風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

映画三昧三題(1)/ICHI

2008-11-19 23:26:26 | コラムなこむら返し
 宿直明けは、眠らず映画を見に行く機会が多くなった。ほとんど眠っていない訳だから、うす暗い映画館で退屈な映画であれば、ついウトウトしてしまう。それも、ひとつの映画評だと思う。つまり、眠らせない映画作品はいい作品だ、という評価の仕方である(笑)。

 『20世紀少年』のあと3本の映画を見た。もう感想を個別に書く時間もなさそうなので駆け足でコメントしておきたい。

 『ICHI』:あの勝新の当たり役「座頭市」のリメイクであり、それも市は女性という設定である。盲目の女性ならば、按摩を生業とした座頭市とは違いもしやゴゼさんではないかという期待をもって見に行ったのである。そして、それは当たった。それに、クレジットによれば脚本は女性である(浅野妙子)。大いに期待がもてる。そう思って見始めたのだが、期待はすぐ失望に変わった。
 まずゴゼさんのことが、研究されていない。主演の綾瀬はるかがうたう童歌のような子守唄は、ゴゼ唄ではありはしない。ゴザは、身なりを美しくしても芸者のような座敷芸はできない。というか、しないだろう。ゴゼ唄は、門付の語り物の歌であり、いわば説経節だからだ。
 ありふれた勧善懲悪のストーリー、それも敵役はまるで大時代がかった山賊(万鬼党)だというのだ。その首領を演じた中村獅童が、まるで歌舞伎の中の大盗賊の芝居のままでクサイ。おそらく、「白浪物」の演じ方を念頭においていたに違いない。もしかして、娯楽作品は歌舞伎役者の典型で勝負しようと、考えていたのならそれはそれで凄いと思うが、なんというか貫祿不足だ。
 父を探す市と、母を失明させたトラウマによって腕はたつのに、真剣が抜けないトンマいや十馬(大沢たかお)の設定とが、うまくからんでいない。これも、惜しい。まるでマンガチックな表現になってしまった。
 盲目の娘である市をゴゼ宿に預け、ときにあらわれては下手袈裟切りの抜き打ちを教えたというその父が、もしかしたら座頭市ではないかというほのめかしがうすい。それに、盲目であることが遺伝するような設定はマズイだろう。
 などなど多々の注文がついて、エンターティメントである点を割り引いても評価は【★★】

 監督:曽利文彦 脚本:浅野妙子 原作:子母澤寛 2008年日本映画

 ICHI公式サイト→http://wwws.warnerbros.co.jp/ichi/