みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

49歳

2009-06-27 10:49:50 | Everyday is special
フィリピンからこんにちは。
先週末から、修道会の修練院に滞在しています。
修練長のインドネシア人の神父さんが、インドネシア管区の総会のために帰国している間のピンチヒッターです(18日間)。

短期間とは言え、そして臨時代行とは言え、曲がりなりにも修練長。重責です。
修練期は、自分自身を見つめながら修道会の生き方を学んでいく大切な期間。
一年間の修練を終えると、初誓願を立てて、修道会の一員になります。

現在フィリピンの修練院には、もう一人のインドネシア人の神父さんと、9名の修練者が住んでいます。そのうち、4名はインドから、4名はインドネシアから、そしてあとの一人はフィリピンからです。

20代前半の若者がほとんどで、話をしてみると、ものすごく純粋無垢な感じ。自分にもこんな時期があったのだろうか、純粋さはどこに行ってしまったのだろうか、と思ってしまいます。

そんな今日、49歳になりました。

朝のミサから、皆に祈っていただいて、たくさん祝福をいただきました。
感謝です。

49歳といえば、モロカイ島でハンセン病患者のために尽くし、自らもその病に倒れた福者ダミアン神父が帰天したのが同じ49歳。

変な話ですが、気になって調べてみると、49歳で亡くなった人には、たとえば夏目漱石、山下清や寺山修司、最近では逸見政孝さんなどがいます(こんなことがインターネットで調べられるのですね)。

ちなみに、ぼくの尊敬する岩下壮一神父は51歳、戸塚文卿神父は47歳で亡くなっています。

みんな若かったんだなあ。けど、ぼくの同級生にも、すでに亡くなった友人が何人もいます。

昔は「人生50年」と言って、岩下神父や戸塚神父の伝記を読むと、その時代、あたかも自分の生きる期間がわかっていたかのように、壮絶なほどの人生を送っていたことがわかります。

現在は、平均寿命からすれば人生80年。
もちろん、ぼくは彼らのようには生きることはできませんが、それでも、やはり50年というのは節目のひとつなのかもしれません。

論語に有名な一節があります。

吾十有五而志于学(吾15にして学に志し)
三十而立(30にして立ち)
四十而不惑(40にして惑わず)
五十而知天命(50にして天命を知り)
六十而耳順(60にして耳にしたがう)
七十而従心所欲不踰矩(70にして心の欲するところに従って矩[のり]をこえず)

孔子という人は人生をたいへんに深く見つめたすごい人だったんだなと、あらためて思います。自分はと言えば、いまだに惑っている感がありますが、これからが楽しみです。

49は7の7倍。7は聖書の中では完全数のひとつ。「数え」で数えれば50です。
そこに何か意味を見つけようとしている自分がいます。

というわけでして、おかげ様で、ぼくは今のところ健康には恵まれていますので、どうかご安心を。

写真は、先日の終生誓願式の行われたクバオ教区のカテドラルの地下聖堂の祭壇。