関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉市の御朱印-13 (B.名越口-8)
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)から。
40.隨我山 来迎寺(らいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-9-5
時宗
御本尊:阿弥陀如来(弥陀三尊)
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第14番
鎌倉には来迎寺を号する時宗の寺院がふたつあります。
ふつう満光山 来迎寺を「西御門来迎寺」、隨我山 来迎寺を「材木座来迎寺」と呼んで区別しているようです。
来迎寺は材木座の氏神とされる五所神社の並びにある時宗寺院です。
公式Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
来迎寺は建久五年(1194年)、源頼朝公が鎌倉幕府開創の礎石となった三浦大介義明の冥福を祈るため、真言宗能蔵寺を建立したのが創始とされますが、草創時の開山は不明です。
頼朝公亡きあと、音阿上人が開山となり時宗に改宗して来迎寺と号を改めました。
境内には三浦義明の木造と、義明および多々良重春(一説には義明夫婦)の二基一組の五輪塔墓があり、本堂裏手には三浦一族の墓とされる百基あまりの五輪塔や寶篋印塔が並びます。
多々良重春は石橋山の戦いで戦死した武将で、三浦義明の孫ともいいます。
御本尊は阿弥陀如来(弥陀三尊)で、三浦義明の守護佛と伝わります。
鎌倉三十三所観音霊場第14番札所としても知られ、札所本尊は「子育て観音」。
この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、古来から尊崇を集めました。
以前は当山本堂裏側の山頂に観音堂がありましたが、昭和十一年、軍事的な理由から国の指令により取り壊されたといいます。
従前の観音堂は鎌倉市街を隔て、長谷観音と相対していたといいます。
当山は明治五年十二月の材木座発火の類焼に遭い寺宝はことごとく消失したといいます。
よって『新編相模国風土記稿』にある「宗祖一遍上人像、三浦義明の像」は現存しません。
三浦氏については「鎌倉殿の13人」と御朱印-6/37.岩浦山 福寿寺にまとめているので転記します。
三浦氏は桓武平氏良文流(ないし良兼流)で、神奈川県資料『三浦一族関連略系図』によると、高望王の子孫・為通が村岡姓を三浦姓に改め、為継、義継、義明と嗣いでいます。
三浦大介義明は三浦郡衣笠城に拠った武将で三浦荘の在庁官人。
”三浦介”を称して三浦半島一円に勢力を張りました。
三浦氏は、千葉氏・上総氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏とともに「坂東八平氏」に数えられる名族です。
義明の娘は源義朝公の側室に入ったとされ、義朝の子・義平が叔父の義賢と戦った「大蔵合戦」でも義朝・義平側に与しました。
(義平公の母が義明の娘という説もあり)
このような背景もあってか、治承四年(1180年)の頼朝公旗揚げ時には当初から一貫して頼朝公側につき、次男の義澄率いる三浦一族は加勢のため伊豆に向けて出撃するも、大雨で酒匂川を渡れず石橋山の戦いには参戦していません。
衣笠城への帰途、三浦軍は由比ヶ浜~小坪辺で畠山軍と遭遇し、畠山を撃退しました。
しかし、衣笠城に帰参してほどない治承四年(1180年)8月26日、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父一族に攻められ、子の義澄以下一族を安房に逃した後、義明は奮戦むなしく討ち死にしました。(衣笠城合戦)
『吾妻鏡』によると、義明は「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興に巡りあうことができた。今は老いた命を武衛(頼朝公)に捧げ、子孫の手柄としたい。」と言い遺し、従容として世を去ったといいます。ときに齢89歳。
三浦義明の娘は畠山重能の正室といいますが、子に恵まれず江戸重継の娘を側室として重忠ら兄弟を生み、嫡男の重忠は義明の娘の養子となったという説があります。
(論拠は『源平盛衰記』が三浦義明が重忠を「継子孫」と呼んでいること。)
一方、三浦義明は実孫の畠山重忠に討たれたという説もあり、このあたりははっきりしません。
頼朝公は、老躯をおして秩父一族に対抗し討ち死にした三浦義明の功績を高く評価し、義明を称えたといいます。
頼朝公が衣笠の満昌寺で義明の十七回忌法要を催した際、「義明はまだ存命し加護してくれているのだ」と宣ったといい、戦死したときの89歳に回忌17年を加えた106から、義明は後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれることとなります。
義明の犠牲により落ち延びた三浦一族は安房国で頼朝勢に合流、千葉常胤・上総介広常などの加勢を得て頼朝公は再挙し、10月に武蔵国へ入ると、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は隅田川の長井の渡で頼朝公に帰伏しました。
『吾妻鏡』には、三浦氏総領・義明のかたきである秩父一族の帰順に強く抵抗する三浦一族を、頼朝公みずからが説得したという記述があります。
三浦義明の長男・杉本義宗の子は和田義盛で侍所別当。
次男・三浦義澄は三浦氏を嗣ぎ、他の子息も大多和氏、佐原氏、長井氏、森戸氏などを興し、また重鎮・岡崎義実は義明の弟で、三浦党は一大勢力となりました。
三浦義澄は源平合戦でも武功を重ね、建久元年(1190年)頼朝公上洛の右近衛大将拝賀の際に布衣侍7人に選ばれて参院供奉、頼朝公逝去後には「十三人の合議制」の一人となり幕政でも重きをなしました。
義澄の子の義村は希代の策士ともいわれ、鎌倉幕府内で重要なポジションを占めましたが、このあたりの経緯については、「鎌倉殿の13人」と御朱印-6/37.岩浦山 福寿寺をご覧くださいませ。
しかし北条氏の専制強化には地位も実力もある三浦氏の存在は邪魔だったとみられるわけで、じっさい義村亡きあとの宝治元年(1247年)6月5日の「宝治合戦」で、三浦一族は北条氏と外戚安達氏らによって滅ぼされています。
三浦一族の流れとしては、三浦義明の七男・佐原義連から蘆名(芦名)氏が出て会津で勢力を張り、戦国期に伊達氏と奥州の覇を競いました。
来迎寺は、鎌倉幕府創建の大功労者ともいえる三浦大介義明の偉業を伝える貴重な寺院といえましょう。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)来迎寺
随我山と號す、時宗 藤澤清浄光寺末、開山一向 建治元年寂すと云ふ
本尊三尊彌陀を安ず 中尊、長二尺左右各長一尺五寸、共に運慶作、三浦大介義明の守護佛と云ふ、宗祖一遍の像あり、又三浦義明の木像を置く
三浦義明墓 五輪塔なり、義明は庄司義繼が長子なり、治承四年八月衣笠に於て自盡す、今三浦郡大矢部村(衣笠庄に属す)即義明自盡の所と伝ふ
建久年中義明が追福の為頼朝其地に一寺を創立して満昌寺と号せり、其域内に義明が廟あり尚彼寺の條に詳なり、此に義明の墳墓ある其縁故を知らざれど思ふに冥福を修せんが為寺僧の造立せしならん
■ 山内掲示(当山)
時宗来迎寺縁起
時宗来迎寺の開基は、建久五年(一一九四年)源頼朝が己の鎌倉幕府の基礎となった三浦大介義明の霊を弔う為、真言宗能蔵寺を建立したときに始まる。(能蔵寺の名は、この付近の地名として使われていた) 尚、開山上人は明らかでない。
おそらく頼朝が亡くなった後、現在の「時宗」に改宗したと思われるが改宗年代は不詳である。山院寺号を随我山来迎寺と号し、音阿上人(当時過去帳記載)が入山以降法燈を継承している。能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史がある。
時宗の総本山は神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺、通称遊行寺と呼ばれている。開祖は一遍上人、今から七百年余り前文久十一年(一二七四年)熊野権現澄誠殿に参籠、熊野権現から夢想の口伝を感得し、「信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし」の口伝を拠り處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまで、日本全国津々浦々へ、念仏賦算の旅を続けられること凡そ十六年。その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に徹した。
