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■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)から
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)


A.朝夷奈口
鎌倉市の北東側(横横道路「朝比奈IC」)から入るルートで、十二所、浄明寺、二階堂、西御門、雪の下の寺社をご紹介します。
まずはリストです。

1.十二所神社
神奈川県神社庁Web
鎌倉市十二所285
御祭神:天神七柱、地神五柱
旧社格:村社、旧十二所村鎮守


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 拝殿

「神奈川県神社庁Web」によると、創建は弘安元年(1278年)。
『十二所権現社再建記』には、「天保八年(1837年)明王院別所恵法が社頭再営を志し、氏子三十余軒により天保九年(1838年)、現在地に再建」とあるそうで、明治維新の際、十二所神社と改称しています。
『新編相模國風土記稿』、山之内庄十二所村光觸寺の項に「熊野社 村の鎮守トス。十二所ノ村名是ニ発起スト云フヘシ。」とあります。

以上から、当初光觸寺境内に熊野社、ないし熊野(十二所)権現社として御鎮座で天保九年(1838年)、現社地に御遷座されたとみられます。

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県道204号金沢街道の鎌倉霊園下あたりから鋭角に切り返したあたりにありますが、駐車場はなく、金沢街道沿いの有料Pを利用する必要があります。
滑川の谷筋に面した山肌にあり、十数段の参道階段を昇ると石灯籠一対と端正な石造明神鳥居。その先に入母屋造銅板葺流れ向拝の拝殿。

ちなみに「熊野三所権現」とは、ふつう家津美御子(けつみみこ、スサノオ、本地阿弥陀如来)、速玉(はやたま、イザナギ、本地薬師如来)、牟須美(むすび、イザナミ、本地千手観世音菩薩)をさし、「熊野十二所権現」とはこちらの三柱に五所王子(天照大神、天忍穂耳命、瓊々杵尊命、彦火々出見尊、鸕鶿草葺不合命)と四所明神(軻遇突智命、埴山姫命、彌都波能賣命、稚産霊命)を加えた尊格群とされます。
東京・新宿の十二社の地名も、当地の熊野神社(角筈十二社)に十二所権現を勧請した由緒によるものとされています。

現在の御祭神は「天神七柱・地神五柱」で計十二柱となりますが、こちらが上記の「熊野十二所権現」の神々と符合しているかはわかりません。

水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、海老虹梁はなく手挟のみ、中備に波の上で踊る二匹の兎の見事な彫刻(波乗り兎)が彫り込まれています。
NPO法人鎌倉ガイド協会「古都鎌倉史跡めぐり」では、この「波乗り兎」の由来を熊野の(兎の)焼身供養に求めています。
熊野権現と兎の所縁については、山口県長門市三隅兎渡谷村の熊野権現の伝承、山形県南陽市の日本三熊野のひとつ熊野神社本殿の「三羽の隠しうさぎ」などが知られていますが、いずれもどうして兎なのかの理由がわからず、当社の兎さんについてもWebで追ってみましたが現時点ではわかりません。


【写真 上(左)】 中備のうさぎの彫刻
【写真 下(右)】 御朱印

向拝正面は桟唐戸(閉扉)で上方に「十二所神社」の扁額。本殿は拝殿に連接し、背後の岩壁に接した(おそらく)切妻造妻入りの覆屋のなかと思われますが詳細不明です。
境内社として本殿後背に山の神、疱瘡神、宇佐八幡、地主神などが御鎮座されます。

通常非常駐のようで、御朱印は大町の八雲神社にて授与されています。

※さすがに鎌倉。しょっぱなからWeb情報があふれています。
以降の寺社はさらに情報量が増えると思いますので、当座は適宜端折ってご紹介します。


2.岩蔵山 長春院 光觸寺
公式Web
鎌倉市十二所793
時宗
御本尊:阿弥陀如来(阿弥陀三尊)
札所:鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀霊場第6番

十二所にある時宗寺院で、通常は「光触寺」と書かれ、もともとは「藤觸山」と号していたようです。境内由緒書、公式Webなどからご由緒を追ってみます。
創建は弘安元年(1278年)、開山は作阿上人、開基は一遍上人と伝わります。作阿上人はもともと真言宗の僧でしたが、一遍上人遊行の途次、一遍上人に帰依して時宗に改めたと伝わります。

御本尊の阿弥陀如来は「頬焼阿弥陀」(ほおやけのあみだ)として知られ、当寺に伝わる『頬焼阿弥陀縁起』によると、鎌倉時代のはじめ、仏師運慶が町の局(まちのつぼね)の求めに応じて阿弥陀三尊像を刻したもので、ある時、町局に仕える万歳法師が盗みの疑いを受け頬に焼印を捺されたましたが、不思議なことに法師の頬には焼痕が残らず運慶作の阿弥陀仏の頬につきました。
たびたび修復しても阿弥陀仏の頬の焼痕はついに消えずにいつしか「頬焼阿弥陀」と呼ばれるようになったとの由。

