このタイミングでないともう書かないだろうから、今のうちに書いておこう。いや、唐辛子にからむエピソードなんだが(笑)、これはもうひとつの歌謡史にもかかわるかもしれない。案外知られていない事なのだ。
このエピソードは、少なくとも、昨日の記事でふれた『トウガラシの文化誌』には書いてあったから、案外、海外では有名な話なのかも知れない。
「あのねのね」というフォークデュオのグループがいた。その歌詞は駄ジャレであって、むしろコミック・ソングのジャンルであった。それでも、結構人気を得て清水ナントカという片割れはタレントになり、最近ではアウトドアの指導者みたいな活動をして時々TVに出ているようだ。
そのフォークデュオ「あのねのね」の出世作が「赤トンボ」であった。
赤トンボ 赤トンボ 羽を取ったら 柿の種
柿の種 柿の種 羽をつけたら 赤トンボ
とか言う、たわいもない歌詞とメロディなのだが、これが結構受けてヒットした。人間なにがどうなるか分かったもんじゃないのである(笑)。だから、皆も気落ちせずに頑張りたまえ!
で、ここからが、本題なのだが、このコミカルな歌詞は実は、俳聖松尾芭蕉のパクリなのである! エェッ~~! と驚かれただろうか?
このエピソードは『トウガラシの文化誌』(アマール・ナージ/晶文社/1999)の197ページに出てくる話で、また、きっとこの本を主な出典とした『トウガラシのちいさな旅』(越川芳明/白水社/2006)にも触れられてある(107ページ)。
『芭蕉俳句集』(岩波文庫/中村俊定・校注)には唐辛子に関する句は4句ある。
青くてもあるべきものを唐辛子
隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子
草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
唐辛子思ひこなさじ物の種
芭蕉の弟子の其角がつくった「あかとんぼ はねをとったら とうがらし」という句を、師芭蕉みずから「とうがらし はねをつけたら あかとんぼ」と訂正したというエピソードが残っている。その時、芭蕉は言ったというのである。「それじゃ、俳句とはいえん。おまえはトンボを殺してしまっている」。ハアッ? ま、そのとおりだが……。羽をもぐ訳ですからね。
芭蕉もユーモラスな人物だったとみえる。で、このエピソードを著作で引用したアマール・ナージはインドのベンガル州生まれ、現在NYに住みウォール・ストリート・ジャーナルの気鋭の記者だということだ。そのアマールは粋なコメントをつけている。
「トンボは秋を告げる先触れである。そして、羽のないトンボであるトウガラシも、同じように秋を告げるものなのだ。」
いや、違うじゃないか、「あのねのね」のは「柿の種」だったよ??とおっしゃるのでしょうか? それでも、パクリではないと言うのは強弁というものでしょう。「柿の種」より、「唐辛子」のほうが色も鮮やかで、季節感もあり見事です。
それにそれぞれの句の成立事情を知ってみると、実に深いのです。最初の句「青くてもあるべきものを唐辛子」は、「俳諧深川」に出てくる句で、門弟のひとり酒堂が、俳諧修行のすすまぬ悩みをかかえて芭蕉庵を訪ねてきた際、4人で詠んだ四吟歌仙の句だというのです。弟子の青さを赤くなる唐辛子にたとえたという句なのです。
ふたつめの「隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子」に至っては、「笈の小文」の旅で現在の豊橋にあった門弟の加藤烏巣(うそう)宅に宿をとった時、出された質素な食事(菜汁に唐辛子を入れたもの)に弟子の隠し事のない質素な暮らしぶりに感心し、共感して出来た句だというのですから……。
ついでに書いておくと、「金八先生」が当たり役になって、すっかり俳優になった感がある武田鉄矢さんのフォークグループ「海援隊」時代のうた。「思えば遠くへ来たもんだ」(タイトルもそうだったと思いましたが、ともかく歌い出しのフレーズです)は、中原中也です。中原中也の「頑是ない歌」の最初のフレーズのパクリと言えるでしょう。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ
武田さんの歌詞も、「あのねのね」の「赤トンボ」の歌詞もJASRAC((社)日本音楽著作権協会)で著作権が守られていると思いますが、妙な話ではないでしょうか?