教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下足平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念仏する宗門の肝要となすなり』とある「念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏の力で救ってくださる」という教えである。
当寺の本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)は三浦義明の守護佛と伝えられる。(中略)
鎌倉三十三観音札所十四番で子育て観音をおまつりしてある。
この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、昔から多くの信者に信仰されている。以前、当寺の山頂(本堂裏側の山頂)にこの観音堂があったが昭和十一年、国の指令により「敵機の目標になるから」という理由で、取り壊された。鎌倉旧市街および海が一望でき、長谷観音と相対していた。
当山は明治五年十二月二十一日夜、材木座発火の類焼に遭い寺寶はことごとく消失してしまった。「相模風土記」によると「宗祖一遍上人像、三浦義明の像有り」とあるが現存しない。(中略)
当山四十五代照雄和尚の徳により三浦義明の像並びにこれ御安置する御堂を建立、昭和三十五年五月、義明七百八十年忌にあたり一族と共に供養した。(この義明像は三浦一族に由縁のある彫刻家鈴木国策氏の献身的な奉仕によって見事制作されたものである)
しかし、この御堂も諸般の事情により取り壊した。将来境内整備が終わりしだい再建する予定である。
境内には義明公および多々良三郎重春公の五輪塔(高さ二米)一説には義明公夫婦ともいわれている。また応永、正長年銘などの寶篋印塔(数基鎌倉国宝館に貸し出し展示中)ありこの数七百余基を数える。
「相模風土記」によれば、「三浦義明の墓は五輪塔なり、ここに義明の墳墓あるはその縁故知らざれど、思うに冥福を修せんがために寺僧が造立せしならん」とある。
義明は庄司義継の長男で平家の出で、平家の横暴腐敗した政治を正すため、源氏に仕え、時の世人挙げて平家に従ったが、ただ一人敢然として頼朝に尽力した。
治承四年(一一八〇年)頼朝の召に応じて子義澄を遣わしたが、石橋山の敗戦で帰郷の途次、畠山重忠の軍を破った為、重忠らに三浦の居城衣笠城を包囲された。
防守の望みを失ったので、義澄らの一族を脱出させて頼朝のもとに赴かせひとり城に留まって善戦したが、ついに陥落して悲壮な最期を遂げ、源氏のために忠を尽くした。
一方石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡って再挙を図り、関東各地の源氏家人の加勢を得、義澄と共に鎌倉に拠って策源地と定めた。
後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建したのである。
この国家大業の成就の陰には義明の先見の叡智と偉大な人徳によるところただい(多大?)である。義明あって鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言でない。
後に頼朝が義明あるいは一族に対する報謝の意が実に数々の温情の行業に伺われる。
義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は頼朝が衣笠の満昌寺において、義明の十七回忌法要を供養したとき、義明がまだ存命して加護していてくれるのだ。という心からの事で自刃したときの八拾九歳と十七年を加えた数と思われる。
私たちは、このような幾多の先祖の偉業、遺徳を懇ろに偲び、人生の心の糧として、何時までもこの行跡をたたえ続けて行きたいものである。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
隨我山来迎寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、音阿 本尊、阿弥陀三尊
境内地258.55坪。
本堂兼庫裏、来迎寺幼稚園あり
ここはもと真言宗能蔵寺の旧蹟と伝える。
本尊は三浦大介義明の守本尊であるといい、境内に義明及び多々良三郎重春の分骨を葬ってあるという。
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鎌倉駅構内の観光客の動線をみると、多くの客は東口に出て小町通りを北上し、鶴岡八幡宮方面か、扇ヶ谷 or 源氏山方面へ向かいます。
東口から南方向の本覚寺、妙本寺、八雲神社、安養院、妙法寺、安国論寺方面へ向かう人はどちらかというと中~上級者(?)で数は多くなく、さらに横須賀線を渡って材木座方面まで足を伸ばす人はかなり少なくなります。
しかし、材木座界隈には寺社が多くほとんどが御朱印、御首題を授与されているので、隠れた御朱印エリアとなっています。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 札所標と墓碑
来迎寺もそんな材木座の一画にあります。
周囲は真新しい住宅街ですが、山内に足を踏み入れると俄然しっとりとした鎌倉寺院の趣が出てくるという、面白いロケーションです。
参道入口に観音霊場札所標と三浦義明の墓碑。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標
参道途中から石畳となり、寺号標が建っています。
参道正面が本堂、左手が庫裏、右手に回り込むと三浦義明の墓所(五輪塔墓)です。
【写真 上(左)】 墓所への案内
【写真 下(右)】 五輪塔墓
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂と庫裏
本堂はおそらく宝形造で桟瓦葺流れ向拝です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股を置き、身舎左右には大ぶりの花頭窓。
水引虹梁は朱を散りばめた、変化のある意匠です。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 札所板
向拝見上には鎌倉観音霊場の札所板が掲げられています。
【写真 上(左)】 観音像
【写真 下(右)】 札所案内
堂前向かって右手前にある胸像は、すみませんよくわかりません。
山内には白衣でおだやかな面差しの観音立像も安置されていました。
御朱印は庫裏にて拝受しましたが、ご不在の場合もあるようです。
〔 来迎寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
41.五所神社(ごしょじんじゃ)
公式Web
神奈川県神社庁Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-9-1
御祭神:大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊
旧社格:村社、材木座の氏神
元別当:南向山 補陀落寺(鎌倉市材木座) 旧・諏訪神社の別当
五所神社は「材木座の氏神」と親しまれる、地域を代表する神社です。
公式Web 、下記史料・資料、境内掲示などから縁起沿革を追ってみます。
もともとこの地は材木座村でしたが、乱橋(みだればし)村と材木座(ざいもくざ)村に分村しました。
明治22年、両村が合併して西鎌倉郡乱橋材木座(鎌倉郡西鎌倉村ないし東鎌倉村の一部とも)となりました。
境内掲示によると、合併以前から両村には下記の神社が鎮座されていました。
・三島神社 御祭神 大山祇命
現社地、乱橋村の鎮守社、旧村社
・八雲神社
現・材木座4-4-26公会堂内、乱橋村龍蔵寺(能巌寺)部落、三島神社の相殿?
・金比羅宮(金刀比羅社) 御祭神 金山彦命
現・材木座4-7-2竹内宅裏山「普賢象山」、乱橋村
・諏訪神社 御祭神 建御名方命
現・材木座5-13-8山ノ上方、材木座の鎮守、補陀落寺持
・視女八坂社(見目明神・見目天王、牛頭天王、見目明神社合社)
現・材木座6-7-35、材木座村仲島部落、補陀洛寺の鎮守?