『新編相模國風土記稿』、山之内庄十二所村光觸寺の項によると、その後、町の局は出家して比企谷に岩蔵寺という一宇(カナヤキ(火印)堂とも)を建立し、件の阿弥陀三尊像を御本尊として安置。
建長三年(1251年)、町の局はこの阿弥陀さまの前で端然と往生されたと伝わります。

『光触寺阿弥陀三尊像と頬焼阿弥陀縁起』(美術研究第十三集・熊谷宣夫氏)では、この町の局にかかわる縁起譚は、鎌倉時代中期の仏教説話集『沙石集』巻二の「阿彌陀の利益の事」に類似すると述べられ、実際、対照してもほぼ同様の内容のようです。
『新編鎌倉志』でも光觸寺の項で『沙石集』の説話を引用紹介しています。

『新編相模國風土記稿』に「(阿弥陀像の)厨子ハ(足利)持氏寄進ノ物ナリトソ。(足利)尊氏。氏満。満兼。持氏ノ碑アリ。」とあるので、足利氏重代の尊崇を集めたとも考えられます。

複数のWeb記事に、弘安元年(1278年)に岩蔵寺は現在地へと移ったとあるので、この移転時に岩蔵寺を光觸寺と改号し創建とされたのかもしれません。

寄木造漆箔玉眼の御本尊阿弥陀如来像は両脇侍立像(観音・勢至)とともに「木造阿弥陀如来及両脇侍立像」(鎌倉・彫刻・3躯)、として国重要文化財に指定され、「紙本淡彩頬燒阿弥陀縁起」(鎌倉・絵画・2巻)も国重要文化財に指定されています。
観音像は快慶(安阿彌)、勢至像は湛慶作とも伝わる名作で、後醍醐天皇御宸筆の寺号勅額も蔵します。

なお、十二所神社は当寺の境内社でしたが、天保九年(1838年)に現社地に御遷座と伝わります。

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【写真 上(左)】 光触寺橋
【写真 下(右)】 入口

金沢街道から滑川にかかる光触寺橋を渡ったすこし東の山ぎわに、鎌倉の古寺らしい落ち着いたたたずまいをみせています。


【写真 上(左)】 寺号標と頬焼阿弥陀の石碑
【写真 下(右)】 札所碑

道から数段の階段。その先に寺号標、「頬焼阿弥陀」の石碑と札所碑。
山門は切妻桟瓦葺梁行二間の四脚門で見上げに山号扁額、門柱に「頬焼阿弥陀」の木銘が掛けられています。
平石敷の曲がり参道で、正面おくに一遍上人のお像がみえます。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 一遍上人像

一遍上人お像の手前で参道の向きを変えて正面が本堂、向かって右手に「塩嘗地蔵尊」の覆堂。
本堂はおそらく寄棟造(宝形造かも)で銅板葺流れ向拝。向拝柱はありますが水引虹梁まわりは時宗寺院らしく比較的簡素です。
堂前の天水鉢には、時宗の宗紋「隅切り三」が刻されています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 天水鉢

向拝上に「光觸寺」の寺号扁額。正面の障子戸がすこし開けられて堂内がのぞめますが、堂内は暗く仏像配置は定かではありません。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 塩嘗地蔵尊


塩嘗地蔵尊の覆堂は手前に六体の石像の六地蔵。おくに光背を背負われた石像の「塩嘗地蔵尊」が御座します。

御朱印は本堂向かって右手の風情ある庭園を回り込んだ庫裡にて拝受しました。お昼時は御朱印授与はお休みのようです。

札所は鎌倉三十三観音霊場第7番、鎌倉二十四地蔵霊場第5番、鎌倉六阿弥陀霊場第6番の3つ。

鎌倉六阿弥陀霊場第6番の札所本尊は、御本尊の「頬焼阿弥陀」とみられます。

〔 鎌倉六阿弥陀霊場の御朱印 〕



鎌倉三十三観音霊場第7番の札所本尊は、平安時代の作と伝わる定朝様の木造聖観音菩薩立像とみられます。(御本尊脇侍の快慶(安阿彌)作の聖観音も考えられますが、通常、阿弥陀三尊の脇侍の観音様は観音霊場の札所本尊にはなられないので、定朝様木造聖観音ではないでしょうか。)