(あ、この後段は著作権に関しての挑発ではありませんので、念のため。)
このエピソードは、少なくとも、昨日の記事でふれた『トウガラシの文化誌』には書いてあったから、案外、海外では有名な話なのかも知れない。
「あのねのね」というフォークデュオのグループがいた。その歌詞は駄ジャレであって、むしろコミック・ソングのジャンルであった。それでも、結構人気を得て清水ナントカという片割れはタレントになり、最近ではアウトドアの指導者みたいな活動をして時々TVに出ているようだ。
そのフォークデュオ「あのねのね」の出世作が「赤トンボ」であった。
赤トンボ 赤トンボ 羽を取ったら 柿の種
柿の種 柿の種 羽をつけたら 赤トンボ
とか言う、たわいもない歌詞とメロディなのだが、これが結構受けてヒットした。人間なにがどうなるか分かったもんじゃないのである(笑)。だから、皆も気落ちせずに頑張りたまえ!
で、ここからが、本題なのだが、このコミカルな歌詞は実は、俳聖松尾芭蕉のパクリなのである! エェッ~~! と驚かれただろうか?
このエピソードは『トウガラシの文化誌』(アマール・ナージ/晶文社/1999)の197ページに出てくる話で、また、きっとこの本を主な出典とした『トウガラシのちいさな旅』(越川芳明/白水社/2006)にも触れられてある(107ページ)。
『芭蕉俳句集』(岩波文庫/中村俊定・校注)には唐辛子に関する句は4句ある。
青くてもあるべきものを唐辛子
隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子
草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
唐辛子思ひこなさじ物の種
芭蕉の弟子の其角がつくった「あかとんぼ はねをとったら とうがらし」という句を、師芭蕉みずから「とうがらし はねをつけたら あかとんぼ」と訂正したというエピソードが残っている。その時、芭蕉は言ったというのである。「それじゃ、俳句とはいえん。おまえはトンボを殺してしまっている」。ハアッ? ま、そのとおりだが……。羽をもぐ訳ですからね。
芭蕉もユーモラスな人物だったとみえる。で、このエピソードを著作で引用したアマール・ナージはインドのベンガル州生まれ、現在NYに住みウォール・ストリート・ジャーナルの気鋭の記者だということだ。そのアマールは粋なコメントをつけている。
「トンボは秋を告げる先触れである。そして、羽のないトンボであるトウガラシも、同じように秋を告げるものなのだ。」
いや、違うじゃないか、「あのねのね」のは「柿の種」だったよ??とおっしゃるのでしょうか? それでも、パクリではないと言うのは強弁というものでしょう。「柿の種」より、「唐辛子」のほうが色も鮮やかで、季節感もあり見事です。
それにそれぞれの句の成立事情を知ってみると、実に深いのです。最初の句「青くてもあるべきものを唐辛子」は、「俳諧深川」に出てくる句で、門弟のひとり酒堂が、俳諧修行のすすまぬ悩みをかかえて芭蕉庵を訪ねてきた際、4人で詠んだ四吟歌仙の句だというのです。弟子の青さを赤くなる唐辛子にたとえたという句なのです。
ふたつめの「隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子」に至っては、「笈の小文」の旅で現在の豊橋にあった門弟の加藤烏巣(うそう)宅に宿をとった時、出された質素な食事(菜汁に唐辛子を入れたもの)に弟子の隠し事のない質素な暮らしぶりに感心し、共感して出来た句だというのですから……。
ついでに書いておくと、「金八先生」が当たり役になって、すっかり俳優になった感がある武田鉄矢さんのフォークグループ「海援隊」時代のうた。「思えば遠くへ来たもんだ」(タイトルもそうだったと思いましたが、ともかく歌い出しのフレーズです)は、中原中也です。中原中也の「頑是ない歌」の最初のフレーズのパクリと言えるでしょう。
思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ
武田さんの歌詞も、「あのねのね」の「赤トンボ」の歌詞もJASRAC((社)日本音楽著作権協会)で著作権が守られていると思いますが、妙な話ではないでしょうか?
(あ、この後段は著作権に関しての挑発ではありませんので、念のため。)
唐辛子っておそらく深い。味わいもそうだけど、唐辛子の深さが、話題(テーマ)の発汗作用をうながすのかも(笑)!
トンガラシも唐辛子も同んなじじゃないすか?
ね!