『新編相模国風土記稿』には「(亂橋村)三島社 村持」「(材木座村)諏訪社 補陀落寺持」の記載がみえます。
見目明神は、三島大社の摂社として知られています。→ 三島市Web資料
御祭神は三嶋大社の御祭神・事代主神のお妃六柱です。
こちらの視女八坂社(見目明神)も、乱橋村鎮守の三島神社となんらかの関係があるのかもしれません。
『鎌倉市史 社寺編』では、五社神社に合祀の見目明神は『補陀洛寺文書』に見目天王分としてみえることから、古くから補陀洛寺の鎮守であったとみています。
また、『新編鎌倉志』の補陀落寺の項には「寺寶 寶満菩薩像 壹軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。」とあり、見目明神の本地が寶満菩薩であることを示しています。
寶満(宝満)菩薩は、太宰府の宝満山が有名です。
「文化遺産オンライン」には「(宝満山)は八幡信仰と融合し、宮寺として社寺一体となり」「中世には宝満山とも呼ばれ、宝満大菩薩という仏神となり、英彦山修験道と結合して英彦山の胎蔵界に対し、金剛界の行場として、修験の山となった。」とあり、寶満(宝満)菩薩と八幡神、修験道との関係を示しています。
また、境内の「板碑(石造板塔婆)」は廃寺となった乱橋村の感應寺から遷されたとの説明があります。
由比山寶幢院感應寺は、真言宗京都三寶院末でした。
三寶院は真言宗系修験道「当山派」の本寺ですから、旧・感應寺から当山修験の流れが五社神社に引き継がれたのかもしれません。
明治41年、三島神社に四社を合祀して五所神社と改称しました。
合祀時に旧・諏訪神社の社殿を移築した本殿は、関東大震災の土砂災害で倒壊したため昭和6年に新築されました。
五所神社はいまも材木座の氏神として尊崇され、三基の神輿が渡る例祭は鎌倉の風物詩として広く知られています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺 寺寶 寶満菩薩像 壹軀
八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)
三島社 村持
(材木座村)
諏訪社 補陀落寺持
(亂橋村)
感應寺
由比山寶幢院と号す、真言宗京都三寶院末 不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり、中興を養源と云ふ 境内に倶利迦羅竜王の古碑あり
■ 神奈川県神社庁Web資料
五所神社
当社鎮座地は、古くは乱橋村と材木座村とに分かれていた。乱橋村には三島神社、八雲神社、金刀比羅社の3社が鎮座し、材木座村には諏訪社と視女八坂社の2社が鎮座していた。明治初年に村が合併し、乱橋材木座村となった。相模風土記稿に「三島社村持」とある如く、村の中心的社であったので明治6年、村社に列格された。
明治41年に他の四社が合祀され、五所神社と改称された。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
五社神社
祭神、大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊。
例祭七月七日。元指定村社。乱橋材木座の鎮守。境内地163.09坪。
覆殿、社殿、神輿庫あり。現在の社殿は昭和六年七月の新築。
現在の神社は明治四十一年七月、乱橋村と材木座村が合して、東鎌倉村大字乱橋材木座となったとき、乱橋村の鎮守三島神社の地に材木座村の鎮守諏訪神社・乱橋村能蔵寺部落の八雲神社・金比羅宮・材木座村中島部落の見目明神の四社を合わせ、同年十一月、五所神社と改称したものである。もとの五社はいずれも勧請年月不明。
このうち、見目明神は補陀洛寺文書に見目天王分として二貫三百文の地を北条氏康が同寺に寄進しているから、古くから同寺の鎮守であったと思われる。
『新編鎌倉誌』には見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったことがみえ、『風土記稿』には牛頭天王、見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持(『風土記稿』)で八雲社を相殿とし、この相殿天王の神輿棟札によれば、寛永十九年(1642年)修造以後、延宝九年(1681年)元禄十一年(1698年)元文二年(1737年)宝暦十三年(1763年)に修理を加え、万延元年(1860年)に再建している。(中略)
境内に昭和十六年重要美術品に認定された板碑がある。
境内坪数二八0坪で、もとの本殿は明治十六年七月建立の諏訪神社本殿を合併後移築したものであったが、震災の時山崩れのため社殿埋没全壊した。
■ 境内掲示
五所神社
祭神 天照大御神、素盞嗚命、大山祇命、建御名方命、崇徳院命
明治二十二年(一八八八)乱橋村と材木座村が合併して西鎌倉村大字乱橋材木座となった後明治四十一年(一九〇八)七月に、もとの乱橋村の鎮守”三島神社”(現在の地)の地に材木座の鎮守、諏訪神社(現材木座五-十三-八 山ノ上方)乱橋村龍蔵寺部落の八雲神社(現材木座四-四-二六 公会堂内)、金比羅宮(材木座四-七-二 竹内宅裏山「普賢象山」中腹)、材木座村仲島部落の見目明神 材木座六-七-三五)の四社を合併して五所神社として改名したものである。
もとの五所はいずれも勧請年月不詳このうち見目明神は補陀洛寺文書に見目天王文と二貫三百文の地を北条氏康が同時に寄進しているから古くから同寺の鎮守であったと思われる。
「新編鎌倉誌」には、見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったとみえ「風土記稿」には牛頭天王、見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持「風土記稿」で八雲社を相殿とし、この相殿天王みこし棟札によれば、寛永十九年(一六四二)修造以後、延宝九年(一六八一)元禄十一年(一六九八)元文二年(一七三七)宝暦十三年(一七六三)に修理を加え、万延元年(一八六〇)に再建している。
諏訪社は補陀洛寺であった「風土記稿」明治八年(一八七五)公達に基づいての皇国地誌調査さんによると次の通り記載されている。
三島社
式外村社々地東西四間南北六間三尺面積二六坪の東方にアリ大山祇命ヲマツル。
勧譜年暦詳ナラス 例祭四月 十一月ノ酉ノ日ヲ用ウ
見目社
同社東西九間南北八間四尺八寸面積七九坪村ノ東西間ニアリ祭神及ビ創造勧譜年暦詳ナラス 例祭二月二七日 六月七日両回トス
諏訪社
同社東西八間一尺二寸南北一間六寸面九坪村のノ南方ニアリ祭神建御名方命勧譜年暦詳ナラス 例祭六月七日 七月二七日ノ二回トス
金比羅社
同社東西十間南北七間面七十坪村ノ辰ノ方ニアリ祭神金山彦命勧譜年暦詳ナラス 例祭十月十日
現在の社殿は昭和六年(一九三一)七月に新築されたものである。
もとの本殿は明治一六年(一八八三)七月諏訪神社の本殿を合併後、移建したものであったが大正十二年(一九二三)九月一日震災のとき山崩れのため社殿埋没全潰した。
お神輿三基
一号 諏訪神社 二号 三合(ママ) 見目明神の持ち物であった。
祭礼、潮祭り 一月十一日 春季小祭 四月十五日 秋季小祭 十一月二十四日
例大祭 七月七日から十四日
現在の祭礼(抜粋)
例大祭 六月第二日曜日 三ツ目神楽 例大祭三日目(火曜日)
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名越・朝比奈方面からつづく鎌倉東部の山地は、材木座・光明寺の裏手から大町、小町と北にかけて連なり、西向きの山裾を大蔵あたりまで落としています。
この山裾は鎌倉有数の寺社の集積エリアで、五社神社もこの山裾に当たります。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 参道-1
来迎寺と実相寺の中間くらいに路地に面して社頭があります。
参道右手に社号標、その先に藁座を置いた神明鳥居?。
鳥居は本殿手前の石段前に置かれていましたが、関東大震災で倒壊破損したため昭和9年に社頭に移設されたものです。
参道は鳥居から真っ直ぐに伸びていますが、かなり奥行きがありここから拝殿は見えません。
【写真 上(左)】 狛犬-1
【写真 下(右)】 狛犬-2
すぐ先に石灯籠一対と真新しい狛犬一対。
さらに進んだ古い狛犬一対は、大正5年に材木座三丁目の地主ら十三名が寄進したものとのこと。
【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 参道-3
さらに行くと数段の石段で、ここまでくると参道階段の上に社殿が見えてきます。
社殿下の階段左脇に社務所があり、御朱印はこちらで授与されています。
あたりはうっそうとした木々に囲まれ、山里の神社のようです。
参道階段をのぼった正面、切妻造の建物は神輿庫(天王堂)で、庫内にはきらびやかな三基の神輿が安置されています。
【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 神輿庫(天王堂)
公式Webには「向かって右手より一番様(旧諏訪神社 江戸末期建造・鎌倉市指定有形民俗文化財)、二番様(旧牛頭天王社 弘化四年(1847)建造)、三番様(旧見目明神社 弘化四年(1847)建造)」とあります。