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

鎌倉二十四地蔵霊場第5番は「塩嘗(鹽甞)地蔵尊」です。
その名称の由来は、『新編鎌倉志』によると、金沢・六浦の塩売りが商いで鎌倉に入るたびに光觸寺境内の石地藏に商売繁盛を願って塩をお供えしていたという説。この石地蔵が金色の光を放っていたのを塩売りが塩を打ちかけると光を放たれなくなったからという説などがあります。
どうやらこちらの石地蔵にはもともと塩を嘗められる、という伝承があったようです。

〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

↑で、「当座は適宜端折ってご紹介します。」と書きましたが、すこしWeb検索しただけで出てくる出てくる、さすがに鎌倉のお寺です。
検索していくとキリがないので、今後は公式Web、境内由緒書、『新編相模國風土記稿』、『新編鎌倉志』、国・市の公的資料に絞ってまとめてみたいと思います。


3.飯盛山 寛喜寺 明王院
公式Web
鎌倉市十二所32
真言宗御室派
御本尊:不動明王(五大明王)
札所:鎌倉三十三観音霊場第8番、鎌倉二十四地蔵霊場番外、鎌倉十三仏霊場第1番

公式Webおよび鎌倉市観光協会資料などによると、嘉禎元年(1235年)、鎌倉四代将軍藤原頼経公により建立。鎌倉将軍発願によって建立された、市内現存の唯一の寺院とのこと。
鎌倉幕府の鬼門の方角に当たる十二所に鬼門除けの祈願所として五大明王を奉安し、古くから”五大堂”とも呼ばれています。
初代別当は開山の定豪律師(元鶴岡八幡宮別当)。以降、明王院別当職は四箇重職の一つに数えられ、鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院とならぶ重職とされました。

『吾妻鏡』には、寛喜三年(1231年)、将軍御願寺として五大堂建立の沙汰があり、地相、方角、日時について執権、連署をはじめ、評定衆と陰陽師らが巡検したとあります。

『新編相模國風土記稿』によると、大行寺とも呼ばれたとあり、京の仁和寺直末のようです。
『新編相模國風土記稿』、『新編鎌倉志』によると、この五大堂の建立にあたってはすこぶる複雑な経緯があったようです。

寛喜三年(1231年)10月、五大堂建立の地として二階堂永福寺、大慈寺等を巡検。
『吾妻鏡』によると10月16日永福寺境内に建立の許可?が下されています。
しかし10月19日に「二階堂ノ地ヲ替ヘラレ甘縄ノ地ヲ巡検アリ。」 とあり、甘縄の地に変更となったようです。
11月18日「五大尊像ヲ造始ラル。」
嘉禎元年(1235年)正月15日、「五代尊堂門木作事始アリ。」

(正月)21日「精舎建立ノ事。是マテ北條時房、泰時等。度々勝地ヲ撰レシニ。何レモ煩アルニヨリ。当所ヲ定メラレ。今日総門ヲ建ラル。」「曰 廿一日。御願五大堂建立事。相州武州。度々巡検。被選鎌倉中之勝地。去年雖被定城太郎甘縄地。猶不相叶。頗思食煩之処。相当干幕府鬼門方有此地。毛利蔵人入道西阿領也。拠為御祈祷。相應之所被点之。即被引地訖。仍今日先総門計被建之。」
↑ どうやら、この記述によると、甘縄の地に決まっていた建立地を幕府の鬼門にあたる毛利蔵人入道の領地(十二社?)に改めて総門を建立したようなのです。

甘縄は、安達義景拠点の地といわれています。
安達義景は、鎌倉幕府の有力御家人で北条氏縁戚でもあったため、宝治合戦(三浦氏の乱・宝治元年(1247年))では執権北条側について三浦氏を滅ぼし勢力を確保しましたが、後に義景の子泰盛は内管領・平頼綱との対立により霜月騒動(弘安八年(1285年))を引き起こし、安達一族は滅ぼされました。
霜月騒動ののち、鎌倉幕府は北条の得宗専制の時代に入ったとされます。

安達義景の正室は北条時房の娘(北条時政の孫)でしたが、側室に甲斐源氏の伴野(小笠原)時長の娘を迎えており、泰盛は小笠原の孫にあたります。
北条氏にとって安達氏はもともと侮りがたい存在であり、大きな勢力をもっていた甲斐源氏とつながりがあることも考えると、気を許せる相手ではなかったのでは。

五大明王は極めて強力な祈願仏であり、この祈願仏を安達氏の本拠・甘縄に置くことは、北条執権家として看過できなかったのかもしれません。
上記で「北條時房、泰時等。度々勝地ヲ撰レシニ。何レモ煩アルニヨリ。当所ヲ定メラレ。今日総門ヲ建ラル。」の”煩”とは、このことをさしているのではないでしょうか。

