引用

2014-12-05 | 日記

萩原朔太郎 ( 1886-1942 ) が 「 老年と人生 」 というエッセーに、青年の苦しみと老年の悲しみについて書いている。岩波文庫版 『 猫町 』 からの引用である。

( 途中略 ) 僕も五十歳になってから、初めてそういう寛達の気持ちを経験した。何よりも気楽なことは、青年時代のように、性欲が強烈でなくなったことである。青年時代の僕は、それの焦熱地獄のベッドの上で、終日反転悶々して苦しんだが、今ではもうそんな恐ろしい地獄もない。むしろ性欲を一つの生活気分として、客観的にエンジョイすることの興味を知った。昔の僕には、茶亭に芸者遊びをする中年者の気持ちが、どうしても不思議でわからなかった。しかし今では、女を呼んで酌をさしたり、無駄話をしたり、三味線を弾かせたりしながら、そのいわゆる「座敷」の情調気分を味いつつ、静かに酒を飲んで楽しむ人々の心理が、漸くはっきり解って来た。つまりこうした中年者らは、享楽の対象を直接の性的欲求に置くのではなく、むしろその性的なものを基調として、一種の客観的な雰囲気を構成する事で、気分的に充分エンジョイしているのである。 ( 中略 ) 老いて人生が楽しいということは、別の側から観察して、老年のやるせない寂しさを説明している。世の中年者らが、茶屋遊びの雰囲気を楽しむというのも、所詮して彼らが、喪失した青春の日の情熱と悦びを、寂しく紛らすための遊戯に過ぎない。老いて何よりも悲しいことは、かつて青年時代に得られなかった、充分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から、情欲の強烈な快楽に飽満できないという寂しさである。だがそれにも増してなお悲しいのは、真の純潔な恋愛を、異性から求められないということである。八十歳になったゲーテが、十八歳の娘に求婚して断られた時、彼はファウストの老博士を想念し、天を仰いで悪魔の来降を泣き呼ばった。名遂げ功成った一代の英雄や成功者が、老後に幾人の妾 ( めかけ ) を持っても、おそらくその心境には、常に充ちない蕭条たるものがあるであろう。百万石の殿様から恋をされ、富貴を捨てて若い貧乏の職人に情立てした江戸の遊女は、常識の意味で悲劇人であった。だがそれを悲しみ怒って、愛する女を斬った中年の殿様は、もっと哲学的の意味で悲劇人であった。

このエッセーが発表されたのは朔太郎五十歳以後だろうから、時代は昭和十年代初めである。なので、時代が違うと言えば言えるのだが、しかし人の心理にはそんなに違いがあるとは思われない。これは男の立場から書かれた中年者の楽しみと寂しさであるが、女の立場から見るとどうなんだろう。中年者の女性のことを今の言葉で言うと、熟女と言うことになるが、熟女の立場から見ると、その楽しみと悦びまたは寂しさはどうなんだろう。性欲というものを 「 客観的にエンジョイ 」 するんだろうか。失礼ながらその前に、性的な享楽を求めると言う欲求があるんだろうか、という疑問もある。そうは言っても人間の世界も他の動物と同じくオスとメスの世界である。どんな生物にも “ 種の保存 ” という宿命がある。しかし人間には知性があるから人間なのだった。人は動物的性の他に、知性的性をも備えているのである。知性的性という言葉をうまく説明できないが、中年者の僕としては、この年になっても美しい人には心惹かれるのである。この 「 美しい人 」 というのはある意味、女性の知性的性に惹かれる、ということなのかも知れない。知性にも女性性があるのである。 ( うまく言えないな … )

 


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