三基の神輿のお渡りをはじめ、数々の見どころがある五社神社の祭礼は、鎌倉の風物詩としてよく知られています。
【写真 上(左)】 神輿
【写真 下(右)】 拝殿
神輿庫(天王堂)前を左に直角に曲がった正面が拝殿です。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、軒唐破風を張り出し、妻側千鳥破風に経の巻獅子口を置き、寺院建築のイメージ。
【写真 上(左)】 拝殿妻側
【写真 下(右)】 拝殿向拝-1
【写真 上(左)】 拝殿向拝-2
【写真 下(右)】 中備の彫刻
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻、その上に兎の毛通しと、こちらにも経の巻獅子口を置いています。
彫刻類はいずれも重厚感を備えたすばらしい出来です。
向拝見上の扁額には「国家興隆」とあり、鎌倉宮ゆかりのもののようです。
【写真 上(左)】 三光尊石上稲荷と板碑(石造板塔婆)
【写真 下(右)】 板碑
神輿庫右手の木の鳥居のおく、正面が三光尊石上稲荷、向かって左手が板碑(石造板塔婆)の覆屋です。
三光尊石上稲荷は、ふるくは豆腐川の河口に御鎮座といいます。
豆腐川は、材木座海岸に注ぐ短い川です。
お祀りされている石は「石上さま」といわれ、漁師の網を切ったり、船を転覆させたりと、いたずらをする石であったそうです。
陸に引き揚げられ、昭和9年、補陀洛寺第33世光照上人より名を授かり、昭和12年に石祠を建立、海上安全の守護神としてお祀りされています。
左手の板碑(石造板塔婆)は弘長二年(1262年)の銘。
倶利迦羅剣になぞらえた不動明王のお種子「カン/カーン」を蓮華座のうえに置く見事な板碑で、上部には天蓋も彫られています。
板碑の多くは秩父片岩ですが、この板碑は雲母片岩を用いて特徴的とのことで、市指定有形民俗資料に指定されています。
板碑の説明板に「昔は感應寺『修験真言宗、京都三宝院末」(材木座公会堂のある附近一帯)の境内に建っていたが、同寺が廃寺となったため五所神社創建の際ここに移されたのである。」とあります。
『新編相模国風土記稿』には「(亂橋村)感應寺 由比山寶幢院と号す、真言宗京都三寶院末 不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり、中興を養源と云ふ 境内に倶利迦羅竜王の古碑」とあり、もしかしてこの「倶利迦羅竜王の古碑」が五所神社の「板碑(石造板塔婆)」なのかもしれません。
鳥居の右よこには旧諏訪神社の古祠と、そのよこに大阪株式取引所(現・大阪取引所)の第二代頭取・吉田千足書の石碑があります。
【写真 上(左)】 旧諏訪神社の古祠
【写真 下(右)】 庚申塔
その右手には十数基の庚申塔と石佛。
庚申塔は乱橋村・材木座村両村の道端や辻にあったものを明治9年境内に集めてお祀りしたものとの由。
馬頭観音像のよこには、背後に十字架が置かれた「お春像」が安置されています。
公式Webには「『天和四』と掘られていることから一六八四年(徳川幕府五代将軍綱吉の初期の時代)一月から二月に造られたであろう石像と思われますが、その目的は未詳。その様子から隠れキリシタン殉教の像と伝えられています。」とあります。
神社の境内に十字架とは、かなりインパクトがありますが、このような歴史を伝える尊像です。
【写真 上(左)】 お春像
【写真 下(右)】 摩利支天像
さらにその右には大正2年奉納の「摩利支天像」。
摩利支天はもとは天竺(インド)の神格でしたが、仏教にとり入れられて守護神となりました。
三面六臂の丸彫りで椎型兜をかぶり、槍先が三つに割れた矛を握られたこのお姿の摩利支天像は、公式Webによると日本で十二体しか存在していないそうです。
境内には手玉石(かめ石)や疱瘡ばあさんの石、山岳信仰道場などもあります。
西向きの明るい境内ですが、どこかパワスポ的な陰りを感じるのは、修験や神仏混淆の歴史がもたらすものかもしれません。
御朱印は参道階段左手の社務所にて拝受しました。
〔 五所神社の御朱印 〕
42.弘延山 實相寺(じっそうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座4-3-13
日蓮宗:
司元別当:
札所:札所:
實相寺は宗祖嫡弟六老僧日昭尊者潜居の地とも伝わる日蓮宗の名刹です。
鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
實相寺は、日蓮宗六老僧の辨阿闍梨日昭(元享三年(1323年寂))が創建とされます。
日蓮聖人が佐渡へ流罪となった後も当地で布教を続け、伊豆の名刹・玉澤妙法華寺が移転する前の旧地といいます。
【写真 上(左)】 玉澤妙法華寺
【写真 下(右)】 同 御首題
またこの地は、鎌倉時代の武将・工藤祐経の屋敷跡で、日昭上人はその息女の子とも伝わります。
日昭上人が屋敷跡に法華堂を建てたのが創始といいます。
法華堂は法華寺と号して三島・玉澤に移り、元和七年(1621年)に日潤上人が再建とされます。
日昭上人はWikipediaによると俗姓を印東氏といい、晩年の日蓮聖人を池上に迎え、池上本門寺の基礎をつくった日蓮宗の有力檀越・池上宗仲と親戚関係にあったとも。
玉澤法華経寺公式Webによると、宗祖日蓮聖人の比叡山遊学中の学友ともいい、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始められとすぐ最初の弟子となったとの由。
日蓮六老僧の一人に数えられ、日昭門流(濱門流・玉澤門流)の祖です。
現在の日昭門流の本山は、妙法華寺(三島市玉澤)と村田妙法寺(新潟県長岡市)で、その妙法華寺の旧地とあっては宗門上、重要な寺院とみられます。
工藤氏については■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2/14.稲荷山 東林寺でとりあげているので再掲します。
藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。
東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようです。
いささか長くなりますが整理してみます。
工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の(滝口)祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)
伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)
一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。
工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。
娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。
なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。
工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すも効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。
安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。
伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため伊東市の東林寺に入って出家しました。
治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。
工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)實相寺
弘延山と号す 豆州玉澤妙法華寺末 開山日昭 元享三年(1323年)三月廿六日寂す
本尊三寶を安ず
■ 山門掲示
當山ハ宗祖嫡弟六老僧第一辨大成辨阿闍梨日昭尊者潜居の地 宗祖佐渡流竄後門下僧俗を統率したる濱土法華堂(祖滅後法華寺と称す)乃霊跡にて玉澤妙法華寺の旧地也 傳フ工藤祐経邸趾と云ふ
日昭尊者濱土法華堂霊跡
御廟 裏山の麓にあり往古ハ峯の岩屋ニ有しを元禄三年現所ニ移せり
■ 玉澤妙法華寺公式Web
妙法華寺は、日蓮聖人の本弟子で六老僧第一の弁阿閣梨日昭上人が開創された寺である。
もと鎌倉の浜にあった法華寺がその前身であり、宗祖が日頃、日昭上人を浜殿と呼んでいたのは、この浜の地名によるものである。宗門としては最も初期の寺に属する。
当山の古記録によると、身延を除けば妙本寺第叫、法華寺第二と誌されている。この古い歴史と霊宝の聖人ご真筆、『宗祖説法御影』、調度品等が聖人の息吹を今に伝えている。
縁起
弘安7年(1284)12月、越後の風間信昭により、鎌倉の浜にあった日昭上人の庵室を寺としたのが起源である。
日昭上人は、宗祖の比叡山遊学中の学友であったが、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始めるとすぐ最初の弟子となった。