嘉禎元年(1235年)6月29日、鶴岡八幡宮の定豪律師が導師となり、将軍頼経公が参堂して五大明王像の入佛(開眼)供養がなされて創建。

五大明王とは、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王(ないし烏枢沙摩明王)をさし、この五尊を供養する修法は”五壇法”と呼ばれ、安産祈願、息災、調伏、異国降伏などを目的として修される大法とされました。

”五壇法”は平安後期から密教寺院で隆盛し、神護寺ではすでに天長年間(824-834年)に五大堂が建立され、承和六年(839年)には東寺講堂の五大明王開眼供養の記録が残っています。
”五壇法”は官寺や有力氏族ゆかりの名刹で修されることが多く、政治的な色合いも強かったものとみられています。
五大堂(明王院)建立にあたり、幾度も候補地の巡検や方位や日時の校量がなされ、仏像の造立にあたっても細心の配慮がうかがわれるのは、このような”五壇法”(あるいは五大明王)の政治的な重みを示しているのではないでしょうか。

また、中世、大法(国家的祈祷・修法)の多くは、真言宗系(東密)では小野、広沢の二流(野沢十二流)で修されたと伝わります。
小野流は山科の小野、広沢流は嵯峨の広沢が語源とされており、現在の真言宗御室派につながる仁和御流は広沢流を代表する流れとして知られ、総本山の仁和寺は門跡寺院として高い格式をもちます。
鎌倉幕府鬼門除けの祈願所として五大明王を奉安する五大堂(明王院)が真言宗御室派に属するのも、このような背景があってのことかもしれません。

『新編相模國風土記稿』によると、寺域鎮護の神祠(明王院鎮守)として春日社があり、北条時房、泰時等が参会して五大堂の東方に社地を定めたとあります。
春日社の現況は定かではありませんが、鎌倉四代将軍となった頼経公は、左大臣藤原(九条)道家の子で、春日社は藤原氏の氏神とされているので、そのゆかりで勧請されたのかもしれません。

同書によると山内にはかつて北斗堂があり、仁治元年(1240年)の事曳始は北条泰時が監臨。仁治二年10月に「新造北斗堂」。同月の供養には「将軍頼経公参堂」とあります。
北斗堂で修される(とみられる)北斗法は、主に貴人の息災延命のための修法とされますから、鎌倉将軍(あるいは北条氏執権)の息災延命を願っての建立かもしれません。
『新編相模國風土記稿』には、堂内に北斗七星像および一字金輪像が奉安されたとありますので、やはり北斗法が修されたとみられます。
なお、同書には「今廃シテ。堂址モ詳ナラス。」とあり、現存していないようです。

それにしてもやっぱり鎌倉の名刹、あまりにネタが多すぎて、どうしても文章が長くなります。

---------- (こちらは「境内撮影禁止」なので、写真はあまりありません。)

【写真 上(左)】 滑川からの明王院参道
【写真 下(右)】 山内入口

金沢街道明石橋のあたりから少し北側に入った山ふところにあります。
駐車場はなく、金沢街道沿いの有料パーキングを利用する必要があります。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 冠木門

山内入口に「五大堂明王院」の寺号標。その先の冠木門から本堂に向かってまっすぐ参道が伸びています。
参道の階段手前に「境内撮影禁止」の掲示があるので、そこから先では撮影しておらず、堂宇などの詳細なレポはできません。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道から本堂-1

絶妙な位置にこんもりと山肌を背負った、南向きの明るい山内です。
背後は「鎌倉アルプス」とも呼ばれる山々に連なり、人気の天園ハイキングコースの登り口でもあります。


【写真 上(左)】 参道から本堂-2
【写真 下(右)】 本堂

参堂正面の本堂は、おそらく寄棟造茅葺きで格子戸に蔀戸を備えたやさしいイメージのつくり。
二棟ならびで、向かって右手が本堂、左手は客殿かもしれません。
参堂左手に叶地蔵、本堂右手に一願水掛不動尊、その手前に観音堂があります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 観音堂


【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂(右)と客殿?(左)

庭園の設えも風流で、あまりに絵になるので素人カメラマンが殺到、例によって三脚立てまくりの傍若無人な撮影っぷりを展開したため、閉口したお寺さまがやむなく撮影禁止とされたのかも。
(ちなみにこちらのお寺さまの御朱印対応はとても親切です。)

こちらの札所は、鎌倉三十三観音霊場第8番、鎌倉二十四地蔵霊場番外、鎌倉十三仏霊場第1番の3つです。
また、御本尊の御朱印と、ご縁日には大聖歓喜天の御朱印も授与されています。

