風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ドラえもんとロボット研究の賞のこと

2005-01-18 11:49:00 | トリビアな日々
新聞の片隅に載っていたのだが、この間のボクのこだわり(なにしろまる5日間ロボットについて考え、書きついでいた)と17日(阪神淡路大震災の日)、19日(大阪にて今回のスマトラ沖大地震と津波の被災者に対するチャリティ・ライブが行われボクは出演する)の災害問題をつなぐような記事があったので、これを取り上げ、またこの青年の事を記憶にとどめておきたい。

阪神大震災に遭遇し、23歳で亡くなった神戸大大学院生「きそいもとひろ(競 基弘)賞」というロボット研究者にあたえられる賞が震災10年めの17日創設された。競さんは、ロボットアームの研究をし、人間なみの五感をそなえた「癒しロボット」を夢見ていたが、夢むなしく下宿先の木造アパートの下敷きになって死亡していたのを震災後に発見された。優秀な研究者だった競さんを悼み、その研究をひきつぐ形でレスキュー技術の開発で成果をあげた40歳未満の若い研究者を対象に贈られる。
運営団体は救助ロボットの研究開発をすすめるNPO法人・国際レスキューシステム研究機構(川崎市)。
もっとも、年齢的には若い(生きていれば33歳)競さんのロボットとしての原点はアトムではなく、「ドラえもん」だったそうで、崩壊した下宿の部屋には「ドラえもん」の人形も残されていたという。

(以下コメント)
ドラえもんは「タケコプター」「タイムマシーン」「どこでもドア」「なんでもポケット」など便利な魔法のような秘密道具を持っておりその方にばかり目を奪われがちだが、ドラえもん自体のキャラクターとしての癒し度は、たしかにポイントが高いかも知れない。もう10年以上も前だが、バンコクやインドネシアなどでもドラえもんは大人気で海賊版のコミックがあふれかえっていた。

どうも、ボクは携帯電話を見ると、いまだドラエもんの秘密道具かと思うのだが、頭が60年代だから大目にみてもらいたい。
ドラえもんはTV朝日の「ドラえもん募金」として、今回のスマトラ沖地震・津波の救援募金にも活躍しているすぐれものの癒し系ネコ型ロボットではある(笑)。

ロボット開発の若き研究者のために創設された新しい競(きそい)賞のトロフィが、どうかドラえもんもしくはドラえもんが大好きなドラ焼きの形をしていることをボクは祈るばかりだ。

(2~3日大阪に出没するためお休みです。よろしく、どんどんアクセスしてください。それだけが、はげみですので……(^.^;))


10年目の神戸へ……

2005-01-18 00:26:52 | まぼろしの街/ゆめの街
takatori阪神淡路大震災から10年目の1月17日??もう、10年という月日がたつのだ。あの頃はまだ成人の日が15日で、その休日が過ぎてすぐの大惨事だった。なにが起ったのか、どのくらいの規模なのか、神戸は壊滅したのか、その範囲はどのくらいなのか状況はさっぱり掴めなかった。安否を問い合わせる電話がパンクして、神戸や関西に電話をかけるのは遠慮するようにとTVのアナウンサーが言っていたのを記憶している。

ボクが、その歪んだ街をその目にしたのは、震災から2年の月日がたっていたと思う。震災後に現地事務所をおいたあるNGO団体の長田事務所に手伝いに行ったのだった。高速道路はまだ、復旧しておらず途中から高速バスは下の一般道を走って神戸に着いた。三ノ宮あたりでは、さほど目立たなかった崩壊や、空き地も長田へ行くとまだまだ空き地や燃えた屋根瓦などが残っていた。居酒屋は仮設のまま営業しており、崩壊をまぬがれたわずかの建物も奇妙に歪んでおり、バランス感覚を失いそうになった。

仮設住宅に住む一人暮らしの老人たちの訪問や、行事の炊き出しなどを手伝った。その頃は、震災後のショックもある上に、人間関係、環境の激変に耐えられなくなったのか、仮設住宅での多くの「孤独死」が問題になっていた。同じように、病身の老いた母をかかえていたボクは仮設住宅であった老婆や、老人たちが他人事のように思われなかったのだ。

色々、思い出がよぎってきた。その後、ようとして行方の知れなくなった老婆もいる。心当たりがないかとボクのところまで、電話がかかってきたことがあった。

長田や、鷹取の風景で忘れられないものをふたつあげるとすれば、そのひとつは市民野球場のグラウンドの中に建てられた仮設住宅の風景である。そこではどこ居てもスコアボードが見え、その黒地のスコアボード上に「0」「0」「0」と、白地のスコアが並んでいるのがいまだ目に浮かんで来る。

もうひとつは、地域ラジオ局「FMワイワイ」を訪ねて行った時のことだ。「FMワイワイ」は長田、鷹取に多く住むベトナム、コリア、フィリピンなどのひとのために震災後に多言語のコミュニティ放送をはじめたミニ放送局だった。インターネット放送も始めていたから、現在もネットから聞けると思うが(ちと確認していない)、その放送局兼スタジオは鷹取教会の敷地内にあった。そして、その教会の庭に建つキリスト像はあたかも炎を制止するかのように両手を左右にのばしており、その前で震災で発生した火災が止まったと、言われていた。もう、記憶は薄れかけているが、そのキリスト像とすぐ傍の聖堂がなんとロール状のダンボールで出来ており、その美しさに当時のボクはびっくりしたのだった。
(安くて、軽くて、丈夫なこの建材で建てられた建築物は、その後の災害でも世界各地に建てられたらしい。画像は佐野正幸さんの版画をお借りしました。「炎をくい止めたキリスト像」が描かれています。)