民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「大放言」 その19 百田尚樹

2017年08月20日 00時17分08秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その19 百田尚樹  新潮新書 2015年

 「自分」は日本以外の世界中にある P-37

 一時期のブームは過ぎたとはいえ、「自分探し」は相変わらず一部の若者のあいだでは根強い人気があるようだ。

 若者たちは「自分」を探しにぞくぞくと日本を旅立つ・ある者はアメリカに、ある者はヨーロッパに、ある者は東南アジア、ある者は中国、ある者は南米へと「自分」を探しに旅に出る。どうやら探すべき「自分」は世界の至るところにあるようだ。中には日本のどこかにあると信じ、徒歩や自転車で全国を回って「自分」を探す者もいる。

 20年も生きてきて、学校でも社会でも、あるいは友人たちとの触れ合いでも見つからなかったものが、半年やそこら外国を放浪したくらいで見つかるのだから「宝探し」としては実に手頃だ。プレミアム付きのブリキのおもちゃの方がもっと見つかりにくい。しかしいったいそれは世界のどこにあるのか?道端に落ちているのか、それともどこかの店で売っているのか?誰かが持っているのか?普通に考えたら、頭がおかしいのではないかと思うが、本人はいたって大まじめなのだ。

 私は前述のテレビの制作会社を辞める青年に聞いてみた。

「外国へ行けば、別の自分が出てくるんかいな?」
「はい、多分」
「それはここでは出てけえへんのか?」
「出てこないと思います。『本当の自分』は、今の日本の社会の中で抑圧されているからです」

 どうやら彼は外国に旅することで、自分の中に眠っていた「本当の自分」が覚醒すると思って(願って)いるようだった。

「大放言」 その18 百田尚樹

2017年08月18日 00時47分06秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その18 百田尚樹  新潮新書 2015年

 自分を探すバカ P-35

 世にも奇妙な会話

 先日、私の目の前でこんな会話があった。あるテレビの制作会社の事務所でのことだ。
 会社を辞めたいという若い社員(20代後半)と社長(60代後半)の会話だ。この業界は人の出入りが激しいから、若い社員が辞めるのは珍しくない。

「なんで会社を辞めるんや?」したいことがあるんか?」
「自分探しの旅に出ます」
「お前はここにおるやないか」
「そんなんじゃなくて・・・本当の自分を探すためにインドに行くんです」
「お前のルーツはインド人か?」
「違いますけど」
「長いこと行くんか?」
「取りあえず半年くらい」
「半年で、自分が見つかるんか?」
「さあ」
「自分が見つかったら、何するんや?」
「まだ決めてません」

 若者も社長もお互いに、こいつは何を言ってるんだ、という顔をしている。
 社長は若い社員の辞める理由が理解できないし、社員は社員で、自分の言葉が通じないのに呆れている。
 短いやりとりの後、若い社員は辞表を出すと、今度は若い女子アルバイトに別れの挨拶にきた。

「自分探しに行ってくる。みつかるかどうか、わからないけど」
「大丈夫よ。きっと見つかるわ」
「うん、ぼくもそう思う」
「私もお金を貯めて、来年オーストラリアに自分探しに行く予定」

これまたシュールな漫才を聞いているようだった。

「大放言」 その17 百田尚樹

2017年08月16日 00時31分03秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その17 百田尚樹  新潮新書 2015年

 いいように誤解されるケースはある P-33

 これまで「他人の評価というものはズレが少ない」と書いてきたが、実は例外もある。それはプラスの評価の場合だ。

 つまり本当は仕事ができないのに「できる奴」と思われている男性や、本当は陰険なのに「優しい人」と勘違いされている女性がたまにいる。

 しかしこれは周囲の人にそう思わせた彼(女)の勝利である。前にも言ったように、その人物が評価されるのは、その言動によってである。彼(女)が周囲から高評価を獲得したのは、そういう言動の積み重ねだ。そして周囲の人にずっとそう思わせることができたら、それはそれで彼(女)の本当の姿と言える。

 もし「本当の姿」でないなら、いつかはどこかで正体がばれる。古い歌謡曲ではないが、「どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙してほしかった」というやつである。極端な例だが、ものすごく残忍な犯罪を犯した人物が、犯行後、周囲の人に「とてもいい人だったのに」「あんなことをする人には見えなかった」と言われるケースもある。