鎌倉十三仏霊場第1番の札所本尊は、御本尊の不動明王です。
鎌倉は禅寺が多く、不動明王が御本尊の寺院は意外に多くありません。
鎌倉幕府ゆかりの由緒をもたれるこちらのお不動さまが、鎌倉十三仏霊場第1番(不動明王)の札所本尊となられていることは、なるほど頷けるものがあります。
本堂・御本尊は毎月28日のご縁日に護摩供養がおこなわれ拝観することができます。

〔 御本尊・不動明王の御朱印 〕


●主印は不動明王の種子「カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。札所印の位置に「鎌倉幕府御願寺」の印が捺されています。

〔 大聖歓喜天の御朱印(ご縁日のみ授与) 〕

●主印は聖天供の供物、大根(蘿蔔根)の印。双身歓喜天の種子「ギャクギャク」の揮毫があります。


●主印は不動明王の種子「カーン」の御寶印(蓮華座+宝珠)
【写真 上(左)】 御朱印帳書入(平成29年)
【写真 下(右)】 御朱印帳書入(平成31年)

鎌倉三十三観音霊場第8番の札所本尊は観音堂に御座す、十一面観世音菩薩です。
写真がないので詳細不明ですが、たしか入母屋造桟瓦葺妻入りで身舎幅を超える大がかりな向拝を備えていたかと思います。
また、障子扉が少し開けられ、堂前には札所板が掲げられていました。

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕


●主印は不動明王の種子「カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と思われます。
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

鎌倉二十四地蔵霊場番外の札所本尊は参堂左手に御座す、叶地蔵尊です。
ガイドブックなどには載っていないこともありますが、鎌倉二十四地蔵霊場にはふたつの番外札所があります。(番外を含めると26札所)
こちらの叶地蔵尊と、円覚寺塔頭の伝宗庵の地蔵尊(現在は鎌倉国宝館に寄託)で、どちらも御朱印を拝受できます。
叶地蔵尊は露仏の石像ですが、背後に光背、右手に錫杖、左手に宝珠(如意珠)を持たれ蓮華座に座する存在感のあるおすがたです。

〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕


●主印は蓮華座+火焔宝珠+種子の御寶印で、種子は地蔵菩薩の「カ」と思われますがちがうかもしれません。御朱印帳書入の御朱印には「番外」の揮毫があります。
【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

御朱印は山内左手の庫裡にて拝受できます。
鎌倉十三仏霊場第1番で、専用納経帳も頒布されています。
鎌倉二十四地蔵霊場の叶地蔵尊は、とくに札所掲示はありませんが、申告すれば快く授与いただけます。
ご縁日などには限定御朱印も授与されているようです。


4.稲荷山 浄妙寺
鎌倉市浄明寺3-8-31
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛(釈迦如来)
札所:御本尊(鎌倉五山第五位)、鎌倉三十三観音霊場第9番、鎌倉十三仏霊場第2番(釈迦如来)

鎌倉五山第五位の高い寺格をもつ、臨済宗建長寺派の名刹です。
文治四年(1188年)、足利宗家二代当主足利義兼により退耕行勇禅師を開山に創建と伝わります。
退耕禅師は四条氏の出とされる鶴岡八幡宮の供僧で、北条政子や源実朝公にも尊崇された高僧です。
当寺は鎌倉時代作とされる「木造退耕禅師坐像」を所蔵し、国重要文化財に指定されています。

退耕禅師は真言密教を学ばれたのち、鶴岡八幡宮の供僧となられ、永福寺、大慈寺など名刹の別当を務められました。
正治二年(1200年)栄西禅師(日本の臨済宗開祖)鎌倉下向の際、退耕禅師は寿福寺で参禅されたとも伝わり、建永元年(1206年)東大寺大勧進職。
承久元年(1219年)には高野山に金剛三昧院を開創され、禅密兼修の名僧としてその名を残されています。

また、退耕禅師は北条政子出家の際の戒師で、源実朝公の正室御台所坊門信子も禅師のもとで落飾したとされ、鎌倉将軍家の篤い帰依を受けました。

浄妙寺は当初は真言宗で極楽寺と号しました。
建長寺の開山蘭渓道隆(1213-1278年)の弟子、月峯了然が住職のとき臨済宗に改められ、正嘉年間(1257-59年)頃に寺号も浄妙寺と改めました。

中興開基は足利尊氏公の父、貞氏公で、室町時代は鎌倉公方の菩提寺として隆盛し、外門、総門、山門、仏殿、法堂方丈、禅堂、経堂など七堂伽藍を備え多くの塔頭を擁する大寺院であったと伝わります。