鎌倉の浜土に草庵を構え、宗祖や他の門弟と共に教化活動を行い、その後、宗祖が身延に人山すると、日朗上人とともに鎌倉の日蓮教団の中心的役割を果たした。一門を日昭門流とか浜土門流と称し、近代は玉沢門流と呼んだ。(以下略)
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
弘延山 實相寺と号する。日蓮宗。伊豆玉澤妙法華寺の旧地。
開山、日昭。
本尊、一尊四士。
境内地405坪。
本堂・庫裏・山門あり。
日昭は元亨三年(1323年)三月廿六日寂。日昭は工藤祐経の女の生んだ子。この地は祐経の旧邸址と伝える。当寺の十一代日弘・十二代日南は関東管領扇ガ谷上杉氏の一族であるという。明治初年の大火で焼失した。
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鎌倉材木座・五所神社の並びにあります。
由緒ある名刹ですが、やはり立地的に観光客の拝観は多くないと思われます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 斜めからの山門
路地に面する山門は、門前にゆったりと空間をおき、二基のお題目塔(寺号標)を拝して落ち着いた名刹の風情。
【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 寺号標-2
山門は脇塀を巡らした切妻屋根桟瓦葺の薬医門かと思われますが、水引虹梁に四連の斗栱を拝して風格があります。
山門柱には「日昭尊者濱土法華堂霊跡」の表札で、由緒が記されています。
【写真 上(左)】 霊跡の札板
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 お題目塔
【写真 下(右)】 本堂
山内は数基のお題目塔はありますがすっきりシンプルで、参道正面が本堂です。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、なだらかに照りを帯びる屋根の勾配が優美です。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を置いています。
向拝・身舎ともに格子と桟をおき、端正なイメージの堂宇です。
御首題・御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 實相寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-14 (B.名越口-9)へつづく。
【 BGM 】
■ Rina Aiuchi(愛内里菜) - Magic
■ 森高千里 - 渡良瀬橋
■ 今井美樹 - Goodbye Yesterday
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)から。
40.隨我山 来迎寺(らいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-9-5
時宗
御本尊:阿弥陀如来(弥陀三尊)
司元別当:
札所:鎌倉三十三観音霊場第14番
鎌倉には来迎寺を号する時宗の寺院がふたつあります。
ふつう満光山 来迎寺を「西御門来迎寺」、隨我山 来迎寺を「材木座来迎寺」と呼んで区別しているようです。
来迎寺は材木座の氏神とされる五所神社の並びにある時宗寺院です。
公式Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
来迎寺は建久五年(1194年)、源頼朝公が鎌倉幕府開創の礎石となった三浦大介義明の冥福を祈るため、真言宗能蔵寺を建立したのが創始とされますが、草創時の開山は不明です。
頼朝公亡きあと、音阿上人が開山となり時宗に改宗して来迎寺と号を改めました。
境内には三浦義明の木造と、義明および多々良重春(一説には義明夫婦)の二基一組の五輪塔墓があり、本堂裏手には三浦一族の墓とされる百基あまりの五輪塔や寶篋印塔が並びます。
多々良重春は石橋山の戦いで戦死した武将で、三浦義明の孫ともいいます。
御本尊は阿弥陀如来(弥陀三尊)で、三浦義明の守護佛と伝わります。
鎌倉三十三所観音霊場第14番札所としても知られ、札所本尊は「子育て観音」。
この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、古来から尊崇を集めました。
以前は当山本堂裏側の山頂に観音堂がありましたが、昭和十一年、軍事的な理由から国の指令により取り壊されたといいます。
従前の観音堂は鎌倉市街を隔て、長谷観音と相対していたといいます。
当山は明治五年十二月の材木座発火の類焼に遭い寺宝はことごとく消失したといいます。
よって『新編相模国風土記稿』にある「宗祖一遍上人像、三浦義明の像」は現存しません。
三浦氏については「鎌倉殿の13人」と御朱印-6/37.岩浦山 福寿寺にまとめているので転記します。
三浦氏は桓武平氏良文流(ないし良兼流)で、神奈川県資料『三浦一族関連略系図』によると、高望王の子孫・為通が村岡姓を三浦姓に改め、為継、義継、義明と嗣いでいます。
三浦大介義明は三浦郡衣笠城に拠った武将で三浦荘の在庁官人。
”三浦介”を称して三浦半島一円に勢力を張りました。
三浦氏は、千葉氏・上総氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏とともに「坂東八平氏」に数えられる名族です。
義明の娘は源義朝公の側室に入ったとされ、義朝の子・義平が叔父の義賢と戦った「大蔵合戦」でも義朝・義平側に与しました。
(義平公の母が義明の娘という説もあり)
このような背景もあってか、治承四年(1180年)の頼朝公旗揚げ時には当初から一貫して頼朝公側につき、次男の義澄率いる三浦一族は加勢のため伊豆に向けて出撃するも、大雨で酒匂川を渡れず石橋山の戦いには参戦していません。
衣笠城への帰途、三浦軍は由比ヶ浜~小坪辺で畠山軍と遭遇し、畠山を撃退しました。
しかし、衣笠城に帰参してほどない治承四年(1180年)8月26日、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの秩父一族に攻められ、子の義澄以下一族を安房に逃した後、義明は奮戦むなしく討ち死にしました。(衣笠城合戦)
『吾妻鏡』によると、義明は「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興に巡りあうことができた。今は老いた命を武衛(頼朝公)に捧げ、子孫の手柄としたい。」と言い遺し、従容として世を去ったといいます。ときに齢89歳。
三浦義明の娘は畠山重能の正室といいますが、子に恵まれず江戸重継の娘を側室として重忠ら兄弟を生み、嫡男の重忠は義明の娘の養子となったという説があります。
(論拠は『源平盛衰記』が三浦義明が重忠を「継子孫」と呼んでいること。)
一方、三浦義明は実孫の畠山重忠に討たれたという説もあり、このあたりははっきりしません。
頼朝公は、老躯をおして秩父一族に対抗し討ち死にした三浦義明の功績を高く評価し、義明を称えたといいます。
頼朝公が衣笠の満昌寺で義明の十七回忌法要を催した際、「義明はまだ存命し加護してくれているのだ」と宣ったといい、戦死したときの89歳に回忌17年を加えた106から、義明は後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれることとなります。
義明の犠牲により落ち延びた三浦一族は安房国で頼朝勢に合流、千葉常胤・上総介広常などの加勢を得て頼朝公は再挙し、10月に武蔵国へ入ると、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は隅田川の長井の渡で頼朝公に帰伏しました。
『吾妻鏡』には、三浦氏総領・義明のかたきである秩父一族の帰順に強く抵抗する三浦一族を、頼朝公みずからが説得したという記述があります。
三浦義明の長男・杉本義宗の子は和田義盛で侍所別当。
次男・三浦義澄は三浦氏を嗣ぎ、他の子息も大多和氏、佐原氏、長井氏、森戸氏などを興し、また重鎮・岡崎義実は義明の弟で、三浦党は一大勢力となりました。
三浦義澄は源平合戦でも武功を重ね、建久元年(1190年)頼朝公上洛の右近衛大将拝賀の際に布衣侍7人に選ばれて参院供奉、頼朝公逝去後には「十三人の合議制」の一人となり幕政でも重きをなしました。
義澄の子の義村は希代の策士ともいわれ、鎌倉幕府内で重要なポジションを占めましたが、このあたりの経緯については、「鎌倉殿の13人」と御朱印-6/37.岩浦山 福寿寺をご覧くださいませ。
しかし北条氏の専制強化には地位も実力もある三浦氏の存在は邪魔だったとみられるわけで、じっさい義村亡きあとの宝治元年(1247年)6月5日の「宝治合戦」で、三浦一族は北条氏と外戚安達氏らによって滅ぼされています。
三浦一族の流れとしては、三浦義明の七男・佐原義連から蘆名(芦名)氏が出て会津で勢力を張り、戦国期に伊達氏と奥州の覇を競いました。
来迎寺は、鎌倉幕府創建の大功労者ともいえる三浦大介義明の偉業を伝える貴重な寺院といえましょう。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)来迎寺
