快い 」 とする君江の価値観は、そのまま作者・荷風の生き方でもあった、と思うのである。それが正しいか正しくないかというような形而下のことではなく、時勢に関わらないひとつの姿勢なのであった。自分のスタイルを貫き通すことは、これはモダニズムである。それはまた教養ある知性的女性・鶴子にも、そのままあてはまるのだった。最初、鶴子は子爵かなんかの人妻だったが、いつしか文学青年と恋に落ちて “ 不倫 ” を犯す。そしてこの文学青年は後 ( のち ) に流行作家になるや淫蕩生活を始め、鶴子を顧みなくなるのである。しかし逆に彼女は、男というものに失望したのである。男には依存しない、という生き方を彼女は選択したのである。依存しない、というこれもモダニズムであり、それが学問の世界だった。僕が思うに、鶴子を象徴的に書いたと思われる個所を引用する。

初夏の日かげは真直 ( まっすぐ ) に門内なる栗や楝 ( おうち ) の梢 ( こずえ ) に照渡っているので、垣外の路に横たわる若葉の影もまだ短く縮 ( ちじ ) んでいて、鶏 ( にわとり ) の声のみ勇ましくあちこちに聞こえる真昼時。じみな焦茶 ( こげちゃ ) の日傘をつぼめて、年の頃は三十近い奥様らしい品のいい婦人が門の戸を明けて内に這入 ( はい ) った。髪は無造作に首筋へ落ちかかるように結び、井の字絣 ( がすり ) の金紗 ( きんしゃ ) の袷 ( あわせ ) に、黒一ッ紋の夏羽織。白い肩掛けを引掛 ( ひつか ) けた丈 ( せい ) のすらりとした痩立 ( やせだち ) の姿は、頸 ( うなじ ) の長い目鼻立ちの鮮 ( あざやか ) な色白の細面 ( ほそおもて ) と相俟 ( あいま ) って、いかにも淋 ( さび ) し気に沈着 ( おちつ ) いた様子である。携えていた風呂敷包 ( ふろしきづつみ ) を持替えて、門の戸をしめると、日の照りつけた路端 ( みちばた ) とはちがって、静 ( しずか ) な夏樹の蔭から流れて来る微風 ( そよかぜ ) に、婦人は吹き乱されるおくれ毛を撫 ( な ) でながら、暫 ( しば ) しあたりを見廻した。

 


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