『新編鎌倉志』は、中興開基について「按ずるに、源尊氏の父、讃岐守貞氏を、浄妙寺殿貞山道観と号す。元弘元年九月五日逝去、当寺の旦那にて、当寺を修復の御浄妙寺と改めたると見へたり。昔は当寺を極楽寺と号すと。」と記しています。
歴代の往寺として約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広などの名僧を輩出しています。

浄妙寺は鎌倉五山の第五位です。
鎌倉五山とは臨済宗寺院の寺格で鎌倉にある五つの高位の寺院をさし、もとはインドの五精舎十塔所にならって創設されたともいわれています。
京にも五山がありますが、京に先立ち鎌倉で五山が定められたとする説、もともとは鎌倉と京の寺院で構成されていたという説など諸説あるようです。

至徳三年(1386年)、室町幕府三代将軍・足利義満公が南禅寺を別格として五山之上とし、京都の天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉の建長寺、圓覚寺、壽福寺、浄智寺、浄妙寺をそれぞれ五山に決定し、以降固定化しました。
『新編鎌倉志』には、
「至徳三年七月、源義満、五山の座次を定め、建長寺を第一として、京師天竜寺の次也。圓覚寺を第二、壽福寺を第三、浄智寺を第四、浄妙寺を第五とす。是より先、座位の沙汰あらず。」とあります。

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【写真 上(左)】 金沢街道からの参道
【写真 下(右)】 山内入口

間違いやすいですが、このあたりの地名は「浄明寺」、寺号は「浄妙寺」です。
かつては寺社から地名をいただく場合、そのままの字を写すことをはばかり、一字を替えて名付けることがあったそうです。こちらもその例かもしれません。

金沢街道沿いに駐車場があり、そこから北に向かってまっすぐ参道が延びています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標と山門

さらに進むと山門。切妻屋根本瓦葺の脇門付き四脚門で、さすがに名刹らしい風格を備えています。
くぐって左脇が拝観受付で、御朱印もこちらで授与されています。
拝観前に御朱印帳をお預けし、拝観後に受け取るシステムで、ご親切な対応をいただけます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 冬の参道-1
【写真 下(右)】 冬の参道-2

低木メイン、南傾のすこぶる明るい山内で、うっそうと幽邃な寺院の多い鎌倉の禅寺では異色ともいえる開放感があります。
かつては七堂伽藍や塔頭を連ねたこの名刹も、いまは総門(山門)、本堂、客殿、庫裏という比較的シンプルな伽藍構成となっています。
境内は国指定史跡に指定されています。


【写真 上(左)】 5月の参道
【写真 下(右)】 本堂下


【写真 上(左)】 5月の本堂
【写真 下(右)】 本堂と客殿?

山門から本堂に向かってまっすぐに参道が延びています。
おそらく寄棟造銅板葺。円筒状の大棟と、起り気味の屋根が美しい本堂です。
左手にある客殿?の入母屋屋根も銅板葺起り気味で、本堂と絶妙なバランスを保ち、本堂身舎右側に設えられた唐破風もいいアクセント。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 客殿?

向拝柱はなく、桁行に格子戸が連なり、中央見上げには鎌倉三十三観音霊場の札所板と「方丈」の扁額が掲げられています。
向拝の扉は開け放たれ、堂内をうかがうことができます。


【写真 上(左)】 本堂向拝-1
【写真 下(右)】 本堂の札所板と扁額


【写真 上(左)】 本堂向拝-2
【写真 下(右)】 左手からの本堂


【写真 上(左)】 右が本堂、左が開山堂
【写真 下(右)】 開山堂扁額

本堂裏手には別棟の開山堂が連接しています。
こちらは、開山塔(祖塔、光明院)の流れを汲む堂宇と思われ、『新編鎌倉志』では、「開山(退耕行勇禅師)の像あり。又源直義像あり。又光明院殿本覺大姉と書たる位牌(裏に法樂寺殿嫡女)」とあり、足利家三代目当主義氏公の院号は法樂寺殿、息女(四条隆親室)の院号は光明院殿と伝わるため、義氏公の息女とのゆかりを説いています。


【写真 上(左)】 「喜泉庵」入口
【写真 下(右)】 枯山水庭園と「喜泉庵」


【写真 上(左)】 「喜泉庵」
【写真 下(右)】 「喜泉庵」の軒先

本堂左手に枯山水庭園と茶堂「喜泉庵」があり、枯山水の庭を眺めつつ茶菓をいただくことができます。


【写真 上(左)】 石窯ガーデンテラス
【写真 下(右)】 石窯ガーデンテラスのパン

そこから小道を登っていくと、スコットランド人ガーデンデザイナーが手掛けるイングリッシュガーデンと築90年の洋館を改装したベーカリーレストラン「石窯ガーデンテラス」
ふつうお寺にイングリッシュガーデンやパン工房はイメージ的に違和感がありますが、このすこぶる明るい浄妙寺の境内では不思議なほどマッチしています。