 このように周囲のプラス評価というのはしばしば実際とはズレが生じることもあるが、マイナス評価というのは、ズレが非常に小さい。人間はいいように誤解されても、悪いようにはあまり誤解されないものだ。

 もしあなたが、自分は悪いように誤解されていると思っているなら、その自己認識そのものが間違っているのではないかと思い直してみることを勧める。

 等身大の自分を知りたければ、他人に聞けばわかる。ただし、これを虚心に聞くには相当の精神力がいる。
 もっとも、それができるほどの人間なら、すでに高い評価を得ているだろう。

「大放言」 その16 百田尚樹

2017年08月14日 00時01分43秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その16 百田尚樹  新潮新書 2015年

 隠れている自分は自分ではない P-31

 しかしそれでも「いや、自分は周囲にまだ本当の姿をみせていない。だから、皆、本当の私を知らないのだ」と反論する向きもあろう。

また「本当の気持ちは違うのに、うまく発言できなかったり、うまく行動できないために、誤解されてきた」と主張する人もいるかもしれない。あるいは「ふだんの日常生活では敢えて本当の自分を出さずに生きてきた」と主張する人たちもたまにいる。

 しかし敢えて言う。それでも周囲の人はあなたを誤解していない、と。
「本当の姿を見せていない」以上は、周囲の人には「本当の姿を見せていないあなた」が「本当のあなた」の姿なのだ。残酷なようだが、うまく発言できないで他人を傷つけてしまったり、本心と違う行動を取ってしまって誤解されることが多くても、それが「あなた」なのだ。

 人は他人の心の中まで見えない。また人前で発揮しない能力は誰も認めてくれない。あなたは話すことができない赤ちゃんではない。まして猫や犬ではない。赤ちゃんなら母親が、ペットなら飼い主が、一所懸命に「この子は今、何を考えているのだろう」と気を配ってくれる。しかしあかの他人は、あなたの内心や隠れた能力にまで気を配ってはくれない。

 自分の本心を出さずに生きてきたという人は、その出さずにいる姿が「本当の姿」なのだ。これは逆に考えてみればすぐにわかる。一度くらい痴漢してみたいなという願望を持っていても、それを押さえ込める理性と良識があれば、その人は変態ではない。ビジネスや酒の席で「こいつ、殴ってやろうか」と思う相手がいても、そういう衝動をきっちりと押さえ込める人は暴力的な人ではない。

 つまり人が評価されるのは、その人がふだん何を言い、どういう行動を取っているかということなのだ。

「大放言」 その15 百田尚樹

2017年08月12日 00時01分53秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その15 百田尚樹  新潮新書 2015年

 自分は誤解されているというバカ その2 P-30

 他人の目は正しい

「他人は自分を正しく見ていない」という認識こそ、人が犯す最も大きな過ちの一つである。実は、他人くらい自分を正しく見ている者はいない。

 もちろん人間だから誤解や勘違い、好き嫌いによる思い込みというものはある。しかし仮に周囲の人間10人の意見を総合して、その大半の意見が一致すれば、その人物評はまずその人の等身大をあらわしていると見て間違いない。

 もしあなたがある未知の人物を知りたいと思ったら、その周囲の人たちにその人物評を聞いて回ればいい。出てきた感想を総合すれば、まずその人物像は狂いがないだろう。

 10人中8人に「仕事ができない奴」と思われている人間はまず仕事ができないから、彼に重要な仕事は任せてはいけない。10人中8人に「口が軽い奴」と思われている人G年には、大事な秘密を漏らしてはいけないし、10人中に8人に「女たらし」と思われている男は、恋人にしない方が身のためだ。

 ただし周囲の人と言っても、あまり近い人は駄目だ。人物評価はその人に近ければ近いほどズレが大きくなるという法則を持つ。だから親友とか親、兄弟というのは、あてにならない。「うちの子に限って」と言う親バカの例を思い出すまでもないだろう。一番当てにならないのはアツアツの恋人だ。彼に夢中になっている彼女の目の狂いようは、しばしば本人以上だ。