随我山と號す、時宗 藤澤清浄光寺末、開山一向 建治元年寂すと云ふ
本尊三尊彌陀を安ず 中尊、長二尺左右各長一尺五寸、共に運慶作、三浦大介義明の守護佛と云ふ、宗祖一遍の像あり、又三浦義明の木像を置く
三浦義明墓 五輪塔なり、義明は庄司義繼が長子なり、治承四年八月衣笠に於て自盡す、今三浦郡大矢部村(衣笠庄に属す)即義明自盡の所と伝ふ
建久年中義明が追福の為頼朝其地に一寺を創立して満昌寺と号せり、其域内に義明が廟あり尚彼寺の條に詳なり、此に義明の墳墓ある其縁故を知らざれど思ふに冥福を修せんが為寺僧の造立せしならん
■ 山内掲示(当山)
時宗来迎寺縁起
時宗来迎寺の開基は、建久五年(一一九四年)源頼朝が己の鎌倉幕府の基礎となった三浦大介義明の霊を弔う為、真言宗能蔵寺を建立したときに始まる。(能蔵寺の名は、この付近の地名として使われていた) 尚、開山上人は明らかでない。
おそらく頼朝が亡くなった後、現在の「時宗」に改宗したと思われるが改宗年代は不詳である。山院寺号を随我山来迎寺と号し、音阿上人(当時過去帳記載)が入山以降法燈を継承している。能蔵寺から起算すると実に八百余年の歴史がある。
時宗の総本山は神奈川県藤沢市西富、藤沢山清浄光寺、通称遊行寺と呼ばれている。開祖は一遍上人、今から七百年余り前文久十一年(一二七四年)熊野権現澄誠殿に参籠、熊野権現から夢想の口伝を感得し、「信不信浄不浄を選ばず、その札を配るべし」の口伝を拠り處に、神勅の札を携え西は薩摩から東は奥羽に至るまで、日本全国津々浦々へ、念仏賦算の旅を続けられること凡そ十六年。その間寺に住されることなく亡くなるまで遊行聖に徹した。
教法の要旨は『今日の行生座臥擧足下足平生の上を即ち臨終とこれを心得称名念仏する宗門の肝要となすなり』とある「念仏によって心の苦しみや悩みは、南無阿弥陀仏の力で救ってくださる」という教えである。
当寺の本尊阿弥陀如来(弥陀三尊)は三浦義明の守護佛と伝えられる。(中略)
鎌倉三十三観音札所十四番で子育て観音をおまつりしてある。
この観音様に念ずれば、必ず智恵福徳円満な子供を授かるとして、昔から多くの信者に信仰されている。以前、当寺の山頂(本堂裏側の山頂)にこの観音堂があったが昭和十一年、国の指令により「敵機の目標になるから」という理由で、取り壊された。鎌倉旧市街および海が一望でき、長谷観音と相対していた。
当山は明治五年十二月二十一日夜、材木座発火の類焼に遭い寺寶はことごとく消失してしまった。「相模風土記」によると「宗祖一遍上人像、三浦義明の像有り」とあるが現存しない。(中略)
当山四十五代照雄和尚の徳により三浦義明の像並びにこれ御安置する御堂を建立、昭和三十五年五月、義明七百八十年忌にあたり一族と共に供養した。(この義明像は三浦一族に由縁のある彫刻家鈴木国策氏の献身的な奉仕によって見事制作されたものである)
しかし、この御堂も諸般の事情により取り壊した。将来境内整備が終わりしだい再建する予定である。
境内には義明公および多々良三郎重春公の五輪塔(高さ二米)一説には義明公夫婦ともいわれている。また応永、正長年銘などの寶篋印塔(数基鎌倉国宝館に貸し出し展示中)ありこの数七百余基を数える。
「相模風土記」によれば、「三浦義明の墓は五輪塔なり、ここに義明の墳墓あるはその縁故知らざれど、思うに冥福を修せんがために寺僧が造立せしならん」とある。
義明は庄司義継の長男で平家の出で、平家の横暴腐敗した政治を正すため、源氏に仕え、時の世人挙げて平家に従ったが、ただ一人敢然として頼朝に尽力した。
治承四年(一一八〇年)頼朝の召に応じて子義澄を遣わしたが、石橋山の敗戦で帰郷の途次、畠山重忠の軍を破った為、重忠らに三浦の居城衣笠城を包囲された。
防守の望みを失ったので、義澄らの一族を脱出させて頼朝のもとに赴かせひとり城に留まって善戦したが、ついに陥落して悲壮な最期を遂げ、源氏のために忠を尽くした。
一方石橋山の戦いで平家に敗れた頼朝は、海路安房に渡って再挙を図り、関東各地の源氏家人の加勢を得、義澄と共に鎌倉に拠って策源地と定めた。
後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建したのである。
この国家大業の成就の陰には義明の先見の叡智と偉大な人徳によるところただい(多大?)である。義明あって鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言でない。
後に頼朝が義明あるいは一族に対する報謝の意が実に数々の温情の行業に伺われる。
義明が後に「三浦大介百六ツ」と呼ばれる由来は頼朝が衣笠の満昌寺において、義明の十七回忌法要を供養したとき、義明がまだ存命して加護していてくれるのだ。という心からの事で自刃したときの八拾九歳と十七年を加えた数と思われる。
私たちは、このような幾多の先祖の偉業、遺徳を懇ろに偲び、人生の心の糧として、何時までもこの行跡をたたえ続けて行きたいものである。
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
隨我山来迎寺と号する。時宗。藤沢清浄光寺末。
開山、音阿 本尊、阿弥陀三尊
境内地258.55坪。
本堂兼庫裏、来迎寺幼稚園あり
ここはもと真言宗能蔵寺の旧蹟と伝える。
本尊は三浦大介義明の守本尊であるといい、境内に義明及び多々良三郎重春の分骨を葬ってあるという。
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鎌倉駅構内の観光客の動線をみると、多くの客は東口に出て小町通りを北上し、鶴岡八幡宮方面か、扇ヶ谷 or 源氏山方面へ向かいます。
東口から南方向の本覚寺、妙本寺、八雲神社、安養院、妙法寺、安国論寺方面へ向かう人はどちらかというと中~上級者(?)で数は多くなく、さらに横須賀線を渡って材木座方面まで足を伸ばす人はかなり少なくなります。
しかし、材木座界隈には寺社が多くほとんどが御朱印、御首題を授与されているので、隠れた御朱印エリアとなっています。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 札所標と墓碑
来迎寺もそんな材木座の一画にあります。
周囲は真新しい住宅街ですが、山内に足を踏み入れると俄然しっとりとした鎌倉寺院の趣が出てくるという、面白いロケーションです。
参道入口に観音霊場札所標と三浦義明の墓碑。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標
参道途中から石畳となり、寺号標が建っています。
参道正面が本堂、左手が庫裏、右手に回り込むと三浦義明の墓所(五輪塔墓)です。
【写真 上(左)】 墓所への案内
【写真 下(右)】 五輪塔墓
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂と庫裏
本堂はおそらく宝形造で桟瓦葺流れ向拝です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股を置き、身舎左右には大ぶりの花頭窓。
水引虹梁は朱を散りばめた、変化のある意匠です。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 札所板
向拝見上には鎌倉観音霊場の札所板が掲げられています。
【写真 上(左)】 観音像
【写真 下(右)】 札所案内
堂前向かって右手前にある胸像は、すみませんよくわかりません。
山内には白衣でおだやかな面差しの観音立像も安置されていました。
御朱印は庫裏にて拝受しましたが、ご不在の場合もあるようです。
〔 来迎寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 鎌倉三十三観音霊場の御朱印
41.五所神社(ごしょじんじゃ)
公式Web
神奈川県神社庁Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座2-9-1
御祭神:大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊
旧社格:村社、材木座の氏神
元別当:南向山 補陀落寺(鎌倉市材木座) 旧・諏訪神社の別当
五所神社は「材木座の氏神」と親しまれる、地域を代表する神社です。
公式Web 、下記史料・資料、境内掲示などから縁起沿革を追ってみます。
もともとこの地は材木座村でしたが、乱橋(みだればし)村と材木座(ざいもくざ)村に分村しました。
明治22年、両村が合併して西鎌倉郡乱橋材木座(鎌倉郡西鎌倉村ないし東鎌倉村の一部とも)となりました。
境内掲示によると、合併以前から両村には下記の神社が鎮座されていました。
・三島神社 御祭神 大山祇命
現社地、乱橋村の鎮守社、旧村社
・八雲神社
現・材木座4-4-26公会堂内、乱橋村龍蔵寺(能巌寺)部落、三島神社の相殿?
・金比羅宮(金刀比羅社) 御祭神 金山彦命
現・材木座4-7-2竹内宅裏山「普賢象山」、乱橋村
・諏訪神社 御祭神 建御名方命
現・材木座5-13-8山ノ上方、材木座の鎮守、補陀落寺持
・視女八坂社(見目明神・見目天王、牛頭天王、見目明神社合社)
現・材木座6-7-35、材木座村仲島部落、補陀洛寺の鎮守?
