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第1日め。2月25日、19:00東京駅発の寝台急行「あさかぜ」下関行きに乗り込む。東京駅10番ホームは、鉄道ファンに、にわかファンまでを巻き込んでカメラの放列だった。この騒動は、結局2/28~3/1のラスト・ランまで絶えることはなかった。
それに、この列車に乗り込んでいる大半の人間は、他称・自称ともに鉄道ファンが圧倒的で、たとえば4号車のラウンジカーを占拠している連中は、サラダ、ビールを持ち込んでオフ会ノリの宴会を繰り広げていた。
口々にブルトレに関する取って置きの(でもきっと『鉄道ファン』などの雑誌や、本から集めた知識)トリビアを披露している!
ボクは、そこで聞くともなく聞いていてかってこの「あさかぜ」には、豪華な食堂車が付いていたことなどを知る。食堂車の記憶と言うものはあることはあるが、それがどの列車の物だったかのチェックは入っていない。ボクが、列車にそれぞれ愛称が付いていて編成や、デザインが統一されているらしいことを知るのは、ずっと後のことだ。列車はボクにとって、ボクをどこか遠くへ連れ去っていく手段だった。なにしろ、ボクが列車に乗るのは自分の意志ではなく、大人の意志や都合によって、三角(みすみ・熊本県)に、藤崎神社(熊本市内)そばに、そして東京にと連れ回されたからだ。
長崎に生を受けたボクは、あとで触れるが台湾からの引揚者の家に戦後生まれた。台湾でも砂糖関連の投機で成功していた祖父は帰ってきてからも、街の名士だったらしい。政治家や経済人との面識、交流があって選挙応援などにも演説を頼まれたりしていたらしい。その祖父がボクが7歳の時に亡くなり(その葬式も、初盆の精霊船も豪華だった! いまだ、目に焼き付いている)遊び人の父との間に喧嘩の絶えなかった我が家は、経済的支柱を失ったのと同然で、崩壊し離散する。ボクがディアスポラになった瞬間だ。
ボクは東京に根付く2~3年は主に九州のあちこちを転々と引き回された。おもに熊本が多かったのは、母の出身地だったからだ。
そんなボクが、経済力はないくせに女だけを見つけるのは上手かった父に(誰ですか、お前と同じだと言う人は!)連れられて東京に住むことになったのは昭和30年代のある冬の日だった。
上京するためにのった汽車は、木の硬い席だったから(中国語で硬座というやつだ)寝台特急ではなかったようだ。その時、門司から下関へ関門トンネルで海峡を越えるとき、見た風景が冬ざれた寂しい風景だったものだ。
黒い枕木と、コールタール臭い匂いと、冬ざれた海峡にたたずむ寂し気な立木、そして遠方にあったボタ山、黒い煙りを吐く工場……。
北九州市に合併される以前、このあたりは後背に炭坑をひかえる一大工業地帯であり、新日鐵(新日本製鐵)の前身であった官営の八幡製鉄所などの国策会社が軒をならべていた。敗戦で煙突の煙りも消えていたが、50年の朝鮮戦争のぼっ発により、特需が生まれ重工業は息を吹き返す。開高健原作の映画では「七色の煙」を吐き出す煙突を、希望の虹にたとえていたが、まさしくその20年後には大気汚染の元凶とやっと指摘される七色の煙りとは、重金属の煙ないしは、その危険な雲だったのである。
そして、寝台特急の「さくら」や「ふじ」(大分行き)「はやぶさ」(熊本行き:これにも2000年に乗った)などの列車は、関門トンネルを越えるため下関や、門司で牽引する機関車を交換する作業をするため他の駅より長く停車していたらしい。
つまり、少年時代のボクが記憶にとどめた風景とは、おそらくその連結作業のおりの長い停車時間に見たもののようなのである。
ボクは得々として、自分史を語っている訳ではない。昭和30年代に少年時代を過ごしたベビーブーマー(いわゆる団塊の)世代なら、だれしもが多かれ少なかれのみじめさや、貧しさを体験してきている。そのような一庶民の事例として公にするものだ。だから、最近ブームが続いている「昭和30年代」の、能天気な賞賛にボクは賛成することができない。あらたなベビーブーマー世代をターゲットにしたものだろうという戦略しか透けて見えてこない。
おっと、ブルトレの旅の話から大幅に脱線した。しかし、このような当時の心情を甦らせてみたくて、ボクは今回の「あさかぜ」(本当は長崎直行の「さくら」に乗りたかったのだが…)のラスト・ランに乗る旅を敢行したのだ。
(つづく)
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