【写真 上(左)】 直義公墓所への道
【写真 下(右)】 直義公墓所

「石窯ガーデンテラス」から北側に延びる小道は足利直義公の墓所。
小道分岐から西側すぐが6.(浄明寺)熊野神社の社頭になりますが、ゲートがあるのでここから直接熊野神社へは行けません。
ここまで来ると、展望が開け、滑川の谷越しに鎌倉の名山、衣張山(きぬはりやま)を望めます。


【写真 上(左)】 ゲートの先が熊野神社の社頭
【写真 下(右)】 衣張山

この辺りは足利直義公ゆかりの史跡があったところで、少しく辿ってみます。
『新編鎌倉志』から浄妙寺山内図を転載します。(出所:国立国会図書館DC/保護期間満了)



この図をみると、現在の「石窯ガーデンテラス」の北側山手あたりに延福寺、「石窯ガーデンテラス」あたりに大休寺、その西側に熊野社の文字がみえます。

〔延福寺〕
雲谷山と号し、足利尊氏公の兄君で早世した足利左馬助高義公の菩提所とされます。
『新編相模國風土記稿』には「延福寺蹟。浄妙寺域内西北ニアリ。足利左馬頭高義(尊氏ノ兄)。契忍禅尼(讃岐守貞氏側室。高義母)。追福ノ為。爰(ここ)ニ創建シ。山ヲ雲谷ト名ツケ。足菴(麟和尚)ヲ開山粗トスト云フ。観應三年二月廿六日。直義入道恵源。当寺に在テ頓滅セリ。管領成氏ノ時ハ。年々二月。必当寺参詣アル事。廃セシ年代詳ナラス。」
とあり、こちらが足利直義公の終焉の地とされています。

足利直義公は、足利貞氏公の三男で室町幕府初代将軍足利尊氏公の同母弟です。
室町幕府開設・草創に活躍し、「三条殿」と称され卓越した政治的手腕により実質的な幕政の最高指導者であったとみられています。
政治手法は比較的保守的とされ、革新派の執事の高師直との間に確執を生じ、養子の直冬の処遇問題も絡んで観応の擾乱が勃発。薩埵峠の戦いで兄の尊氏に敗れ鎌倉に蟄居の後、急死を遂げたとされます。
禅宗を篤く敬って庇護し、 臨済宗高僧の夢窓疎石(夢窓国師)との対話は『夢中問答集』として出版され、尊氏・夢窓疎石とともに後醍醐天皇の菩提のために天龍寺を創建するなどの功績が残っています。

その死因についてはさまざまな説があり、『新編相模國風土記稿』でも含みのある表現をしていますが、ここでは触れません。

〔大休寺〕
『新編鎌倉志』から引用します。
「熊野山(ゆうやさん)と号す。此西の方に熊野の祠あり。大休寺の跡には石垣の跡あり。古き井二つあり。源直義の菩提所なり。此辺直義の旧宅なり。(中略)直義の位牌は浄光明寺にもあり。」
足利直義公の旧宅であり菩提所であったことが記されています。
『新編相模國風土記稿』によると、直義公の創建、月山希一開祖とのこと。

歴史ある名刹だけに境内、近隣に多くの寺社・旧跡が残ります。

浄妙寺の東、芝野には尊氏公の旧宅で代々関東管領の屋敷となった「公方屋敷」がありました。
境内墓地には尊氏公の父、貞氏公の墓と伝わる宝篋印塔もあり、浄妙寺は足利氏とゆかりのふかい寺院です。

山門をくぐらず、右手の道をすすむと鎌足稲荷神社の参道です。
上の浄妙寺山内図では、稲荷明神社は山門向かって左(西側)に記されていますが、鎌足稲荷神社は山門の右手(東側)に位置します。
急な階段を登った先が神さびた境内。木立のなかに一間社流造のお社が御鎮座しています。


【写真 上(左)】 鎌足稲荷神社参道.
【写真 下(右)】 鎌足稲荷神社

鎌足稲荷神社について、『新編鎌倉志』には「寺の西の岡にあり。浄妙寺の鎮守なり。(中略)往古の縁起うせて、何の御神とも不知といへり。偖(さて)は此御社は、大織冠の御鎮座か。山なる鎮守は、彼霊験の鎌を納められし、鎌倉山是なりとをぼゆるとあり。」とあります。