『新編相模国風土記稿』には「(亂橋村)三島社 村持」「(材木座村)諏訪社 補陀落寺持」の記載がみえます。
見目明神は、三島大社の摂社として知られています。→ 三島市Web資料
御祭神は三嶋大社の御祭神・事代主神のお妃六柱です。
こちらの視女八坂社(見目明神)も、乱橋村鎮守の三島神社となんらかの関係があるのかもしれません。
『鎌倉市史 社寺編』では、五社神社に合祀の見目明神は『補陀洛寺文書』に見目天王分としてみえることから、古くから補陀洛寺の鎮守であったとみています。
また、『新編鎌倉志』の補陀落寺の項には「寺寶 寶満菩薩像 壹軀 八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。」とあり、見目明神の本地が寶満菩薩であることを示しています。
寶満(宝満)菩薩は、太宰府の宝満山が有名です。
「文化遺産オンライン」には「(宝満山)は八幡信仰と融合し、宮寺として社寺一体となり」「中世には宝満山とも呼ばれ、宝満大菩薩という仏神となり、英彦山修験道と結合して英彦山の胎蔵界に対し、金剛界の行場として、修験の山となった。」とあり、寶満(宝満)菩薩と八幡神、修験道との関係を示しています。
また、境内の「板碑(石造板塔婆)」は廃寺となった乱橋村の感應寺から遷されたとの説明があります。
由比山寶幢院感應寺は、真言宗京都三寶院末でした。
三寶院は真言宗系修験道「当山派」の本寺ですから、旧・感應寺から当山修験の流れが五社神社に引き継がれたのかもしれません。
明治41年、三島神社に四社を合祀して五所神社と改称しました。
合祀時に旧・諏訪神社の社殿を移築した本殿は、関東大震災の土砂災害で倒壊したため昭和6年に新築されました。
五所神社はいまも材木座の氏神として尊崇され、三基の神輿が渡る例祭は鎌倉の風物詩として広く知られています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
補陀落寺 寺寶 寶満菩薩像 壹軀
八幡の姨なり。鶴岡にもあり。社家にては見目明神(ミルメ)と云ふ。
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)
三島社 村持
(材木座村)
諏訪社 補陀落寺持
(亂橋村)
感應寺
由比山寶幢院と号す、真言宗京都三寶院末 不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり、中興を養源と云ふ 境内に倶利迦羅竜王の古碑あり
■ 神奈川県神社庁Web資料
五所神社
当社鎮座地は、古くは乱橋村と材木座村とに分かれていた。乱橋村には三島神社、八雲神社、金刀比羅社の3社が鎮座し、材木座村には諏訪社と視女八坂社の2社が鎮座していた。明治初年に村が合併し、乱橋材木座村となった。相模風土記稿に「三島社村持」とある如く、村の中心的社であったので明治6年、村社に列格された。
明治41年に他の四社が合祀され、五所神社と改称された。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
五社神社
祭神、大山祇命、天照大御神、素盞嗚命、建御名方命、崇徳院霊。
例祭七月七日。元指定村社。乱橋材木座の鎮守。境内地163.09坪。
覆殿、社殿、神輿庫あり。現在の社殿は昭和六年七月の新築。
現在の神社は明治四十一年七月、乱橋村と材木座村が合して、東鎌倉村大字乱橋材木座となったとき、乱橋村の鎮守三島神社の地に材木座村の鎮守諏訪神社・乱橋村能蔵寺部落の八雲神社・金比羅宮・材木座村中島部落の見目明神の四社を合わせ、同年十一月、五所神社と改称したものである。もとの五社はいずれも勧請年月不明。
このうち、見目明神は補陀洛寺文書に見目天王分として二貫三百文の地を北条氏康が同寺に寄進しているから、古くから同寺の鎮守であったと思われる。
『新編鎌倉誌』には見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったことがみえ、『風土記稿』には牛頭天王、見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持(『風土記稿』)で八雲社を相殿とし、この相殿天王の神輿棟札によれば、寛永十九年(1642年)修造以後、延宝九年(1681年)元禄十一年(1698年)元文二年(1737年)宝暦十三年(1763年)に修理を加え、万延元年(1860年)に再建している。(中略)
境内に昭和十六年重要美術品に認定された板碑がある。
境内坪数二八0坪で、もとの本殿は明治十六年七月建立の諏訪神社本殿を合併後移築したものであったが、震災の時山崩れのため社殿埋没全壊した。
■ 境内掲示
五所神社
祭神 天照大御神、素盞嗚命、大山祇命、建御名方命、崇徳院命
明治二十二年(一八八八)乱橋村と材木座村が合併して西鎌倉村大字乱橋材木座となった後明治四十一年(一九〇八)七月に、もとの乱橋村の鎮守”三島神社”(現在の地)の地に材木座の鎮守、諏訪神社(現材木座五-十三-八 山ノ上方)乱橋村龍蔵寺部落の八雲神社(現材木座四-四-二六 公会堂内)、金比羅宮(材木座四-七-二 竹内宅裏山「普賢象山」中腹)、材木座村仲島部落の見目明神 材木座六-七-三五)の四社を合併して五所神社として改名したものである。
もとの五所はいずれも勧請年月不詳このうち見目明神は補陀洛寺文書に見目天王文と二貫三百文の地を北条氏康が同時に寄進しているから古くから同寺の鎮守であったと思われる。
「新編鎌倉誌」には、見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったとみえ「風土記稿」には牛頭天王、見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持「風土記稿」で八雲社を相殿とし、この相殿天王みこし棟札によれば、寛永十九年(一六四二)修造以後、延宝九年(一六八一)元禄十一年(一六九八)元文二年(一七三七)宝暦十三年(一七六三)に修理を加え、万延元年(一八六〇)に再建している。
諏訪社は補陀洛寺であった「風土記稿」明治八年(一八七五)公達に基づいての皇国地誌調査さんによると次の通り記載されている。
三島社
式外村社々地東西四間南北六間三尺面積二六坪の東方にアリ大山祇命ヲマツル。
勧譜年暦詳ナラス 例祭四月 十一月ノ酉ノ日ヲ用ウ
見目社
同社東西九間南北八間四尺八寸面積七九坪村ノ東西間ニアリ祭神及ビ創造勧譜年暦詳ナラス 例祭二月二七日 六月七日両回トス
諏訪社
同社東西八間一尺二寸南北一間六寸面九坪村のノ南方ニアリ祭神建御名方命勧譜年暦詳ナラス 例祭六月七日 七月二七日ノ二回トス
金比羅社
同社東西十間南北七間面七十坪村ノ辰ノ方ニアリ祭神金山彦命勧譜年暦詳ナラス 例祭十月十日
現在の社殿は昭和六年(一九三一)七月に新築されたものである。
もとの本殿は明治一六年(一八八三)七月諏訪神社の本殿を合併後、移建したものであったが大正十二年(一九二三)九月一日震災のとき山崩れのため社殿埋没全潰した。
お神輿三基
一号 諏訪神社 二号 三合(ママ) 見目明神の持ち物であった。
祭礼、潮祭り 一月十一日 春季小祭 四月十五日 秋季小祭 十一月二十四日
例大祭 七月七日から十四日
現在の祭礼(抜粋)
例大祭 六月第二日曜日 三ツ目神楽 例大祭三日目(火曜日)
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名越・朝比奈方面からつづく鎌倉東部の山地は、材木座・光明寺の裏手から大町、小町と北にかけて連なり、西向きの山裾を大蔵あたりまで落としています。
この山裾は鎌倉有数の寺社の集積エリアで、五社神社もこの山裾に当たります。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 参道-1
来迎寺と実相寺の中間くらいに路地に面して社頭があります。
参道右手に社号標、その先に藁座を置いた神明鳥居?。
鳥居は本殿手前の石段前に置かれていましたが、関東大震災で倒壊破損したため昭和9年に社頭に移設されたものです。
参道は鳥居から真っ直ぐに伸びていますが、かなり奥行きがありここから拝殿は見えません。
【写真 上(左)】 狛犬-1
【写真 下(右)】 狛犬-2
すぐ先に石灯籠一対と真新しい狛犬一対。
さらに進んだ古い狛犬一対は、大正5年に材木座三丁目の地主ら十三名が寄進したものとのこと。
【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 参道-3
さらに行くと数段の石段で、ここまでくると参道階段の上に社殿が見えてきます。
社殿下の階段左脇に社務所があり、御朱印はこちらで授与されています。
あたりはうっそうとした木々に囲まれ、山里の神社のようです。
参道階段をのぼった正面、切妻造の建物は神輿庫(天王堂)で、庫内にはきらびやかな三基の神輿が安置されています。
【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 神輿庫(天王堂)
公式Webには「向かって右手より一番様(旧諏訪神社 江戸末期建造・鎌倉市指定有形民俗文化財)、二番様(旧牛頭天王社 弘化四年(1847)建造)、三番様(旧見目明神社 弘化四年(1847)建造)」とあります。
三基の神輿のお渡りをはじめ、数々の見どころがある五社神社の祭礼は、鎌倉の風物詩としてよく知られています。
【写真 上(左)】 神輿
【写真 下(右)】 拝殿
神輿庫(天王堂)前を左に直角に曲がった正面が拝殿です。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、軒唐破風を張り出し、妻側千鳥破風に経の巻獅子口を置き、寺院建築のイメージ。
【写真 上(左)】 拝殿妻側
【写真 下(右)】 拝殿向拝-1
【写真 上(左)】 拝殿向拝-2
【写真 下(右)】 中備の彫刻
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻、その上に兎の毛通しと、こちらにも経の巻獅子口を置いています。
彫刻類はいずれも重厚感を備えたすばらしい出来です。
向拝見上の扁額には「国家興隆」とあり、鎌倉宮ゆかりのもののようです。
【写真 上(左)】 三光尊石上稲荷と板碑(石造板塔婆)
【写真 下(右)】 板碑
神輿庫右手の木の鳥居のおく、正面が三光尊石上稲荷、向かって左手が板碑(石造板塔婆)の覆屋です。
三光尊石上稲荷は、ふるくは豆腐川の河口に御鎮座といいます。
豆腐川は、材木座海岸に注ぐ短い川です。
お祀りされている石は「石上さま」といわれ、漁師の網を切ったり、船を転覆させたりと、いたずらをする石であったそうです。
