受難の物語には、必ずイスカリオテのユダが登場します。
イスカリオテのユダはなぜイエスを裏切ったのか。
その理由について、マタイとルカとでは大きな違いがあります。
それは、金銭欲か「サタン」の存在かの問題です。
「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(マタイ26章14-15節)
「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22章3-6節)
ヨハネの福音は、金銭欲とサタンの存在との両方を描き込みます(ヨハネ12章6節と13章27節)。
一方、マルコの福音は明確な理由を書いていません。
ところが、最近「ユダの福音書」なるものが見つかったとニュースになりました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060407i301.htm
(YOMIURI ONLINEより)
http://www.asahi.com/international/update/0407/006.html(asahi.comより)
もちろん、これは正典ではなく「外典」と呼べるものでもありませんので、なんら正典としての聖書解釈に影響を及ぼすものではないでしょう。また、元々ユダ本人が書いたものの写本であると言えるものでもありません。
が、イスカリオテのユダを、忠実にはたらいたイエスの僕として描くことによって救済しようとした人々がいた、ということなのでしょうか。
それだけイスカリオテのユダは、私たちの心の中に潜む、きわめて人間的な影の姿をあらわしているのかもしれません。
さて、きょうは群馬県の伊勢崎教会で聖香油のミサがあり、ぼくも行ってきます。ここで、司教による油の聖別があります。また司祭団にとっては、叙階の秘跡を記念し、その約束を更新する日でもあります。
写真は、ユキヤナギの花。
イスカリオテのユダはなぜイエスを裏切ったのか。
その理由について、マタイとルカとでは大きな違いがあります。
それは、金銭欲か「サタン」の存在かの問題です。
「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(マタイ26章14-15節)
「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22章3-6節)
ヨハネの福音は、金銭欲とサタンの存在との両方を描き込みます(ヨハネ12章6節と13章27節)。
一方、マルコの福音は明確な理由を書いていません。
ところが、最近「ユダの福音書」なるものが見つかったとニュースになりました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20060407i301.htm
(YOMIURI ONLINEより)
http://www.asahi.com/international/update/0407/006.html(asahi.comより)
もちろん、これは正典ではなく「外典」と呼べるものでもありませんので、なんら正典としての聖書解釈に影響を及ぼすものではないでしょう。また、元々ユダ本人が書いたものの写本であると言えるものでもありません。
が、イスカリオテのユダを、忠実にはたらいたイエスの僕として描くことによって救済しようとした人々がいた、ということなのでしょうか。
それだけイスカリオテのユダは、私たちの心の中に潜む、きわめて人間的な影の姿をあらわしているのかもしれません。
さて、きょうは群馬県の伊勢崎教会で聖香油のミサがあり、ぼくも行ってきます。ここで、司教による油の聖別があります。また司祭団にとっては、叙階の秘跡を記念し、その約束を更新する日でもあります。
写真は、ユキヤナギの花。
その神父様は福音書朗読が終わった直後(ちなみに福音書朗読をされていたのは東欧出身の別の神父様でした)、第一声で「イエスとユダの秘密の会話についてのドキュメントが見つかったという報道はご存知ですよね」と語り始めて、グノーシス思想の特徴や新約聖書の4つの福音書の正当性を説明されていました。
「ユダの福音書」発見についての詳細は今月号のナショナル・ジオグラフィック誌に載るそうなので学問的な興味として僕も読もうと思っています。でも、千原神父様の書かれた『イスカリオテのユダを、忠実にはたらいたイエスの僕として描くことによって救済しようとした人々がいた』という観点にはハッとさせられました。これは僕ら一人ひとりの心の中の「ユダ」とどう向き合うかの問題なのかも知れませんね。
ナショナル・ジオグラフィックの日本語版にも載るそうですが、正直なところ、ぼくはいまひとつ購入意欲がおこりません。
何か興味あることが書かれていたら教えてくださいね。
いよいよ聖木曜日。
聖なる過越の三日間が始まりましたね。
ぼく自身、日曜日までの期間を元気に過ぎ越せるようにと願っています。
「僕ら一人ひとりの心の中の『ユダ』とどう向き合うかの問題なのかも知れませんね」
どうもありがとうございます。
ぼくもまったくその通りだと思っていました。
ペトロもイエスの仲間であることを3度も否定して、イエスを裏切ったわけですが、私たちも裏切る可能性はあるし、もしかしたら、すでに自分の気づかないうちに裏切ってしまっているかもしれない、そんな風に思っています。
(今朝、ようやく取手に戻ってきました。)