”大織冠”とは大化三年(647年)から数十年間日本で用いられた冠位(冠位一三階の最高位)で、史上藤原鎌足公だけが授かったとされます。
よって、同書では御祭神は藤原鎌足公であり、このお社が”鎌倉”の地名の発祥であることにまで言及しています。
実際、山内裏山にはいまも「鎌足稲荷」と呼ばれるお社が祀られ、開山堂には「木造藤原鎌足像」が安置されています。

鎌足稲荷神社の由緒書には、ご祭神 稲荷大神とあり、「大織冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまの加護を得られました。(略)大化二年(646年)東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜『あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や(蘇我)入鹿討伐という宿願をなし得たから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい』との神告があり、お告げのままに鎌を埋納したことによるとされています。」とあります。
これによると、鎌足公は創祀に深く関わられているものの、ご祭神は稲荷大神ということになります。


【写真 上(左)】 三宝荒神堂(旧本寂堂)参道
【写真 下(右)】 三宝荒神堂(旧本寂堂)

本寂堂は鎌足稲荷神社参道右手の階段の上にあり、現在の御祭神は三宝荒神です。
『新編相模國風土記稿』には、「荒神。不動ヲ安ス。足利義兼。多年秘崇空海所筆授。荒神及不動二軸。(中略)令佛工運慶彫所夢二尊之頭身。」とあります。
はっきりとはわかりませんが、義兼公が尊崇していた弘法大師空海お筆の荒神および不動尊の霊夢を受け、運慶に命じて二尊の像を彫らせたという内容に思えます。
また、同書によると本寂堂に「藤原鎌足像」が安置されていたようです。
ただし、現在は参道階段が閉ざされているので、階段下からの参拝となります。

また、Web上では、同寺に淡島明神立像が奉安されていることから、婦人病の祈願所とされてきた、という情報もみられます。


こちらの札所は、鎌倉三十三観音霊場第9番、鎌倉十三仏霊場第2番(釈迦如来)の2つ。
別に御本尊(鎌倉五山第五位)の御朱印を授与されているので御朱印は3種です。

御本尊の釋迦牟尼佛は本堂に御座します。
『新編相模國風土記稿』には「佛殿。古ハ彌陀(立像陳和卿作。是寺伝累記ニ見エタル。二位禅尼カ。白檀ノ阿彌陀ナルヘシ。)ヲ本尊トセシカ今此ヲ外殿ニ置キ釋迦。(是モ寺伝累記ニ見エシ。建暦三年(1213年)実朝カ新造セシ。佛體ナルニヤ。)本尊トス。」とあり、これを信じると当初の佛殿御本尊は阿弥陀如来だった可能性があり、後に、鎌倉三代将軍実朝公新造の釋迦牟尼佛が御本尊となられたことになるます。

〔 御本尊(鎌倉五山第五位)の御朱印 〕


●主印は三寶印、揮毫は「釋迦牟尼佛」で「鎌倉五山第五位」の印判が捺されています。

鎌倉三十三観音霊場第9番の札所本尊は本堂に御座す、聖観世音菩薩です。
上記のとおり本堂向拝に観音霊場の札所板が掲げられています。

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕


【写真 上(左)】 御朱印帳書入
【写真 下(右)】 専用納経帳書入

鎌倉十三仏霊場第2番(釈迦如来)の札所本尊も御本尊のお釈迦様とみられます。
御本尊(鎌倉五山)の御朱印揮毫は「南無釋迦牟尼佛」、鎌倉十三仏霊場の御朱印揮毫は「釋迦如来」となっています。
「南無」とは”帰依する”というほどの意味で、「釋迦牟尼佛に帰依します」の意をあらわします。
禅宗寺院の御朱印で多くみられる揮毫です。
これに対し「釋迦如来」は禅宗以外の寺院御朱印で比較的よくみられます。
個人的には「釋迦牟尼佛」は釈尊(歴史的な聖者・修行者あるいは仏教の教主としての存在)、「釋迦如来」は如来(浄土を主宰される悟りを開いた佛)の一尊としての釋迦如来をあらわしているような感じがしていますが、ぜんぜん違うかもしれません。

〔 鎌倉十三仏霊場の御朱印 〕


●主印は釋迦如来の種子「バク」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
十三仏霊場の御朱印は種子の御寶印が多いですが、こちらもその様式です。

鎌倉に女子をデートに誘う向きも少なくないかと思いますが、こちらのお寺さんはわりあい空いているし、受付のご対応も親切だし、雰囲気は明るいし、歴史の香りも豊かで、和様それぞれの飲食処も完備のうえに達筆の御朱印もいただけるので、かなりポイントを稼げる(笑)のではないでしょうか。


■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)へつづく。


【 BGM 】
■ 空に近い週末 - 今井美樹


■ Just Be Yourself - 杏里


■ 海のキャトル・セゾン - とみたゆう子



■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)へつづく。


■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
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