陸に引き揚げられ、昭和9年、補陀洛寺第33世光照上人より名を授かり、昭和12年に石祠を建立、海上安全の守護神としてお祀りされています。
左手の板碑(石造板塔婆)は弘長二年(1262年)の銘。
倶利迦羅剣になぞらえた不動明王のお種子「カン/カーン」を蓮華座のうえに置く見事な板碑で、上部には天蓋も彫られています。
板碑の多くは秩父片岩ですが、この板碑は雲母片岩を用いて特徴的とのことで、市指定有形民俗資料に指定されています。
板碑の説明板に「昔は感應寺『修験真言宗、京都三宝院末」(材木座公会堂のある附近一帯)の境内に建っていたが、同寺が廃寺となったため五所神社創建の際ここに移されたのである。」とあります。
『新編相模国風土記稿』には「(亂橋村)感應寺 由比山寶幢院と号す、真言宗京都三寶院末 不動を本尊とし、神変菩薩理源大師の像あり、中興を養源と云ふ 境内に倶利迦羅竜王の古碑」とあり、もしかしてこの「倶利迦羅竜王の古碑」が五所神社の「板碑(石造板塔婆)」なのかもしれません。
鳥居の右よこには旧諏訪神社の古祠と、そのよこに大阪株式取引所(現・大阪取引所)の第二代頭取・吉田千足書の石碑があります。
【写真 上(左)】 旧諏訪神社の古祠
【写真 下(右)】 庚申塔
その右手には十数基の庚申塔と石佛。
庚申塔は乱橋村・材木座村両村の道端や辻にあったものを明治9年境内に集めてお祀りしたものとの由。
馬頭観音像のよこには、背後に十字架が置かれた「お春像」が安置されています。
公式Webには「『天和四』と掘られていることから一六八四年(徳川幕府五代将軍綱吉の初期の時代)一月から二月に造られたであろう石像と思われますが、その目的は未詳。その様子から隠れキリシタン殉教の像と伝えられています。」とあります。
神社の境内に十字架とは、かなりインパクトがありますが、このような歴史を伝える尊像です。
【写真 上(左)】 お春像
【写真 下(右)】 摩利支天像
さらにその右には大正2年奉納の「摩利支天像」。
摩利支天はもとは天竺(インド)の神格でしたが、仏教にとり入れられて守護神となりました。
三面六臂の丸彫りで椎型兜をかぶり、槍先が三つに割れた矛を握られたこのお姿の摩利支天像は、公式Webによると日本で十二体しか存在していないそうです。
境内には手玉石(かめ石)や疱瘡ばあさんの石、山岳信仰道場などもあります。
西向きの明るい境内ですが、どこかパワスポ的な陰りを感じるのは、修験や神仏混淆の歴史がもたらすものかもしれません。
御朱印は参道階段左手の社務所にて拝受しました。
〔 五所神社の御朱印 〕
42.弘延山 實相寺(じっそうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市材木座4-3-13
日蓮宗:
司元別当:
札所:札所:
實相寺は宗祖嫡弟六老僧日昭尊者潜居の地とも伝わる日蓮宗の名刹です。
鎌倉市観光協会Web、下記史料・資料から縁起沿革を追ってみます。
實相寺は、日蓮宗六老僧の辨阿闍梨日昭(元享三年(1323年寂))が創建とされます。
日蓮聖人が佐渡へ流罪となった後も当地で布教を続け、伊豆の名刹・玉澤妙法華寺が移転する前の旧地といいます。
【写真 上(左)】 玉澤妙法華寺
【写真 下(右)】 同 御首題
またこの地は、鎌倉時代の武将・工藤祐経の屋敷跡で、日昭上人はその息女の子とも伝わります。
日昭上人が屋敷跡に法華堂を建てたのが創始といいます。
法華堂は法華寺と号して三島・玉澤に移り、元和七年(1621年)に日潤上人が再建とされます。
日昭上人はWikipediaによると俗姓を印東氏といい、晩年の日蓮聖人を池上に迎え、池上本門寺の基礎をつくった日蓮宗の有力檀越・池上宗仲と親戚関係にあったとも。
玉澤法華経寺公式Webによると、宗祖日蓮聖人の比叡山遊学中の学友ともいい、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始められとすぐ最初の弟子となったとの由。
日蓮六老僧の一人に数えられ、日昭門流(濱門流・玉澤門流)の祖です。
現在の日昭門流の本山は、妙法華寺(三島市玉澤)と村田妙法寺(新潟県長岡市)で、その妙法華寺の旧地とあっては宗門上、重要な寺院とみられます。
工藤氏については■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2/14.稲荷山 東林寺でとりあげているので再掲します。
藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。
東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようです。
いささか長くなりますが整理してみます。
工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の(滝口)祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)
伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)
一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。
工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。
娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。
なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。
工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すも効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。
安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。
伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため伊東市の東林寺に入って出家しました。
治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。
工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。
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【史料・資料】
■ 『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館)
(亂橋村)實相寺
弘延山と号す 豆州玉澤妙法華寺末 開山日昭 元享三年(1323年)三月廿六日寂す
本尊三寶を安ず
■ 山門掲示
當山ハ宗祖嫡弟六老僧第一辨大成辨阿闍梨日昭尊者潜居の地 宗祖佐渡流竄後門下僧俗を統率したる濱土法華堂(祖滅後法華寺と称す)乃霊跡にて玉澤妙法華寺の旧地也 傳フ工藤祐経邸趾と云ふ
日昭尊者濱土法華堂霊跡
御廟 裏山の麓にあり往古ハ峯の岩屋ニ有しを元禄三年現所ニ移せり
■ 玉澤妙法華寺公式Web
妙法華寺は、日蓮聖人の本弟子で六老僧第一の弁阿閣梨日昭上人が開創された寺である。
もと鎌倉の浜にあった法華寺がその前身であり、宗祖が日頃、日昭上人を浜殿と呼んでいたのは、この浜の地名によるものである。宗門としては最も初期の寺に属する。
当山の古記録によると、身延を除けば妙本寺第叫、法華寺第二と誌されている。この古い歴史と霊宝の聖人ご真筆、『宗祖説法御影』、調度品等が聖人の息吹を今に伝えている。
縁起
弘安7年(1284)12月、越後の風間信昭により、鎌倉の浜にあった日昭上人の庵室を寺としたのが起源である。
日昭上人は、宗祖の比叡山遊学中の学友であったが、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始めるとすぐ最初の弟子となった。
鎌倉の浜土に草庵を構え、宗祖や他の門弟と共に教化活動を行い、その後、宗祖が身延に人山すると、日朗上人とともに鎌倉の日蓮教団の中心的役割を果たした。一門を日昭門流とか浜土門流と称し、近代は玉沢門流と呼んだ。(以下略)
■ 『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)(抜粋)
弘延山 實相寺と号する。日蓮宗。伊豆玉澤妙法華寺の旧地。
開山、日昭。
本尊、一尊四士。
境内地405坪。
本堂・庫裏・山門あり。
日昭は元亨三年(1323年)三月廿六日寂。日昭は工藤祐経の女の生んだ子。この地は祐経の旧邸址と伝える。当寺の十一代日弘・十二代日南は関東管領扇ガ谷上杉氏の一族であるという。明治初年の大火で焼失した。
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鎌倉材木座・五所神社の並びにあります。
由緒ある名刹ですが、やはり立地的に観光客の拝観は多くないと思われます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 斜めからの山門
路地に面する山門は、門前にゆったりと空間をおき、二基のお題目塔(寺号標)を拝して落ち着いた名刹の風情。
【写真 上(左)】 寺号標-1
【写真 下(右)】 寺号標-2
山門は脇塀を巡らした切妻屋根桟瓦葺の薬医門かと思われますが、水引虹梁に四連の斗栱を拝して風格があります。
山門柱には「日昭尊者濱土法華堂霊跡」の表札で、由緒が記されています。
【写真 上(左)】 霊跡の札板
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 お題目塔
【写真 下(右)】 本堂
山内は数基のお題目塔はありますがすっきりシンプルで、参道正面が本堂です。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、なだらかに照りを帯びる屋根の勾配が優美です。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を置いています。
向拝・身舎ともに格子と桟をおき、端正なイメージの堂宇です。
御首題・御朱印は庫裏にて拝受しました。
〔 實相寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-14 (B.名越口-9)へつづく。
【 BGM 】
■ Rina Aiuchi(愛内里菜) - Magic
■ 森高千里 - 渡良瀬橋
■ 今井美樹 - Goodbye Yesterday
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